第27話 一抹の不安
綾子は朝起きたあと、生活の拠点を和館に移した。
洋室だと、移動が大変なのだ。
畳ならば膝立ちで移動もできるし、少々行儀は悪いが這って縁側に出ることもできる。食事もお膳で持ってきてもらえればよく、何かと都合がいい。
朝食はエーリッヒと一緒だった。
彼のことが心配だったが、見た限り元気そうであった。「本当に、大丈夫ですか? 打撲とか打身とか、どこか痛むのではありませんか?」と綾子は問いかけたが、彼は「大丈夫だ。当然骨折やら関節の怪我もない。切り傷もない」と笑っていた。
(頑丈にも程があるのではないかしら……)
食事を終えると、彼は仕事をすると言って洋館に戻って行った。
綾子は少しの寂しさを心の片隅に抱きながら縁側に出た。
天気もいい。目の前の日本庭園は、一見のどかだ。
しかし、心に澱のようなものが凝っていた。ふいに、刀を合わせた時のあの狐のような禍々しい何かの声が頭に蘇る。
(次の満月の沈んだ後……夜明けの直前に……)
妹の正子は夜会で狐と言っていた。あれは確かに、狐のような見た目をしていた。父が傾倒していたのも狐。
昨晩、本当に退治できたのだろうか?
昨日なぜか刀を思うがままに使いこなせた。剣道と真剣では全く違う。
当然、真剣には刃がある。正しく使いこなせなければ、斬れるものも斬れない。エーリッヒが言うようにあの力は大山家の太刀の力だったのだろう。
わからないことだらけであったが、ひとつ頭の中で浮上したことがあった。
エーリッヒのことだ。
「もし、婚約中に死ねば、今も家宝は葛木家に……」
(そう、この状態が……誤算……)
婚約期間中にエーリッヒが死ねば、あの家宝は今も葛木家にあった。エーリッヒが死んで、縁談はなきものになる。結納金を得て、家宝もそのまま。
でもなぜか、エーリッヒは死ななかった。
エーリッヒは無事で、婚儀の日を迎えてしまった。よって、家宝は葛木家を離れた。
父は、妹は、いったいなんなのだ。
背筋にぞわりと冷たいものが走った。
その時、チャカチャカとよく響く音が綾子の鼓膜を刺激した。彼女は心からの喜びを隠せない、輝くような笑みを浮かべて顔を上げた。
「エリック!」
エリックの爪が、床を叩く音である。
彼は渡り廊下を進み、綾子の元に足取り軽く駆け寄ってきた。
「あなたどこに行ってたの? 昨晩はありがとう。助かったわ!」
撫で回してやる。エリックは尻尾をちぎれんばかりに振っている。とても嬉しそうだ。
「昨日は怪我をしてないようだったけど……大丈夫? 打身は後から痛んだりするものよ? 助かったけれど……あんな危ないこと、今度はしてはだめ。危険なのだから……」
綾子はエリックの身体中を確認した。どこもかしこも触ってみたけれど、彼は痛がったり嫌がったりするどころか腹を見せてごろごろ転がって見せた。
「あらご機嫌さんねぇ。ねえエリック。エーリッヒさま、お怪我してないっておっしゃっていたけれど、本当かしら? ちょっと殿方同士でこっそり確認してきてくださいな」
どうせ通じないのはわかっている。でもなんだか心がざわめいて綾子は饒舌だった。
エリックは起き上がると前脚を伸ばして背を反らし、ぐっと伸びをした。彼は包帯の巻かれた綾子の足に鼻先を寄せてから綾子を見つめてきた。
「昨日はわたしよりも先に怪我に気づいてくれたわね。エーリッヒさまに教えてくれて助かったわ。午後にお医者さまに診ていただくの。でも血も止まっているみたいだし、きっと大丈夫よ」
エリックは綾子の隣に腹這いになってそっと寄り添ってきた。
「あなた、夜はエーリッヒさまと一緒に過ごしてるのよね? 昨日は褒めてもらったのかしら?」
ふかふかの耳を揉んで首筋をかいてやる。
実家のポインター、エスの垂れ耳は薄くペラペラだが、みっしりと毛が生えたエリックの肉厚の耳はそれはそれで癖になる触り心地である。
綾子はエリックの耳を揉みながら庭に目を向けた。三月中旬でありながら、四月半ばのような心地よさだ。風は穏やか。お天道さまからは暖かな陽光がふりそそぎ、とても暖かい。
なんとなく、今年の桜は早い気がした。
次の満月までに、きっと桜は咲くだろう。
(エーリッヒさまにまた昨日の変なものが襲い掛かる可能性が少しでもあるのなら……)
大人しく実家に戻った方がいい。あの家宝と共に。
でも、花見くらい行かせてほしい。
上野公園の動物園にも行きたい。エーリッヒは動物にも詳しいだろう。きっといろいろ教えてくれるはず。
それから……。
銀座であいすくりぃむを食べたかった。
そして、三越を一緒にぶらぶら歩くのだ。いつも外商が色々と屋敷に持ってきてくれるが、たまには自ら百貨店に赴いて綺麗な反物やドレスや宝石を見るのも楽しいだろう。
今朝食事中にエーリッヒは「日光に別荘がある、夏になったら避暑に行こう。奥日光の華厳の滝も素晴らしいが、霧降の滝が好きなんだ」と言っていた。
(お弁当を持って森にピクニックに行って、滝を見て……)
なんだか涙がこぼれそうになって唇を噛み締めた。
(大丈夫。きっと昨日、あれは死んだわ)
「昨日のあれ、倒せたわよね。エリック、そうよね」
視線をエリックに向けると、湖水のように透き通った美しい青い目が綾子を見ていた。
それは太陽の光に照らされて、いつもより薄い水色に見えた。
(宝石みたい……)
エリックは尻尾を振って見せた。
「きっとそうね。そうよ。ふふ、弱気になってしまったみたい。わたし、少し疲れているのかもしれないわ。お布団で昼食まで少しお昼寝しようかしら。あなたも一緒に寝る?」
綾子がどうにか這って室内に戻って布団に潜り込むと、エリックも隣に滑り込んできた。
「ふかふかであったかい……」
綾子は不安を誤魔化すようにエリックの首に顔を埋めた。
彼はおひさまのような匂いがした。
綾子はその後昼食の時間までぐっすりと眠ってしまった。目が覚めた時、すでにエリックの姿はなかった。




