第20話 大山四兄弟
大山家の撞球室。
地下道で繋がった山小屋風の離れは、他人に聞かれたくない話をするのにうってつけだった。
「で、なんだって? ドイツがロシアに仕掛けるとは……特需が入れば景気も良くなるだろうが、日露戦争の時のような全く旨味のないアレはもうごめんだぞ」
秀治は眉根を寄せた。
彼は大山銀行頭取。何より、国益と顧客、それから行員の利益を第一に考えている。
彼は暑そうにジャケットを脱いだ。エーリッヒは自らそれを受け取ってハンガーにかけ、彼自身もジャケットを脱いだ。
「それだけで済めばいいよ。でも日本には日英同盟がある。そして、フランス、英国、ロシアは三国協商がある」
伸晃はそう言ってキューを手に取り、菱形に並べた的球のうち一番を狙って手球を打った。
ブレイク。
的球はバラバラに散る。
伸晃はエーリッヒと同じ二十七歳だったが、長男とは十三、次男とは八歳離れている。
少し距離を感じてもおかしくない年齢差だが、この四人はとにかく仲が良かった。
秀治が白葡萄酒を一口含んだ。摘んでいるのは、チーズとハムのサンドウィッチ。それを嚥下し、どこかもったいぶったように言う。
「最悪の最悪、日本とドイツが敵対するか……」
「そうだな……俺たちには日英同盟がある」
陸軍の礼服に身を包んだ大山家次男、少将の雄平がキューを手に取った。
「あちらの現皇帝、日本が嫌いなようだし、なっ」
手球は一番の的球に当たり、小気味よい音を立てて三番の的球に当たってポケットに落ちた。
確かに現皇帝は日本人好きとは言い難い。なんとも言えない申し訳なさに、エーリッヒが口を開く。
「すみません、ビスマルク閣下の時代はこうではなかったのですが」
エーリッヒの父が明治政府のお雇い外国人として呼ばれた時代はこうではなかった。日本は政治、経済、それから文化までもドイツを手本として近代化の模範としていた。留学生も多く、ドイツもそれを受け入れて日独関係は比較的良好だった。
しかし、明治二十三年に現皇帝が即位すると、ドイツは日本への姿勢を硬化させた。
「お前が謝ることじゃねぇさ、エーリッヒ。まあこれだけわかりゃ上等だ。あとは俺たちが考えること。うーん、仮にそうなったとして、行かされるとしたらまずは青島だろうな」
拳で軽くエーリッヒの肩をこづいた雄平は、次の的球を狙った。
一番も見事にポケットに入った。
「さすが、お上手だ」
ドイツの現皇帝は、日英同盟締結の際も英国を非難していた。
黄色人種と組むなど、白人への裏切りだというのだ。
雄平は二番の的球を狙う。
「エーリッヒ。辛いだろうが今は嫁さんもいるし、従業員もいるし、早まったことはするんじゃねぇよ」
「しませんよ。俺は日本を出る気はないです。ノブの工場もそろそろ操業開始できますし」
彼らは欧州情勢と日本の経済、最近の軍の内情について包み隠さず討論し、そして適度に酒で喉を潤した。
「そういや、嫁さんとはうまくいってるのか? その体質のことはわかってるんだよな?」
秀治の問いかけに伸晃が捲し立てるように答えた。
「うまくいってない。ぜんっぜんうまくいってない。綾子さんはエーリッヒの体質を知らない。エーリッヒは飼い犬『エリック』のふりして綾子さんと会ってる。未だにゴートゥーベッドできてない。綾子さんはエーリッヒを伯爵さまって呼んでる。飯も寝室も何もかも別っ!」
エーリッヒが非難の声を上げるよりも先に、「え、なんだって?」「まだ致してないのか?」「は? 意味がわからない。あんな綺麗な嫁さんなのに」「犬のふりって散歩でもしてるのか? お手とかおすわりとか?」「首輪つけてお散歩がデート? ガキでももっとうまくやるぞ」と長男次男の猛攻が始まってしまった。
エーリッヒは安楽椅子に腰掛けて両手で顔面を覆った。
「初夜完遂できてないんか? あんな美人なのに? 俺がもらいてぇくらい美人なのに! え、いらないならくれよ」
雄平はキューを放り出して駆け寄ってきた。
エーリッヒは毅然とした口調で言った。
「だめです、アヤは俺の妻です。いいですかくれるとかもらうとか、女性はその辺の野良猫じゃないんです。男と同じ人間なんです。あなたはそんなんだから嫁が来ないんです。早く心を入れ替えて相手見つけて結婚してください。昇進にも関わりますよ。大佐まではなれても、その上は無理では?」
「言われなくともわかってる!」
一方、大山家現当主の秀治は心配そうにエーリッヒを見下ろした。
「何? どうした? 大丈夫か? 完遂でなかったって……どこか悪いのか? いい医者紹介しようか? オイレンブルク家に後継生まれないとまずいんじゃないか?」
秀治はエーリッヒの両肩を掴んで揺さぶってきた。期待を裏切って申し訳ないが、別に肉体的に問題があるわけではない。
兄貴に話しておく、と言った伸晃だが、変な気配がするから刀を貸してくれ、とか、妙なものに取り憑かれているかもしれないから夜会の時は気をつけてくれ、くらいしか言ってないのかもしれない。
(俺もアヤに変な気配の話はしていないしな……)
おそらく、伸晃が兄たちにその辺りのことを詳しく話していないのは、エーリッヒと綾子を気遣ってのことだろう。
今日になって全てをぶちまけようとしているに違いない。
「ノブ、このふたりに説明頼む。全部!」
「イエッサー!」
伸晃は嬉々として話し始めた。
婚儀の日から今日までを。彼の知っている限りで。
「え……葛木家ってそんなとんでも一家だったのか……だけどさっき挨拶した時も違和感はなかった。しかもこの家に悪霊やら邪悪な類は入れないはず」
秀治はソファに腰を落ち着けて、顎を撫でながら首を傾げた。
次男の雄平はその隣に腰を下ろした。
「長女は女学院時代主席だけど、背がデカくて貰い手がないってのは噂で聞いた。頭も良くて背も大きいのは流石にかわいくないって」
「で、実際見たら?」
伸晃が雄平に問いかける。
「背が高いから洋装が似合う。思ってたよりかなりの美人だな! エーリッヒが爆速で求婚したのも納得した。いいなぁあんな嫁さん」
ちらちら視線を向けてくる雄平をエーリッヒは無視した。
「日本の男ってバカなのか? 嫁にするなら愚鈍な女より利口な方がいいだろう。頭がいいのとずる賢いはイコールではない。あとあの人は……」
エーリッヒは言い淀んだ。すると、三人の目が突き刺さる。
彼は視線を足下に落として言った。
「犬に優しい。エリックに、優しい。あんなふうに抱きしめてもらったのは、初めてだ」
伸晃がエーリッヒの肩をぽんぽんと優しく叩いた。
「あの人なら、生まれた息子が人狼でも、たとえ毎晩姿が変わっても、きっと優しくしてくれる、かわいがってくれる」
エーリッヒは言葉も浮かばず、ただただ頷いた。
真っ先に頭に浮かんだのは、「薄汚い獣が!」と言ってエーリッヒを罵り、葡萄酒のボトルを投げつけてきた母の姿であった。
先代当主の父は、致死性の病にかからないゆえ人々に奉仕したいと医学の道を志し、不死ではなくなったのちも医師であり続け、明治政府に請われてお雇い外国人になった。
彼は己の妻のエーリッヒへの所業を止めることはなかった。
父は人狼であることを母に黙って結婚したから、きっと罪悪感があったのだろう。
父の場合は簡単だった。姿が変わるのは満月の夜だけ。いくらでも隠し通すことができた。
結果。
父親は引け目を感じていたのか、仕事を言い訳にほとんどエーリッヒに干渉しなかった。
エーリッヒの周りにいたのは、父親に教えを乞う住み込みの日本人の医学生、乳母の恵子や四郎、他にも日本人の女中や下男ばかり。
父ときちんと話をするようになったのは晩年だ。そして、エーリッヒが成人した頃に結核で亡くなった。
エーリッヒはそんな幼少期を過ごしたので、ドイツ語は簡単な会話以外話せるようにならず、教師としてあてがわれたのがアンネだった。
結果、咄嗟に出てくる言葉は今でも日本語が先である。ドイツ語は今でこそ流暢に使いこなしているが、エーリッヒにとってはっきり言って外国語だった。
(貴族じゃなきゃドイツ国籍でいる必要だって正直……ないだろう)
華族の生まれでありながら人の痛みを知り、エリックにもあれほど優しい綾子ならば、たとえこのいまいましい呪いが解けずともずっとそばにいてくれると思った。
グラスを傾けながら、出会った日を思い出す。
繰り返し夢で見ていた人であったが、あの日女中の格好をしていた彼女にひと目で惹かれたのだ。
だから、衝動的に婚姻を申し込んだ。
葛木家の家宝の効力をきちんと確かめもしなかったのはそれが理由。
しかし、今や綾子の内面に触れて一層想いは募った。
(心から、愛しているんだ……)
ただ、あの人と過ごす明日を。
これからは綾子を大事にしていきたい。
他には何もいらない。
エーリッヒはそう考えた。




