第五章 最強受付嬢、魔族を拾う③
貧民街を歩くこと、しばらく。
日が傾き、街並みが夕焼けに染まり始めた頃、マリアとティアナは子供たちから聞いた道順を頼りに、街の外れへと向かっていた。
進むにつれて、人通りは少なくなっていく。
古びた倉庫や使われなくなった商店が並ぶ一角。その先に、周囲の建物とは不釣り合いなほど立派な塀が見えてきた。
「……あれです」
ティアナが声を潜める。
塀の向こうには、二階建ての大きな屋敷が建っていた。
庭木はきれいに手入れされ、正門には頑丈な鉄柵。門の両脇には、武装した男が二人立っている。
建物自体は古いものの、荒れ果てている様子はない。
人目につきにくい場所にあることを除けば、裕福な商人が所有していても不思議ではない屋敷だった。
「……ずいぶん立派なお屋敷ねぇ」
「ええ。ですが、この場所にあるにしては、少々不自然です」
「そうなの?」
「貧民街の外れで、周囲には倉庫ばかり。人の往来も少ない。普通の商家なら、もっと商売に便利な場所を選ぶでしょう」
ティアナは眼鏡の位置を直し、門の様子を注意深く観察した。
「それに、門番の装備も気になります」
「どんなところが?」
「腰の剣だけでなく、鎧の下にも厚手の革を着込んでいます。少なくとも、客人を迎えるための門番には見えません」
マリアは、ふむふむとうなずいた。
「なるほどねぇ。つまり、あそこは怪しいってことね」
「まだ断定はできません。ですが、子供たちの証言と合わせれば、調べる価値は十分にあります」
「じゃあ、もう少し近くで見てみましょうか」
「……マリアさん」
「なあに?」
「くれぐれも、堂々と正門に向かうのはやめてくださいね」
「あらやだ。そんなことするわけないじゃないのぉ」
マリアはにっこりと笑った。
ティアナは、嫌な予感がした。
この人の言う「そんなことするわけない」は、必ずしも信用できない。
何しろ、これまで何度も予想の斜め上を行く行動を取られてきたのだ。
「……本当にお願いしますよ?」
「はいはい♡」
二人は屋敷から少し離れた路地へ入り、建物の陰から様子をうかがった。
しばらくすると、正門が開いた。
中から出てきたのは、一台の荷馬車だった。
荷台には木箱がいくつも積まれている。御者台には男が一人座り、門番の男が短く何かを告げると、荷馬車はゆっくりと通りへ出てきた。
「……荷物の搬出でしょうか」
ティアナが小声でつぶやく。
「そうみたいねぇ」
マリアは目を細めた。
荷馬車は屋敷の前を通り過ぎ、街の中心部とは反対の方向へ走っていく。
そのときだった。
荷台の奥から、音が聞こえた。
――ドン、ドン。
木箱を内側から叩くような音。
マリアの笑みが、すっと消えた。
「……今の、聞こえた?」
「はい。荷物が動いた音……でしょうか」
「そうかもしれないわねぇ」
マリアは荷馬車の後ろ姿をじっと見つめた。
もう一度。
――ドン、ドン、ドン。
今度は、はっきりと聞こえた。
荷台に積まれた箱の一つが、わずかに揺れている。
ティアナの顔からも、表情が消えた。
「……生き物でも入っているのでしょうか」
「その可能性はあるわね」
マリアは静かに答えた。
いつもの明るい声とは違う。
けれど、怒鳴るわけでも、すぐに飛び出していくわけでもなかった。
ただ、荷馬車を見失わないよう、その行方を目で追っている。
「マリアさん。追跡しますか?」
「そうね。でも、今ここで騒ぎを起こしたら、屋敷の中にいる人たちまで危険にさらしてしまうかもしれないわ」
「……同感です」
ティアナは小さくうなずいた。
荷馬車を追うべきか。
それとも、屋敷の様子をさらに探るべきか。
どちらを選ぶにしても、今は慎重に動く必要がある。
そのとき、マリアがふと顔を上げた。
「ねえ、ティアナちゃん」
「はい」
「あの門番さんたち、交代する時間は決まっているのかしら?」
「わかりません。もう少し観察する必要がありますね」
「じゃあ、もう少しここで様子を見ましょうか」
「……マリアさんが、待つ?」
「あら、何よその反応!」
「いえ……」
「失礼しちゃうわねぇ。あたしだって、必要なときはちゃんと待てるのよ?」
ティアナは返事に困った。
必要があるときでさえ、これまで何度も待ってくれなかったことを思い出したからだ。
「……期待しています」
「その言い方、何か引っかかるわぁ!」
マリアが小声で抗議する。
ティアナは、思わず口元を緩めた。
張り詰めた空気の中でも、この人といると妙なところで調子が狂う。
けれど、今はそのおかげで、冷静さを保てている気もした。
それから二人は、通行人を装いながら屋敷の周辺を観察した。
しばらくして、今度は別の男が門から出てきた。
男は周囲を警戒しながら、懐から小さな紙片を取り出す。
そこに何かが書かれているらしい。男は内容を確かめると、すぐに紙片をしまい、足早に路地の向こうへ消えていった。
「……今の男、何かを確認していたようですね」
「ええ。誰かとの連絡に使うものかしら」
ティアナは手元の地図を開き、屋敷の位置を書き込んだ。
門の位置。
周囲の路地。
人の出入り。
そして、荷馬車が向かった方向。
見聞きした情報を、一つずつ整理していく。
「いったん戻りましょう」
やがて、ティアナが口を開いた。
「これ以上ここにいても、得られる情報は限られています。荷馬車の行き先も気になりますが、まずはギルドに戻って情報を共有しましょう。応援を要請するにしても、状況を整理してからです」
「そうねぇ。あの子にも報告したいもの。仲間を探しているんだものね」
マリアは屋敷をもう一度振り返った。
鉄柵の向こうは静かだった。
まるで、何事も起きていないかのように。
けれど、あの箱の中から聞こえた音は、どうしても気にかかった。
もし、あの中に助けを求めている人がいるのなら。
「……待っててね」
マリアは誰にともなく、小さくつぶやいた。
「ちゃんと助ける方法を考えるから」
そして二人は、来た道を戻り始めた。
◇
冒険者ギルドへ戻ると、先ほどの女性はフードは深くかぶったまま壁際の席に座っていた。
手元には、飲みかけの水が置かれている。
周囲の冒険者たちが騒がしく話す中、女性だけは静かに入口を見つめていた。
その横で、少し遅いお昼を嬉しそうに食べていたルナの耳がピクリと動いた。
二人の姿を見つけると、ルナはすぐに立ち上がる。
「ママ!おかえりなさい!」
「……何かわかったか?」
「ええ。ちょっと気になる屋敷を見つけたわ」
マリアは、ティアナが広げた地図をテーブルに置いた。
「ここよ。門番がいて、荷馬車が出入りしていたの」
女性は地図に目を落とした。
屋敷の位置を確認した瞬間、わずかに眉を動かす。
「……やはり、あの辺りか」
「心当たりがあるの?」
「いや、確かなことは何もない。ただ、王都に入ってから、どうにも気になる場所がいくつかあってな」
女性は地図を見つめたまま、静かに続けた。
「それで、屋敷の中には何があった?」
「まだ中までは見ていないわ。でも、荷馬車が出ていくところを見たの」
マリアの表情が、少しだけ険しくなる。
「それでね。荷台に積まれた木箱の中から、音がしたのよ」
「音?」
「ええ。内側から、箱を叩くような音がね」
女性の指が、ぴくりと動いた。
「……人が入っていた可能性がある、と?」
「断定はできません。ですが、子供たちの証言と合わせて考えれば、無視できない情報です」
ティアナが冷静に補足した。
女性はしばらく黙っていた。
やがて、深く息を吐く。
「……あやつら」
低く、押し殺した声だった。
テーブルの上に置かれた女性の手が、わずかに震えている。
怒りか。焦りか。
それとも、もっと別の感情なのか。
マリアにはわからなかった。
ただ、今にも一人で飛び出していきそうな気配だけは感じ取れた。
「ちょっと、待ってちょうだい」
マリアが女性の肩に、そっと手を置いた。
「気持ちはわかるけど、今はまだ、突っ込むときじゃないわ」
「……そなたに、何がわかる」
「全部はわからないわよ」
マリアは、まっすぐ女性を見つめた。
「大切な人がどこかに連れていかれて、どこにいるのかもわからない。早く助けたいのに、何もできない。……そういう気持ち、簡単にわかったなんて言えないわ」
女性は、口を閉じた。
「でもね。あたしたちが焦って動いたせいで、助けられる人まで危険にさらすわけにはいかないでしょう?」
「…………」
「だから、ちゃんと助けるために考えましょう。ね?」
女性は、マリアの顔を見つめた。
そこには、ふざけた様子も、いつもの軽い調子もなかった。
ただ、目の前にいる人を本気で心配している。
そのことが、伝わってきた。
「……よかろう」
女性は、ゆっくりとうなずいた。
「そなたの言う通りじゃ。今は情報を整理するべきじゃな」
「ええ。それでこそよ♡」
マリアは、いつもの笑顔を取り戻した。
その変わり身の早さに、女性は思わず目を細める。
「……本当に、妙な人物じゃな」
「あら、褒めても何も出ないわよぉ?」
「褒めてはおらぬぞ」
「うふふ♡」
「……マリアさん」
ティアナが額を押さえた。
「今は大事な話をしているんですから、少し真面目にしてください」
「ふふ……そういう主も、そのような華やかな格好で会議とは、締まりがないのう」
「なっ!? 今は急を要しているんですから、いいんです!」
ティアナは顔を赤らめ、テーブルをばんばんと叩いて抗議した。
着替える時間が惜しかっただけなのに、どうやら、先ほどから気にしていた自分の服装まで蒸し返されたらしい。
女性は、こらえきれずに小さく笑った。
その笑い声を聞いて、ティアナは少しだけ驚いた。
彼女が笑ったところを、初めて見た気がしたからだ。
「……それで、これからどうする?」
女性が尋ねる。
ティアナは気を取り直し、地図を広げ直した。
「まずは、屋敷から出ていった荷馬車の行き先を調べたいと思います。もし、別の場所に人を移しているのであれば、そこも拠点の一つかもしれません」
「人手が必要なら、ギルドに協力を求めるのも手ね」
マリアの言葉にうなずき、ティアナは続けた。
「ただし、情報が漏れる危険もあります。誰にでも話すわけにはいきません」
「そうね。信用できる人にだけ、ね」
ティアナはうなずいた。
「それから、先ほどの屋敷については、騎士団にも内密に確認を取ります。正式な捜査にするには、もう少し証拠が必要ですが……」
「騎士団が動けば、相手に気づかれる可能性もあるのではないか?」
女性の問いに、ティアナは少し考えた。
「その可能性はあります。ですから、まずは信頼できる団長にだけ話を通します。大勢を動かすのは、情報がそろってからです」
「……なるほど」
女性は納得したようにうなずいた。
マリアは二人のやり取りを聞きながら、ふと何かを思いついたように手を叩いた。
「そうだわ!」
「……今度は何ですか、マリアさん」
「屋敷の中に入る方法よ!」
ティアナの顔が引きつった。
「まさか、正面から突入するつもりではありませんよね?」
「やぁねぇ。その通りよ、責任者とお話ししましょう!」
「馬鹿なんですか!?」
「冗談よ、冗談♡」
マリアは笑いながら、地図の屋敷を指で示した。
「でも、あそこに出入りしている人がいるのは確かでしょう? だったら、出入りする人たちに紛れ込む方法があるかもしれないわ」
「……潜入、ですか」
「そう。正面から戦うんじゃなくて、中の様子を確かめるの」
ティアナは、少し考え込んだ。
確かに、今の段階で大人数を動かすのは危険だ。
屋敷の中に何人いるのかも、どのような武器を持っているのかもわからない。
捕らえられている人々の居場所も不明だ。
まずは内部の状況を把握する必要がある。
「……検討する価値はありますね」
「でしょ?」
マリアは得意げに胸を張った。
「名付けて、潜入大作戦!」
「名前をつける必要はありません!」
「あらぁ、いい名前だと思ったのに」
女性は、二人のやり取りを眺めていた。
そして、ふと目を伏せる。
この者たちは、まだ知らない。
自分が何者なのか。
そして、なぜ自分が彼らを探しているのか。
話すべきか。
黙っているべきか。
答えは、まだ出ていなかった。
だが、一つだけ確かなことがある。
この二人は、自分の利益のためではなく、目の前にいる人々を助けるために動いている。
ならば――。
「余も、協力しよう」
女性は顔を上げた。
「まぁ!素敵ね!」
「待ってください」
ティアナが即座に口を挟んだ。
「あなたは、すでに一度、捕まることも覚悟して行動していたんですよね?」
「……ああ。だが、戦力になれることは保証しよう」
フードの隙間から覗くトパーズ色の瞳が、怪しく輝いた。
その眼差しには、ただの旅人とは思えない力強さが宿っている。
「腕に自信があるようですが、戦いの心得でも?」
ティアナが尋ねると、女性は少しだけ気まずそうに視線を逸らした。
「……共闘する以上、隠し事をしたままというわけにもいかぬか」
そう呟くと、女性はフードの縁に手を掛けた。
「な、何をするつもりですか?」
ティアナが警戒するように身構える。
「安心せよ。そなたらに危害を加えるつもりはない」
「そういう問題ではなくてですね……」
「まあまあ、ティアナちゃん。落ち着いて、落ち着いて」
マリアに促され、ティアナは渋々ながらも口を閉じた。
女性は一度、静かに息を吸った。
「私は――魔族領を治めていた者。魔王じゃ」
次の瞬間。
魔王はフードを脱いだ。
隠されていた頭部から、魔族特有の角が姿を現す。
そして、フードに押さえつけられていた暗い朱色の長い髪が、解放されたようにふわりと広がった。
腰まで届く、ウェーブのかかった髪。
夕刻の光を受けて、艶やかに揺れる。
その下で輝くのは、トパーズを思わせる黄金色の瞳。
人間とは明らかに異なる、わずかに尖った耳。
気品ある顔立ちに浮かぶのは、王者としての威厳と、長い逃亡生活で刻まれた疲労だった。
その姿を目の当たりにしたティアナは――。
「…………」
固まった。
瞬きすら忘れたように、魔王の頭部を凝視している。
「……え?」
かろうじて漏れた声は、それだけだった。
マリアは、目の前の魔王をじっくりと眺めた。
「まあ……」
感心したようにうなずく。
「やっぱり、綺麗な髪ねぇ♡」
「……ブレぬな、そなたは……」
「あら、女性の魅力を褒めるのに理由がいる?」
魔王は呆れたように息を吐いた。
一方、ティアナの顔色はみるみるうちに青ざめていく。
「……ま、魔王……?」
「うむ」
「…………魔王?」
「そう言っておるじゃろう」
「………………」
ティアナはゆっくりと両手を伸ばした。
そして――。
ばさっ!
「なんじゃ!?何をする!?」
魔王の頭に、勢いよくフードを被せ直した。
「見なかったことにします!!」
「いや、もう見ておるじゃろうが!」
「見てません! 私は何も見てませんから!!」
ティアナはそのまま、ふらふらと後ずさった。
近くの椅子に手を掛けようとして、失敗する。
どさっ。
白地に青い小花が散りばめられたワンピースの裾が、床に広がった。
ティアナは、その場に泣き崩れた。
「……もう、いや……」
「ティ、ティアナちゃん!?」
マリアが慌てて駆け寄る。
「どうしたのよぉ! しっかりしてちょうだい!」
「しっかりなんて、できるわけないでしょう……!」
ティアナは顔を覆った。
「魔王ですよ!? 魔王! 魔族領の頂点に立つ、あの魔王です!!」
「うん、そうみたいねぇ」
「そうみたいねぇ、じゃありません!!」
ティアナは勢いよく顔を上げ、金糸のような美しい髪を振り乱した。
目には涙が浮かんでいる。
「ただでさえ、誘拐事件の調査だけでも大問題なんですよ!? そこに、正体不明の女性を保護していた件が加わって……! その人が、今度は魔王本人だったなんて……! 私は一体、団長に何と報告すればいいんですかぁぁぁ!!」
最後は悲鳴になった。
そして、再び床に突っ伏す。
「嘘であってください……。お願いですから、今のは全部嘘であってください……!」
「そ、そこまでか……?」
フードの下から、魔王の困惑した声が聞こえた。
「そこまでです!!」
ティアナは即答した。
「私はただ、誘拐事件の手掛かりを探していただけなんです! どうして魔王と一緒に作戦会議をすることになっているんですか! どうして私は、魔王の正体を知ってしまったんですかぁ……!」
「……なんか、すまぬ」
さすがの魔王も、申し訳なさそうに肩を落とした。
しかし、ティアナの嘆きは止まらない。
「しかも私、さっきまで普通に話していましたよね!? 魔王に向かって『一人で先走らないでください』とか『腕に自信があるのか』とか言っていましたよね!?」
「うむ。なかなか頼もしかったぞ」
「褒めないでくださいぃぃぃ!!」
ティアナの悲鳴が、ギルドの一角に響き渡った。
周囲の冒険者たちが、何事かと一斉に振り返る。
マリアは慌ててティアナの肩を抱いた。
「ほらほら、落ち着いて。大丈夫よぉ」
「何が大丈夫なんですか……!」
「少なくとも、魔王ちゃんは今のところ、あたしたちを襲うつもりはないみたいだし?」
「今のところ、という言い方は一番怖いんです!!」
マリアは困ったように笑いながら、魔王へと視線を向けた。
「それで、魔王ちゃん。どうして移民の人たちと王都に来ているのか、聞かせてもらえる?」
その問いに、魔王の表情が変わった。
フードの下から聞こえる声も、先ほどまでの軽いやり取りとは違い、静かな重みを帯びていた。
「……私は、魔族領で和平を進めておった」
魔王は、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「人間との争いを終わらせ、互いの領土を侵さずに暮らす。そのための交渉を続けていたのじゃ」
しかし、その方針を快く思わない者たちがいた。
魔族領の中でも、他種族への侵攻を強く主張する強硬派。
彼らは、和平など弱者の選択だと考えていた。
「奴らは戦を望んでおった。人間の領土を奪い、力を示し、魔族こそがこの世界を支配すべきだとな」
魔王の声に、苦々しさが滲む。
「私は、それを認めなかった。じゃが……多勢に無勢。私の味方は次第に追い詰められ、最後には、私自身が政権の座から引きずり下ろされた」
「……失脚させられた、ということですか」
ティアナが床に座り込んだまま尋ねた。
「そうじゃ。そして、魔族領から追放された」
魔王は一度、言葉を切った。
「その後、強硬派は侵攻を進めた。争いを望まぬ者たちも、巻き込まれていった。住処を失い、逃げるしかなくなった者たちが大勢おったのじゃ」
その中には、老人も、怪我を負った者も、女子供もいた。
魔王は、かつて自分を王として敬った者たちだけでなく、行き場を失った人々と共に歩くことを選んだ。
自らの正体を隠し、彼らと同じ食事を取り、同じ場所で眠り、数週間もの道のりを共にした。
「私は、あの者たちを見捨てることができなかった。王ではなくなろうとも、守るべき者たちであることに変わりはないからの」
魔王は、膝の上で拳を握った。
「ようやく王都の近くまでたどり着いた。ここならば、少なくとも一時は身を隠し、助けを求められるかもしれぬと思ったのじゃ」
だが、その希望はあっけなく打ち砕かれた。
王都郊外で、共に旅をしてきた人々が姿を消したのだ。
老人も、怪我人も、女性も、子供も。
気づいたときには、何者かによって連れ去られていた。
「私は、荷馬車の車輪痕を追った。手掛かりはそれしかなかったからの。そうして王都へ入り、あやつらの行方を探しておった」
魔王の声が、かすかに震えた。
「……じゃが、私を追っておるのは奴隷商人だけではない」
「どういうこと?」
マリアが静かに尋ねる。
「強硬派にとって、私は邪魔な存在なのじゃ。侵攻を進める彼らの真意を知り、それに反対していた者が生きておる。私が再び表に出れば、彼らの計画を覆す可能性がある」
魔王は、フードの下で目を伏せた。
「ゆえに、私の所在を知られるわけにはいかぬ。奴らは私を探しておるはずじゃ。もし、この王都で私の正体が知れ渡れば……あの者たちを救うどころか、さらに危険にさらすことになるやもしれぬ」
しばらく、沈黙が落ちた。
マリアは、魔王の言葉を一つずつ受け止めるように聞いていた。
「……そっか」
やがて、静かに口を開く。
「大変だったのねぇ」
「……同情はいらぬ」
「同情じゃないわよ」
マリアは、まっすぐに魔王を見つめた。
「あなたは、守りたい人たちを守るためにここまで来たんでしょう? だったら、あたしたちが手伝う理由としては十分よ」
「……マリア」
「困っている人がいるなら助ける。それがあたしの流儀だもの♡」
魔王は、言葉を失った。
その言葉が、あまりにも自然に差し出されたからだ。
王としての地位も。
魔族領での立場も。
人間から見た危険性も。
マリアは、そのどれもを理由に助けることを拒まなかった。
「……そなたは、本当に妙な人間じゃな」
「あら、よく言われるわぁ♡」
「褒めておるわけではない」
「はいはい」
マリアは楽しそうに笑った。
その隣で、ティアナだけは笑えなかった。
彼女はまだ、床に座り込んだままだった。
「……つまり」
ティアナは、震える声で言った。
「魔王は、魔族領の強硬派から追放されていて……その強硬派は侵攻を企てていて……魔王は、その計画を知っているから狙われている。しかも、王都の近くで移民の方々が誘拐され、その捜査に私たちが関わっている……」
「うむ。おおむね、その通りじゃ」
「…………」
ティアナは再び顔を覆った。
「報告事項が……増えました……」
「ティアナちゃん……」
「誘拐事件だけでも、騎士団への報告、ギルドとの連携、証拠の確保、応援の要請……考えることが山ほどあるのに……! 魔王の亡命に、魔族領の政変に、侵攻計画まで追加されたら……!」
肩が震える。
「……もう、無理です……」
そして、ついに耐えきれなくなった。
「嘘であってぇぇぇ……! お願いだから、全部嘘であってくださいぃぃぃ!!」
ティアナは、ワンピースのまま再び床に泣き崩れた。
魔王は、どうしたらよいのかわからず、フードの上から頭を押さえた。
「……私は、正直に話しただけなのじゃが」
「それが一番大変なんですぅぅぅ!!」
マリアは、そんな二人を見比べて、とうとう吹き出した。
「ふふっ……あはははっ! もう、ティアナちゃんったら!」
「笑わないでくださいぃぃぃ!!」
ギルドの一角に、ティアナの悲痛な叫びが響き渡る。
ひとしきり嘆いたあと、ティアナは涙を拭い、どうにか顔を上げた。
「……とりあえず! 絶対に! 他の人の前では正体を明かさないでくださいね!?」
「……善処しよう」
「約束です!」
「わ、わかった! 約束する!」
魔王が思わず声を上げた。
魔王と知られれば恐れられ、追われることになる。そう考えて身を隠してきた彼女にとって、目の前の二人の反応は、想像していたものとはずいぶん違っていた。
……もっとも、ティアナの場合は恐怖というより、増え続ける報告事項に打ちのめされているようだったが。
マリアは、くすくすと笑った。
「ふふっ。ティアナちゃん、苦労が尽きないわねぇ」
「誰のせいだと思っているんですか!!!!」
「あらあら♡」
ギルドの一角に、いつものような騒がしさが戻る。
しかし、テーブルの上に広げられた地図には、確かに一つの目的地が記されていた。
貧民街の外れに建つ、謎の屋敷。
そこに捕らえられているかもしれない人々。
そして、その背後に潜む者たち。
まだ、何もかもが明らかになったわけではない。
けれど、手がかりは確かにつながり始めていた。
「……よし」
マリアは、ぱん、と両手を打ち合わせた。
「それじゃあ、まずは作戦会議ね!」
「今度こそ、真面目にお願いしますよ」
「もちろんよぉ」
マリアはにっこりと笑った。
「困っている人がいるなら、助ける。それがあたしの流儀だもの♡」
その言葉に、魔王は静かに目を伏せた。
胸の奥に、小さな希望が灯る。
今度こそ、あの人たちを救えるかもしれない。
そう思えたのは、いつ以来だっただろうか。
魔王は、誰にも気づかれないように、そっと拳を握った。




