第17話 欧州から漂うは硝煙のにおい
「綾子が俺のこと『正直格好いいと思った』って言ってた……」
「昨日の夜? エリックに言ったんか。あんたは格好いいよ、欧州人が生理的にだめじゃあなきゃ誰が見ても格好いいだろうよ」
寝癖を壮大につけたままの寝巻き姿の伸晃は、心の底から興味なさそうに言った。
彼とは今朝は打ち合わせがてら朝食を共に、という話をしていた。
遅れに遅れ現在、十時。
エーリッヒはあの後綾子の部屋から抜け出し、夜会もあるのでまったり風呂に入った。屋敷は湯を循環させ暖房としている。地下にはボイラーがあり、朝でも真夜中でもいつでも風呂に入れるのだ。
伸晃は寝坊したらしくようやっと起きてきたところである。
普段のエーリッヒだったら身だしなみを整えろ、寝坊するとは何事だと口うるさく言っているところだが、今日の彼の頭は綾子のことで沸騰寸前であった。
(朝食、綾子と食べたかった……)
「あー、で。兄貴にも話しておいた。バケモンが屋敷に入れないように、結界張っとくってよ」
「……そうか」
「あと、鬼切丸しばらく貸してくれるって」
鬼切丸は、大山家に伝わる刀だ。
大山家の先祖に仕えていた剣豪が、その刀で鬼を斬ったと言われている。
「……そうか」
「おい、どうした? なんか上の空だな?」
油揚げとネギ、豆腐が入った味噌汁を無心で啜っていると、伸晃が首を傾げた。
「そんなことはない」
エーリッヒはひらめの煮付けに箸を伸ばした。甘じょっぱいそれをおかずに、左手の茶碗に盛られたご飯を頬張る。
「なんだか腑抜けになってねーか?」
「誰が腑抜けだ?」
もはや打ち合わせとはなんだったのだろうという会話だが、食後、状況は一変した。
「エーリッヒさま、ハインリッヒさまからのお手紙です」
家令の四郎の声で、食後の緑茶を飲んでいたエーリッヒの目つきが変わった。
亡き父の弟のハインリッヒは、エーリッヒの味方であった。
それどころか、医学の道に突き進み領土の管理を半ば放り出したエーリッヒの父である先代伯爵の時代から、彼は伯爵名代としていつもまめまめしく働いてくれる頼りになる男だ。
エーリッヒが唯一甘えられる親族である。
彼は確かに電報で逐一欧州の事情を知らせてくれてはいたが、何か嫌な予感がした。急いで封を開けようとしたが、ここは食堂。
すると四郎がすかさずペーパーナイフを差し出してきた。
「悪いな」
「いえ、これくらい当然でございます」
元々、欧州は「触れればいつでも火がつく」状況下にある。ここにいる面々は全員把握していた。普段の電報もそうだが、この手紙は一部暗号が使われていた。しかも消印を見る限り、第三国の中継地点を経由して出された手紙だ。
四郎は一礼して退室した。
エーリッヒは書簡を広げ、素早くその青い視線を走らせた。
「近いうちにドイツがロシアに仕掛けるらしい。日露戦争の打撃からロシアが復活してきているゆえ、強大になる前に潰しておく、と……叔父上もこんな情報どこから仕入れてくるんだ? 危ない橋は渡ってほしくない」
「そうなると、フランスと英国は三国協商がある。ロシアに加勢するだろ。ドイツは地理的にサンドウィッチだ。味方はオーストリアしかいねぇ」
北西は海を挟みイギリス。北東は大国ロシア。
そして、西にはフランス。
南には中立国のスイスの山々が聳え立つ。
伸晃の発言は一見ごもっとも。エーリッヒは腕を組んだ。
「露仏同盟は軍事協定を含んでいる。フランスは確実にロシアに加勢するな。だが、英仏協商には軍事協定はない。奴ら長年の宿敵同士だ。そう簡単に……どうだろう。だが、もしも、ということもあるにはある」
「となると……最悪の最悪の場合、日本がドイツの敵に回るか」
「ああ、日英同盟があるから、日本はドイツの敵になる。そうなれば……日本は極東付近のドイツ領を攻めることになるだろう」
「青島か、南洋諸島か……しかし、流石に英国もバルチック艦隊潰した帝国海軍のナワバリ増やすようなこと、するとは思えねぇな」
大陸への入り口。ドイツが中国から租借した軍港、青島。あるいは南の島々、南西諸島。
列強各国は、日露戦争でバルチック艦隊を破った日本の海軍に恐れをなしていた。砲弾の消費も少なく、理想とも言える近代の戦をした日本は非白人国家でありながら列強諸国に一目置かれる存在になったのである。
少し前まで、全時代的に刀を振りまわしていた侍国家であったにも関わらず。
そんな日本が、太平洋への足がかりになる南洋諸国を手にする機会を英国が作るであろうか。
伸晃の言うことは、あまりに模範的だった。
再び黙り込んだエーリッヒを見かねてか、伸晃が明るい声を出した。
「まあいい、ここまできたらなるようにしかならない。計画は順調だ。工場も建ったし、搬入は順調!」
「そうだな……」
いずれにせよ、ふたりは数年以内に欧州から戦禍による影響で機械の輸入ができなくなっても食べていける策を講じてきた。
まずは、伸晃が独立すること。
エーリッヒのオイレンブルク商会の業務はドイツから輸入した機械を官民問わず日本の工場に卸すこと。万が一輸入ができなくなったら事業が頓挫してしまう。
工場を建て、輸入した機械で作った製品を国内に卸す。それが昨年から伸晃と進めてきた計画だ。
現在、帝都の外れ、多摩に建てた工場に欧州の一流の機械を納入し、オイレンブルク商会がなんらかの理由で転んだ時の片翼を担うために稼働の準備をしていた。機械はスイス及びドイツのドリルなどの工具を作る機械が大半を占める。
ドリルなどの工具類は、日本がこれから工業製品を作り列強諸国に追いつくために呆れるほど必要になるだろう。食いっぱぐれることはない、そうふたりは踏んだのである。
金はエーリッヒの私財、伸晃の私財、そして大山家の資金援助と、大山銀行からのローンである。
一方のエーリッヒは有事の際も日本を追い出されないために、できるだけ身分の高い日本人妻を娶るべきと周囲から進言された。
大山家の面々からも、可能ならば皇族や大名に連なる華族の娘を娶るべしと言われた。
あまり乗り気ではなかった。あの屋敷で、綾子と出会うまでは。
しかし、綾子と婚約したからと言ってそう簡単に事は運ばなかった。結局、男爵家の娘である綾子とさえ、今でも正式に籍を入れられていない。
「日本政府に、綾子とのことを認めてもらえればそれだけでいいんだが……」
「華族の令嬢と異国人の結婚なんて聞いたことがないって言われたんだよなぁ?」
「ああ。ドイツ大使館は難しいかもしれないが、年内に宮内省を黙らせる」
宮内省は、華族を管轄している。
あそこをまず攻略しなければ、と思うエーリッヒであった。
「でもよ、宮内省がうんと言ったとて、ドイツ政府が認めてくれなきゃ綾子さん無国籍になるぞ」
「……そうだな。日本人は外国人に嫁ぐと日本国籍を失う」
「おかしいと思わねぇか。日本人の男が嫁もらったら、嫁はどこの国の人間だろうが無条件で日本国籍もらえるんだぜ? 本当おかしいよ」
「……綾子を無国籍状態にするのは、そうだな。できれば避けたい」
無理してでも婚姻を認めてもらうのは、やめた方がいい。ふたりはそう結論づけた。
ふたりはまだ知らない。
夏に最悪の事態が起こり、やがて日本がドイツに宣戦布告することを。
エーリッヒが輸入した機械で造られた航空機、軍事車両、船が、そして武器が。ドイツの同胞を殺傷する未来が来ることを。




