第二章 召喚されたオネエ、王様を困らせる
アルヴェリア王国、王城。
謁見の間に隣接する大召喚の間には、床を埋め尽くすほど巨大な魔法陣が描かれていた。幾重にも重なる術式の縁を、青白い魔力の光が走っている。
「――召喚術式、最終段階へ!」
「魔力充填、完了!」
「術式、安定しています!」
魔術師たちの報告が飛び交う。彼らの額には汗が浮かび、杖を握る指先には力がこもっていた。周囲を固める騎士たちも、誰ひとりとして気を緩めてはいない。
その光景を、国王レオンハルト・アルヴェリアは息を詰めて見つめていた。
今回の召喚は、王国の未来を左右する一大事だ。
魔王軍との対立は激しさを増し、各地では魔物の出現が相次いでいる。国境付近の情勢も不安定になり、民の暮らしには少しずつ暗い影が差し始めていた。
この状況を打開するため、王国は禁忌に近い大召喚術式を用い、異世界から勇者を招くことを決めたのである。
(どうか……)
レオンハルトは胸の内で祈った。
(この国を救えるほどの力を持った者であってくれ)
王の隣には騎士団長が立ち、その補佐を務める女騎士が控えている。二人とも表情は硬い。これから現れるのがどんな人物であろうと、王国の命運を託すことになるのだ。
「間もなくです、陛下」
「ああ」
レオンハルトは短く頷いた。
「召喚に成功すれば、まずは事情を説明する。その後、協力を――」
「――召喚、完了!」
魔術師の声が響いた。
次の瞬間、魔法陣から凄まじい光が噴き上がる。まばゆさに、騎士たちは思わず腕をかざした。空気が震え、床の術式が一斉に輝き、やがて光は中心へと収束していく。
そして。
そこに、一人の人物が立っていた。
「…………」
長い黒髪。艶やかな黒いドレス。耳元には上品なイヤリング、首元にはネックレス。化粧はきっちりと整えられ、指先に至るまで隙がない。
まず目を引くのは、その堂々たる立ち姿だった。
百八十センチを優に超える長身。分厚い肩幅に、鍛え上げられたような大柄な身体。どう見ても華奢な女性の体格ではない。
けれど、腰をわずかに傾け、片手を頬に添え、もう片方の手を腰に置く仕草は、驚くほど優雅だった。
大きな身体と、しなやかな所作。強烈な存在感と、洗練された身だしなみ。
そのどれもが、見る者の予想を気持ちよく裏切ってくる。
「…………」
レオンハルトは固まった。
騎士たちも固まった。魔術師たちも固まった。
(……男、なのか?)
王は思わずそう考えた。だが、長い髪に黒いドレス、丁寧なメイク、そして女性的な仕草を見れば、女性と考えるのが自然にも思える。
(いや、女性……なのか?)
考えれば考えるほど、判断がつかない。
レオンハルトが想像していた勇者の姿は、剣を携えた青年や、聖なる鎧をまとった英雄、あるいは凛々しい女勇者だった。
しかし現実に現れたのは、黒いドレスを着こなし、周囲を圧倒するほど大きな人物である。
当の本人は、周囲の困惑など気にも留めていないようだった。
ふっと目を閉じ、胸に手を当てる。
「……女神ちゃん」
小さく呟いてから、ゆっくり天井を見上げた。
「ちゃんと着いたわよ」
そして、満足そうに微笑む。
「頑張るわね♡」
召喚されたばかりだというのに、怯えも混乱もない。むしろ、これから始まる未知の出来事を楽しみにしているようですらあった。
(……落ち着いている?)
女騎士は、目の前の人物を注意深く観察した。
異世界から突然召喚された人間なら、まずはここがどこなのか、自分に何が起きたのか、これからどうなるのかと尋ねるはずだ。
なのに、この人物は指先で髪の流れを整え、ドレスの裾を軽く直している。
(何を考えているのか、まるで分からない……)
周囲の視線を感じ取ったのか、人物はゆっくりと振り返った。
「あら?」
そして、にっこりと笑う。
「こんにちは♡」
王城が、しんと静まり返った。
「…………こんにちは?」
レオンハルトは、つられるように返事をした。
「よかった! 外国の方っぽかったけど、言葉は通じるのね」
人物は優雅に一礼する。
「初めまして♡」
落ち着いた、低めの声だった。
レオンハルトは改めて目の前の人物を見つめる。
(……やはり男なのか?)
疑問は尽きない。だが、異世界から来た勇者であることに違いはないはずだ。
「異世界の勇者殿。まずは、お名前を伺いたい」
「あら、ごめんなさいね。私は――」
名乗ろうとした人物の視線が、王の隣に立つ青年へと移った。
金色の髪に、軽鎧。整った顔立ちに、涼やかな蒼い瞳。王国の騎士団長である青年は、いつものように凛々しく立っていた。
「……まあ」
人物の目が、ぱっと輝く。
「素敵なお兄さん♡」
「…………え、私ですか?」
指名された騎士団長の表情が、目に見えて固まった。
「ちょっと、アンタ」
人物は嬉しそうに笑いかける。
「今夜、お暇?」
「は、はい!?」
「一緒にお酒でも飲まない?」
「…………」
騎士団長の身体が、ほんの少しだけ後ろへ逃げた。隣の女騎士は、状況が理解できないという顔で目を見開いている。
レオンハルトは、頭を抱えたくなった。
「い、いえ……本日は公務がありますので」
「あらぁ……お仕事なの?」
「はい」
「残念ねぇ」
人物は眉を下げてみせたが、落ち込んでいたのは一瞬だけだった。すぐに表情を明るく戻す。
「じゃあ、また今度ね♡」
「……機会がありましたら」
「約束よ?」
「……善処します」
「ふふっ。楽しみにしてるわ♡」
満足そうに頷く人物を前に、騎士団長は曖昧な笑みを浮かべるしかなかった。
(……この時点で、勇者としての印象がよく分からなくなってきた)
レオンハルトは心の中で頭を抱えた。
しかし、国王はまだ知らなかった。
この先、分からないことがさらに増えていくのだということを。
◇
「勇者様。改めて、お名前を伺ってもよろしいでしょうか」
女騎士が慎重に尋ねた。
「あら、ごめんなさい」
人物は胸元に手を添え、ドレスの裾をつまんで軽く一礼した。
「マリアよ」
柔らかな笑みを浮かべる。
純日本人であるこのオネエは、本名ではなく源氏名を、さも当然のように名乗ったのだった。
「親しい人はみんな、ママって呼んでくれているわ」
「……ママ?」
「そう♡」
「……分かりました」
納得したわけではない。だが、女騎士はひとまず頷くことにした。
続いて、レオンハルトが一歩前へ出る。
「私はレオンハルト・アルヴェリア。この国の王だ」
「まあ、王様?」
「ああ」
マリアは興味深そうに王を眺めた。
年齢は五十代ほどだろうか。苦労を感じさせる白髪に、きちんと整えられた髭。仕立ての良い王衣をまとい、胸元には勲章や装飾品が並んでいる。威厳のある顔立ちだが、どこか親しみやすさもあった。
その姿を見つめているうちに、マリアの脳裏に現代日本で見慣れたものが浮かぶ。
(……あれよね。モ〇ポリーの箱に描いてあるおじさんみたい)
もちろん、この世界の人間に通じるはずもない例えだった。
「……何か?」
レオンハルトが怪訝そうに眉を上げる。
「ううん♡」
マリアは口元に手を添え、にこやかに笑った。
「なんだか、王様って感じだなぁって思って」
「それは……王だからな」
「ふふっ。そうよねぇ」
マリアは納得したように頷く。それから、あまりにも自然に言った。
「じゃあ、ハルトちゃんね」
「……は?」
「よろしくね、ハルトちゃん♡」
「なぜちゃん付けなんだ!? しかも、何なのだその呼び方は!」
「だって、親しくなったんですもの」
「いつ!?」
「今よ♡」
「早い!」
女騎士は思わず顔を逸らした。騎士団長も口元を引き締め、周囲の魔術師たちも視線をそらしている。
笑ってはいけない。相手は国王だ。
だが、笑いを堪えるのは、なかなかに難しい。
レオンハルトは額に手を当てた。
(この人……本当に、異世界から来た勇者なのか?)
もっとも、マリアに王を馬鹿にするつもりはなかった。ただ、気に入った相手とは自然に距離を縮める。それだけのことだ。
悪意がないと分かるからこそ、王は調子を狂わされるのだった。
◇
ひとしきり場が落ち着いたところで、レオンハルトは咳払いをした。
「それでは、マリア殿に事情を説明したいのだが――」
「ちょっと待って」
マリアが片手を上げた。
「最初に聞きたいのだけれど」
「……何だろうか」
「ここ、どこ?」
「…………」
その場にいた全員が、そろって固まった。
「今さら!?」
レオンハルトの声が、召喚の間に響き渡る。
「だって、まだ説明されていないもの」
マリアは不思議そうに首を傾げた。
言われてみれば、その通りである。召喚が終わるなり自己紹介と騎士団長へのお誘いが始まり、肝心の説明が後回しになっていた。
レオンハルトは深く息を吐いた。
「ここはアルヴェリア王国の王城だ」
「アルヴェリア王国……へぇ」
聞いたことのない国名。見たことのない建物。知っているものが何ひとつない世界。
それでも、マリアに不安はなかった。
前世で店を切り盛りしていた頃だって、初めて会う客や、初めて訪れる場所は珍しくなかった。知らない相手だからといって、最初から怖がる必要はない。
まずは話してみればいい。分からないことは、聞けばいい。
(まあ、なんとかなるでしょう)
マリアは穏やかに微笑んだ。
「それで?」
「……はい?」
「私、何をすればいいの?」
その問いに、レオンハルトは背筋を正した。
ようやく本題だ。王の表情から余裕が消え、室内の空気も張り詰めていく。
「我々があなたを召喚した理由は――」
◇
「――魔王討伐だ」
「いやよ?」
「…………」
時間が止まった。
その場にいた全員が、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。国王に至っては口を半開きにし、手にしていた錫杖を床へ落としてしまった。
かつん、と乾いた音が響く。
「…………今、何と?」
「いやよ?」
「念押しされた!?」
レオンハルトは目を見開いた。
「だって、嫌だもの」
マリアは頬に手を添え、あっさりと言い切る。
「助けることと、倒すことは同じじゃないでしょう?」
「だが、魔王軍によって多くの人々が苦しんでいる。各地で魔物の被害も――」
「だったら、困っている人を助けるわ」
「……魔王を倒すのではなく?」
「ええ」
マリアは少しも迷わなかった。
「お腹を空かせている人がいたら、ご飯を作る。泣いている人がいたら、話を聞く。怪我をしている人がいたら、手当てをする」
そこで一度、言葉を切る。
笑顔は変わらない。声も穏やかなままだった。
「でも、誰かを殺せと言われたら、それは別の話よ」
その言葉には、はっきりとした意思があった。
「私は、自分が助けたいと思った人を助けるわ」
レオンハルトは黙り込んだ。
召喚された勇者ならば、世界を救う使命を受け入れるものだと考えていた。少なくとも、話を聞く前から拒絶されるとは思っていなかった。
だが、目の前のマリアは違う。
世界全体を背負うことよりも、目の前にいる一人の人間を見ている。誰かに与えられた使命ではなく、自分が何をしたいのかを基準にしているのだ。
「……なるほど」
レオンハルトは小さく息を吐いた。
「しかし、それでは困る」
「まあ、そうでしょうねぇ」
マリアは肩をすくめた。
「でも、嫌なものは嫌よ♡」
あまりにも自然な拒否だった。
怒鳴りもしない。威圧もしない。ただ、譲るつもりがないことだけは明白である。
レオンハルトは、返す言葉を失った。
◇
「……では、せめて能力の確認をさせてもらいたい」
しばらくして、国王は話題を切り替えた。
「あら、能力?」
マリアは嬉しそうに手を合わせる。
「じゃあ、まず私の特技から。料理は得意よ。接客もできるし、お酒の提供もできるわ。それから、昔取った資格なら調理師免許に――」
「待て」
「――食品衛生責任者、それから簿記も少し――」
「待て、マリア殿!」
レオンハルトが慌てて遮った。
「そういう能力ではない!」
「あら。資格は大事よ?」
「そなたの世界ではそうなのかもしれないが、我々が確認したいのは魔力や身体能力など、この世界における能力だ!」
「……そうなの?」
マリアはきょとんとした。
やがて魔術師が、大きな水晶玉のような魔法具を運んでくる。
「こちらに触れてください。ステータスを確認するための魔法具です」
「ステータス?」
「魔力、身体能力、耐性など、その者が持つ能力を数値や適性として表示します」
「へぇ。すごいのねぇ。最新の体重計みたい」
「体重計……?」
「気にしないで♡」
マリアは水晶へ近づき、そっと指先を触れさせた。
「では、測定を開始します」
魔術師が魔法具を起動する。
水晶が淡く輝き、光の筋が表面を走った。空中には半透明の表示が浮かび上がり、文字が次々と刻まれていく。
ところが――。
「…………」
魔術師の顔から、みるみる血の気が引いていった。
「どうしたの?」
「……測定不能です」
「あら、故障?」
マリアは水晶を覗き込んだ。
「私、壊しちゃったかしら?」
「いえ……故障では、ないと思います」
魔術師は震える声で表示を読み上げる。
「筋力……測定不能」
「……え?」
女騎士が眉を寄せた。
「測定不能って、どういうことですか?」
「わ、分かりません!」
「分からない!?」
「規格外すぎて、測定魔法が処理できていないのです!」
「そんなことが……」
女騎士が表示を覗き込む。その間にも、文字は増え続けていた。
「魔力……測定不能」
「…………」
「耐久……測定不能」
「…………」
「状態異常耐性……測定不能」
魔術師の声が、読み上げるたびに小さく震えていく。
マリアは水晶と魔術師を交互に見た。
「これ、本当に大丈夫?」
「大丈夫ではありません!」
魔術師が思わず叫んだ。
「全部が測定不能など、聞いたことがありません!」
「本当に故障ではないんですか!?」
女騎士が詰め寄る。
「故障ではありません!」
「では、なぜ測定できないんですか!?」
「私にも分かりません!」
「それを聞いているんです!」
「だから私にも分からないんですって!」
「落ち着け!」
レオンハルトが二人を止めた。
「あらぁ……困ったわねぇ」
マリアは困ったように笑った。
ただし、表情には切迫感がない。むしろ、予想外の結果を面白がっているようだった。
「特殊能力の確認を!」
魔術師は気を取り直し、震える手で別の術式を展開した。
水晶の表面に、ひとつの文字が浮かび上がる。
【不滅】
「……不滅?」
魔術師は唾を飲み込み、表示を確認した。
「魔法攻撃……無効」
「へぇ」
「呪い……無効」
「まあ」
「毒、麻痺、睡眠、精神干渉……無効」
「便利ねぇ」
「即死……無効」
「……即死?」
マリアはわずかに眉を上げた。
「そんなものまであるの?」
「存在します」
「怖い世界ねぇ」
魔術師は、もはや表情を取り繕う余裕もなく読み上げていく。
「肉体損傷……無意味」
「とっても健康ってことね」
「魂への干渉……無効」
「意志は強い方よ」
「存在そのものへの干渉……無効」
「素敵な方になら、染められたいわ♡」
「因果干渉……無効」
最後の項目を読み上げたところで、魔術師は言葉を失った。
室内に沈黙が落ちる。
マリアは少し考えてから、首を傾げた。
「……ねぇ。これ、要するにどういうこと?」
魔術師は、今にも倒れそうな顔で答えた。
「……死ねません」
「…………」
マリアは自分の胸に手を当てた。
「よかったー。私、また死ぬのは嫌だったのよー」
「…………」
「ここに来る前に、一回死んでるのよね」
その一言で、室内の空気がほんの一瞬だけ凍りついた。
マリアの脳裏に、前世の最期がよみがえる。
夜の道路。眠ってしまったタクシーの運転手。道路へ飛び出した客。そして、その身体を押し飛ばした自分。
あのときの衝撃も、迫りくる危険を理解した瞬間も、最後に口にした言葉も、忘れたわけではない。
『ほら……良いこと、あったでしょ』
(あの子が、自分の責任だなんて思っていなければいいのだけど)
胸の奥が、ほんの少しだけ締めつけられた。
けれど、マリアはゆっくりと息を吐くと、いつもの笑顔を取り戻した。
「まあ、死なないなら安心ね」
「安心なんですか!?」
女騎士が思わず声を上げた。
「だって、痛いのは嫌じゃない?」
「不滅の意味を理解していますか!?」
「だいたい?」
マリアは髪を耳にかけ、首元のネックレスをそっと整えた。
「女神ちゃんが説明してくれたのよ」
「女神ちゃん?」
「ええ」
「女神にお会いしたのですか!?」
女騎士が驚く。マリアは、自分がこの世界へ来る前に交わした会話を思い出していた。
◇
『簡単に言えば――あなたは、死という結果に到達しない存在になります』
『つまり?』
『どのような傷を負っても、どのような攻撃を受けても、あなたが死ぬことはありません』
『……それって、あれ?』
『あれ、とは?』
『スーパーマ〇オのスターみたいなもの?』
『……イメージとしては、近いかもしれません』
『じゃあ、ずっとスター状態ってこと?』
『はい』
◇
マリアは、目の前の人々の驚きなど気にすることなく、指を一本立てた。
「つまり、ずっとスター状態ってことねぇ」
魔術師は頭を抱えた。
女騎士も頭を抱えた。
騎士団長も、ついに目元を押さえた。
そして国王は――完全に頭を抱えていた。
召喚した勇者は規格外だった。
あまりにも、あまりにも規格外だった。
しかし、これほどの力があるのならば、魔王軍に対抗できるかもしれない。レオンハルトの胸には、消えかけていた希望が再び灯り始めていた。
「マリア殿」
「はい?」
「改めて頼みがある」
「いやよ?」
「まだ何も言っていない!」
「顔に書いてあるもの」
「何が!?」
「『なんとか魔王を倒してくれ』って」
「その通りだ!」
「あら、当たった♡」
「当てたのか!」
マリアはくすくすと笑った。
「しかし!」
レオンハルトは身を乗り出した。
「この世界は魔王によって脅かされている!」
「そうなの?」
「そうだ!」
「大変ねぇ」
「他人事ではない!」
「他人事でしょう?」
「そなたも、この世界の住人になるのだぞ!」
「勝手に呼んだのはそっちですしねぇ」
マリアは困ったように笑った。それから、ほんの少しだけ声の調子を落とす。
「それに、私、誰かを傷つけるのって好きじゃないのよ」
レオンハルトは口を閉ざした。
「女神ちゃんには、この世界で苦しんでいる人たちを助けてほしいって言われたの」
「……先ほどから気になっていたが、そなたは本当に女神に会ったのか?」
「ええ」
「そして、そなたはこの世界へ来た」
「そうよ」
「ならば、魔王を倒すことこそが――」
「違うでしょう?」
マリアの声が、ほんの少しだけ低くなった。
笑顔は崩れていない。けれど、その瞳からは先ほどまでの軽やかな冗談めいた色が薄れていた。
「助けることと、倒すことは同じじゃないわ」
誰も口を挟まなかった。
「私はね、困っている人がいたら助ける。泣いている人がいたら話を聞く。お腹を空かせている人がいたら、ご飯を食べさせる」
マリアは王をまっすぐに見つめた。
「でも、だからって、誰かを倒していい理由にはならないでしょう?」
レオンハルトは黙り込んだ。
その言葉が甘い理想論なのか、それとも彼女なりの揺るがない信念なのか。王には、まだ判断できなかった。
ただひとつ分かるのは、目の前の人物が、力を持っているからといって簡単にそれを振るうつもりはないということだった。
「それに――」
マリアは自分のドレスへ目を落とし、わざとらしく眉を下げた。
「殴り合いなんてしたら、髪が乱れるでしょう?」
「そこなのか!?」
レオンハルトが叫んだ。
「そこは大事よ!」
「大事なのはそこではない!」
「メイクも崩れるし」
「…………」
「服も破れるかもしれないし」
「…………」
「そもそも、レディが殴り合うものじゃないでしょう?」
騎士団長は口元を押さえ、女騎士は俯いた。二人とも、笑いを堪えるのに必死だった。
王だけが、今にも頭を抱えそうになっている。
「……では、魔王討伐は拒否するということか」
「ええ」
「たとえ、そなたが無敵でも?」
「私は無敵だからって、喧嘩がしたいわけじゃないの」
マリアはドレスの裾を整え、涼やかに微笑んだ。
レオンハルトは額を押さえた。
◇
しばらくのあいだ、国王はマリアを見つめていた。
説得は難しい。理屈で押しても、使命を語っても、彼女の意思は変わりそうにない。
ならば――。
レオンハルトは、とうとう立ち上がった。
「マリア殿! 頼む!」
「嫌よ」
「そこを何とか!」
国王は、もはや威厳もかなぐり捨ててすがるように近づいてきた。
「この国の未来がかかっているのだ!」
「ちょっと、ハルトちゃん。近いわよ」
「頼む!」
レオンハルトは、ついにマリアの腕を掴んだ。
「頼むから――」
「だから、嫌だって――」
マリアは反射的に腕を引いた。
本人にしてみれば、強引に引き留められた腕を振りほどいただけだった。
だが、その力は、この世界の常識から大きく外れていた。
「うおおおおおおおおお!?」
国王の身体が宙を舞った。
「…………」
誰も、何が起きたのか理解できなかった。
次の瞬間、レオンハルトは壁に激突した。轟音とともに石壁へ見事にめり込み、細かな破片がぱらぱらと床へ落ちる。
「…………」
室内が静まり返った。
マリアも、ぴたりと動きを止めていた。
やがて、ゆっくりと自分の手を見つめる。
「…………私」
目を瞬かせた。
「こんなに力あるの?」
「マリア様ぁぁぁぁ!?」
女騎士の悲鳴が響き渡った。
「陛下!」
騎士たちが慌てて駆け寄る。
「陛下、ご無事ですか!?」
「…………」
壁にめり込んだレオンハルトは、しばらく沈黙したあと、ゆっくり顔を上げた。
「……大丈夫ではない」
「あら……」
マリアは頬に手を添えた。さすがに申し訳なさそうに眉を下げる。
「その……なんか、ごめんなさいね?」
「……いや。私も強引だった」
レオンハルトは騎士たちの手を借りて、どうにか壁から身体を抜いた。
王衣はあちこちが汚れ、髪は乱れ、額には大きな腫れができている。
王国の威厳は、壁の破片と一緒に床へ落ちてしまったようだった。
◇
それから、しばらくして。
謁見の間の片隅に、全身傷だらけの国王が座っていた。頭には包帯、頬には絆創膏。衣服もところどころ汚れ、破れている。
「…………はぁ」
レオンハルトは深く息を吐いた。
「……分かった」
マリアが、そっと近づく。
「その……なんか、ごめんなさいね?」
「……いや」
包帯だらけの顔で、国王は首を振った。
「こちらこそ、無理に頼もうとした私が悪かった」
「あら」
マリアは少しだけ安心したように微笑んだ。
レオンハルトは、改めて彼女を見上げる。
「だが……これは、どうしたものか」
女騎士が静かに口を開いた。
「陛下」
「何だ」
「この方を、何の制限もなく自由にするのは危険かと」
「……私もそう思う」
規格外の能力。測定不能のステータス。そして、本人に悪気がなくとも国王を壁まで吹き飛ばす力。
放っておいてよい存在ではない。かといって、力ずくで制御できるとも思えなかった。
「では、陛下の目の届く範囲に置き、王国の管理下で様子を見るのがよろしいかと」
「管理下、ねぇ……」
マリアは首を傾げた。
「うむ。ならば――」
レオンハルトは少し考え、ひとつの案を口にした。
「国の管理下にある冒険者ギルドで働いてもらおうと思う」
「冒険者ギルド?」
マリアの目がぱちりと瞬いた。
「はい」
女騎士が説明する。
「冒険者や商人、旅人など、多くの人々が集まる施設です。国の管理下にあり、情報も集まります。この世界の状況を知るには適した場所かと」
「とっても素敵ね」
「食事を提供する場所もありますし、酒を扱う店も近くに――」
マリアの目が、ぱあっと輝いた。
「ご飯とか作る?」
「……場所によりますが、作る機会はあるかと」
「お酒も?」
「あります」
「人の話を聞いたりしても?」
「……受付嬢として働いてもらうことになるでしょう」
「最高じゃない!」
マリアは満面の笑みになった。
「私、そこで働くわ!」
「即決!?」
レオンハルトが叫んだ。
「だって楽しそうじゃない♡」
マリアは嬉しそうに髪を整えた。
「知らない世界なんだもの。私、この世界のことをもっと知りたいのよ。どんなところなのか、ちゃんと自分の目で見てみたいじゃない?」
窓の向こうへ視線を向ける。
王城の外には、まだ見たことのない街が広がっているはずだ。どんな人がいて、どんな暮らしをしていて、何を食べて、どんなお酒を飲むのか。
知らないことばかりだ。
それを知る前から、怖がって閉じこもるなんてもったいない。
「どんな人がいて、どんな暮らしをしていて、何が美味しくて、どんなお酒があって――」
「最後の二つが本音ではないだろうな?」
「あら、失礼ね」
マリアは頬を膨らませた。
「全部よ♡」
女騎士は小さく息を吐いた。
「……ならば、なおさらギルドが適任かと」
国王も、疲れ切った様子で頷いた。
マリアは窓の外をもう一度眺めた。
「せっかく別世界に来たんですもの。知らないまま過ごすなんて、もったいないでしょう?」
その言葉に、レオンハルトは返事をしなかった。
この女は、世界を救う英雄になりたいわけではない。名誉が欲しいわけでも、力を誇示したいわけでもない。
ただ、自分の目でこの世界を見て、自分の意思で歩いていきたいのだ。
そして、もしその道の途中で困っている誰かに出会えば、きっと手を差し伸べるのだろう。
魔王を倒すという大義名分がなくても。
誰かに命じられなくても。
それが、マリアという人物なのかもしれなかった。
「……分かった」
レオンハルトは、ようやく決断した。
「冒険者ギルドへ行ってもらおう」
「本当?」
「ああ」
「やった♡」
マリアは嬉しそうに手を叩いた。
「じゃあ、よろしくね。ハルトちゃん♡」
「……その呼び方は、最後まで変わらないのか」
「もちろんよ」
レオンハルトは再び頭を抱えた。
女騎士はそんな二人を見ながら、静かに考えた。
(この人が、これから何をするのか……)
不安はある。とてつもなくある。
王を壁にめり込ませるほどの力。測定不能の能力。そして、本人のあまりにも自由な性格。
だが同時に、マリアの言葉が心に残っていた。
――助けることと、倒すことは同じじゃない。
それは、召喚された勇者としての使命感から出た言葉ではない。誰かに与えられた役割に従うのではなく、一人の人間として、自分の意思で何をするかを決める。その姿勢が、あの言葉には表れていた。
(……悪い人では、ないのかもしれない)
女騎士は、ほんの少しだけ表情を和らげた。
もちろん、まだ安心はできない。むしろ、これから先の苦労を思えば頭が痛い。
それでも。
この日、王国が「危険だから管理する」と決めた異世界人は、やがて王国そのものの運命を何度も変えていくことになる。
そして本人は、そのたびにこう言うのだろう。
――目の前の人を、放っておけなかっただけよ。
そんな未来を、今の彼らはまだ知らない。
「さて」
マリアはドレスの裾を軽く整え、指先で髪の流れを直した。最後に胸元のネックレスを確かめる。
「ギルドって、どんなところなのかしらねぇ」
その顔には、不安よりも期待の方が大きく浮かんでいた。
「楽しみね♡」
こうして。
異世界最強の受付嬢――マリアの物語が、少しずつ始まっていくのだった。




