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人狼の花嫁〜薄幸の華族令嬢は、嫁ぎ先の飼い犬が政略婚の旦那さまだと気づかない〜  作者: 矢古宇由佳


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第29話 エリックとの花見

 エーリッヒはそれからも毎日そばにいてくれた。

 食事の時はいつも一緒で、天気のいい日は綾子を抱き上げて厩舎に馬を見に行ったり、洋館の露台バルコニーにも抱いて運んでくれて一緒に珈琲を楽しんだりした。


 仕事で離れる際は、入れ替わるようにエリックがやってきた。


「エリック、お利口さんね。エーリッヒさまにわたしの世話をするように言われたの? いいのよ、真面目に聞かなくて。お外で駆け回ってきなさい、かわいい子」


 エリックの顔を両手で包み込んでそう言ったが、彼は舌先をちょろりと出したまま気持ちよさそうに目を細めた。

 そのまま、綾子はエリックの頬をむに、と引っ張る。


「よく伸びるわねぇ……」


 綾子はそのまま耳の周りをほぐすように揉んでやる。


「あなた結構凝ってない? 首も肩も……実はエーリッヒさまのお仕事のお手伝いでもしているの?」


 エリックは気持ちよさそうに口角を上げ、目を閉じる。最後はごろりと横になってしまった。


「気持ちいいわねエリック」


 そのままエリックは眠ってしまった。綾子は膝掛けをかけると、起こさないようにそっとそばを離れた。


***


「寝てしまった……」


 その晩。エーリッヒは綾子と夕飯を共にしたのち、自室にて伸晃と揚げた川海老と蛤の佃煮を肴にビールを飲んでいた。

 やけ酒していたといっても過言ではない。


「あんたがマッサージされて気持ち良くなってすやすや寝てどうすんだよ」

「不覚!」


 エーリッヒはどん、と空になったグラスをテーブルの上に戻した。

 昼間あまり仕事ができない分、彼は夕食後に仕事に取り組んでいた。

 真夜中、人の姿になれなくなっても不器用な前脚で頑張って手紙を読んだり、書類を確認したりと仕事に励んでいたのだ。


 なので、昼間不覚にも意識を失ってしまったのである。

 

「まあ……綾子さんは楽しかったんじゃないか? エリック大好き人間だし」

「……俺が癒されてどうする」

「気分転換にもなっただろうし」


 伸晃は瓶に手を伸ばして、エーリッヒと自分のグラスにビールを注いだ。

 

(また一緒に昼寝したいな……)


 綾子に枕にされ、頬擦りされ、そして彼女は無防備な寝息を立て始め……綾子は悶絶するほどに愛らしく、愛おしかった。

 これほど誰かを好きになる日が来るなんて、エーリッヒは今まで考えたこともなかった。


 閉じ込めてしまいたいほどかわいいが、一緒に外を歩いて見せびらかしたいという気持ちもある。

 自分の妻はこれほど素晴らしいのだと。

 

「明日は花見か。楽しんでこいよ」


 弁当を持って、上野に花見に行くのだ。

 流石に荷物が多いので女中や下男など使用人を伴うつもりではあるが、弁当を食べたらふたりで桜を見ながらゆっくり歩こうと思っていた。 


「綾子さん、弁当のおかず作るって言ってたな〜」

「卵焼きを焼いてくれると言った。他にも色々作ると。エリックにもお裾分けすると言っていた。食べに行かなくては」


 綾子は「あなたにも少し分けてあげるわ」と言っていた。まず準備している時にエリックになって厨房のそばをわざとらしくうろつかなければならない。


「大変だな、二重生活」

「楽しい」


 ふたり向き合って笑った。


 翌日、エーリッヒは極々軽い朝食ののち部屋に戻った。彼は頃合いを見て着物を脱ぎ捨てて狼姿になり、地下に行って厨房の前をわざとらしくうろついた。

 いい匂いが漂っている。


「エリック。ちょっとお待ちなさいな」


 割烹着を着た綾子の姿が遠くに見えた。エーリッヒはカウンターに前脚をかける。

 彼は餌をねだる犬を思い出してわざとらしく鼻をピーピー鳴らしてみた。


 アンネの薄茶色い視線が鋭く突き刺さる。ぐさぐさと。

 その目は「エーリッヒさま、あなたには家長としての矜持プライドはないのですか?」と如実に語っていた。


(ええい! こっちを見るな!)


 いいのだ、己は身も心も既に綾子の犬なのである。

 いい子とか、お利口さんとか、褒められて撫でられるのが嬉しいのだ。


 その心はもはやまごうことなく犬であった。


「かまぼこの飾り切りができたわ。あとはお願いしてもいいかしら?」

「はい! お任せください!」

 

 綾子はアンネと何やら話し合い、エリック姿のエーリッヒの元に走り寄ってきた。にこりと花のような笑みを浮かべている。


(かわいい)


「昨日の話がわかったの? あなた人間でも入っているの?」


 おっとりしているようで彼女は頭がいい。なかなか鋭いところを突いてくる。


 しかし、たおやかな手で頭を撫でられて勝手に尻尾が右に左に揺れてしまう。

 彼女は小さな折箱のようなものを持っていた。


(これは……?)

 

「あなた今日のお花見お留守番なのよね? 朝ご飯も食べたでしょうしちょっとだけどお弁当を作ったの」


(生肉とか入ってないよな……)


四阿あずまやに行きましょうエリック。沈丁花は終わってしまったけれど、桜が咲いているわ」


(まさかこの姿の俺(エリック)とも花見をしてくれるなんて……)


 玄関から表に出た綾子に着いていく。

 太陽の柔らかな光と心地よい空気が気持ちいい。

 四阿のそばにたどり着く。そこには息を呑むほどの満開の桜が咲き誇っていた。


「桜が綺麗ね……」


 綾子に誘われ、エーリッヒは四阿の長椅子に飛び乗って腰掛けた。

 テーブルの上にその折り箱を置いた綾子は、「どうぞ」と蓋を開けた。


 こんにゃくとたけのこ、れんこん。それから殻ごと焼いた海老。卵焼きに小さなおにぎりが敷き詰められていた。

 彼女は詰められた具材を「このままだと食べにくいでしょう?」と箸で取り出してくれる。皿は蓋だ。 

 

「あなたすごく狼みたいな見た目だから、あんまり人用の漬物とか佃煮とか、手の込んだものは食べない方がいいんじゃなくて? 普段もエーリッヒさまに茹でたお肉とかお魚とかもらって食べているのよね? だから薄めのお出汁で炊いた煮物と、焼いた海老と卵焼き。ご飯もちょっと」 


 そういえば。

 先日綾子に聞かれたのだ。「エリックのご飯ってどのようなものですか?」と。

 彼女におやつとして生肉や骨をもらっても困る。生の魚も頭ごとなどは正直きつい。

 なのでこう答えていたのだ。茹でたり焼いたりした肉や魚。野菜も人間が生で食べないものは茹でるか蒸すかしている、と。


 エーリッヒは少し戸惑った後にそれを食べ始めた。

 まさか一生懸命考えてこんなものを出してくれるとは思いもしなかった。

 彼女を飼い犬のふりして騙す罪悪感。それがエーリッヒの心の奥底に棘のように突き刺さって見えない血を流していた。


(そろそろ、潮時だな……)


「……上野の桜もきっと綺麗よ。エーリッヒさまとのお花見が楽しみだわ」


 桜の花に目を向ける綾子のうなじの後毛を、柔らかな風が揺らした。

 卵焼きを飲み込んで、エーリッヒはその匂い立つうなじに釘付けになって、慌てて目を逸らす。


(今はエリックだ)


 抱き寄せられないし、キスだってできない。


 そう、自分は今、犬だから。

 人狼でもなんでもない。綾子からすれば、夫の飼い犬。


 彼は最後残っていたれんこんを食べて口の周りを舐めた。

 出汁で炊いた優しい味がした。

 

 エリックは庭の桜に釘づけの綾子のうなじに濡れた鼻を押し当てた。


「ひゃっ! エリック、びっくりしたじゃない」


 綾子は飛び上がった。

 エーリッヒは彼女の膝の上に軽く前脚をそっと乗せてすぐに下ろす。

 シェパードなどの大型犬よりも大きいし体重が重いことも理解していたからである。


「どうしたの? 満足したかしら? 大丈夫だった?」


 膝の上に重ねられた綾子の手にそっと鼻を寄せて、手の甲をぺろりと舐めた。


「紳士ね、エリック」


 手の甲へのキスは紳士から淑女への挨拶である。綾子はきっとそのことを言っているに違いない。


 恐る恐るちら、と綾子を見ると、ぎゅっと抱きしめられた。

 抱き返そうとして、はっと気づく。今はエーリッヒではない。エリックだ。だめだ。

 綾子は耳元で小声でそっと囁いた。


「エリック、あなたが犬でよかったわ。人だったらきっと好きになっちゃう……エーリッヒさまには内緒よ?」


 心臓が早鐘のように鳴り始めた。

 身体が熱を持って仕方ない。


 今日、彼女と上野公園で花見だ。きちんとエスコートしなければ。

 エーリッヒは気を紛らわすように地面に降りると、後ろ脚で首をかきむしった。

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