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『異世界オネエ転生』 ~元新宿三丁目ママ、無敵チートで最強受付嬢になり気ままに無双します~  作者: 雛森リコ
転生オネエさん、最強受付嬢になる。

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1/21

  第一章 オネエママ、異世界へ逝く

王道ファンタジー世界に異形が現れた!

オネエミーツガールなコメディ作品

――新宿三丁目。


 夜の街を彩るネオンが、濡れたアスファルトに色鮮やかな光を落としている。


 酒に酔ったサラリーマンの笑い声。路地から聞こえてくる呼び込みの声。どこかの店から漏れる陽気な音楽。


 眠らない街の喧騒に包まれた一角に、一軒の小さな店があった。


 看板に掲げられた店名は、少々年季が入っている。


 けれど、扉の向こうから聞こえてくる笑い声は、いつだって新鮮だった。


「ママぁ……俺の人生、もうダメかもしれない」


 カウンター席で、三十代くらいの男が盛大に項垂れていた。


 目の前には、ほとんど手つかずの酒。


 その隣では、この店のママがグラスを磨いている。


 年齢は四十代。


 身長は百八十センチを軽く超え、肩幅は広く、腕も太い。がっしりとした体格に、立ち姿だけならプロレスラーと言われても納得してしまいそうな迫力がある。


 しかし、その姿を見て誰もが驚くのは、体格のことだけではない。


 艶やかな黒髪は丁寧に整えられ、切れ長の目には上品なアイメイク。耳元では華やかなイヤリングが揺れ、首には美しいネックレスが輝いている。


 身体の大きさを感じさせない、すらりとした黒いドレス。


 指先の動きはしなやかで、歩き方には優雅さがあり、口を開けば柔らかな声が響く。


 その立ち居振る舞いは、まるで一流ホテルのラウンジにいる貴婦人のようだった。


 もっとも、口から飛び出す言葉は、必ずしも貴婦人らしいとは限らないのだが。


「ちょっと、アンタ。人生終わったみたいな顔してるんじゃないわよ」


「だってよぉ……」


「だってじゃないの。ほら、顔を上げなさい」


 ママは磨いていたグラスを置き、男の顔を覗き込んだ。


「何があったの?」


「仕事は上手くいかねぇし、彼女には振られるし、金もねぇし……」


「まあ、役満ね」


「笑い事じゃねぇんだよ!」


「あら、まだ声が出るじゃない。元気元気」


「どこがだよ!」


 男は頭を抱えた。


「もう何もかも上手くいかねぇんだよ。頑張っても報われないし、何をやっても空回り。俺、何のために生きてんのか分かんなくなってきた……」


 最後の言葉は、ほとんど独り言だった。


 ママは笑わなかった。


 いつもの軽口も、すぐには返さない。


 ただ、男の前に新しいおしぼりを置き、静かに耳を傾けた。


 途中で口を挟まない。


 安易に励まさない。


 ましてや、「もっと頑張れ」などとは言わない。


 人は、苦しいときほど誰かに話を聞いてほしいものだ。


 答えが欲しいわけでも、立派な助言が欲しいわけでもない。


 自分の中に溜まったものを吐き出して、少しだけ息をつきたい。


 ママは、そんな人間の心の動きをよく知っていた。


 何年も、何年も。


 このカウンターの向こう側で、数え切れないほどの人生を見てきたのだから。


 やがて男は、長いため息を吐いた。


「……はぁ。悪いな、ママ。愚痴ばっかりで」


「別にいいわよ」


「でもよ……」


「んで?」


「え?」


「全部吐き出したの?」


「……たぶん」


「そう」


 ママはニッと笑った。


「じゃあ、まず飲みなさい」


「そこ?」


「そこよ」


「いや、人生相談の答えが酒って……」


「誰が人生相談なんて言ったのよ。アンタが勝手に人生終わったとか騒いでるから、話を聞いてあげただけでしょうが」


「ひでぇ!」


「それに、せっかくお店に来たんだから楽しまなきゃ損じゃない。ほら、飲みなさい。今日はアタシの奢りにしてあげるから」


「ママぁ……!」


「ただし、明日ちゃんと起きること。二日酔いで仕事を休んだら、次は倍額取るわよ」


「結局そこかよ!」


 男が思わず吹き出した。


 ママも、つられて笑う。


 その笑い声につられ、少し離れた席にいた常連客まで口元を緩めた。


 店内に、いつもの空気が戻ってくる。


「いい? アンタ」


 ママは新しいグラスを差し出しながら言った。


「人生なんて、そんなに大層なものじゃないのよ」


「……ママ、それは名言なのか?」


「知らないわよ。今、思いついたんだから」


「適当だなぁ……」


「でもね」


 ママはグラスを拭きながら、穏やかに続けた。


「今日のご飯が美味しかったとか、誰かとくだらない話をして笑えたとか、仕事帰りに好きな曲が流れてきたとか。そういう小さな『良かった』を、ちゃんと拾っていけばいいのよ」


「小さな……良かった?」


「そう。大きな幸せばっかり探してると、案外、足元に転がってるものを見落としちゃうのよね」


 ママは男のグラスに酒を注いだ。


「人生なんて、そういう小さな幸せの積み重ねでしょう?」


 男は黙って、ママの顔を見つめていた。


「そりゃあ、思い通りにならないことだってあるわよ。努力したって報われない日もあるし、信じてた相手に裏切られることだってある。アタシだって、何度もそういう目に遭ってきたわ」


 ママは肩をすくめる。


「でもね。だからって、今まであった良いことまで、なかったことにする必要はないじゃない?」


「……」


「今日、アンタがここに来て、アタシに愚痴を吐いて、最後にちょっと笑えた。それだって、今日の良かったことの一つでしょう?」


 男は、手元のグラスを見つめた。


 そして、ゆっくりと顔を上げる。


「……ママって、たまに良いこと言うよな」


「たまにって何よ!」


「ははっ!」


 男が笑った。


 今度は、さっきまでの乾いた笑いではない。


 肩の力が抜けた、心からの笑いだった。


「ほら、笑えるじゃない。まだまだ大丈夫よ」


「……ママには敵わないなぁ」


「当たり前でしょう? 何年この仕事やってると思ってんのよ」


 ママは胸を張った。


 その堂々とした姿に、男はまた笑う。


 店内にも、温かな笑い声が広がった。


 それからしばらくして。


 男はすっかり元気を取り戻し、会計を済ませて席を立った。


「じゃあな、ママ。また来るよ」


「はいはい。ちゃんと寝るのよ。飲みすぎも禁止」


「分かってるって」


「そのセリフ、何回目よ。アンタの分かってるは、信用ならないのよねぇ」


「ひでぇなぁ!」


「ほら、さっさと帰る!」


 ママは笑いながら、男の背中を軽く押した。


 そして、店の入口まで見送りに出る。


「じゃあな、ママ」


「はいはい。気をつけて帰りなさい」


「おやすみ!」


「おやすみ。またいらっしゃい」


 男は手を振り、夜の街へと歩き出した。


 ママはその背中が見えなくなるまで、扉のそばに立っていた。


 新宿三丁目の夜。


 ネオンの光が道路を照らし、酔った人々の笑い声があちこちから聞こえてくる。


 いつもと変わらない、賑やかな夜だった。


「……さて、と」


 ママは小さく伸びをした。


 そろそろ店内に戻ろう。


 そう思って、扉に手をかけた、そのときだった。


「危ないっ!」


 鋭い叫び声が、夜の喧騒を切り裂いた。


「……ん?」


 ママが振り向く。


 道路の向こう側。


 先ほど見送ったばかりの男が、ふらふらと歩道の端を歩いていた。


 そして、その男へ向かって、一台のタクシーが猛スピードで迫ってくる。


 ヘッドライトが、男の身体を白く照らした。


 運転席に目をやったママは、思わず目を見開いた。


 運転手が、ハンドルに突っ伏している。


「……は?」


 次の瞬間、男が何かに気づいたように顔を上げた。


 けれど、もう遅い。


 驚いた男の足がもつれ、車道へ踏み出してしまう。


「ちょっと、アンタ!」


 ママの身体が動いた。


 考えるよりも先に、走り出していた。


 ドレスの裾が翻る。


 ヒールがアスファルトを叩く。


「危ないっ!!」


 男の身体を、全力で突き飛ばした。


「え――」


 男が歩道へ転がる。


 そして。


 ――ドンッ!!


 鈍く、凄まじい衝撃がママの身体を襲った。


 視界が反転する。


 足が地面から離れ、身体が宙を舞う。


 何が起きたのか理解する間もなく、世界がぐるりと回った。


 次の瞬間、背中に強烈な衝撃が走る。


「ママァァッ!!」


 誰かの悲鳴が聞こえた。


 続いて、店の中から何人もの客が飛び出してくる。


「ママ!」


「嘘だろ、おい!」


「誰か救急車! 早く!」


「ママ、しっかりして! ねえ、ママ!」


 さっきまで笑っていた客たちが、青ざめた顔でママを取り囲む。


 スタッフが駆け寄り、震える手でスマートフォンを操作する。


 誰かが何度も名前を呼び、誰かが泣きそうな声で「大丈夫だから」と繰り返していた。


 けれど。


 地面に倒れたママには、その声に応えることすらできなかった。


 身体が、動かない。


 痛みがあるはずなのに、どこが痛いのかも分からない。


 視界がぼやけ、ネオンの光が滲んでいく。


 ――あら。


 みんな、そんな顔しちゃって。


 いつもなら、ここで冗談の一つでも言ってやるところだ。


『ちょっと、アンタたち! 葬式みたいな顔してんじゃないわよ!』


 なんて笑い飛ばしてやれば、きっと誰かが泣き笑いするだろう。


 でも。


 声が出なかった。


 身体も、指先ひとつ動かせない。


 どうやら、思っていた以上に派手にやられたらしい。


 遠くから、サイレンの音が聞こえてきた。


 誰かがママの手を握る。


「ママ……お願いだから、目を開けて……」


 聞き覚えのある声だった。


 ママは、ゆっくりと視線を動かした。


 そこにいたのは、さっき助けた男だった。


 男は無傷だった。


 けれど、その顔は真っ青で、目には大粒の涙が浮かんでいる。


「ママ……俺……」


 男の唇が震えた。


「俺、死ぬところだった……」


 その言葉を聞いた瞬間、ママは少しだけ安心した。


 ああ。


 よかった。


 この子が無事なら、それでいい。


 せっかく、さっき少し元気になったばかりなのだ。


 こんなところで死なれたら、あまりにも寝覚めが悪い。


 ……まあ、アタシのほうが先に死にそうなんだけど。


 そんな場違いな考えが、頭の隅をよぎった。


 ママは、男を見つめた。


 泣かないで。


 そんな顔をしないで。


 アンタが無事なら、それでいいのよ。


 声には出せなかった。


 けれど、伝わってほしかった。


 ママは、最後の力を振り絞って口元を緩めた。


 いつも店で見せている、あの優しい笑顔で。


 まぶたが、少しずつ重くなっていく。


「ママ! 目、閉じちゃダメ!」


「お願い……ママ……!」


 誰かが叫んでいる。


 誰かが泣いている。


 それでも、もう声は遠かった。


 ああ。


 結局、いい男とのロマンチックな出会いもなかったわねぇ。


 せめて最期くらい、イケメンに看取られたかったわ。


 ……なんて。


 まったく、我ながら欲張りな人生だ。


 でも。


 楽しかった。


 いろんな人に出会って、いろんな話を聞いて、くだらないことで笑って。


 たくさん泣いて、たくさん怒って。


 それでも、最後には笑っていられた。


 なら、悪くない人生だったのだろう。


 ママは、助けた男をもう一度だけ見つめた。


 そして、いつものように。


 優しく笑って――。


「ほら……良いこと、あったでしょ」


 それが、新宿三丁目の夜に響いた、ママの最後の言葉だった。


     ◇ ◇ ◇


 ――あたたかい。


 最初に感じたのは、そんな感覚だった。


 身体がふわふわと浮いている。


 どこかに寝かされているようでもあり、雲の上を漂っているようでもある。


 痛みはない。


 苦しさもない。


 寒くもなければ、暑くもない。


 ただ、妙に心地よかった。


「……ん?」


 意識が、少しずつ浮かび上がってくる。


 ここはどこだろう。


 アタシ、何をしていたんだっけ。


 確か、店の前で客を見送って……。


 そうだ。


 タクシー!


 ママは、はっと目を見開いた。


「……っ!」


 勢いよく起き上がろうとして、拍子抜けした。


 身体は、どこも痛くなかった。


 腕を動かす。


 足を動かす。


 首を回してみる。


 問題なく動く。


「……あら?」


 ママは自分の身体をぺたぺたと触った。


 事故に遭ったはずなのに、傷ひとつない。


 服も破れていなければ、ドレスの裾も綺麗なままだ。


 アクセサリーも、いつもどおり身につけている。


「……夢?」


「いいえ、夢ではありませんよ」


 すぐそばから、優しい声が聞こえた。


「お目覚めになりましたか?」


「…………」


 ママは、ゆっくりと顔を上げた。


 そこには、一人の女性が立っていた。


 長い髪。


 白を基調とした、神秘的で美しい衣装。


 整った顔立ちに、穏やかな微笑み。


 そして、言葉では説明しにくいほどの神々しい雰囲気。


 背後から光でも差しているのではないかと思うほど、彼女の存在そのものが輝いて見えた。


 ただし、実際に後光が差しているのかどうかは、よく分からない。


 なにしろ、周囲がそれ以上に真っ白だったからだ。


 床も、天井も、壁もない。


 どこまでも続く、真っ白な空間。


 見渡す限り、何もなかった。


「……あらぁ」


 ママは目を細めた。


 そして、女性を上から下までじっくりと眺める。


「もしかして、お迎えの天使ちゃん?」


「女神です」


「そう。女神ちゃんね」


「…………」


 女神の笑顔が、一瞬だけ固まった。


「……女神、です」


「はいはい。女神ちゃんね」


「いえ、ですから……」


「なぁに?」


「なぜ、ちゃん付けなんですか?」


「だって、可愛いじゃない」


「…………」


 女神は、困ったように眉を下げた。


「私、これでも一応、神様なんですが……」


「あら、神様だからって偉そうにしなくてもいいじゃない。女神ちゃんでいいでしょう?」


「そういう問題なのでしょうか……」


「そういう問題よ」


 ママは、にっこり笑った。


 女神はしばらく何か言いたげにしていたが、やがて諦めたように小さく息を吐いた。


「……まあ、いいでしょう。今は細かいことを気にしている場合でもありませんし」


「そうそう。可愛い子は笑ってるほうがいいわよ」


「……ありがとうございます?」


 女神は、どう反応すべきか分からないといった顔をした。


 ママはそんな女神を横目に、自分の身体をもう一度確認した。


 両手を開いて、閉じる。


 腕を曲げる。


 肩を回す。


 頬を指先でつついてみる。


「んー……」


 ママは自分の肌を撫でた。


「なんだか、いつもより肌艶がいいわね」


「死んでいますから」


「……え?」


「ですから、死後の身体です」


「…………」


 ママは、ぴたりと動きを止めた。


 そして、ゆっくりと女神のほうを向く。


「……今、なんて?」


「死後の身体です、と」


「……あら、やだ」


 ママは自分の頬をぺちぺちと叩いた。


「本当に死んじゃったの、アタシ?」


「はい」


「タクシーに轢かれて?」


「はい」


「……あらまあ」


 驚いたのは、ほんの数秒だった。


 ママはすぐに肩の力を抜き、納得したように頷いた。


「まあ、あれだけ派手に轢かれたんですものねぇ。むしろ、よく今まで意識があったわねって感じだわ」


「……ずいぶんと落ち着いていらっしゃいますね」


「だって、死んだものは仕方ないじゃない」


 ママはあっけらかんと言った。


「それに、あの子は無事だったんでしょう?」


「……あの子?」


「ほら、アタシが突き飛ばした男の子よ。怪我してなかった?」


 女神は少しだけ目を見開いた。


 そして、柔らかく微笑む。


「はい。彼は無事です。命に別状はありません」


「そう。よかった」


 ママは、心底ほっとしたように笑った。


 その顔には、自分が死んだことへの恐怖も、後悔も、ほとんど見られなかった。


 女神は、そんなママの様子をじっと見つめていた。


「……本当に、あなたは」


「ん?」


「いえ。何でもありません」


 女神は小さく首を振った。


 ママは少しだけ首を傾げたが、すぐに別のことが気になったらしい。


「それにしても、ここはどこなの?」


「ここは、あなた方の世界でいうところの、神の領域です」


「神の領域……」


「はい」


「へぇ……」


 ママは周囲を見回した。


 どこまでも白い。


 家具もなければ、扉もない。


 椅子もテーブルも見当たらない。


「……ねえ、女神ちゃん」


「はい?」


「神様って、家具を買うお金もないの?」


「……はい?」


「だって、何もないじゃない。椅子くらい置いておきなさいよ。立ちっぱなしじゃ疲れるでしょう?」


「いえ、ここはそういう場所ではなくてですね……」


「お茶もないの? アタシ、喉が渇いたんだけど」


「死後なので、喉は渇かないはずですが……」


「気分の問題よ、気分の!」


「…………」


 女神は額に手を当てた。


 どうやら、この人と話していると調子が狂うらしい。


 ママはそんな女神を見て、楽しそうに笑った。


「冗談よ。そんな顔しないの」


「……本当に、あなたという人は」


「褒めても何も出ないわよ?」


「褒めていません」


「あら、照れちゃって」


「照れてもいません!」


 真っ白な空間に、女神の声が響いた。


 ママは、ますます楽しそうに笑った。


 しばらくして、ようやく落ち着いた女神が口を開く。


「……それで、あなたの身体についてですが」


「身体?」


「はい。先ほど、ご自分の肌艶が良いとおっしゃっていましたね」


「そうそう。なんだか若返ったみたいで」


 ママは改めて自分の腕を眺めた。


「傷もないし、髪も綺麗だし。死んだら身体の状態がリセットされるのかしら?」


「厳密には、そういうわけではありません。今のあなたは、魂の状態に合わせた姿になっています」


「魂の状態?」


「ええ。肉体そのものではなく、あなたという存在を形作るもの、と考えていただければ」


「ふぅん……」


 ママは自分の胸元を見下ろした。


 いつもの黒いドレス。


 いつものアクセサリー。


 何も変わっていないように見える。


「でも、服までそのままなのね」


「あなたが強く認識している姿や、身につけていたものが反映される場合もあります」


「へぇ。じゃあ、白装束じゃないのね」


「白装束?」


「ほら、死んだ人って白い服を着てるイメージがあるじゃない?」


「ああ……」


 女神は少し考え込んだ。


「あれは、また別の管轄になりますので」


「……管轄?」


「はい」


「そこ、分業制なの?」


「神の世界にも、いろいろと事情があるんですよ」


「神様の世界も大変ねぇ」


「本当に……」


 女神は、遠い目をした。


 ママはその反応に満足したのか、うんうんと頷いた。


 神様も苦労しているらしい。


 世の中、どこへ行っても仕事というのは大変なものだ。


 ……まあ、死後の世界にまで仕事の話があるとは思わなかったけれど。


「それで、女神ちゃん」


「はい」


「アタシはこれからどうなるの?」


 ママの問いかけに、女神の表情が少しだけ改まった。


「本来であれば、あなたの魂はこのまま魂の流れへと戻り、次の生へ向かうことになります」


「輪廻転生ってやつね」


「はい」


「じゃあ、それでいいんじゃない?」


 あまりにもあっさりとした返事だった。


 女神は、思わず瞬きをした。


「……よろしいのですか?」


「何が?」


「その……もう一度、生まれ変わることになるのですよ?」


「そうでしょうねぇ」


「今までの人生とは、お別れになります。家族や友人、あなたが築いてきたものとも……」


「うん」


 ママは、静かに頷いた。


 そして、少しだけ目を細める。


「そりゃあ、もっと長生きできたらよかったとは思うわよ。店だって、まだまだ続けたかったしね」


 楽しかった日々が、頭をよぎる。


 カウンター越しに交わした、くだらない会話。


 何度も聞いた愚痴。


 失恋して泣いていた客が、次に来たときには新しい恋人を連れてきたこと。


 仕事を辞めるかどうか悩んでいた青年が、数年後には独立して店を持ったこと。


 喧嘩別れした友人同士が、店で顔を合わせて仲直りしたこと。


 ひとつひとつは、何気ない出来事だった。


 けれど、どれも大切な思い出だった。


「……でもね」


 ママは、ゆっくりと顔を上げた。


「アタシ、結構幸せだったのよ」


 女神は、黙って耳を傾けた。


「いろんな人と出会って、いろんな話を聞いて。泣いたり、笑ったり、怒ったり。面倒くさいことも山ほどあったけど、全部ひっくるめて楽しかったわ」


 ママは、いつものように豪快に笑った。


「最後に一人でも助けられたなら、それで十分よ」


「……本当に、そう思われるのですね」


「ええ。後悔がないって言ったら嘘になるけどね」


 そこで、ママはふと思い出したように指を立てた。


「ただし!」


「……ただし?」


「男運だけは、最後までなかったわね!」


「…………」


 女神の表情が、すっと真顔になった。


「……そこですか?」


「そこよ!」


 ママは力強く頷いた。


「いい男と出会って、いい恋をして、最後は愛する人の腕の中で看取られる……。そんなロマンチックな人生、一度くらい経験してみたかったわぁ!」


「……人生の最後の心残りが、それなのですか?」


「女の人生としては大事でしょう?」


「そういうものなのでしょうか……」


「そういうものよ!」


 女神は苦笑した。


 しかし、その笑みはすぐに静かなものへと変わった。


「……ですが」


「ん?」


「あなたには、もう一つの道があります」


「もう一つ?」


「はい」


 女神が手をかざす。


 すると、何もなかった白い空間に、淡い光が広がり始めた。


 光はゆっくりと形を変え、やがて一枚の巨大な映像のようなものを映し出す。


 そこに広がっていたのは、見たこともない世界だった。


 果てしなく続く深い森。


 空を飛ぶ、巨大な翼を持った生き物。


 山の向こうにそびえる、壮麗な城。


 石造りの街並みを行き交う、耳の長い者や、獣のような耳と尻尾を持つ者たち。


 そして、人々の手から生み出される、不思議な光。


「……あら、すごい」


 ママは目を輝かせた。


「何、これ。映画?」


「いいえ。実在する世界です」


「実在するって……」


 ママは映像を食い入るように見つめた。


「もしかして、異世界ってやつ?」


「はい」


 女神は静かに頷いた。


「あなたが生きていた世界とは、まったく異なる世界です。そこには魔法が存在し、人間以外の種族も暮らしています」


「魔法! いいわねぇ、魔法!」


 ママは思わず身を乗り出した。


「ちょっと、女神ちゃん。アタシも魔法が使えるようになるの?」


「……話を最後まで聞いてください」


「あら、ごめんなさい」


 ママは口元を押さえた。


 けれど、その目はすっかり好奇心で輝いている。


 女神は、そんなママを見て微笑んだ。


「この世界には、美しい自然も、素晴らしい文化もあります。多くの人々が懸命に生き、日々の暮らしを営んでいます」


 映像が切り替わる。


 市場で買い物をする人々。


 畑を耕す農夫。


 子供たちが笑いながら走り回る、穏やかな村。


 そこには、ママがよく知る日常と似た光景もあった。


 けれど。


 次の瞬間、映像の雰囲気が一変した。


 荒れ果てた村。


 崩れた家屋。


 傷ついた人々。


 泣きながら母親にしがみつく子供。


 そして、武器を手に、誰かを追い詰める者たち。


「……これは?」


 ママの表情から、笑みが消えた。


「この世界では現在、多くの人々が苦しんでいます」


 女神の声が、少しだけ低くなる。


「人間同士の争い。魔物の脅威。貧困や差別。そして、種族間の対立……」


 映像が次々と切り替わっていく。


 助けを求める人。


 誰にも頼れず、ひとりで泣いている人。


 生まれた種族や立場だけを理由に、理不尽な扱いを受ける人。


「平和に暮らしたいと願っている人々がいる一方で、その平和を壊そうとする者たちもいます」


 女神は、静かに続けた。


「もちろん、すべての問題を一度に解決することはできません。私たち神にも、直接介入できる範囲には限りがあります」


「……神様なのに?」


「神だからこそ、守らなければならない決まりもあるのです」


「なるほどねぇ……」


 ママは腕を組んだ。


 神様にも、できることとできないことがある。


 それは、人間の世界とそう変わらないのかもしれない。


「それで?」


 ママは女神に視線を戻した。


「そんな世界に、アタシが行くってこと?」


「はい」


 女神は、まっすぐに頷いた。


「あなたに、その世界で生きてほしいのです」


 ママは、しばらく黙って映像を見つめていた。


 やがて、ぽつりと尋ねる。


「……どうして、アタシなの?」


 女神は、その問いを待っていたかのように口を開いた。


「あなたは生前、多くの人の悩みに耳を傾けてきました」


 静かな声が、白い空間に響く。


「落ち込んでいる人を励まし、孤独な人に寄り添い、喧嘩をしている人たちの仲を取り持った」


「……」


「お腹を空かせた人には食事を振る舞い、困っている人がいれば、損得を考えずに手を差し伸べた」


 ママは、少しだけ気まずそうに頬を掻いた。


「いやぁ……まあ、できる範囲でよ」


「あなたは、ご自分が思っている以上に多くの人を救ってきたのですよ」


 女神は微笑んだ。


「あなたのお店を訪れた人々は、ただお酒を飲みに来ていたわけではありません。誰かに話を聞いてほしかった人。ひとりで抱えきれない悩みを持っていた人。明日を迎えるのが怖かった人……」


 ママの表情が、少しずつ変わっていく。


「あなたは、そうした人たちの居場所になっていました」


「……」


「あなたの言葉に救われた人がいます。あなたの料理に救われた人がいます。あなたと笑い合った時間を支えにして、苦しい日々を乗り越えた人もいます」


 女神は、まっすぐにママを見つめた。


「あなたは、誰かの人生を変えようとしていたわけではないのでしょう」


「……ええ。まあね」


「ただ、目の前で困っている人を放っておけなかった」


 ママは、ゆっくりと頷いた。


「そういうことなら……そうね」


「あなたが最後に命を救った男性も、そうです」


 女神の声が、ほんの少しだけ優しくなった。


「あなたは、ご自分の命を顧みることなく、一人の人間を救いました」


「……身体が勝手に動いただけよ」


「それが、あなたなのです」


 女神は一歩、ママへと近づいた。


「あなたは、とても徳の高い人です」


「徳ねぇ……」


「だからこそ、お願いがあります」


「お願い?」


 女神は、静かに頭を下げた。


「その世界へ転生し、そこで生きてほしいのです」


 ママは目を瞬いた。


 神様が、人間に頭を下げている。


 それだけ、この世界の状況は深刻なのだろう。


「そして――」


 女神は顔を上げ、優しく微笑んだ。


「もう一度、誰かを救ってあげてください」


 しばらく、静寂が続いた。


 ママは、映し出された異世界を見つめていた。


 泣いている子供。


 傷ついた人。


 誰かに助けを求める人。


 そして、その人たちを見つめる、自分自身の姿を想像した。


 新しい世界。


 新しい人生。


 そこで何が待っているのかは分からない。


 危険なこともあるだろう。


 今までの常識が通用しないことだって、きっとある。


 それでも。


 困っている人がいる。


 助けを求めている人がいる。


 なら、答えは決まっていた。


「……そういうことね」


 ママは、ゆっくりと顔を上げた。


「はい」


「要するに、助けてほしい人がいるから、アタシに行ってほしい、と」


「……はい」


「それで、アタシに何か特別な使命があるとか、世界を救う勇者になれとか、そういう話?」


「ええと……必ずしも、そこまで大きなことをお願いするつもりは……」


「なら、なおさら簡単じゃない」


 ママは腰に手を当てた。


 そして――。


 豪快に笑った。


「断る理由なんてないじゃない!」


 その声が、白い世界いっぱいに響き渡る。


「助けを求められて、知らん顔するなんてできるわけないでしょう!」


「……!」


「それに、せっかくの第二の人生よ? 魔法があって、見たこともない世界が広がってるんでしょう? ちょっとくらい楽しんだって罰は当たらないわよねぇ!」


「そ、それはもちろん……」


「だったら決まり!」


 ママは胸を張った。


「困ってる人がいるなら助ける! 泣いてる人がいるなら笑わせる! お腹が空いてる人がいるなら、まずは何か食べさせる!」


 そして、にっこりと笑う。


「それがオネエってもんよ!」


 女神は、ぽかんと口を開けていた。


 ママは、さらに力強く拳を握る。


「男は度胸、女は愛嬌――」


 一拍置いて。


「オネエは最強!」


 決め台詞とともに、ママは胸を張った。


 白い空間に、しばし沈黙が落ちる。


 やがて。


「……ふふっ」


 女神の口元が緩んだ。


「ふふふっ……あははっ!」


 とうとう、こらえきれずに笑い出した。


「ちょっと、女神ちゃん! 何がおかしいのよ!」


「い、いえ……すみません。あまりにも、あなたらしくて……!」


「でしょう?」


 ママは得意げに笑った。


 女神は目元を拭い、改めて姿勢を正した。


「……分かりました。それでは、あなたをその世界へ転生させましょう」


「よろしくね、女神ちゃん」


「はい。新しい世界で、あなたが幸せに生きられるよう、私もできる限りのことをいたします」


「ありがとね」


 ママは、ふと思い出したように付け加えた。


「それと、ひとつお願いがあるんだけど」


「何でしょう?」


「せっかくの第二の人生なんだから、今度こそいい男と出会いたいわねぇ」


「…………」


「できれば、顔が良くて、優しくて、包容力があって、アタシのことをちゃんと大切にしてくれる人!」


「……転生先の世界で、素敵な出会いがあることをお祈りしています」


「ちょっと、そこは何か特典をつけてくれてもいいじゃない!」


「転生は恋愛成就のサービスではありませんので……」


「あら、ケチ!」


「ケチではありません!」


 女神が珍しく声を張り上げた。


 ママは、楽しそうに笑った。


「冗談よ、冗談。そんなに怒らないの」


「……本当に、最後まで調子を狂わされますね」


「それ、褒め言葉として受け取っておくわ」


「褒めていません……」


 女神は小さくため息をついた。


 けれど、その表情はどこか晴れやかだった。


 目の前にいるこの人なら、きっと大丈夫。


 そんな確信が、彼女の中にはあった。


 女神は、そっと手を差し出した。


「それでは、ご案内します。新しい世界へ」


 ママは、その手を握った。


「よろしくね、女神ちゃん」


「……最後までちゃん付けなんですね」


「当たり前でしょう? だって、もうお友達じゃない」


「神様と転生者に、そんな概念があるんですか?」


「今から作ればいいのよ」


「……なるほど」


 女神は、くすりと笑った。


 次の瞬間。


 二人の手を中心に、まばゆい光が溢れ出した。


 白い空間が光に包まれ、目の前の景色がゆっくりと遠ざかっていく。


 ママは目を閉じた。


 怖くないと言えば、嘘になる。


 けれど、不思議と不安はなかった。


 どんな世界でも、きっと同じだ。


 悩みを抱えた人がいて、笑っている人がいて、誰かを大切に思う人がいる。


 だったら、やることは変わらない。


 困っている人がいたら、手を差し伸べる。


 泣いている人がいたら、一緒に笑える日が来るまで寄り添う。


 そして、自分自身も思いきり楽しむ。


 それが、ママの生き方だった。


 新宿三丁目で生涯を終えた、一人のオネエ。


 その魂は今、新たな世界へと旅立とうとしていた。


 第二の人生が、どんなものになるのか。


 このときのママは、まだ知らない。


 そこが魔法と魔物に満ちた世界であることも。


 人間だけでなく、さまざまな種族が暮らしていることも。


 そして、彼女の持つ人柄と価値観が、やがてその世界に大きな変化をもたらすことも。


 ただ一つ、確かなことがある。


 どんな世界に生まれ変わろうと、この人はきっと変わらない。


 豪快に笑い、困っている人を放っておけず、時にはお節介を焼きながら、最後には誰かの背中を押してやる。


 そんなオネエが、今、新たな人生の一歩を踏み出したのだ。


 ――こうして。


 新宿三丁目のオネエママは、誰も知らない異世界へと転生することになった。

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