第19話 大山家の夜会
自動車を先に降りたエーリッヒは綾子に手を差し伸べた。
「ありがとうございます」
「何、当然のことだ」
出迎えてくれた大山家の執事に挨拶をし、玄関へ。エーリッヒはかたわらの綾子に手を貸してホールの階段を上がる。
そこかしこに桃の花が活けてあり、むせかえるような芳香を放っていた。
公的な舞踏会ではない。身内の夜会にもかかわらずなんという豪華さだろう。綾子がどこか緊張気味なので、「そう緊張しなくていい、気楽な会だ」と耳打ちする。
踵のかなり高い靴を履いた綾子は、エーリッヒとも視線が自然に絡んだ。程よい身長差に自然と笑みがこぼれる。
(いいな……やはりこのくらいの背の人は……)
普通の日本人女性は、エーリッヒにとって小さすぎるのである。せめて、百六十センチ前後くらいは欲しい。
綾子はちょうど百六十と数センチといったところか。
エーリッヒと綾子は今宵の主賓であった。
主催の大山家当主、秀治は大山三兄弟の長男とその妻が出迎えてくれて挨拶をする。秀治は大山銀行の頭取で、エーリッヒも散々世話になっている兄のような存在である。
「秀治さん、婚儀以来ですね。息災なようで何よりです」
「ご無沙汰しております。男爵閣下、奥方さま」
隣の綾子が夫妻にこやかに挨拶した。
「よう、エーリッヒ、元気そうだな」
エーリッヒと綾子が大山男爵夫妻に挨拶をしていると、そこに現れたのは軍人である次男の雄平だ。
「雄平さんもお変わりないようで。ご無沙汰しています」
「まあ、大山少佐。お久しぶりです」
エーリッヒの続き、にこりと綾子が微笑んだ。
「新婚を邪魔しちゃならんと思ってな。飲みにも誘えなかった」
「よろしければ拙宅でビヤホールの真似事でもいたしましょう」
「ドイツのジョッキでか?」
「ええ、もちろん。一リットル一気飲みしてください」
エーリッヒの冗談に雄平は豪快に笑った。
来客は大山家が懇意にしている政府、財政界の要人、そして異国人に至ってはエーリッヒを気遣ってかドイツ人ばかり。
次から次へと顔面に笑顔を貼り付けてにこやかに挨拶しているエーリッヒであったが、内心うんざりしていた。
彼は社交的な性格ではないのである。
料亭での接待などはよく伸晃に押し付けていた。
にこやかな笑みを浮かべる見た目とは裏腹にやる気は完璧に消失し、もはや惰性で挨拶をしていたエーリッヒであったが、いやしかし、一つ驚いたことがあった。
綾子はあらかじめ来場者を頭に入れていたのだろう。外務省の役人が来れば名前を聞いただけで「外務省にお勤めでいらっしゃいましたよね?」とか、エーリッヒのよく知るドイツ人が来れば「お医者さまでございますよね? ご出身はどこの街でしたか?」とか話を振る。しかも、ドイツ語で果敢に。
「キール……北部の港町でしたか? 確か軍港のある」
「ええ、よくご存知だ」
彼は医師のショルツだ。エーリッヒも散々世話になっている。
途中で流石に会話が大変そうだったので、エーリッヒが通訳に入る。
「英国へ睨みを利かせる要所ですわね。夫の故郷の近くのハンブルクとはまた違った港町なのでしょう」
「ええ、ハンブルクは商業の街。しかも海ではなく運河の港町ですので、海に面した我が故郷とは趣は異なっております」
舌を巻いた。なんて博識なのだろうか。
(ノブが褒めるだけのことはあるな……)
その後もショルツと盛り上がっているので、エーリッヒは時折相槌を打ちながら穏やかに仲介役を務めた。
ショルツは折を見て、「ではそろそろ」と去っていった。
綾子が眉尻を下げて見上げてきた。
「すみませんでしゃばって。通訳ありがとうございます」
「いいや、西洋人はこういった場では社交的な人間を喜ぶ。典型的な日本の微笑んでるだけの妻女は好かれない。ドクターには世話になっているし、あの人は俺の父の弟子だ。感謝こそすれ、謝ることなど何もない」
言えば、綾子は少々くすぐったそうな笑みを浮かべた。
(かわいいな……)
そうして、ようやく。
葛木家の父と娘がやってきた。
(後妻は置いてきたか……)
まあよくあることである。未婚の子女は連れてきても、妻は伴わないことも多い。日本では、妻は表に出さないものだ。だから、「奥方」と呼ぶのだろうとエーリッヒは認識していた。
「まあ、お姉さま。お元気そうですわね」
「お変わりない様子で。何よりです」
ここではエーリッヒがでしゃばることにした。綾子はただそこにいてくれればいい。
葛木男爵はエーリッヒたちをなんと男爵邸での花見に誘ってきた。
「四月に拙宅で花見を予定しているのですが、よろしければいかがです?」
「あの庭の桜は立派ですし、さぞかし楽しい花見になりそうですね」
「早咲きのものも遅咲きのものもあります。ご予定は伯爵に合わせますよ」
「ありがとうございます」
エーリッヒは当たり障りのない話をして、とにかくやり過ごすことにしていた。花見なんて、適当な理由をでっち上げて断る気でいたのである。
作り笑顔のまま別れて、綾子に視線を送る。
「安心しろ。誘われても何か理由をでっち上げて断るから」
「はい。お気遣いいただきありがとうございます」
「今日この場で何かあれば、アンネか恵美子さん、それか大山家の使用人を頼れ。アンネはああ見えて、俺の姉のような存在だ」
恵美子は大山男爵夫人だ。大名華族の家の出でエーリッヒも心を許している女性である。
ここが大山家の屋敷である以上、エーリッヒや伸晃のホームグラウンドである。命を狙われているのはエーリッヒ。綾子が危害を加えられることはなかろうが、しかし少々心配ではある。
ふたりは途中、三鞭酒で喉を潤した。
「アヤは葡萄酒も大丈夫そうだな」
「お酒はあまり苦手ではないようです」
ふふ、と笑みをこぼす綾子に、エーリッヒもつられて微笑んだ。
屋敷を出てより「アヤ」と呼んでいるが、これがいい感じに定着しそうだ。
やがて、華やかな音楽が流れ出した。緩やかな三拍子。主催の秀治が夫人を誘ってワルツを踊り始める。
エーリッヒは綾子を見つめた。綾子が少し恥ずかしそうに微笑んだ。主賓が踊らねば皆踊れない。
「アヤ、踊るか。俺たちも」
「ぜひ!」
差し伸べた手に、綾子がその手を重ねた。
***
綾子にとって、それはまるで夢のようだった。
ダンスの練習に付き合ってくれた伸晃とも違う。彼のリードもなかなかうまかったが、エーリッヒのそれは何かが違う。
エーリッヒは他の組にぶつかりそうになった時は咄嗟に綾子を誘導してくれた。
足をどこに向け、重心をどう動かすか。伸晃と踊った時は必死だったが、綾子は今、何も考えていなかった。
彼は全てを導いてくれた。
回された腕はそっと背を支え、握られた手はあくまで優しく。
綾子は安心して身を委ねた。
曲が終わると、彼はさりげなくを露台に誘導してきた。
むっと湿気を孕んだダンスホウルから外に出る。清々しい空気、それからなんとも美しい満月が見えた。
「寒くないか?」
「今日は暖かな陽気ですし、先ほど動き回りましたし……ちょうどいいです」
「そうか……」
一瞬、静寂がふたりを包む。
そっと腰を抱き寄せられて、ふたり月を見上げた。
「俺は夜会やら、舞踏会、宴会……そういう人の集まる行事が好きじゃない。ざわざわしてうるさいし、人は多いし……でも、アヤと踊るのは楽しい」
「わたしもとても踊りやすかったです」
まとめられた髪を崩さぬ程度にそっと頬を寄せてきたエーリッヒは、綾子のこめかみに唇を寄せてきた。
少しくすぐったくて、綾子は肩をすくめた。
「ノブと練習してくれてよかった。あいつの方が社交界に出ていろんな人と踊り慣れてる。うってつけだ」
「エーリッヒさまの方がなんだか……踊りやすかったです。練習した時と違って、こんなに踵の高い靴を履いているのに」
「そうか……足が疲れるだろう、座るか」
綾子の発言にどことなく嬉しそうに微笑んでそっと長椅子に導いてくれたエーリッヒだったが、そこに思わぬ人物がいた。
西洋の血の入った甘く端正な顔。伸晃である。
「俺をダシにしてまぁ盛り上がってらっしゃいますねぇ新婚さんよぉ……」
「うっ……そんなつもりはなかった」
(伸晃さんっ)
「あ、あのいえ、伸晃さんはダンス、お上手ですよ。わたしにあの日も色々と教えてくださいましたし」
綾子は慌て、言い訳するように早口で言葉を紡いだ。
「いいんだよぉ綾子さんは。だって、これで俺の方が踊りやすかったなんてそんなことがあったら、エーリッヒの機嫌がどん底だし」
「俺はそんなことで不機嫌になるようなお子さまじゃない。実際、お前の方がダンスは上手いだろう」
「まったまた〜。剣道も居合もあれだけできるし? 運動神経はあんたの方がいいよ。で。本題。兄貴たち呼んでる」
エーリッヒはその端正な眉を顰めてみせた。
「……そんな嫌そうな顔すんなよ」
「仕方ないな……アヤ。大丈夫か? さっき言ったように、控室にはアンネもいる」
「大丈夫ですわ」
「よかったら、恵美子さんと話しててよ。兄貴も連れて行くから、恵美子さんも暇だろうし」
恵美子とは、大山家当主、秀治の妻である。
「悪い、アヤ。込み入った話が終わったら、すぐ戻る」
「はい! お待ちしております」




