第21話 続・大山四兄弟
(そろそろアヤが心配だ……)
撞球の決着がついた。勝者は伸晃。そろそろ戻ろうか、とエーリッヒが腰を上げかけるが、秀治は葡萄酒のボトルを手に取って、ボトルに残っていた最後の三鞭酒をエーリッヒのグラスに溢れんばかりに注いだ。
「秀治さん! ちょっと!」
「あー、すまんなエーリッヒ。手が滑ってしまった。何か軽食を用意してもらおう。あと、追加の酒も」
手が滑ってしまったなどと宣っているが、確実にわざとである。
「俺はそろそろアヤが心配なので……」
「まあ座っとけ。大丈夫だ。この屋敷なら何もないよ」
雄平はそう言ってグラスを片手に掲げたので、エーリッヒはこぼれないように先に一口飲んでからグラスを合わせた。
「何もないとは言いましても、綾子が葛木家のふたりから何か言われているのではと思うと気が気ではありません」
「我が妻に彼女のことは託してある。問題はあるまいよ」
大山男爵夫人、恵美子は出自も作法も気遣いも素晴らしい女性だ。先祖は大名家で、伯爵家の出身。成り上がりの大山財閥に嫁ぐと聞いた時は少々心配したものだが、気遣い細やかな女性で大名華族の出なので屋敷を回す、ということを弁えている。そして、とにかく秀治と仲睦まじい。
(恵美子さんがアヤに気を回してくれているなら……心配するのも恵美子さんに失礼か)
既に男児ふたり、女児ひとりをもうけ、大山家は安泰だ。
だから次男と三男は結婚もせず仕事にかまけているのである。
「兄貴本当に嫁さんと仲良いよなぁ……」
ぼそり、と雄平。
「嫁探し手伝いましょうか? 別に次男なんだから、好きな人と結婚してもいいでしょうし。いないんですか? 懇意にしてる人とか」
と、エーリッヒ。
「いないっ! いないんだよ残念だなっ! ノブは?」
「俺が遊んでると思う? 今仕事がそれどころじゃねぇ! 輸入だけじゃなくて製造まで始めることになるとは思わなかった」
と、伸晃。
伸晃は確かに今忙しい。オイレンブルク商会の輸入業が転んだ場合を考えると、もう一つの柱を立てなければならない。
彼はかけずり回っていた。
秀治はグラスを傾けて、一言。
「わかっただろ。ビジネスってのは一本柱じゃダメなんだ。右が倒れたら左が支える」
「反省しました。欧州からの輸入業だけじゃいつ何時コケるかわかりません」
エーリッヒが苦笑すると、雄平が割って入った。
「お前は気づけたんだから偉いよ。従業員も安心してるだろ。エーリッヒは別に働かなくたって国に帰ればどうとでもなる。俺たち成り上がりとは違って、なんたって城持ちの伯爵だからな。なのにちゃんと会社のことを考えてくれるってのは、嬉しいと思う」
「エーリッヒ、工場の作業員には土曜の午後は希望者には勉強教えるって話してて、結構乗り気な人が多い。ほら、あの辺って農家ばっかりだから意外とまともに学校通えなかったりしたらしいし、英語とか興味あるって人は結構いる」
伸晃のことだ。絶対自分でも教えるつもりだろう、とエーリッヒは苦笑した。それどころか、近隣の農家の子女にも声をかけるつもりだろう。
(もしも欧州で何かがあって輸入ビジネスが頓挫したら、しばらくそういう教育活動をするのも楽しいかもしれないな……)
貴族は特権階級だ。特権階級に生まれたならば、何かしら国民や国に恩を返さねばならない。
ならば、今まで散々世話になった日本国に返すのも悪くない。
エーリッヒは綾子が諾と言えば、叔父の嫡男を書類の上で養子とし、爵位を継がせるつもりであった。もう彼はこの時点で決めていたのだ。日本で天寿を全うすると。
おそらく、人狼は直系男児に、その血と共に引き継がれる。養子に引き継がれることはない。
「綾子さんも授業出てもらおうぜ。あの人なら先生できるよ。本人もきっと楽しいと思うし」
「……本人がやりたがれば」
「え〜、エーリッヒ乗り気じゃないんか〜? まあ、俺に嫉妬したくらいだし、他の男に会わせたくないんだろ?」
「うるさい」
伸晃がからかってくるのでエーリッヒは眉間に皺を寄せてグラスを傾けた。
そこに雄平が嘴を突っ込む。
「なんか結婚相手と恋愛しててある意味羨ましいけど……でもさぁ、そんな強硬な態度とってきた外国人旦那がいきなり猫撫で声で擦り寄ってきたら嫁さんとしては怖いだろうよ。ちゃんと気遣ってやれ」
ぎく、とエーリッヒは固まった。
言われてみればそうだ。
綾子は、エーリッヒとエリックが同一人物であることを知らない。
急に優しくなったエーリッヒに実は怖がっているかもしれないし、本心では嫌がっているかもしれない。
その可能性は大いにある。
雄平がにんまりと笑みを浮かべ追い打ちをかける。
「さっさと『エリックは自分だ』と吐いたほうがお前のためだぞ」
「まだ……まだ怖いですよ、流石に」
それに、彼女が受け入れてくれたとして、今までのように「賢い子。お利口さんね、エリック」とか、「おいで、かわいい子」とか、声をかけてくれることも頭を撫でてくれることもなくなるだろう。
彼女はやたら夫を立てようとする。この国で育ってしまうと致し方ないのかもしれないが、それがエーリッヒとしては少々不満だった。
(別に平等なんだから……)
いつかは人狼であることが知れてしまうだろう。しかし、もう少し、あと少しだけ飼い犬として愛でられたいものだ。
彼女に撫でられるのはものすごく気持ちいい。
打算も何もない、無条件の愛情だ。
綾子はエーリッヒと対峙する時、エーリッヒを無条件に夫として尊重しようとするのである。
「そういうのは、引っ張れば引っ張るほど言いにくくなる」
秀治はグラスに立ち昇る泡を見ながらくすりと笑みをこぼした。
エーリッヒはぐっと言葉につまる。
「俺はそばにいるからまあわかる。綾子さん、エリックを本当にかわいがるんだよ。あんなの、反則ってくらいに。あれ、好きな人にされたらたまらないと思う」
伸晃の発言に、エーリッヒは観念したように息を小さく漏らして笑った。
「この前は汗だくになった後に匂いを嗅がれたし、足の裏まで嗅がれたし、『ふかふかで癖になるわ』とずっと耳を揉まれつづけたし、顔を引っ張られて『よく伸びるほっぺね〜』と言われたが……」
室内を笑いが包み込んだ。
「正直、この体質も悪くないなと思いました」
どこか晴れやかな笑顔で三鞭酒を飲み干したエーリッヒがグラスをテーブルに戻した時、扉が叩かれた。
追加の酒と軽食だろう、そう思ったエーリッヒがそちらを振り向くと、使用人に導かれてやってきた綾子と目が合った。
「失礼いたします。あの、本当によいのですか? 殿方が楽しんでいらっしゃるところにお邪魔して……」
エーリッヒは弾かれるように立ち上がった。
「アヤ! どうした?」
「男爵閣下がお呼びと聞きまして」
綾子は秀治に小さくお辞儀した。
「込み入った話も終わったし、せっかくだから呼んでみた。会場は恵美子に任せてある」
追加の酒と軽食も運び込まれる。
秀治が綾子に微笑みかけた。
「伯爵夫人、せっかくだからソーダ水を用意した、いかがだろうか」
「まあ、ありがとうございます」
女中が盆を差し出した。
舶来もののグラスの中で、薄い青色のソーダ水の泡がきらめいた。
「俺もソーダ水をいただきたい……悪いな、ありがとう」
エーリッヒも女中からグラスを受け取った。綾子は不思議そうにエーリッヒを見上げてきた。
「お酒ではなくてよいのですか?」
「君と同じものが飲みたい」
そう言えば、少しばかり彼女の頬が色づいたような気がした。
「やーい新婚!」
「うるさいですね! 羨ましいなら雄平さんもさっさと結婚したらどうですか?」
からかってきた雄平にそう言い捨てると、綾子がくすりと笑った。
「仲がよろしいのですね」
「ふたりとも兄みたいなものだ、名前で呼べばいいし、何かあったら頼るといい」
エーリッヒはソーダ水を半分一気飲みした。
綾子は昼間、謝罪を受け入れてくれた。しかし実際の本心ではどうなんだろうと急に不安が鎌首をもたげてきた。
どうしようもないほどこの人に惚れている。
己はなんてことをしたんだろう。
「綾子さんって呼んでもいいかな?」
「もちろんです! 秀治さま」
「さまなんていらないよ、とりあえず乾杯」
綾子が秀治と小さくグラスを合わせたのを見届けて、エーリッヒはジャケットを羽織って露台に出た。
長椅子に腰をかける。ほてった身体に三月の夜風がなんとも気持ちよかった。
洋館の様子を見ると、露台で語らう男女の姿も見えるし、窓からは踊る人々の影が見えた。
(未婚の子女も多いし、盛り上がっているようだ……)
今宵は満月。どこか仄青っぽい月光が、エーリッヒを冷ややかな眼差して見下ろしていた。
なんだか居た堪れなくて、エーリッヒが視線を落としたその時のことだ。扉が開く音がして、後ろを振り向いた。
「アヤ……」
「わたしも、外の空気を吸いたくて」
エーリッヒは腰を上げて、綾子に歩み寄りながらジャケットを脱いだ。
「身体を冷やすぞ」
それをふわりと綾子の肩にかけた。
「まあ、そんな……」
彼女はエーリッヒを見上げて、少し困ったようにはにかんだ。




