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人狼の花嫁〜薄幸の華族令嬢は、嫁ぎ先の飼い犬が政略婚の旦那さまだと気づかない〜  作者: 矢古宇由佳


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第18話 やり直しの提案

「すまない、今日あまり一緒にいられないかもしれない」


 大山家に向かう自動車の車内。隣のエーリッヒがなんとも申し訳なさそうにぼそりと言った。謝ることなんてないのに、と綾子は動揺を隠せなかった。


 オイレンブルク家には二台の自動車があった。一台はフランス製の馬車のような運転席と後部座席を完全分離した高級車。もう一台アメリカの比較的安価な大衆モデルの自動車である。


 今、綾子たちが乗っているのはフランスの高級車だ。

 もう一台には、アンネが乗っている。


 伸晃は一足早く実家に戻っていた。


 綾子は赤いドレス姿。彼女はこのドレスを大変気に入っていた。肩や首はすっかり隠れる落ち着いたデザインながら、ビーズが縫い付けてありきらきらきらめくさまはなんとも美しい。

 結婚式は和装だったのでとても新鮮である。


 一方、エーリッヒのタキシード姿はあまりにも絵になったので、綾子は隙あらば彼をチラチラ目で追っていた。

 彼は普段、和装姿で過ごしている。和装もセンス良く着こなしていて素晴らしいが、やはり西洋人、洋装が素晴らしいほどに似合っている。瞳がとらわれてしまったのだ。


「大丈夫です、伸晃さん含め大山家の皆さまや伯爵さまと親交のある方がほとんどと聞いております。たわいのないお話でもして過ごしますわ」


 エーリッヒと普通に会話できている。

 それだけで、綾子の心は踊った。

 嬉しかった。嬉しくてどうしようもなくて、いつまでも大山邸に着かなければいいと思ってしまうほど。


「実は、叔父から手紙が来た。欧州ヨーロッパがどうもきな臭い。ドイツはそのうちロシアに仕掛けるだろう。別室で大山三兄弟と今後の作戦会議をする時間を設けることになりそうだ」


 綾子ははっと目を見開いた。


「そんな……ドイツが戦争を始めれば、ドイツは内需で日本への輸出どころではないではございませんか? 日本からの輸出品なら購入してくれるような気はいたしますが」


 オイレンブルク商会は輸入の商社だ。輸出ではない。エーリッヒの仕事が立ちゆかなくなってしまう。


「その通り。察しがいいな。今、欧州ヨーロッパで戦争でも起こったら俺は仕入れるものがなくなる。色々と困ったことになるが……策はある。君に不自由な思いはさせない」


 彼は目を細めて口元にうすらと笑みを浮かべた。その目を、綾子はどこかで見たことがある気がした。


 エーリッヒは唐突に手を差し出してきた。その手のひらに、綾子は誘われるがまま自身の手を重ねた。

 一体、どうしたのだろうと少々訝しげに彼を見やりながら。


「今朝のことだが、夜会だからきちんと妻を演じろと言いたいわけではない。君とやり直りたいんだ。だから謝ったんだ」

「やり直し、たい……ですか?」

「ああ」

「何をですか?」


 綾子は、エーリッヒが何を言っているのか全くわからなかった。


「本心を言えば、夫婦としてやり直したい。許してくれ。ひどいことばかり言って、君を捨て置いた」


 綾子は目をぱちぱちと瞬かせた。


「そ、そんな……わたし……」

「許してもらえるとは思っていない。俺は自己満足で謝っているだけだ。償いたいが……できるのならば償いたいが……」


 綾子は流石に警戒した。

 今朝のやりとりで、こうも綾子への見方が変わるものだろうか。たかだか、剣道の心得が少々あるというそれだけで。


 不思議だった。だが、婚約中のふたりのような関係に戻れるのではなかろうか。彼女は夢でも見ているような気分になった。


 エーリッヒの手に重なった、己の手を見た。

 この手に全て委ねてもいいのではないかと思った。

 彼は、ひどい人ではないと綾子は信じていたからだ。


「やり直し……。婚約してる時に戻りたいといつも願っておりました。嬉しゅうございます、旦那さま……」


 両手で、ぎゅうと手を握り締められた。なんて大きい手なのだろう。

 そして心から嬉しそうに、少年のように美しい笑顔を浮かべた。


(こんなふうに笑う人なのね……)


「あの日のことを話そう。君も知っていることを教えてほしい。あとは……できれば名前で呼んでもらえた方が、正直言うと嬉しい」

「はい、エーリッヒさま!」


 エーリッヒは婚儀の直前の葛木夫妻の会話を綾子に話して聞かせた。


(やはり父が……)


「父は婚約後、『結納金ももらったし、今までの男と同じく死んでしまえば都合よく家宝が返ってくる』というような趣旨のことを言っておりました。心の中では家宝を譲りたくなかったようです……申し訳ありません、我が父がとても許し難い発言を」

「君が謝ることじゃない」 


 反抗して、竹刀でぶたれたことは黙っていようと思った。


「それと……継母ははがわたしを娘と呼んだことは一度もありませんわ」

「だろうな、実子である次女の方だろう。聞かせてくれ、君のことを。あの家でどんな暮らしをしていた?」


 どこまで話すべきだろうか。

 綾子は言葉を選びながら話し始めた。

 婚約者を失って、外出を禁じられたこと。

 女中として暮らしていたこと。

 雨の庭に放り出されたり、花瓶の水をかけられたり、食事は残り物だったり……。


 彼は聞くに堪えないと言ったように眉間に皺を刻んだ。


「ぶたれたりしたのか? なあ、教えてくれ」


 あの、忘れられない初夜。着替えの時に、あざだらけの背中を恵子に見られていたはずだ。あの人は、エーリッヒに報告しなかったらしい。


(……ここで言ったら、恵子さんが処罰されるかもしれないわ)


「……はい」

「手で?」

「手でも、竹刀でも……あの、ですからわたし、あそこから出たかったんです。行き遅れたから早く結婚したかったわけではなくて、あの家から出たくてエーリッヒさまを利用したのです。お許しください」


 綾子は罪悪感から目を逸らした。

 エーリッヒは何も言わなかった。綾子は怯えた野犬の子犬のようにエーリッヒを見上げた。


「俺も君のことをどうとは言えない。欧州情勢がどうなるかわからなかったから、何があってもこの国に留まるために日本人のできるだけ身分の高い妻が欲しかった」


 彼は確かに、日本人の妻が欲しいと言っていた。


 エーリッヒの祖国であるドイツとだって、いつ何時戦争が始まるかはわからない。今、日本とドイツの関係はお世辞にもあまりいいとは言い難かった。

 現皇帝は日本人脅威論を掲げているという。


 ドイツ大使館が頑なにふたりの婚姻届を受理しないのは、その辺の理由もあるに違いない。


「そんなこともうどうでもいい。もういいんだ。まだドイツ大使館では婚姻届は受理してもらえないが、ドイツで暮らすつもりもないしこのままで構わない」

「これからも、日本で?」

「ああ、そのつもりだ。この国で正式に結婚したら、君は日本国籍を失ってしまうから……無国籍状態は良くない。今のままなら君も華族としての特権を維持したままでいられる。もういっそこのままでも俺は構わない。何かあった時も、華族のままならば国は君を見捨てない」


 そう、日本人女性は外国人と婚姻すると日本国籍を失ってしまう。日本での婚姻が認められても、ドイツ大使館で受理してもらえないと綾子は国籍を失い宙ぶらりんの状態になってしまうのだ。


 だったら、未婚状態で綾子が華族の身分を維持したままの方がよほどいいと言いたいのだろう。


「日本国政府には、仕事で見せつけてやればいい。俺がいないとこの国の工業は回らないって思わせる。そう簡単に手放すのは惜しいと思わせる」


 綾子も同じ気持ちだった。

 別に、国に認めてもらわなくてもいいのではないか。

 互いが互いを夫婦と思っていれば。


 彼の思い描いていた、「身分の高い日本人の妻を得て、日本にしがみつく」という目論みはひっくり返ってしまうが、彼がいいと思えばそれでいい。

 綾子が正式に彼の妻とならずに華族のままでいられれば彼を助けられるのかもしれない。


 家族との関係は、母親と亡き妹以外は最悪だった。

 たとえ、書類が通らなくとも、彼と手を取り合って暮らしていけばいいではないか。


「正式に認めてもらえなくても、俺の妻はアヤだけだ。これからは……君を大事にしたい」


 彼が腕を広げてきたので、おずおずと身を寄せた。

 まだ少し、この人がよくわからない。

 両腕で抱き寄せられて、綾子はたくましい腕の中でほっと息を吐いた。


「エーリッヒさま、心臓の音がすごいですよ?」

「……アヤがかわいいからだ」


 つっけんどんなその台詞がなんだかかわいかった。

 綾子が首を上げると彼はそっぽを向いていた。


「まあ、なんてお上手なんです?」


 もちろんエーリッヒからすれば綾子がかわいいのもあったのだが、「俺がエリックだと……人狼なのだといつ明かそう……」と頭が沸騰するほど悩んでいることを綾子は知らない。


 綾子はそれから今日の夜会について詳細を知らされた。葛木家がこの夜会に呼ばれていること。挨拶とダンスが終われば、エーリッヒは大山三兄弟と撞球ビリヤード室に引きこもってしばし情報交換すること。


「ついてやれないのが申し訳ないが……大山男爵夫人は気さくな方だ。アンネもついているし、頑張れるか?」

「お任せください、お話しするのは大好きです」

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