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人狼の花嫁〜薄幸の華族令嬢は、嫁ぎ先の飼い犬が政略婚の旦那さまだと気づかない〜  作者: 矢古宇由佳


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第22話 三馬鹿兄弟

「ありがとうございます。ですが、あの、エーリッヒさまがお風邪を……」

「俺は子供の頃から風邪なんてひいたことがない、大丈夫だ」


 綾子がおずおずとエーリッヒを見上げると、ウェストコートを着た胸元にそっと抱き寄せられた。


 急激に頬が熱くなった。

 今の今まで彼が着ていたジャケットはとても暖かかった。心臓がうるさいほどに騒ぎ立て始める。


「大丈夫だった? 何か言われなかったか?」

「はい、父も妹も何も……妹はダンスに夢中でしたし、恵美子夫人がそばにいてくれました。夫人が、後は任せてほしいとおっしゃって」

「あの人の采配は間違いない。元々伯爵家の生まれだ」


 そこで、言葉が途切れた。

 綾子は言葉に困って早口で言った。


「あの、殿方のジャケットってこんなに厚手で立派なのですね……」

「重い?」

「いえ、そういうわけではなく……とても暖かいです」

「そうか……」


 彼はふいと目を逸らすと、綾子の手を取り長椅子に導いた。


「え?」


 背を支えられ、エーリッヒの膝の上に横向きに座らされた。

 綾子は思わず彼の肩を掴んだ。エーリッヒは一見細身に見える男だが、それでも武道を嗜む人間のしっかりとした肩周りとがっしりとした首をしている。


 綾子は目に見えて狼狽えた。


「この椅子、冷たいからな。そんな薄いドレスでは身体を冷やすぞ」

「え、えええエーリッヒさま!」

「どうした?」

「あ、あの……」

「大丈夫だ、あちらの人間は見ていない」


 彼は顎で本館を指した。

 ちら、とそちらに目をやる。

 明るい光が漏れる洋館。そして、雲ひとつない空には美しい満月。星もまばゆくまたたいている。

 露台バルコニーで語らう男女は互いに夢中で、綾子たちの方には一切目もくれない。


「綺麗な満月だ」

「ええ」 


 心、ここにあらず。

 綾子がなんとか相槌を打つと、エーリッヒが首筋に鼻筋をすり寄せてきた。

 唇が襟のすぐ上の肌にそっと触れたことがわかった。


「ひゃ、あの!」

「くすぐったい?」


 唇が触れたままくぐもった声で問いかけてきて、綾子はぎゅっと目を閉じた。

 彼の肩を掴んだ手にぐっと力が入る。

 

「アヤ、本当に君にはすまないことをした」


 真珠パールの耳飾りが揺れる耳たぶに、唇が触れた。

 綾子ははっと目を開けた。


「君には俺を拒否する権利がある。そうしたら、俺は決して無理強いはしない。大丈夫、あんな実家に戻したりもしないから、嫌なことは嫌と言ってほしい。そうしたら、俺もきちんと諦める」


 ゆっくりと首を回らせ、彼に視線を向けた。

 綾子は晴れ渡った真夏の蒼穹のようなエーリッヒの瞳の中に、諦めの色を見た。


 綾子が目を丸くして言葉に困っていると、「昼間は謝罪を受け入れてくれたが、実際のところどうなんだ? ……大丈夫。答えなくてもいい。君がいいと言うまでは、もうこれ以上は触れない」と彼は掠れた声で言った。


「あの、わたし……」

「反省した。君は優等生が過ぎるな……こんな男に優しくしてくれなくていい。無理やりキスもした。どうしようもないな」


(大山家のご兄弟たちに、何か言われたのね……)


 大山兄弟は兄のような存在と言っていた。

 伸晃はあの屋敷での様子を知っている。きっと何か兄たちに言ったのだ。

 

 右手をそっと彼の頬に伸ばした。

 彼は一瞬驚いたように目を見開いて、それから目を細めて綾子の右手に頬を寄せた。


 その動きは、綾子がよく知ったものだった。一瞬エリックの影が垣間見える。


(なぜエリックが……)


 綾子は邪念を振り払った。エリックはどうでもいい。

 いいや、どうでもいいわけではないが、《《今は》》、どうでもいい。


 口から心臓が飛び出しそうだった。


(はしたないかしら……でもこのくらいしないと、多分わかってくださらない)


 綾子は覚悟を決めて、エーリッヒの頬に唇を寄せた。


 そっと触れただけの一瞬の接吻。

 欧州ヨーロッパ人は挨拶としてキスをする国も多いと聞いた。

 きっと、はしたないとは思われないはず。


「嫌いなら……わたし、こんなことしませんわ」


 目を伏せて、なんと言えばいいのか、どんな反応をすればいいのかよくわからなくてそう言い放った。

 顔から火が出るほど熱かった。身体の触れ合う部分が服ごしでも燃えているかのようだった。


 エーリッヒは何も言わない。


 綾子はおずおずと視線を上げた。

 形のいい唇、鼻筋、それから彫りの深い眼窩の、美しくも青い宝玉のような目。エーリッヒの左手が、綾子のうなじに伸びた。


 彼の目がうっとりと細まる。

 流石に、この手の経験に乏しい綾子でもこの後何が起こるのかわかった。

 彼が少しだけ首を傾け、綾子も目を閉じた。


 そして……。


 ガシャン! ゴトン! と突然鳴った音にびくっと飛び上がった綾子は、エーリッヒの肩の向こうの窓を見た。

 エーリッヒも美しい柳眉を顰めて首を回らす。


 そこには。

 出窓に寄ってたかってふたりを盗み見ようとした大山三兄弟たちがひっくり返したのだろう。高価そうな花瓶が、ガラス戸を突き破って露台バルコニーに落下していた。

 

「あちゃー、やっちまったー!」

「別に構わん、安物だ。空気の入れ替えにちょうどいい穴だな」


 伸晃と秀治の声が聞こえた。

 綾子は状況が未だ飲み込めず、呆けたまま彼らを見つめていた。

 エーリッヒが綾子を抱えながら、徐に立ち上がる。綾子は慌ててエーリッヒの首に腕を巻き付けた。


「見せ物じゃないです。俺は色々と構うんですが?」


 片手で軽々と綾子を抱え、彼は室内に戻った。

 先ほどはなかったものが、綾子の目に入る。

 美しい切子の器に、カットされたみずみずしい苺が盛られていたのだ。


 だが。

 綾子はあまりのできごとに放心していて、普段なら目を輝かせるはずの高価な果物にも心が全く動かなかった。


「悪いなぁ……あ、綾子さん、さっき苺が届いたからよければ」


 雄平が綾子に「悪い悪い」と言いながら、その苺をすすめてきた。綾子は無言で人形のように頷いた。

 言葉が全く出てこなかった。


 すとん、と椅子に下ろされる。彼は綾子の肩からジャケットを回収して羽織ると、腕組みをして三兄弟を睨みつけた。


「何も言いませんよ。何も。隙間風が寒いですね」

「いい感じの空気穴だ」


 伸晃がハハハっと乾いた笑い声を立てた。

 隠れたかった。なんと、見られていたなんて。

 確かにあの長椅子は角度的には室内からは見えない。出窓から身を乗り出さない限り。


 綾子は真っ青になった。

 人前でなんてはしたないことをしてしまったのだ。


「わたし、人前で……」

「人前じゃない、この馬鹿どもが覗いたんだ。今日から三馬鹿兄弟と呼んでやる!」


 エーリッヒはそう言って、先ほど飲み残していたソーダ水を一気に喉に流し込んだ。伸晃が彼の肩を二、三度軽く叩いた。


「いやぁ……悪かったよエーリッヒ」


 彼は伸晃を無視して、苺を口に放り込んだ。彼は一瞬目を見開き、もぐもぐと咀嚼し、ごくりと飲み込む。そして、一つ頷いた。


「アヤ、この苺なかなかだ。食べるといい」


 器ごと差し出されて、綾子はおずおずと手を伸ばす。

 そして、苺をそっと齧った。

 みずみずしい果汁が口の中で広がる。甘くて酸っぱくて、自然と笑顔が戻ってきた。


「……美味しいです」

「そうか、今度同じものを取り寄せよう」


 笑顔の戻った綾子に大山三兄弟が次々に頭を下げ、割れた窓から外気が吹き込んでくる撞球ビリヤード室から皆揃って洋館のダンスホウルに戻った。


 綾子はまた招待客とおしゃべりをし、請われて大山三兄弟とダンスに興じた。


 そして、一度化粧を直すため、控室に戻ろうと廊下に出た時。

 妹である正子が現れ、近くの部屋に引きずり込まれた。


「お姉さま、帰り道には気をつけることね……夜会は、家に帰るまでが夜会よ」

「旦那さまと一緒に帰るわ。いったい何を心配してくれているのかしら?」

「葛木家には、お狐さまがついているの。お姉さまのその胸のあざ、狐に見えるのではなくて?」


 はっとした。

 なぜ、このあざのことを知っているのだろう。

 正子はこれを見たことがないはずだ。

 確かに尖った耳と鼻先のようなものが見えるその形は、言われてみれば狐に見えないこともない。


 背を、冷や汗が伝う。


「これは警告よ。お導きが来るわ。ちゃんと、務めを果たしなさい。婚約者や母親や妹を殺しておいてひとり幸せになるなんて、おこがましいにも程があるわ。あの狼は我が家の糧になるのよ」


(狼……?)


「わたしは殺してないわ。狼って、あの家宝の、大神おおかみさまのこと? あなた……本当に正子なの?」

「あらやだ。愚鈍なお姉さまは妹の顔も忘れてしまったの? 婚姻届は受理されていないのでしょう? もう結婚ごっこは十分ではなくて? まずは家宝を。では、ごきげんよう」


 そう言い放って、正子は部屋から出て行った。


「なんなの? いったい……」


(確かに父は変な狐に傾倒していたけれど……なぜ、婚姻届のことを知っているの?)


 夜な夜な地下にこもっていた父を思い出した。

 廊下に戻る。膝ががくがくと定まらない。地面がぐらぐら揺れているような気がした。

 

「奥さま! 探しました!」


 顔を青くしたアンネが駆け寄ってきた。


「まあ。お顔の色が。気分が悪いですか?」

「ええ、ちょっと……」


 控室の椅子に誘導された。


「少し休んでいてください」


 アンネはすぐにエーリッヒの元に綾子の体調を知らせに行き、少々早めだが屋敷に戻ることになった。

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