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人狼の花嫁〜薄幸の華族令嬢は、嫁ぎ先の飼い犬が政略婚の旦那さまだと気づかない〜  作者: 矢古宇由佳


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第28話 デェトの約束

 午後、医師が帰った後。

 綾子はエーリッヒと共に、沈丁花じんちょうげの咲く庭の木洩れ日の落ちる四阿あずまやにいた。

 ふたりはバターの風味たっぷりの焼き菓子を楽しみながら珈琲コーヒーを飲んでいたのである。


 甘やかで、それでいて緑も感じられる爽やかで馨しい香りに心が安らいだ。

 昨日のことなんて忘れるほど。

 次の満月のことなんて、忘れかけるほど。

 

「いつ見ても素晴らしいお庭ですわ」


 日々散歩をしているこの敷地も、改めて考えると葛木家の何倍あるのだろう。大山家の庭園より広いかもしれない。

 彼はドイツに戻れば城持ちの領主である。結婚前の綾子が想像していたよりもずっと資産家らしい。


「外を歩くと注目を浴びるから、できるだけ広くて馬を駆ったり散歩したりして楽しめる庭が欲しかった」

「やはり往来でじろじろ見られたりするのでしょうか?」

「まだまだ珍しいからな。異国人は」


 彼は笑った。「背も大きいし、こんな目の色の日本人はいないから仕方ない」と。


(格好いいからですよ……)


 綾子の心の声は口には出せなかった。


 銀座や上野に一緒に行きたいと言ったら迷惑だろうか。


 なんだか気まずくて、綾子はふと視線をエーリッヒの手元に落とす。

 綾子の視線は、エーリッヒの右手へ。


「それ……」

「ドイツは日本と逆なんだ。夜会では左にしたが、こちらの方がしっくりくる」


 彼は右手の薬指に指輪をしていた。


「え、ドイツだと右手なんですか?」

「そうなんだ。理由は聞いてくれるな? 俺にもわからない」


 彼は微笑んで珈琲のカップを傾ける。

 綾子は自分も右の薬指にしようか、などと少し思案した。


「足は痛くない?」

「大丈夫ですよ」


 エーリッヒは心配性らしい。

 医師が来てくれたが、とりあえず傷を縫うという話にはならず清潔にして様子を見るようにと言われた。


 あと、医師はこうも言った。

 できる限り歩かないように、と。


 おかげで、この四阿まで抱き抱えられてきた。皆がいる前で「四阿で珈琲でも飲むか」といきなり抱き上げられたのだ。


 エーリッヒは羽織もなしの着流し姿。

 綾子が触れた着物のすぐ下にもう彼の肌を感じた。


(昨日、膝に乗ったのよね……そして……)


 唇が触れ合いそうになって、花瓶が落ちたのだ。

 思い出してうろたえ、綾子は視線を落として自分の手を見つめた。

 エーリッヒの手が伸びて、綾子の左手を絡めとる。綾子が顔を上げると青い瞳が優しく細まった。


「エーリッヒさま……」


 綾子は蚊の鳴くような声でエーリッヒの名を呼んだ。

 彼はとろけるような笑みを浮かべ、綾子の左手からするりと金色の指輪を抜き取って彼女の右手を取ると、その薬指に嵌めた。


「家にいるときは君もこちらにしないか?」

 

 綾子はまじまじとそれを見つめてから、小さくこくりと頷いた。

 心臓がけたたましいほどに鳴り響いていた。

 頬が熱い。


 エーリッヒの唇が少しいじわるな弧を描いた。


「顔が赤いぞ?」

「そんな……」

「かわいいな。なあアヤ、足がよくなったら一緒に出かけよう」

「よいのですか? てっきり、外出はお嫌いなのかと……」


 エーリッヒの唇が綾子の耳元に近づいてささやく。


「君とデェトしたい」


 心臓を掴まれたような気がした。

 視線を少しだけ上げると、すぐそばに彼の唇があって慌てて視線を落とす。


「どこに行きたい?」

「……そ、そうですわね……」 

「精養軒で食事でもする? 銀座にも行きたいな」


 口籠った綾子を見かねてか、エーリッヒは穏やかに提案してきた。


 上野精養軒は日本における西洋料理の草分けである。

 上野。綾子はふと思い出す。


(動物園でキリンを見たいわ……)


 子供っぽいと思われるだろうか。

 綾子はおずおずとエーリッヒを見上げた。

 

「上野に行くなら、動物園に行きたいです。銀座ならあいすくりぃむを食べたいです」

「いいな。では上野の動物園に行って、精養軒で食事して帰ってこよう」

「はい!」

「別で銀座にも行こうか。あいすくりぃむもソーダ水も、ソーダファウンテンに限る。フルーツパーラーもいいな。フルーツポンチが美味しいとアンネに聞いた」


 資生堂薬局内に設けられたソーダファウンテンでは、アメリカから輸入した涼しげなグラスや器を用いてソーダ水やアイスクリームを提供している。のち、資生堂パーラーと名を変えて洋食なども提供することになる帝都での人気の店だ。


 一方の果物食堂フルーツパーラーは元々は果物を売っていた専門店。大正三年の現在でも店舗の一階では果物を販売し、二階ではフルーツを使った様々な軽食やジュースを味わえる。

 関東大震災や第二次世界大戦をも乗り越え、銀座千疋屋として名を馳せることになる有名店も、この時は飲食店として開業したばかりであった。

  

「全部、行きたいです」

「もちろん行こう」

「はい! あ、動物園の前に、まずはお花見に行きたいです。お弁当を持って」

「そうだ、花見があった! 上野に行くならまずは花見もいいな。動物園や精養軒はいつでも行ける」

「はい!」


 するりと彼の腕が伸びてそっと抱き寄せられたので、綾子はそっとエーリッヒに身を寄せた。

 一見細身に見えて、その胸板はたくましい。

 全身が火に炙られたように熱を帯びた。


 綾子は細身ではあるが、日本人女性としてはかなり背が高くて大柄と言えなくもない。そんな綾子が彼の腕にすっぽりおさまってしまった。


 なんだかすごく嬉しかった。口元にじんわりと自然な笑みが浮かんだ。

 綾子は背が高いことをずっと気にして生きてきた。そのことを全く感じさせないどころか、釣り合いの取れる高身長のエーリッヒのそばでは綾子は伸び伸びと過ごせることに気がついてしまった。


 陶磁器のように美しい首筋にそっと擦り寄る。彼は石鹸のような爽やかな匂いがした。どこかで嗅いだことがあるような気がする。


「アヤ、顔を上げてくれ。キスできない」


 その言葉に。

 綾子は驚いて弾かれたように首を上げた。


 その時、彼の唇が目尻に落ちた。その近さに、触れた唇の柔らかさに、びっくりして綾子は首をすくめた。

 その額に追い打ちをかけるようにエーリッヒはくちづけを落とした。


 そして。

 少し掠れた艶やかな声が綾子の鼓膜をふるわせる。


「泣きぼくろが、とてもかわいい」


 恥ずかしくなって、綾子の目が泳いだ。

 そういえば、と思いだす。

 綾子の目尻にはほくろがあった。


(でも、かわいいだなんて……)


「そんなことないですわ。もう……そんなに若くもないですし」

「保証する。君はこの先何歳になってもかわいい」


 頬に手を添えられて、唇を親指でなぞられた。

 心臓が跳ねた。


 吐息がふれそうなほど近くに一流の職人が作り上げたような端正な白皙の美貌があった。


(このような美しい方が、わたしの……)


 そう、夫なのだ。

 綾子は導かれるようにまつ毛を震わせながら目を閉じる。


 そっと柔らかな唇が触れ合う。

 心の隅に居座り続ける不安を覆い隠すように、心の中にあたたかなものが溢れた。

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