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『異世界オネエ転生』 ~元新宿三丁目ママ、無敵チートで最強受付嬢になり気ままに無双します~  作者: 雛森リコ
転生オネエさん、最強受付嬢になる。

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第四章 最強受付嬢、大きな犬を拾う

 異世界に来て、数日。


 マリアはすっかり冒険者ギルドの一員になっていた。


「ママ! この荷物、どこに置けばいい?」


「そこよ。間違えて食べないようにね♡」


「食べませんよ!」


 受付カウンターの向こうから、若い冒険者の悲鳴じみたツッコミが飛んでくる。


 それを聞いたマリアは、楽しそうに肩を揺らした。


「冗談よぉ♡」


「ママ! 3番テーブル、料理できたぞ!」


「はーい、今行くわね」


 厨房からの呼び声に応じ、マリアは慣れた足取りでカウンターを離れた。


「あら、今日も美味しそうじゃない。盛り付けも上手になったわねぇ」


「へへっ、ママに教わった料理好評だぜ!」


「そう? だったら、もっと褒めてあげなくちゃね♡」


「よっしゃ! 今日も頑張るぞ!」


 受付。


 料理。


 酒の注文。


 冒険者同士の喧嘩の仲裁。


 時には、失恋した冒険者の愚痴を聞くことまで。


 気がつけば、マリアは冒険者ギルドの何でも屋になっていた。


 もっとも、本人にその自覚があるのかどうかは怪しい。


「ママぁ……聞いてくれよぉ……」


 昼前だというのに、すでに酒の入った冒険者がカウンターに突っ伏していた。


「あらあら。今度はどうしたの?」


「昨日……女に振られた……」


「まあ」


 マリアは頬に手を添え、困ったように眉を下げた。


「それは辛かったわねぇ」


「だろぉ!? 俺、あんなに尽くしたのによぉ!」


「うんうん」


「毎日花を贈って! 飯も奢って! プレゼントだって買ったんだぞ!」


「ええ、ええ」


「なのに、どうしてだよぉ……!」


 涙ながらに訴える冒険者の背中を、マリアは優しくさすった。


「男って、どうしてこういう時に自分の努力ばかり数えちゃうのかしらねぇ」


「えっ?」


「相手が何を望んでいたのか、ちゃんと聞いてあげていた?」


「…………」


「一方的に何かをしてあげるだけじゃ、気持ちは伝わらないこともあるのよ」


 冒険者は口を閉ざした。


 どうやら、思い当たる節があったらしい。


「……ママ」


「なぁに?」


「俺、もう一杯飲んでいい?」


「ダメよ。まずはお水を飲みなさい♡」


「酷いよママぁぁぁ!」


「あら、失恋の痛みより二日酔いのほうが辛いわよ?」


 ギルドに笑い声が広がる。


 そんな、いつもと変わらない日常だった。


 少なくとも、この時までは。


 ◇


 その日の昼前。


「ママ! 大変だ!」


 厨房から、いつもより切羽詰まった声が飛んできた。


「なぁに?」


「食材が足りねぇ!」


「あら、大変!」


 マリアは手元の書類を置き、厨房へ顔を向けた。


「今日の分の肉と野菜が足りないんだ。市場まで買いに行ってくれないか?」


「私でいいの?」


「ああ! 悪いが頼む!」


 マリアは受付の周囲を見回した。


 普段なら、護衛という名の監視でこういう用事には女騎士が付き添ってくれることが多い。


 しかし、今日はその姿が見当たらなかった。


「そういえば、あの子は?」


「城に用事があるとかで、朝から出てるぞ」


「そうなのね……」


 マリアは少し考えたあと、軽く髪を整えて椅子から立ち上がった。


「じゃあ、ちょっと行ってくるわね」


「助かるよ、ママ!」


「お買い物くらいならお安い御用よ♡」


 そう答えながらも、マリアの胸にはほんの少しだけ迷いがあった。


 ――女騎士ちゃんに、怒られないかしら?


 この世界に来てからというもの、何かと世話を焼いてくれる彼女には感謝している。


 しかし、その過保護ぶりには、少々困っていた。


 少し外へ出ようとすれば心配され、何かをしようとすれば止められ、気がつけば隣に立っている。


 まるで、目を離したらすぐにどこかへ消えてしまう子供を見守る保護者のようだ。


 もっとも、マリア自身は自分がそれほど危なっかしい人間だとは思っていない。


「市場はすぐそこだし、大丈夫よねぇ」


 何しろ、ギルドから道なりに進むだけの場所だ。


 買い物をして帰ってくるくらい、どうということはないだろう。


 そう自分を納得させると、マリアは軽やかな足取りでギルドを出た。


  ◇


 市場は今日も活気に満ちていた。


 威勢のいい商人の呼び声が飛び交い、店先には色とりどりの野菜や果物が並んでいる。


 肉屋の軒先には大きな肉塊が吊るされ、魚屋では水桶の中で魚が跳ねていた。


 香辛料の香りに、焼きたてのパンの匂い。


 あちらからは酒場の仕込みだろうか、香ばしい肉の焼ける匂いまで漂ってくる。


「まあ、結構いろいろあるのねぇ」


 マリアは物珍しそうに周囲を見渡した。


 異世界の市場。


 考えてみれば、こうして一人でゆっくりと歩くのは初めてだった。


 ついつい目移りしてしまいそうになるが、今はギルドの食材を買いに来たのだ。


 寄り道はほどほどにしておこう。


「お肉はこれくらいかしら。お野菜も必要よねぇ」


「へい、毎度あり!」


「こちらもお願いね」


「ありがとうございます!」


 マリアは店主たちと軽く言葉を交わしながら、次々と食材を買い揃えていった。


 買い物は順調。


 あとは必要なものを持って帰るだけだ。


 ――その時だった。


「……なあ、まだ来てないのか?」


「いや、まだだ。今日の昼には着く予定だったんだがな」


「例の商隊か?」


「ああ。街道を通ってくるはずなんだが……」


「どこかで足止めでも食らったんじゃないか?」


 近くの店先で、数人の商人が困ったように話し合っていた。


 マリアは籠を持ったまま、そちらへ視線を向けた。


「なにかあったの?」


「うおっ!?」


 突然背後から声をかけられ、商人の一人が肩を跳ねさせた。


 振り返り、相手がマリアだとわかると、ほっと胸を撫で下ろす。


「な、なんだ、ママか。驚かせないでくれよ」


「あら、ごめんなさいね。それで、何か困っているの?」


「実はな、今日ここへ来る予定の商隊がまだ到着していないんだ」


「予定より遅れているのね?」


「ああ。いつもなら、とっくに着いている時間なんだが……連絡もない」


「ふぅん……」


 マリアは考え込むように首を傾げた。


 街道で何かあったのだろうか。


 事故か、荷馬車の故障か。それとも道が荒れていて、進むのに時間がかかっているのかもしれない。


 いずれにせよ、予定の時間を過ぎても連絡がないというのは気になる話だった。


 マリアはふと、手に持った籠へ視線を落とした。


 買い物は終わっている。


 ギルドへ戻るのを少し遅らせたところで、誰かが困るわけでもない。


 ならば。


 パンッ!


 マリアは両手を軽く叩いた。


「じゃあ、わたしがちょっと見てこようかしら」


「……え?」


「街道を少し歩いて、商隊が来ているか確認するだけよ」


「いやいやいや、ちょっと待ってくれ!」


 商人が慌てて手を振った。


「気持ちはありがたいが、街の外だぞ!?」


「そうねぇ」


「そうねぇ、じゃないんだよ!」


 マリアはきょとんとした顔をした。


「でも、道を見に行くだけでしょう?」


「それはそうだが……」


「大丈夫よ。危ないことがあったら、ちゃんと気をつけるから♡」


「その理屈で大丈夫だと思えるのがすごいよ……」


 商人たちの不安そうな声を背に、マリアはにっこりと微笑んだ。


「じゃあ、行ってくるわねぇ」


 彼らはまだ何か言おうとしていた。


 だが、一人で出かけられることに浮かれているマリアには、もう届いていない。


 ――街の外に出ることにはなるけれど、街道を真っすぐ進むだけだもの。


 ――女騎士ちゃんだって、そこまで怒らないわよね?


 そんな軽い考えを胸に、マリアは初めて王都の外へと足を踏み出した。


 ◇


 王都の大門を抜けると、景色は少しずつ変わっていった。


 街の近くには、きちんと整備された石畳の道が続いている。


 すれ違う荷馬車や旅人の姿もあり、王都へ向かう者と、王都から離れていく者が、それぞれの目的地を目指して歩いていた。


 しかし、しばらく進むと石畳は途切れ、道は踏み固められただけの土の道へと変わっていく。


 道の両脇には背の低い草が生え、その向こうには緩やかな丘と、遠くに広がる森が見えた。


「まあ……」


 マリアは思わず足を止めた。


 王都の中は人も建物も多く、いつも何かしらの音が聞こえていた。


 けれど、ここには違う時間が流れているようだった。


 風が草を揺らす音。


 頭上を飛ぶ鳥のさえずり。


 遠くから聞こえる、荷馬車の車輪が土を踏む音。


「こういう景色も悪くないわねぇ」


 マリアは籠を持ち直し、再び歩き始めた。


 ところが。


 歩いても、歩いても、商隊らしい姿が見当たらない。


「……あら?」


 気がつけば、王都の門はずいぶん遠くなっていた。


「ちょっと遠くまで来すぎちゃったかしら」


 マリアは苦笑し、髪を耳にかけた。


 もっとも、街道は一本しかない。帰り道に迷う心配もないだろう。


 そう考えて、さらに少しだけ進んだ、その時だった。


「……ん?」


 街道の向こう。


 木々の向こう側から、黒い煙が立ち上っていた。


 風に流されながら、空へと広がっていく不吉な煙。


 火事だろうか。


 いや、それにしては煙の量が多すぎる。


「何かしら、あれ……」


 マリアは目を細めた。


 普通なら、まず近づかずに誰かへ知らせるべき場面だろう。


 しかし、マリアは少しだけ首を傾げたあと、何のためらいもなく煙の上がる方へと歩き出した。


「困っている人がいるかもしれないものねぇ」


 こうして彼女は、思いがけない騒動の中心へと向かっていくのだった。


 ◇


 ――マリアが王都を出た、その少し前。


 冒険者ギルドでは、ようやく女騎士が戻ってきていた。


「マリア様は?」


 ギルドへ入るなり、女騎士はいつものようにマリアの姿を探した。


 しかし、受付にも、厨房にも、酒場のカウンターにも、その姿はない。


「ああ、ママなら市場に買い物へ行きましたよ」


「市場……おひとりで、ですか?」


 女騎士は一瞬だけ考え込んだ。


 市場なら問題はないだろう。


 何度も自分と一緒に行っている場所だし、ギルドからも近い。道もわかりやすく、迷うような場所でもない。


 それに、あの姿は人混みの中でも目立つ。


 探すのに苦労することもないはずだ。


「そうですか。では、私も――」


 その時だった。


「た、大変だぁぁぁぁ!」


 入口の扉が勢いよく開いた。


 飛び込んできた男は息を切らし、今にも倒れそうな様子でカウンターへ駆け寄った。


「商隊が魔獣に襲われた!」


 その一言で、ギルド内の空気が変わった。


 酒を飲んでいた冒険者たちが顔を上げ、談笑していた者たちも一斉に口を閉ざす。


「魔獣だと!?」


「種類はわかっているのか!?」


「わからない! とにかくデカいんだ! 炎を吐く、巨大な狼みたいな魔獣だ!」


 女騎士の表情が強張った。


「場所は!?」


「市場通りから続く街道だ! 王都のすぐ近くだ!」


「……街道」


 嫌な予感がした。


 先ほど聞いた話では、マリアは市場へ買い物に出ている。


 市場から街道へは、道を真っすぐ進めばいい。


 そして、あの人は――。


「……まさか」


 女騎士は踵を返し、すぐさま出動の準備をしようとした。


 だが、その前に男が叫んだ。


「ま、待ってくれ!」


「何ですか! 急いでいるのです!」


「一人で、向かっちまったんだ!」


「……誰が?」


「ママだ!」


「…………」


 女騎士の顔から、さっと血の気が引いた。


「……マリア様が?」


「ああ! 商隊が来ないって話を聞いて、そのまま街道へ向かったらしい!」


「なぜ止めなかったんですか!?」


「俺たちだって、さっき知ったんだよ!」


 女騎士は一瞬、額に手を当てた。


 いや、落ち着け。


 まだ間に合う。


 マリア様は強い。とんでもなく強い。


 しかし、この世界に来たばかりで、魔獣についてもまだ十分に理解されていないはずだ。


 危険な相手に不用意に近づけば、何が起こるかわからない。


 何より、本人に危険な場所へ向かっている自覚があるのかどうか、それすら怪しい。


「馬を貸してください! 至急です!」


 女騎士は近くにいた受付嬢へ声をかけた。


「わ、わかりました!」


 その様子を見ていた冒険者たちが、次々と立ち上がった。


「おい、俺たちも行くぞ!」


「商隊が襲われたんだろ? 放っておけるか!」


「ママが向かったっていうなら、なおさらだ!」


「ありがとうございます!」


 女騎士は深く頭を下げた。


 マリアの人望が、こうして仲間たちを動かしている。


 そのことは心強かった。


 だが、今の女騎士には、仲間たちの頼もしさを喜ぶ余裕などなかった。


 彼女は馬に飛び乗ると、手綱を握り締めた。


 ――お願いです、マリア様。


 ――どうか、どうか何もせずに待っていてください!


 その顔は、完全に青ざめていた。


 ◇


 そして、その頃。


「まあ……」


 マリアは目の前の光景を眺めていた。


 燃えている。


 馬車が。


 積み荷が。


 地面に散らばった木箱までが、黒く焦げていた。


 あちこちに火の粉が舞い、焦げた木材と獣の臭いが風に混じっている。


 倒れた馬車の陰では、商人たちが身を寄せ合っていた。


 幸い、まだ生きている者は多いようだ。


 そして、その中央に――。


 巨大な獣がいた。


 熊を思わせるほど大きな身体。


 それでいて、頭部は狼に似ている。


 全身を覆う銀灰色の毛並みは、燃え残った炎を反射して鈍く光り、鋭い瞳は新緑を思わせるエメラルド色をしていた。


 口元には血に濡れた牙。


 吐く息に混じって、赤い炎がちらちらと漏れている。


 獣は倒れた馬の身体に食らいつき、骨を砕く音を響かせていた。


「グルルルル……」


 低い唸り声が、街道に響く。


「…………」


 マリアはしばらく、その姿を眺めていた。


 そして。


「……大きいわねぇ」


 感想は、それだけだった。


 普通なら、その巨体を目にした時点で逃げ出してもおかしくない。


 しかし、マリアにとっては、ずいぶんと大きな動物が食事をしているようにしか見えなかったらしい。


 彼女は周囲を見回した。


 負傷した商人たち。


 横転した荷馬車。


 散乱した積み荷。


 そして、恐怖に震えながら地面に座り込んでいる人々。


「あなたたち、大丈夫?」


「……っ! 来るな!」


 商人の一人が、必死の形相で叫んだ。


「こいつに近づくな! 人間の敵う相手じゃない!」


「そうだ! 逃げろ! 早く!」


 マリアは不思議そうに首を傾げた。


「そんなに危ない子なの?」


「子って……!」


 商人は言葉を詰まらせた。


 目の前の存在が何なのか、わかっていないのだろうか。


 いや、わかっていたとしても、こんな反応をする人間がいるとは思わなかった。


「こいつはAランク級の魔獣だぞ!」


「Aランク?」


 マリアは、少しだけ考え込んだ。


 この世界に来てから、冒険者のランクや魔獣の危険度については教わっている。


 魔力を持ち、通常の動物とは比較にならない力を持つ生物。


 その中でもAランク級ともなれば、討伐には熟練した冒険者や騎士を集め、十分な準備を整える必要がある。


 場合によっては、金等級以上の冒険者を中心とした大規模な部隊が派遣されるほどの脅威なのだ。


 そして、この獣は――。


「ルナガルム……!」


 背後から、聞き慣れた声が響いた。


 マリアが振り返ると、王都の方角から駆けつけてきた女騎士と冒険者たちが、ようやく現場へ到着したところだった。


「まあ! 女騎士ちゃん!」


「マリア様!?」


 女騎士は馬から飛び降り、目の前の光景に息を呑んだ。


 燃えた荷馬車。


 負傷した商人たち。


 そして、中央に立つ巨大な魔獣。


 その毛並みと瞳の色を見た瞬間、彼女の顔が強張った。


「……間違いありません。炎を喰らう獣――ルナガルムです」


 周囲の冒険者たちが息を呑む。


「ルナガルムだと……?」


「冗談だろ。こんなところに出る魔獣じゃないぞ……!」


 その場の誰もが緊張していた。


 Aランク魔獣。


 その名は、熟練の冒険者でさえ容易に口にできないほどの脅威を意味する。


 ましてや、炎を吐く個体だ。


 正面から戦えば、何人の犠牲が出るかわからない。


 商人たちは神に祈り、冒険者たちは武器を構えながらも、迂闊には近づけずにいた。


 そんな中。


「ふぅん……」


 マリアは、もう一度ルナガルムを眺めた。


「随分、珍しい犬種の大きなワンちゃんなのねぇ」


「「「…………」」」


 全員が固まった。


「マリア様」


 女騎士が、努めて冷静な声を出した。


「あれは犬ではありません」


「え? でも、四本足でしょう?」


「魔獣です」


「耳も尻尾もあるわよ?」


「そういう問題ではありません!」


 思わず声を荒らげた女騎士に、マリアはきょとんとした顔を向ける。


「そうなの?」


「そうなの、ではありません!」


 今すぐ連れて帰りたい。


 今すぐ安全な場所へ避難させたい。


 だが、当の本人は、まったく危険を感じていないようだった。


 その時。


 ルナガルムが、倒れていた馬へと顔を向けた。


 そして――。


 むしゃり。


 馬の骨を砕きながら、血肉を千切り、再び食事を始めた。


 生々しい音が響き、商人の一人が顔を背ける。


 マリアは少しだけ眉を寄せた。


「……あら」


 そして、手元の籠を覗き込んだ。


「お腹が空いているのかしら?」


「……はい?」


「さっき、お肉を買ったのよねぇ。これ、食べるかしら?」


「マリア様!?」


 女騎士が止めるより早く、マリアは籠から肉を取り出した。


「ほらほら。こっちにもあるわよー」


 まるで、散歩中に出会った犬へおやつをあげるような気軽さだった。


「グルルルル……!」


 ルナガルムが、ゆっくりと顔を上げる。


 その視線がマリアを捉えた。


「大丈夫よ。あなたのご飯を取ったりしないわ」


 マリアは笑顔で肉を差し出した。


 当然ながら、魔獣に言葉が通じるはずなどない。


 むしろ、今のルナガルムは、目の前に現れた人間を新たな獲物と認識しているようだった。


 巨大な獣が、ゆっくりと近づいてくる。


「マリア様! 下がってください!」


 女騎士が叫ぶ。


 しかし、マリアは動かなかった。


「あら、こっちに来たわね。はい、お肉よー」


 次の瞬間。


 ルナガルムが大きく口を開いた。


「――ッ!」


 轟音。


 獣の口から、紅蓮の炎が噴き出した。


「避けろぉぉぉ!」


 女騎士と冒険者たちは、反射的に左右へ飛び退いた。


 熱波が頬を叩き、周囲の空気が一気に熱を帯びる。


 炎は街道を舐めるように広がり、地面の草を焼き、残っていた木箱を瞬く間に黒焦げにした。


「……え?」


 マリアは、その場に立ったままだった。


 避けなかった。


 いや、そもそも避けることができなかったのだ。


 炎が、彼女の身体を包み込んだ。


「マリア様ぁぁぁぁぁ!!」


 女騎士の悲鳴が響き渡る。


 もうもうと煙が立ち上り、周囲の視界を覆い尽くした。


「そ、そんな……!」


「直撃したぞ……!」


「嘘だろ……」


 冒険者たちの顔から血の気が引いていく。


 Aランク魔獣の炎をまともに受けて、無事で済む人間などいるはずがない。


 ましてや、あの距離だ。


 助かるはずがない。


 誰もがそう思った。


 しかし。


「…………」


 煙が、ゆっくりと晴れていく。


 その向こうに。


 マリアは立っていた。


 無傷。


 顔にも、身体にも、火傷ひとつない。


 ただし、髪の先と服の裾が少し焦げていた。


 そして、手に持っていた肉は――。


 こんがりと焼き上がっていた。


「…………」


 マリアは自分の頬をぺたぺたと触り、次に服の裾を確認した。


「……あらまあ」


 それから、手元の肉を眺める。


「ちょうどよく焼けちゃったわねぇ」


「「「…………」」」


 誰も、何も言えなかった。


 やがて、マリアは髪を軽く整え、ルナガルムへ視線を向けた。


「もう、ヤンチャなワンちゃんねぇ」


 困ったように微笑む。


「お手入れが大変なのよ?」


 女騎士は口を開いたまま固まっていた。


「炎を……直撃したのに……」


「無傷……だと……?」


「いったい、何なんだ……あの人……」


 そんな周囲の反応など気にも留めず、マリアは腰に手を当てた。


 ルナガルムは牙を剥き、低く唸っている。


 その姿は、どう見ても友好的とは言い難い。


 しかし、マリアはまったく動じなかった。


「あらあら。そんなに怖い顔をして」


 そして、獣の頭へ手を伸ばす。


「グルルルル……!」


 ルナガルムが、さらに大きく口を開いた。


 今度こそ、噛み砕くつもりなのだろう。


 周囲の冒険者たちが息を呑む。


 女騎士が駆け出そうとした、その時。


 マリアは、獣に向かって手のひらを差し出した。


「はい、お手!」


「…………」


「お手!」


 ルナガルムが前脚を振り上げた。


「――危ない!」


 ドゴォォォン!!


 巨大な前脚が、マリアへと振り下ろされた。


 地面が砕け、土煙が巻き上がる。


「マリア様ぁぁぁ!」


 女騎士の叫びが響き渡った。


 だが。


「……あら?」


 土煙の中から、のんびりとした声が聞こえてきた。


 やがて煙が晴れる。


 そこには。


 ルナガルムの巨大な前脚を、片手で受け止めているマリアの姿があった。


「ちゃんとお手できるじゃない♡」


「「「…………」」」


 その場にいた全員が、完全に言葉を失った。


 ルナガルム自身も、何が起こったのかわからないようだった。


 渾身の力で振り下ろした一撃。


 人間どころか、岩さえ砕くはずの一撃。


 それを、魔獣よりも、この小柄な人間は片手で止めている。


 びくともしない。


 マリアは前脚を軽く押し返すと、そのまま大きな頭を撫でた。


「よしよし。いい子ねぇ」


 ルナガルムが、じりっと後ずさる。


「あら? どうしたの?」


 もう一歩。


「遊びたいの?」


 さらに一歩。


「怖がらなくてもいいのよぉ?」


 マリアが近づくたびに、ルナガルムは後ずさっていく。


 先ほどまで人々を恐怖に陥れていたAランク魔獣が、まるで得体の知れない何かに出会ってしまったかのように怯えていた。


 その瞳には、明らかな恐怖が浮かんでいる。


 ――勝てない。


 獣の本能が、そう告げていた。


 目の前の人間は、自分が知っているどんな生き物とも違う。


 炎を浴びても倒れず、全力の一撃すら片手で受け止める。


 敵うはずがない。


 逃げなければ。


 だが、身体が動かなかった。


 そんなルナガルムの様子を見て、マリアは不思議そうに首を傾げた。


「……そうだわ」


 手元の、こんがり焼けた肉を見下ろす。


「お肉、食べる?」


「…………」


「ほら。せっかく焼けたんだもの。冷めないうちに食べましょう?」


 マリアは肉を持ったまま、ゆっくりと近づいた。


 ルナガルムは逃げようとした。


 しかし、逃げられない。


 この相手に逆らってはいけない。


 それだけは、はっきりと理解していた。


「ほら、お口を開けて」


 マリアが笑顔で語りかける。


 ルナガルムは、震えながらほんの少しだけ口を開いた。


「そうそう。いい子ねぇ」


 こんがり焼けた肉が、口の中へと差し込まれる。


「美味しい?」


「…………」


 味など、わからなかった。


 そもそも、今は味を感じる余裕すらない。


 それでもルナガルムは、何度も何度も首を縦に振った。


「まあ! そんなに美味しかったの?」


 マリアの顔がぱっと明るくなる。


「よかったわぁ♡」


 その瞬間、ルナガルムの巨体がぐらりと傾いた。


 ドスン!


 地面が揺れる。


 獣はその場に横たわり、腹を見せた。


 降参。


 それも、全力の降参だった。


 マリアは目を輝かせた。


「あら! お腹を撫でてほしいの?」


「…………」


「もう、甘えん坊さんねぇ!」


 ルナガルムは逆らわなかった。


 いや、逆らえなかった。


 マリアの手が、その腹を優しく撫でる。


「よしよし。いい子、いい子」


 巨大な魔獣は、ぴくりとも動かなかった。


 周囲の人々も、ぴくりとも動けなかった。


「Aランク魔獣が……」


「腹を見せている……?」


「嘘だろ……」


 女騎士は、目の前の光景を見つめたまま呆然としていた。


 つい先ほどまで、誰もが死を覚悟していた相手だ。


 騎士団が出動しても、犠牲者が出る可能性が高いと考えられていた魔獣。


 その魔獣が今、マリアに腹を撫でられている。


 まるで、飼い主に懐いた大型犬のように。


「やっぱり、お腹が空いていただけなのよねぇ?」


 マリアが問いかける。


 ルナガルムは、こくこくと何度も頷いた。


「それで、人を襲っちゃったの?」


 こくこくこく。


「まあ……」


 マリアは、少しだけ困ったように眉を下げた。


「お腹が空くのはわかるけど、人を襲うのはダメよ?」


 こくこくこくこく!


「これからは、ちゃんとご飯を食べさせてあげるから。もう人を襲っちゃダメ」


 こくこくこくこくこく!


「約束できる?」


 ルナガルムは、これまで以上の勢いで首を縦に振った。


「ふふっ。お利口さんねぇ」


 マリアは満足そうに微笑み、その頭を優しく撫でた。


 こうして。


 王都の商隊を襲ったAランク魔獣ルナガルムは、わずかな時間で完全に制圧された。


 ただし。


 マリア本人は、魔獣を倒したという認識すら持っていなかった。


 彼女にとっては、少しお腹を空かせた大きなワンちゃんに、ご飯をあげただけのことだったのである。


## 第4章 最強受付嬢と月を喰らう獣(後半)


 ◇


 王都から遠く離れた、とある場所。


 窓のない暗い一室に、複数の魔族が集まっていた。


 円卓を囲む彼らは、尖った耳に、頭から生えた牡羊の角。いずれも人間とは異なる特徴を備えている。


 その中央に座る男は、報告を聞きながら満足げに頷いていた。


「亜人どもが勇者召喚を行ったと聞き、力をつける前に排除する策とは……流石ですな、閣下」


「送り込んだ魔獣ルナガルムが、亜人どもの荷馬車を襲撃したとのことです」


「うむ。それで、その後はどうなった? 騎士団でも沈めたか?」


「そ、それが……ご報告がございます」


「言え」


 部下は一度唾を飲み込むと、おそるおそる口を開いた。


「謎の大男が現れまして……」


「大男?」


「はい。女装した、巨大な男です」


「…………」


 室内に沈黙が落ちた。


「……それで?」


「その男によって、作戦は失敗いたしました」


「なんだと!?」


 閣下と呼ばれた男が、円卓を叩いた。


「ルナガルムを止められたというのか!? あれはAランク魔獣だぞ!」


「は、はい!」


「騎士団が到着したのか? それとも、金等級以上の冒険者がいたのか?」


「いえ……その男が、一人で……」


「一人で?」


「ルナガルムを、手懐けてしまいました」


「…………は?」


 閣下は、ゆっくりと部下を見た。


「今、なんと言った?」


「ルナガルムが、その男に完全に従っているとのことです!」


「我々ですら確保するのに苦労した魔獣だぞ!? それを……手懐けただと!?」


「はい!」


「どういうことだぁぁぁぁ!!」


 閣下は両手で頭を抱えた。


 部下に聞いたところで、答えなど出るはずもない。


 何しろ、報告している本人も理解できていないのだから。


「なんなんだ、その大男は!!」


「わ、わかりません!」


「わからんで済むかぁ!!」


 暗い室内に、閣下の怒声が響き渡った。


 彼らは知らない。


 その「謎の大男」が、自分たちの排除しようとしていた勇者本人だということを。


 そして、その勇者が、彼らの想像など軽々と超える規格外の存在だということも。


 ◇


 その頃。


「ほら、これもお願いねぇ」


「…………」


 ルナガルムが、荷車を引いていた。


 巨大な身体に似合わぬ従順さで、荷車を軽々と引っ張っている。


 マリアはその横を、鼻歌まじりに歩いていた。


「あらぁ、すごいわねぇ。力持ちじゃない」


「…………」


「これなら、荷物を運ぶのも楽ちんねぇ」


 商隊から回収した荷物を、無事だった荷車へと積み直す。


 ルナガルムはその荷車を引き、ゆっくりと街道を進んでいた。


 つい先ほどまで人々を恐怖に陥れていたAランク魔獣とは、とても思えない光景である。


 もっとも、マリアにとっては、大きくて力持ちなワンちゃんが手伝ってくれているだけなのだが。


「……マリア様」


 隣を歩いていた女騎士が、重々しい声で呼びかけた。


「何かしら?」


「この魔獣を、どうするおつもりですか?」


「どうって?」


「なぜ商隊を襲ったのか。どこから現れたのか。調査する必要があると思います」


「あら、そうなの?」


「はい。そもそも、Aランク魔獣が王都近郊に現れること自体、異常なのです」


「なるほどねぇ」


 マリアは感心したように頷いた。


「じゃあ、ギルドで調べてもらいましょう」


「……え?」


「私、そういう難しいことはよくわからないもの。詳しい人に任せた方がいいでしょう?」


 あまりにもあっさりした返答だった。


 女騎士は、少しだけ目を丸くした。


 てっきりマリアなら、魔獣の正体を突き止めるために自分から首を突っ込むのではないかと思っていたのだ。


 しかし、マリアは違った。


「街の人たちが困っていたから、ちょっと様子を見に行っただけよ」


 彼女はそう言って、いつものように笑った。


「それ以上のことは、専門家に任せればいいじゃない?」


「……おっしゃる通りです」


 女騎士は頷いた。


 目の前の光景さえなければ、実にまともな判断である。


 問題は、その隣でAランク魔獣が荷車を引いていることだった。


 女騎士は改めて、ルナガルムへ視線を向けた。


 商隊を襲ったAランク魔獣。


 それをマリアが素手で止めた。


 さらに、餌付けして手懐けた。


 そして現在、本人は荷物運びをさせている。


「…………」


 何ひとつ、普通ではない。


 王都へ戻ったら、これをどう報告すればいいのだろう。


 女騎士は、まだ見ぬ報告書の内容を想像して頭を抱えた。


「……陛下に、どう説明すればいいのでしょう」


「あら、何か言った?」


「いえ……何でもありません」


 ◇


 王都の門が見えてきた頃。


 門番たちが、街道の向こうからやってくる一行に気づいた。


「……ん?」


「おい、あれは何だ?」


 荷車を引く巨大な獣。


 銀灰色の毛並みに、鋭い牙。


 そして、周囲の人間など一息で吹き飛ばせそうな巨体。


 その正体に気づいた門番の顔が、みるみる青ざめていった。


「ま、魔獣だぁぁぁぁ!!」


 その叫び声は、門の周囲にいた人々にも伝わった。


「魔獣!?」


「逃げろぉ!」


「ルナガルムだ! ルナガルムが来たぞ!」


 たちまち王都の門前は大混乱に陥った。


 荷車を引いていたルナガルムが、きょとんとしたように耳を動かす。


 マリアは、慌てふためく人々を見て首を傾げた。


「あらあら。どうしたのかしら?」


「どうしたのかしら、ではありません!」


 女騎士が慌てて前へ出た。


「皆さん、落ち着いてください! この魔獣は敵ではありません!」


「そ、そんなことを言われても!」


「Aランク魔獣だぞ!?」


「本当に大丈夫なのか!?」


 当然の反応だった。


 目の前にいるのは、討伐隊を編成して対処するような危険な魔獣だ。


 それが荷車を引いているからといって、安心できるはずもない。


 そんな中。


「大丈夫よぉ」


 マリアが、にこにこと手を振った。


「この子、とってもいい子だから」


 するとルナガルムは、マリアの隣でぶんぶんと尻尾を振った。


 その巨体が揺れるたびに、地面がわずかに震える。


「…………」


 女騎士の笑顔が引きつった。


「……はい。大丈夫、です」


 もはや、何を説明しても無駄なのかもしれない。


 そんな諦めが、彼女の表情に滲んでいた。


 ◇


「――で?」


 冒険者ギルドへ戻るなり、ギルドマスターのガルドが頭を抱えた。


「なんでAランク魔獣が、うちの前にいるんだ?」


「拾ったのよぉ」


「犬みたいに言うな!」


「どうみ見ても大きなワンちゃんじゃない!」


 ガルドの隣にいた職員が、思わず声を上げた。


「ルナガルムだぞ!? Aランク魔獣だぞ!?」


 ガルドが叫ぶ。


 その足元では、ルナガルムが大人しく伏せていた。


 マリアの手が頭に触れるたび、気持ちよさそうに目を細めている。


「しかし……」


 ガルドは腕を組み、巨大な身体を見上げた。


「このデカさじゃ、ギルドで飼うのは厳しいぞ」


「あら、やっぱりそう?」


 マリアもルナガルムを見上げた。


「確かに大きいわねぇ」


「だろ?」


「もう少し小さくなれたりしないのかしら?」


「そんな都合よく――」


『……小さい方が、いい?』


「…………え?」


 その場にいた全員が、声のした方を振り向いた。


 ルナガルムの身体が、淡い光に包まれていた。


「なっ!?」


 女騎士が剣に手をかける。


 ガルドも職員たちも、一斉に身構えた。


 光は徐々に強くなり、巨大な身体を覆い尽くしていく。


 銀灰色の毛並みが光の粒となって舞い、四肢が縮み、獣の輪郭が少しずつ変化していった。


 やがて光が消えた時。


 そこにいたのは、一糸まとわぬ小さな少女だった。


 銀灰色の髪。


 エメラルド色の瞳。


 頭には犬狼を思わせる獣の耳があり、腰のあたりからはふわふわとした尻尾が伸びている。


 幼い顔立ちに、小柄な身体。


 先ほどまで街道を震え上がらせていた魔獣と同じ存在だとは、とても思えなかった。


 少女はマリアを見上げ、鈴を転がすような澄んだ声で尋ねた。


「これで、よろしいですか? ご主人様」


「…………」


 ギルド中が静まり返った。


 ガルドが、ゆっくりと口を開く。


「……俺、今、夢でも見てるのか?」


「夢じゃないわねぇ」


「だよなぁ……」


 ガルドは遠い目をした。

 

 女騎士が自身のマントを少女にそっと纏わせた。


 マリアは少女の前にしゃがみ込むと、優しく微笑んだ。


「あなた、さっきのワンちゃんよね?」


「はい。ご主人様」


「そうなのねぇ……」


 マリアは、しげしげと少女を眺めた。


「それじゃあ、お名前は?」


 少女は首を横に振った。


「……ありません」


「あら、そうなの?」


「ヒトは、私のことをルナガルムと呼びます。でも、それは種族の名前です」


「なるほどねぇ。名前がないのは不便ね」


 マリアは少し考え、少女の銀灰色の髪をそっと撫でた。


「それじゃあ、ルナはどうかしら?」


「……ルナ?」


「そう! 今日からあなたはルナよ」


 少女は、初めて聞くその名前を、口の中で確かめるように呟いた。


「ルナ……」


 やがて、その小さな顔に、ほんの少しだけ笑みが浮かんだ。


「……はい。ありがとうございます、ご主人様」


「あら」


 マリアは苦笑した。


「その呼び方は、ちょっと堅苦しいわねぇ」


「……?」


「もっと気楽に呼んでくれてもいいのよ?」


 ルナは困ったように首を傾げた。


「……ほかの呼び方を、知りません」


「そう……」


 マリアは少しだけ考えたあと、少女の頭を優しく撫でた。


「まあ、今はそれでいいわ。これから、ゆっくり覚えていきましょうね」


「はい、ご主人様」


 ルナは嬉しそうに頷いた。


 その尻尾が、ゆらりと揺れた。


 ◇


 その後、一行はギルドマスターの部屋へと移動した。


 少女の姿になったルナは、ギルドの制服を身に纏い、マリアの隣にちょこんと座っている。


 女騎士とガルドは向かい側に座り、何から尋ねるべきかと頭を悩ませていた。


 やがて、マリアが静かに口を開いた。


「ねえ、ルナちゃん」


「はい、ご主人様」


「どうして、人間を襲ったの?」


 ルナの耳が、ぴくりと動いた。


 そして、ゆっくりと俯く。


「……人間が」


 その声は、先ほどまでの澄んだ響きとは違っていた。


「人間が……私のお母さんを……」


 小さな手が、ぎゅっと握り締められる。


「お母さんは、私を守ってくれました。でも……きょうだいも、みんな……殺されました」


「…………」


 マリアは何も言わず、ルナの言葉を聞いていた。


「そのあと、私は捕まって……」


 ルナの耳がぺたりと倒れ、尻尾が小さく震えた。


「何週間も、ご飯をもらえなくて……」


 マリアの表情から、笑みが消えた。


「久しぶりに、ご飯をもらえたと思って、食べたら……」


 ルナは自分の手を見つめた。


「眠くなって……起きたら、森の近くにいました」


「…………」


「お腹が空いて……苦しくて……」


 その小さな唇が、かすかに震える。


「だから……襲いました」


 マリアは、しばらくルナを見つめていた。


 そして、そっとその頭を撫でた。


「……そうだったのね」


 責める言葉はなかった。


 ただ、ルナの話を受け止めるように、静かな声で続けた。


「お腹が空いて、苦しかったのね」


「……はい」


「でも、あなたはお利口さんよ」


 ルナが、ゆっくりと顔を上げた。


「……え?」


「だって、人は誰も傷つけていないでしょう?」


 マリアは優しく微笑んだ。\



「お腹が空いていたのはわかるわ。でも、人を襲うのはダメ。そこは、これから気をつけていきましょうね」


「……はい」


 ルナは小さく頷いた。


 今回犠牲が無かったのは、たまたまマリアが標的になったからであって、


 本来なら全員この場にいない可能性はあった。女騎士はそう考えたが口には出さなかった。


 それ以上にーーー


 その様子を見つめながら、女騎士は胸の奥に引っかかるものを感じていた。


 ――人間が、この子の家族を殺した?


 聞き流せる話ではない。


 しかし、今ここで問い詰めるべきではないこともわかっていた。


 目の前の少女は、まだ震えている。


 マリアは、その震えを見逃さなかった。


「ルナ」


「……はい」


「もう大丈夫よ。これからは、私が守るから」


 ルナが顔を上げる。


「……本当に?」


「ええ。約束するわ」


 マリアは、まっすぐに少女を見つめた。


 ルナはしばらく黙っていた。


 そして、ためらいがちに口を開いた。


「……ご主人様」


「なぁに?」


「ご主人様が……」


 小さな唇が震える。


「私のお母さんに、なってくれるんですか?」


「…………」


 マリアは、少しだけ目を伏せた。


「いいえ」


 はっきりとした否定だった。


 ルナの表情が固まる。


「あ……ご、ごめんなさい……」


「そうじゃないの」


 マリアは、ルナの頬にそっと手を添えた。


「あなたのお母さんは、一人でしょう?」


「…………」


「あなたを守ってくれた、立派なお母さま。私がその人の代わりになる必要なんてないのよ」


 ルナの瞳に、涙が溜まっていく。


「でも……お母さんは、もう……」


「ええ」


 マリアは、静かに頷いた。


「会いたいわよね」


「……っ」


「お母さんにも、きょうだいにも」


 ルナは唇を噛み締めた。


「……うん」


「忘れなくていいのよ」


 マリアは、優しく微笑んだ。


「悲しかったことも、楽しかったことも。お母さんたちと過ごした時間も。全部、あなたの大切な思い出でしょう?」


「…………」


「無理に忘れなくていい。思い出してもいいし、悲しくなったら泣いてもいいの」


 ぽろり、と。


 ルナの頬から涙が落ちた。


「……うっ」


「悲しかったわね」


「……うぅ……」


「寂しかったでしょう?」


 ルナの顔がくしゃりと歪んだ。


 今までずっと、我慢していたのだろう。


 空腹も、恐怖も、家族を失った悲しみも。


 誰にも話せず、誰にも甘えられず。


 ただ一人で、抱え続けていたのだ。


「……だったら、今は泣きなさい」


 マリアは両腕を広げた。


「私はここにいるから」


「……ご主人様……」


「おいで」


 その言葉を聞いた瞬間、ルナはマリアの胸へ飛び込んだ。


「うあぁぁぁぁ……!」


 声を上げて泣く。


 小さな手で、マリアの服をぎゅっと握り締める。


 マリアは何も言わず、その身体を抱きしめた。


 背中を、ゆっくりと撫でる。


「……お母さん……お兄ちゃん……会いたい……」


「ええ」


「みんなに……会いたいよぉ……!」


「ええ。会いたいわよね」


 マリアは否定しなかった。


 忘れろとも言わない。


 自分が代わりになるとも言わない。


 ただ、泣きじゃくる少女を抱きしめ続けた。


「いっぱい泣きなさい。今まで我慢した分までね」


「うあぁぁ……!」


 ルナの泣き声が、部屋に響いた。


 少し離れた場所で見ていた女騎士は、胸の奥が締め付けられるような感覚を覚えていた。


 ガルドも、何も言わなかった。


 誰も、二人の間に割って入ろうとはしなかった。


 やがて、ルナの泣き声は少しずつ小さくなっていった。


 マリアの胸元に顔を埋めたまま、少女は何度もしゃくり上げる。


 その頭を撫でながら、マリアは静かに微笑んでいた。


 ――この子は、もう一人ではない。


 少なくとも、今この瞬間から。


 マリアの腕の中で、ルナはようやく安心して泣くことができたのだった。


 ◇


 それから、ルナはマリアと共にギルドで暮らすことになった。


「ご主人様」


「なぁに?」


「私も、お仕事がしたいです」


 ある日のこと。


 ルナはマリアのそばに立ち、真剣な顔でそう告げた。


「お仕事? どうして?」


「ご主人様のお役に立ちたいからです」


 マリアは少し困ったように笑った。


「あなた、まだ小さいでしょう? 子供は元気に遊んでいればいいのよ」


「でも……」


 ルナの耳が、しゅんと垂れた。


「私も……ご主人様の役に立ちたいです」


 マリアは、その頭をそっと撫でた。


「……仕方ないわねぇ」


 少し考えてから、にっこりと笑う。


「それじゃあ、できることを少しだけ手伝ってもらおうかしら」


「……本当ですか!?」


「ええ。でも、無理はしないこと。疲れたら、すぐに休むのよ?」


「はい、ご主人様!」


 ルナの尻尾が、勢いよく揺れた。


 こうして。


 Aランク魔獣ルナガルムは、冒険者ギルドの小さな手伝いになった。


 もちろん、正体が魔獣だということは秘密だ。


 表向きは、獣人の少女。


 少なくとも、ギルドの人々にはそう説明することになった。


 そして、ギルドの日常は、以前にも増して賑やかになっていった。


「ママ、お酒一杯!」


「はーい♡」


「ママ、こっちも注文!」


「今行くわねぇ!」


「ママ、これどうすればいい?」


「それはね、こっちに運んでちょうだい」


 ギルドの人々は、当たり前のようにマリアを「ママ」と呼んでいた。


 冒険者も、受付嬢も、厨房の職員も。


 いつの間にか、それがこの場所の日常になっていたのである。


 ルナは、そんな光景を毎日見ていた。


「…………」


 ある日の昼下がり。


 ルナは、マリアが仕事をしている様子をじっと眺めていた。


「どうしたの、ルナ?」


「……なんでもありません、ご主人様」


「そう?」


 マリアは首を傾げながらも、手元の仕事へ戻った。


 ルナは少しだけ考え込んだあと、小さな声で呼びかけた。


「あのぉ……」


「なぁに?」


「……ママ?」


「…………」


 マリアの手が止まった。


 ゆっくりと顔を上げる。


「……今、なんて?」


 ルナは、不思議そうに首を傾げた。


「ママ……?」


「…………!」


 マリアの目が、ぱあっと輝いた。


「もう一回、お願い!」


「ママ?」


「もう一回!」


「……ママ?」


「はぁぁぁぁ……♡」


 マリアは胸を押さえ、その場でふらりとよろめいた。


「なにこれ……最高……!」


「…………?」


 ルナは、ますます不思議そうな顔をした。


「ママ?」


「そうよぉ♡」


 マリアはルナを抱きしめた。


「それよ! それがいいわ! ご主人様より、ずっと素敵!」


「……ママ?」


「もう一回!」


「ママ!」


「最高……!」


 ギルド中から、苦笑と笑い声が起こった。


「ママ、よかったなぁ!」


「いやぁ、ついに本物の娘ができたか!」


「おい、誰か今のママの顔を見たか? 完全に溶けてたぞ!」


「ちょっとぉ! 聞こえてるわよぉ♡」


 マリアが頬を膨らませると、ギルドはさらに笑いに包まれた。


 ルナは、マリアの腕の中で小さく笑った。


「……ママ」


「はい、ルナちゃん♡」


「……えへへ」


 こうしてルナは、誰かに命じられたわけでもなく、自分の意思でマリアを「ママ」と呼ぶようになった。


 それは、彼女がマリアを信頼し、甘えてもいい相手だと感じ始めた証だった。


 マリアにとっては、可愛い娘からの呼びかけという、あまりにも破壊力の高いご褒美でもあったのだが。


 ◇


 それからというもの、ルナのマリアに対するよそよそしさは、少しずつ消えていった。


 最初は遠慮がちだった言葉も、今では自然に出てくる。


 マリアの後ろをついて歩き、仕事を手伝い、時には膝の上でうとうとする。


 そんな日々を重ねるうちに、ルナは少しずつ笑うことを覚えていった。


 ただし。


 マリアに対する愛情が深まるにつれて、別の問題も生まれつつあった。


「……あのオネエ、ちょっと調子に乗ってるんじゃ――」


 酒場の片隅で、酔った男がそう口にした。


 その瞬間。


 ガンッ!


 目の前に、ジョッキが叩きつけられた。


「…………あ?」


 男が顔を上げる。


 そこには、銀灰色の髪を揺らした小さな少女が立っていた。


「お待たせいたしました」


 ルナは、にっこりと微笑んだ。


「ご注文のお酒です。ニンゲン」


 少女の出す殺意ではなかった。


 あまりの殺気に男は眉をひそめた。


「……な、なんなんだ、お前?」


「ルナちゃん、次の注文もお願いねぇ!」


 厨房の方から、マリアの明るい声が飛んでくる。


「はい、ママー!」


 ルナは一瞬で、いつもの可愛らしい笑顔に戻った。


 そして、男の横を通り過ぎる際。


 ほんの一瞬だけ、横目で彼を見た。


 銀灰色の瞳が、すっと細くなる。


 そこに宿っていたのは、明らかな殺気だった。


 男の背筋に、冷たいものが走った。


「…………っ」


 何か言おうとしていた口が、ぴたりと止まる。


 ルナは何事もなかったかのように、次のテーブルへ向かっていった。


「ママー! 次のお料理、お願いしまーす!」


「はーい♡」


 いつもの賑やかなギルド。


 いつもの優しいマリア。


 そして、そのそばで働く小さな少女。


 ただし、その少女の正体は、魔獣ルナガルムである。


 マリアに危害を加えようとする者がいれば、彼女はきっと容赦しないだろう。


 それでも、今のところは誰も傷つけていない。


 ルナは、マリアとの約束を守っていた。


 人を襲わないこと。


 そして、マリアのそばで、元気に暮らすこと。


 その二つを守るために、今日も一生懸命に働いている。


「ルナちゃーん、こっちもお願い!」


「はーい、今行きます!」


 ルナは元気よく返事をして、尻尾を揺らしながら駆け出した。


 その背中を、マリアが嬉しそうに見送る。


「ふふっ。今日もいい子ねぇ♡」


 かつて家族を失い、孤独と飢えに苦しんだ小さな魔獣。


 その少女は今、ようやく自分の居場所を見つけた。


 ――大好きなママのそばに。


 そして、そんなママの正体が、この世界の常識を軽々と踏み越える規格外の勇者であることを。


 ルナは、まだ知らない。



一人目のヒロイン、登場です。

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