第一章 オネエママ、異世界へ逝く
王道ファンタジー世界に異形が現れた!
オネエミーツガールなコメディ作品
――新宿三丁目。
夜の街を彩るネオンが、濡れたアスファルトに色鮮やかな光を落としている。
酒に酔ったサラリーマンの笑い声。路地から聞こえてくる呼び込みの声。どこかの店から漏れる陽気な音楽。
眠らない街の喧騒に包まれた一角に、一軒の小さな店があった。
看板に掲げられた店名は、少々年季が入っている。
けれど、扉の向こうから聞こえてくる笑い声は、いつだって新鮮だった。
「ママぁ……俺の人生、もうダメかもしれない」
カウンター席で、三十代くらいの男が盛大に項垂れていた。
目の前には、ほとんど手つかずの酒。
その隣では、この店のママがグラスを磨いている。
年齢は四十代。
身長は百八十センチを軽く超え、肩幅は広く、腕も太い。がっしりとした体格に、立ち姿だけならプロレスラーと言われても納得してしまいそうな迫力がある。
しかし、その姿を見て誰もが驚くのは、体格のことだけではない。
艶やかな黒髪は丁寧に整えられ、切れ長の目には上品なアイメイク。耳元では華やかなイヤリングが揺れ、首には美しいネックレスが輝いている。
身体の大きさを感じさせない、すらりとした黒いドレス。
指先の動きはしなやかで、歩き方には優雅さがあり、口を開けば柔らかな声が響く。
その立ち居振る舞いは、まるで一流ホテルのラウンジにいる貴婦人のようだった。
もっとも、口から飛び出す言葉は、必ずしも貴婦人らしいとは限らないのだが。
「ちょっと、アンタ。人生終わったみたいな顔してるんじゃないわよ」
「だってよぉ……」
「だってじゃないの。ほら、顔を上げなさい」
ママは磨いていたグラスを置き、男の顔を覗き込んだ。
「何があったの?」
「仕事は上手くいかねぇし、彼女には振られるし、金もねぇし……」
「まあ、役満ね」
「笑い事じゃねぇんだよ!」
「あら、まだ声が出るじゃない。元気元気」
「どこがだよ!」
男は頭を抱えた。
「もう何もかも上手くいかねぇんだよ。頑張っても報われないし、何をやっても空回り。俺、何のために生きてんのか分かんなくなってきた……」
最後の言葉は、ほとんど独り言だった。
ママは笑わなかった。
いつもの軽口も、すぐには返さない。
ただ、男の前に新しいおしぼりを置き、静かに耳を傾けた。
途中で口を挟まない。
安易に励まさない。
ましてや、「もっと頑張れ」などとは言わない。
人は、苦しいときほど誰かに話を聞いてほしいものだ。
答えが欲しいわけでも、立派な助言が欲しいわけでもない。
自分の中に溜まったものを吐き出して、少しだけ息をつきたい。
ママは、そんな人間の心の動きをよく知っていた。
何年も、何年も。
このカウンターの向こう側で、数え切れないほどの人生を見てきたのだから。
やがて男は、長いため息を吐いた。
「……はぁ。悪いな、ママ。愚痴ばっかりで」
「別にいいわよ」
「でもよ……」
「んで?」
「え?」
「全部吐き出したの?」
「……たぶん」
「そう」
ママはニッと笑った。
「じゃあ、まず飲みなさい」
「そこ?」
「そこよ」
「いや、人生相談の答えが酒って……」
「誰が人生相談なんて言ったのよ。アンタが勝手に人生終わったとか騒いでるから、話を聞いてあげただけでしょうが」
「ひでぇ!」
「それに、せっかくお店に来たんだから楽しまなきゃ損じゃない。ほら、飲みなさい。今日はアタシの奢りにしてあげるから」
「ママぁ……!」
「ただし、明日ちゃんと起きること。二日酔いで仕事を休んだら、次は倍額取るわよ」
「結局そこかよ!」
男が思わず吹き出した。
ママも、つられて笑う。
その笑い声につられ、少し離れた席にいた常連客まで口元を緩めた。
店内に、いつもの空気が戻ってくる。
「いい? アンタ」
ママは新しいグラスを差し出しながら言った。
「人生なんて、そんなに大層なものじゃないのよ」
「……ママ、それは名言なのか?」
「知らないわよ。今、思いついたんだから」
「適当だなぁ……」
「でもね」
ママはグラスを拭きながら、穏やかに続けた。
「今日のご飯が美味しかったとか、誰かとくだらない話をして笑えたとか、仕事帰りに好きな曲が流れてきたとか。そういう小さな『良かった』を、ちゃんと拾っていけばいいのよ」
「小さな……良かった?」
「そう。大きな幸せばっかり探してると、案外、足元に転がってるものを見落としちゃうのよね」
ママは男のグラスに酒を注いだ。
「人生なんて、そういう小さな幸せの積み重ねでしょう?」
男は黙って、ママの顔を見つめていた。
「そりゃあ、思い通りにならないことだってあるわよ。努力したって報われない日もあるし、信じてた相手に裏切られることだってある。アタシだって、何度もそういう目に遭ってきたわ」
ママは肩をすくめる。
「でもね。だからって、今まであった良いことまで、なかったことにする必要はないじゃない?」
「……」
「今日、アンタがここに来て、アタシに愚痴を吐いて、最後にちょっと笑えた。それだって、今日の良かったことの一つでしょう?」
男は、手元のグラスを見つめた。
そして、ゆっくりと顔を上げる。
「……ママって、たまに良いこと言うよな」
「たまにって何よ!」
「ははっ!」
男が笑った。
今度は、さっきまでの乾いた笑いではない。
肩の力が抜けた、心からの笑いだった。
「ほら、笑えるじゃない。まだまだ大丈夫よ」
「……ママには敵わないなぁ」
「当たり前でしょう? 何年この仕事やってると思ってんのよ」
ママは胸を張った。
その堂々とした姿に、男はまた笑う。
店内にも、温かな笑い声が広がった。
それからしばらくして。
男はすっかり元気を取り戻し、会計を済ませて席を立った。
「じゃあな、ママ。また来るよ」
「はいはい。ちゃんと寝るのよ。飲みすぎも禁止」
「分かってるって」
「そのセリフ、何回目よ。アンタの分かってるは、信用ならないのよねぇ」
「ひでぇなぁ!」
「ほら、さっさと帰る!」
ママは笑いながら、男の背中を軽く押した。
そして、店の入口まで見送りに出る。
「じゃあな、ママ」
「はいはい。気をつけて帰りなさい」
「おやすみ!」
「おやすみ。またいらっしゃい」
男は手を振り、夜の街へと歩き出した。
ママはその背中が見えなくなるまで、扉のそばに立っていた。
新宿三丁目の夜。
ネオンの光が道路を照らし、酔った人々の笑い声があちこちから聞こえてくる。
いつもと変わらない、賑やかな夜だった。
「……さて、と」
ママは小さく伸びをした。
そろそろ店内に戻ろう。
そう思って、扉に手をかけた、そのときだった。
「危ないっ!」
鋭い叫び声が、夜の喧騒を切り裂いた。
「……ん?」
ママが振り向く。
道路の向こう側。
先ほど見送ったばかりの男が、ふらふらと歩道の端を歩いていた。
そして、その男へ向かって、一台のタクシーが猛スピードで迫ってくる。
ヘッドライトが、男の身体を白く照らした。
運転席に目をやったママは、思わず目を見開いた。
運転手が、ハンドルに突っ伏している。
「……は?」
次の瞬間、男が何かに気づいたように顔を上げた。
けれど、もう遅い。
驚いた男の足がもつれ、車道へ踏み出してしまう。
「ちょっと、アンタ!」
ママの身体が動いた。
考えるよりも先に、走り出していた。
ドレスの裾が翻る。
ヒールがアスファルトを叩く。
「危ないっ!!」
男の身体を、全力で突き飛ばした。
「え――」
男が歩道へ転がる。
そして。
――ドンッ!!
鈍く、凄まじい衝撃がママの身体を襲った。
視界が反転する。
足が地面から離れ、身体が宙を舞う。
何が起きたのか理解する間もなく、世界がぐるりと回った。
次の瞬間、背中に強烈な衝撃が走る。
「ママァァッ!!」
誰かの悲鳴が聞こえた。
続いて、店の中から何人もの客が飛び出してくる。
「ママ!」
「嘘だろ、おい!」
「誰か救急車! 早く!」
「ママ、しっかりして! ねえ、ママ!」
さっきまで笑っていた客たちが、青ざめた顔でママを取り囲む。
スタッフが駆け寄り、震える手でスマートフォンを操作する。
誰かが何度も名前を呼び、誰かが泣きそうな声で「大丈夫だから」と繰り返していた。
けれど。
地面に倒れたママには、その声に応えることすらできなかった。
身体が、動かない。
痛みがあるはずなのに、どこが痛いのかも分からない。
視界がぼやけ、ネオンの光が滲んでいく。
――あら。
みんな、そんな顔しちゃって。
いつもなら、ここで冗談の一つでも言ってやるところだ。
『ちょっと、アンタたち! 葬式みたいな顔してんじゃないわよ!』
なんて笑い飛ばしてやれば、きっと誰かが泣き笑いするだろう。
でも。
声が出なかった。
身体も、指先ひとつ動かせない。
どうやら、思っていた以上に派手にやられたらしい。
遠くから、サイレンの音が聞こえてきた。
誰かがママの手を握る。
「ママ……お願いだから、目を開けて……」
聞き覚えのある声だった。
ママは、ゆっくりと視線を動かした。
そこにいたのは、さっき助けた男だった。
男は無傷だった。
けれど、その顔は真っ青で、目には大粒の涙が浮かんでいる。
「ママ……俺……」
男の唇が震えた。
「俺、死ぬところだった……」
その言葉を聞いた瞬間、ママは少しだけ安心した。
ああ。
よかった。
この子が無事なら、それでいい。
せっかく、さっき少し元気になったばかりなのだ。
こんなところで死なれたら、あまりにも寝覚めが悪い。
……まあ、アタシのほうが先に死にそうなんだけど。
そんな場違いな考えが、頭の隅をよぎった。
ママは、男を見つめた。
泣かないで。
そんな顔をしないで。
アンタが無事なら、それでいいのよ。
声には出せなかった。
けれど、伝わってほしかった。
ママは、最後の力を振り絞って口元を緩めた。
いつも店で見せている、あの優しい笑顔で。
まぶたが、少しずつ重くなっていく。
「ママ! 目、閉じちゃダメ!」
「お願い……ママ……!」
誰かが叫んでいる。
誰かが泣いている。
それでも、もう声は遠かった。
ああ。
結局、いい男とのロマンチックな出会いもなかったわねぇ。
せめて最期くらい、イケメンに看取られたかったわ。
……なんて。
まったく、我ながら欲張りな人生だ。
でも。
楽しかった。
いろんな人に出会って、いろんな話を聞いて、くだらないことで笑って。
たくさん泣いて、たくさん怒って。
それでも、最後には笑っていられた。
なら、悪くない人生だったのだろう。
ママは、助けた男をもう一度だけ見つめた。
そして、いつものように。
優しく笑って――。
「ほら……良いこと、あったでしょ」
それが、新宿三丁目の夜に響いた、ママの最後の言葉だった。
◇ ◇ ◇
――あたたかい。
最初に感じたのは、そんな感覚だった。
身体がふわふわと浮いている。
どこかに寝かされているようでもあり、雲の上を漂っているようでもある。
痛みはない。
苦しさもない。
寒くもなければ、暑くもない。
ただ、妙に心地よかった。
「……ん?」
意識が、少しずつ浮かび上がってくる。
ここはどこだろう。
アタシ、何をしていたんだっけ。
確か、店の前で客を見送って……。
そうだ。
タクシー!
ママは、はっと目を見開いた。
「……っ!」
勢いよく起き上がろうとして、拍子抜けした。
身体は、どこも痛くなかった。
腕を動かす。
足を動かす。
首を回してみる。
問題なく動く。
「……あら?」
ママは自分の身体をぺたぺたと触った。
事故に遭ったはずなのに、傷ひとつない。
服も破れていなければ、ドレスの裾も綺麗なままだ。
アクセサリーも、いつもどおり身につけている。
「……夢?」
「いいえ、夢ではありませんよ」
すぐそばから、優しい声が聞こえた。
「お目覚めになりましたか?」
「…………」
ママは、ゆっくりと顔を上げた。
そこには、一人の女性が立っていた。
長い髪。
白を基調とした、神秘的で美しい衣装。
整った顔立ちに、穏やかな微笑み。
そして、言葉では説明しにくいほどの神々しい雰囲気。
背後から光でも差しているのではないかと思うほど、彼女の存在そのものが輝いて見えた。
ただし、実際に後光が差しているのかどうかは、よく分からない。
なにしろ、周囲がそれ以上に真っ白だったからだ。
床も、天井も、壁もない。
どこまでも続く、真っ白な空間。
見渡す限り、何もなかった。
「……あらぁ」
ママは目を細めた。
そして、女性を上から下までじっくりと眺める。
「もしかして、お迎えの天使ちゃん?」
「女神です」
「そう。女神ちゃんね」
「…………」
女神の笑顔が、一瞬だけ固まった。
「……女神、です」
「はいはい。女神ちゃんね」
「いえ、ですから……」
「なぁに?」
「なぜ、ちゃん付けなんですか?」
「だって、可愛いじゃない」
「…………」
女神は、困ったように眉を下げた。
「私、これでも一応、神様なんですが……」
「あら、神様だからって偉そうにしなくてもいいじゃない。女神ちゃんでいいでしょう?」
「そういう問題なのでしょうか……」
「そういう問題よ」
ママは、にっこり笑った。
女神はしばらく何か言いたげにしていたが、やがて諦めたように小さく息を吐いた。
「……まあ、いいでしょう。今は細かいことを気にしている場合でもありませんし」
「そうそう。可愛い子は笑ってるほうがいいわよ」
「……ありがとうございます?」
女神は、どう反応すべきか分からないといった顔をした。
ママはそんな女神を横目に、自分の身体をもう一度確認した。
両手を開いて、閉じる。
腕を曲げる。
肩を回す。
頬を指先でつついてみる。
「んー……」
ママは自分の肌を撫でた。
「なんだか、いつもより肌艶がいいわね」
「死んでいますから」
「……え?」
「ですから、死後の身体です」
「…………」
ママは、ぴたりと動きを止めた。
そして、ゆっくりと女神のほうを向く。
「……今、なんて?」
「死後の身体です、と」
「……あら、やだ」
ママは自分の頬をぺちぺちと叩いた。
「本当に死んじゃったの、アタシ?」
「はい」
「タクシーに轢かれて?」
「はい」
「……あらまあ」
驚いたのは、ほんの数秒だった。
ママはすぐに肩の力を抜き、納得したように頷いた。
「まあ、あれだけ派手に轢かれたんですものねぇ。むしろ、よく今まで意識があったわねって感じだわ」
「……ずいぶんと落ち着いていらっしゃいますね」
「だって、死んだものは仕方ないじゃない」
ママはあっけらかんと言った。
「それに、あの子は無事だったんでしょう?」
「……あの子?」
「ほら、アタシが突き飛ばした男の子よ。怪我してなかった?」
女神は少しだけ目を見開いた。
そして、柔らかく微笑む。
「はい。彼は無事です。命に別状はありません」
「そう。よかった」
ママは、心底ほっとしたように笑った。
その顔には、自分が死んだことへの恐怖も、後悔も、ほとんど見られなかった。
女神は、そんなママの様子をじっと見つめていた。
「……本当に、あなたは」
「ん?」
「いえ。何でもありません」
女神は小さく首を振った。
ママは少しだけ首を傾げたが、すぐに別のことが気になったらしい。
「それにしても、ここはどこなの?」
「ここは、あなた方の世界でいうところの、神の領域です」
「神の領域……」
「はい」
「へぇ……」
ママは周囲を見回した。
どこまでも白い。
家具もなければ、扉もない。
椅子もテーブルも見当たらない。
「……ねえ、女神ちゃん」
「はい?」
「神様って、家具を買うお金もないの?」
「……はい?」
「だって、何もないじゃない。椅子くらい置いておきなさいよ。立ちっぱなしじゃ疲れるでしょう?」
「いえ、ここはそういう場所ではなくてですね……」
「お茶もないの? アタシ、喉が渇いたんだけど」
「死後なので、喉は渇かないはずですが……」
「気分の問題よ、気分の!」
「…………」
女神は額に手を当てた。
どうやら、この人と話していると調子が狂うらしい。
ママはそんな女神を見て、楽しそうに笑った。
「冗談よ。そんな顔しないの」
「……本当に、あなたという人は」
「褒めても何も出ないわよ?」
「褒めていません」
「あら、照れちゃって」
「照れてもいません!」
真っ白な空間に、女神の声が響いた。
ママは、ますます楽しそうに笑った。
しばらくして、ようやく落ち着いた女神が口を開く。
「……それで、あなたの身体についてですが」
「身体?」
「はい。先ほど、ご自分の肌艶が良いとおっしゃっていましたね」
「そうそう。なんだか若返ったみたいで」
ママは改めて自分の腕を眺めた。
「傷もないし、髪も綺麗だし。死んだら身体の状態がリセットされるのかしら?」
「厳密には、そういうわけではありません。今のあなたは、魂の状態に合わせた姿になっています」
「魂の状態?」
「ええ。肉体そのものではなく、あなたという存在を形作るもの、と考えていただければ」
「ふぅん……」
ママは自分の胸元を見下ろした。
いつもの黒いドレス。
いつものアクセサリー。
何も変わっていないように見える。
「でも、服までそのままなのね」
「あなたが強く認識している姿や、身につけていたものが反映される場合もあります」
「へぇ。じゃあ、白装束じゃないのね」
「白装束?」
「ほら、死んだ人って白い服を着てるイメージがあるじゃない?」
「ああ……」
女神は少し考え込んだ。
「あれは、また別の管轄になりますので」
「……管轄?」
「はい」
「そこ、分業制なの?」
「神の世界にも、いろいろと事情があるんですよ」
「神様の世界も大変ねぇ」
「本当に……」
女神は、遠い目をした。
ママはその反応に満足したのか、うんうんと頷いた。
神様も苦労しているらしい。
世の中、どこへ行っても仕事というのは大変なものだ。
……まあ、死後の世界にまで仕事の話があるとは思わなかったけれど。
「それで、女神ちゃん」
「はい」
「アタシはこれからどうなるの?」
ママの問いかけに、女神の表情が少しだけ改まった。
「本来であれば、あなたの魂はこのまま魂の流れへと戻り、次の生へ向かうことになります」
「輪廻転生ってやつね」
「はい」
「じゃあ、それでいいんじゃない?」
あまりにもあっさりとした返事だった。
女神は、思わず瞬きをした。
「……よろしいのですか?」
「何が?」
「その……もう一度、生まれ変わることになるのですよ?」
「そうでしょうねぇ」
「今までの人生とは、お別れになります。家族や友人、あなたが築いてきたものとも……」
「うん」
ママは、静かに頷いた。
そして、少しだけ目を細める。
「そりゃあ、もっと長生きできたらよかったとは思うわよ。店だって、まだまだ続けたかったしね」
楽しかった日々が、頭をよぎる。
カウンター越しに交わした、くだらない会話。
何度も聞いた愚痴。
失恋して泣いていた客が、次に来たときには新しい恋人を連れてきたこと。
仕事を辞めるかどうか悩んでいた青年が、数年後には独立して店を持ったこと。
喧嘩別れした友人同士が、店で顔を合わせて仲直りしたこと。
ひとつひとつは、何気ない出来事だった。
けれど、どれも大切な思い出だった。
「……でもね」
ママは、ゆっくりと顔を上げた。
「アタシ、結構幸せだったのよ」
女神は、黙って耳を傾けた。
「いろんな人と出会って、いろんな話を聞いて。泣いたり、笑ったり、怒ったり。面倒くさいことも山ほどあったけど、全部ひっくるめて楽しかったわ」
ママは、いつものように豪快に笑った。
「最後に一人でも助けられたなら、それで十分よ」
「……本当に、そう思われるのですね」
「ええ。後悔がないって言ったら嘘になるけどね」
そこで、ママはふと思い出したように指を立てた。
「ただし!」
「……ただし?」
「男運だけは、最後までなかったわね!」
「…………」
女神の表情が、すっと真顔になった。
「……そこですか?」
「そこよ!」
ママは力強く頷いた。
「いい男と出会って、いい恋をして、最後は愛する人の腕の中で看取られる……。そんなロマンチックな人生、一度くらい経験してみたかったわぁ!」
「……人生の最後の心残りが、それなのですか?」
「女の人生としては大事でしょう?」
「そういうものなのでしょうか……」
「そういうものよ!」
女神は苦笑した。
しかし、その笑みはすぐに静かなものへと変わった。
「……ですが」
「ん?」
「あなたには、もう一つの道があります」
「もう一つ?」
「はい」
女神が手をかざす。
すると、何もなかった白い空間に、淡い光が広がり始めた。
光はゆっくりと形を変え、やがて一枚の巨大な映像のようなものを映し出す。
そこに広がっていたのは、見たこともない世界だった。
果てしなく続く深い森。
空を飛ぶ、巨大な翼を持った生き物。
山の向こうにそびえる、壮麗な城。
石造りの街並みを行き交う、耳の長い者や、獣のような耳と尻尾を持つ者たち。
そして、人々の手から生み出される、不思議な光。
「……あら、すごい」
ママは目を輝かせた。
「何、これ。映画?」
「いいえ。実在する世界です」
「実在するって……」
ママは映像を食い入るように見つめた。
「もしかして、異世界ってやつ?」
「はい」
女神は静かに頷いた。
「あなたが生きていた世界とは、まったく異なる世界です。そこには魔法が存在し、人間以外の種族も暮らしています」
「魔法! いいわねぇ、魔法!」
ママは思わず身を乗り出した。
「ちょっと、女神ちゃん。アタシも魔法が使えるようになるの?」
「……話を最後まで聞いてください」
「あら、ごめんなさい」
ママは口元を押さえた。
けれど、その目はすっかり好奇心で輝いている。
女神は、そんなママを見て微笑んだ。
「この世界には、美しい自然も、素晴らしい文化もあります。多くの人々が懸命に生き、日々の暮らしを営んでいます」
映像が切り替わる。
市場で買い物をする人々。
畑を耕す農夫。
子供たちが笑いながら走り回る、穏やかな村。
そこには、ママがよく知る日常と似た光景もあった。
けれど。
次の瞬間、映像の雰囲気が一変した。
荒れ果てた村。
崩れた家屋。
傷ついた人々。
泣きながら母親にしがみつく子供。
そして、武器を手に、誰かを追い詰める者たち。
「……これは?」
ママの表情から、笑みが消えた。
「この世界では現在、多くの人々が苦しんでいます」
女神の声が、少しだけ低くなる。
「人間同士の争い。魔物の脅威。貧困や差別。そして、種族間の対立……」
映像が次々と切り替わっていく。
助けを求める人。
誰にも頼れず、ひとりで泣いている人。
生まれた種族や立場だけを理由に、理不尽な扱いを受ける人。
「平和に暮らしたいと願っている人々がいる一方で、その平和を壊そうとする者たちもいます」
女神は、静かに続けた。
「もちろん、すべての問題を一度に解決することはできません。私たち神にも、直接介入できる範囲には限りがあります」
「……神様なのに?」
「神だからこそ、守らなければならない決まりもあるのです」
「なるほどねぇ……」
ママは腕を組んだ。
神様にも、できることとできないことがある。
それは、人間の世界とそう変わらないのかもしれない。
「それで?」
ママは女神に視線を戻した。
「そんな世界に、アタシが行くってこと?」
「はい」
女神は、まっすぐに頷いた。
「あなたに、その世界で生きてほしいのです」
ママは、しばらく黙って映像を見つめていた。
やがて、ぽつりと尋ねる。
「……どうして、アタシなの?」
女神は、その問いを待っていたかのように口を開いた。
「あなたは生前、多くの人の悩みに耳を傾けてきました」
静かな声が、白い空間に響く。
「落ち込んでいる人を励まし、孤独な人に寄り添い、喧嘩をしている人たちの仲を取り持った」
「……」
「お腹を空かせた人には食事を振る舞い、困っている人がいれば、損得を考えずに手を差し伸べた」
ママは、少しだけ気まずそうに頬を掻いた。
「いやぁ……まあ、できる範囲でよ」
「あなたは、ご自分が思っている以上に多くの人を救ってきたのですよ」
女神は微笑んだ。
「あなたのお店を訪れた人々は、ただお酒を飲みに来ていたわけではありません。誰かに話を聞いてほしかった人。ひとりで抱えきれない悩みを持っていた人。明日を迎えるのが怖かった人……」
ママの表情が、少しずつ変わっていく。
「あなたは、そうした人たちの居場所になっていました」
「……」
「あなたの言葉に救われた人がいます。あなたの料理に救われた人がいます。あなたと笑い合った時間を支えにして、苦しい日々を乗り越えた人もいます」
女神は、まっすぐにママを見つめた。
「あなたは、誰かの人生を変えようとしていたわけではないのでしょう」
「……ええ。まあね」
「ただ、目の前で困っている人を放っておけなかった」
ママは、ゆっくりと頷いた。
「そういうことなら……そうね」
「あなたが最後に命を救った男性も、そうです」
女神の声が、ほんの少しだけ優しくなった。
「あなたは、ご自分の命を顧みることなく、一人の人間を救いました」
「……身体が勝手に動いただけよ」
「それが、あなたなのです」
女神は一歩、ママへと近づいた。
「あなたは、とても徳の高い人です」
「徳ねぇ……」
「だからこそ、お願いがあります」
「お願い?」
女神は、静かに頭を下げた。
「その世界へ転生し、そこで生きてほしいのです」
ママは目を瞬いた。
神様が、人間に頭を下げている。
それだけ、この世界の状況は深刻なのだろう。
「そして――」
女神は顔を上げ、優しく微笑んだ。
「もう一度、誰かを救ってあげてください」
しばらく、静寂が続いた。
ママは、映し出された異世界を見つめていた。
泣いている子供。
傷ついた人。
誰かに助けを求める人。
そして、その人たちを見つめる、自分自身の姿を想像した。
新しい世界。
新しい人生。
そこで何が待っているのかは分からない。
危険なこともあるだろう。
今までの常識が通用しないことだって、きっとある。
それでも。
困っている人がいる。
助けを求めている人がいる。
なら、答えは決まっていた。
「……そういうことね」
ママは、ゆっくりと顔を上げた。
「はい」
「要するに、助けてほしい人がいるから、アタシに行ってほしい、と」
「……はい」
「それで、アタシに何か特別な使命があるとか、世界を救う勇者になれとか、そういう話?」
「ええと……必ずしも、そこまで大きなことをお願いするつもりは……」
「なら、なおさら簡単じゃない」
ママは腰に手を当てた。
そして――。
豪快に笑った。
「断る理由なんてないじゃない!」
その声が、白い世界いっぱいに響き渡る。
「助けを求められて、知らん顔するなんてできるわけないでしょう!」
「……!」
「それに、せっかくの第二の人生よ? 魔法があって、見たこともない世界が広がってるんでしょう? ちょっとくらい楽しんだって罰は当たらないわよねぇ!」
「そ、それはもちろん……」
「だったら決まり!」
ママは胸を張った。
「困ってる人がいるなら助ける! 泣いてる人がいるなら笑わせる! お腹が空いてる人がいるなら、まずは何か食べさせる!」
そして、にっこりと笑う。
「それがオネエってもんよ!」
女神は、ぽかんと口を開けていた。
ママは、さらに力強く拳を握る。
「男は度胸、女は愛嬌――」
一拍置いて。
「オネエは最強!」
決め台詞とともに、ママは胸を張った。
白い空間に、しばし沈黙が落ちる。
やがて。
「……ふふっ」
女神の口元が緩んだ。
「ふふふっ……あははっ!」
とうとう、こらえきれずに笑い出した。
「ちょっと、女神ちゃん! 何がおかしいのよ!」
「い、いえ……すみません。あまりにも、あなたらしくて……!」
「でしょう?」
ママは得意げに笑った。
女神は目元を拭い、改めて姿勢を正した。
「……分かりました。それでは、あなたをその世界へ転生させましょう」
「よろしくね、女神ちゃん」
「はい。新しい世界で、あなたが幸せに生きられるよう、私もできる限りのことをいたします」
「ありがとね」
ママは、ふと思い出したように付け加えた。
「それと、ひとつお願いがあるんだけど」
「何でしょう?」
「せっかくの第二の人生なんだから、今度こそいい男と出会いたいわねぇ」
「…………」
「できれば、顔が良くて、優しくて、包容力があって、アタシのことをちゃんと大切にしてくれる人!」
「……転生先の世界で、素敵な出会いがあることをお祈りしています」
「ちょっと、そこは何か特典をつけてくれてもいいじゃない!」
「転生は恋愛成就のサービスではありませんので……」
「あら、ケチ!」
「ケチではありません!」
女神が珍しく声を張り上げた。
ママは、楽しそうに笑った。
「冗談よ、冗談。そんなに怒らないの」
「……本当に、最後まで調子を狂わされますね」
「それ、褒め言葉として受け取っておくわ」
「褒めていません……」
女神は小さくため息をついた。
けれど、その表情はどこか晴れやかだった。
目の前にいるこの人なら、きっと大丈夫。
そんな確信が、彼女の中にはあった。
女神は、そっと手を差し出した。
「それでは、ご案内します。新しい世界へ」
ママは、その手を握った。
「よろしくね、女神ちゃん」
「……最後までちゃん付けなんですね」
「当たり前でしょう? だって、もうお友達じゃない」
「神様と転生者に、そんな概念があるんですか?」
「今から作ればいいのよ」
「……なるほど」
女神は、くすりと笑った。
次の瞬間。
二人の手を中心に、まばゆい光が溢れ出した。
白い空間が光に包まれ、目の前の景色がゆっくりと遠ざかっていく。
ママは目を閉じた。
怖くないと言えば、嘘になる。
けれど、不思議と不安はなかった。
どんな世界でも、きっと同じだ。
悩みを抱えた人がいて、笑っている人がいて、誰かを大切に思う人がいる。
だったら、やることは変わらない。
困っている人がいたら、手を差し伸べる。
泣いている人がいたら、一緒に笑える日が来るまで寄り添う。
そして、自分自身も思いきり楽しむ。
それが、ママの生き方だった。
新宿三丁目で生涯を終えた、一人のオネエ。
その魂は今、新たな世界へと旅立とうとしていた。
第二の人生が、どんなものになるのか。
このときのママは、まだ知らない。
そこが魔法と魔物に満ちた世界であることも。
人間だけでなく、さまざまな種族が暮らしていることも。
そして、彼女の持つ人柄と価値観が、やがてその世界に大きな変化をもたらすことも。
ただ一つ、確かなことがある。
どんな世界に生まれ変わろうと、この人はきっと変わらない。
豪快に笑い、困っている人を放っておけず、時にはお節介を焼きながら、最後には誰かの背中を押してやる。
そんなオネエが、今、新たな人生の一歩を踏み出したのだ。
――こうして。
新宿三丁目のオネエママは、誰も知らない異世界へと転生することになった。




