第九章 最強受付嬢、残念美人を預かる。
疲れ切った身体を引きずりながら、マリアたちは遺跡の出口を抜けた。
遺跡の前には、武装した大勢のエルフたちが集まっていた。
彼らは一行の姿を見つけるなり、安堵の声を上げて駆け寄ってくる。
「族長様!」
「リュシエラ様!」
「皆様、ご無事で……!」
族長とその息子の無事を確かめたエルフたちは、次々と二人を囲んだ。
「皆、心配をかけたな。もう大丈夫だ」
族長がそう告げると、張り詰めていた空気が一気に緩んだ。
その様子を見て、マリアもほっと胸を撫で下ろす。
「よかったわね、リュシエラちゃん」
「はい……! 改めて、本当に、本当にありがとうございました。皆様のおかげですわ」
リュシエラは、安堵と喜びの入り交じった笑顔を浮かべた。
しかし、族長はすぐにマリアたちへ向き直り、深々と頭を下げる。
「皆様。このたびは、娘だけでなく、我が民、そして私と息子まで救っていただき、心より感謝申し上げます」
「もういいのよ。みんな無事だったんだから!」
マリアは明るく笑った。
「それより、みんな疲れてるし、身体も汚れちゃってるでしょ? ちょっと休ませてもらえると嬉しいわねぇ」
族長は改めて、一行の姿を見回した。
マリアの黒いドレスは泥や埃にまみれ、長い髪も乱れている。ティアナの衣服は斬られた傷や微かに血が滲んだ痕、スカーレットのローブにも汚れやスライムが乾いた痕が付着していた。
ルナは魔獣に戻った際の炎で衣服は焼け、今は族長より借りたマントを羽織っている。そして、精霊の力を使い果たしたリュシエラも、笑顔こそ浮かべているものの、さすがに疲労を隠せない様子だった。
「もちろんです! 皆様は、我らの恩人。どうか集落でゆっくりお休みください。皆様がお休みになっている間に、わたしは戻り、炉の復旧も進めておきます」
「無理はなさらないでくださいね。…ちなみに、復旧にはどのくらいかかりそうなのですか?」
ティアナが尋ねると、族長は少し考えてから答えた。
「装置そのものは壊れておりません。遺跡の炉を再調整する必要はありますが、夕方までには湯の供給を再開できるでしょう」
「本当!? よかったぁ!」
マリアの顔がぱっと明るくなった。
「これで温泉に入れるのね!」
「……マリア様。あの戦いの後で、よくそれだけ元気が残っていますね……」
「体力はレディの基本! それに、嬉しいことがあれば、素直に喜ばなくちゃ!」
「……そうですね。では私も、今は素直に喜ぶことにします」
ティアナの疲れ切った顔は緩めの笑みを浮かべた。
「それでは皆様、まずはお身体を清めてください。お召し物も、こちらで洗濯させていただきます」
「えっ、そこまでしてくれるの?」
「当然です。皆様には、どれほど感謝してもしきれませんから」
族長が手を叩くと、エルフたちが一斉に動き始めた。
「水浴び場へご案内します!」
「お召し物は、私たちにお任せください!」
「食事の準備も進めておきますね!」
「……なんだか、急に至れり尽くせりねぇ」
「それだけ、皆様に感謝しているということですわ」
リュシエラは嬉しそうに微笑んだ。
スカーレットが、くふふ、と笑う。
「そういうことなら、ありがたく甘えさせてもらうとしよう」
こうしてマリアたちは、エルフたちの案内で水浴び場へと向かった。
◇
集落の一角には、木々に囲まれた水浴び場があった。
石で囲われた浴場には森の湧き水が流れ込み、澄んだ水面が陽光を反射している。
温泉の湯はまだ戻っていないが、汗や泥を洗い流すには十分だった。
浴場の中央には、目隠し代わりにもなる大きな岩がそびえている。マリアは岩の片側、ティアナたちは反対側で身体を洗うことになった。
「はぁ~……やっぱり、身体が綺麗になると気分が違うわねぇ」
水を浴び、黒い長髪を洗うマリアが、気持ちよさそうに息を吐いた。
「そうですね。しかし、先ほどはマリア様も大変でしたね……」
岩の向こうから、ティアナの苦笑した声が返ってくる。
「本当よ! あの男と戦ったときより、よっぽどピンチだったわ!」
浴場に着くなり、マリアはエルフの女性たちに囲まれていた。
服を脱がせて世話を焼こうとする者や、身体のあちこちを眺めて感嘆の声を上げる者まで現れ、我こそはとばかりにマリアの世話を買って出たのだ。
「素敵なお身体……!」
「まあ……なんてたくましい腕……! こんな腕に抱かれたら……!」
「ちょ、ちょっと、皆さん!? お気持ちはありがたいけど、アタシは自分のことくらい自分でできるから!」
もちろん、マリアはレディの流儀を貫き、彼女たちの申し出をすべて丁重に断ったのだった。
「改めて、こうしてみんな無事てよかったわ…あの男、酷いことするわよね!」
「はい。あのときはマリア様がいてくださり、本当に助かりました。あの精神攻撃の最中も――」
そこまで言って、ティアナは言葉を止めた。
「ティアナちゃん?」
「い、いえ! 何でもありません!」
「そう? あんなことがあった後だもの。無理しちゃダメよ」
「ひゃ、ひゃい……!」
思わず裏返った声が出た。
大きな岩の向こうのマリアには見えないはずなのに、より隠れようとティアナはその場にしゃがみ込み、両手で顔を覆った。
――愛する方。
幻影の中で、自分は確かにそう口にした。
あのときは、目の前にいる偽物を否定するために必死だった。マリアの優しい答えが聞こえて、迷わず言い切れた言葉だ。
けれど、今になって思い返せば……。
(わたしは……マリア様のことを、ただ敬愛しているだけではない……?)
尊敬している。憧れている。誰よりも信頼している。
それは間違いない。
けれど、マリアに優しくされると胸が温かくなる。笑顔を向けられるだけで嬉しくなり、ふとした瞬間にその姿を目で追ってしまう。
そして今、幻影の中で口にした言葉を思い返すだけで、胸が落ち着かなくなる。
(もしかして……わたし、本当にマリア様のことを……)
そこまで考えた瞬間、ティアナの顔が一気に熱くなった。
これまで、マリアに抱いている感情は、尊敬や憧れからくるものだと思っていた。
だが、それだけではない。
自分は、マリアに恋をしているのかもしれない。
(そ、そんな……! わたしが、マリア様に……!?)
「ティ、ティアナちゃん? ほんとに大丈夫?」
頭から何度も水を浴びるティアナの様子を不審に思ったのか、岩の向こうから再び心配そうな声が飛んできた。
「だ、大丈夫です! 何の問題もありません!」
「そう? ならいいけど……」
マリアは不思議そうに首を傾げたものの、それ以上は追及しなかった。
そもそも、幻影の中でティアナが口にした言葉を、マリアは聞いていない。
ティアナが今、自分の気持ちに気づいて慌てふためいているなど、知る由もなかった。
(お、落ち着きなさい、ティアナ……! 今までどおりに接すればいいだけです……!)
そう自分に言い聞かせても、胸の鼓動はなかなか収まってくれなかった。
ティアナは大きな岩に隠れ、顔の赤みが引くのをじっと待った。
一方、その横では、ルナがエルフの女性たちに髪を洗ってもらっていた。
銀灰色の髪と大きな狼耳、ふさふさの尻尾まで丁寧に手入れしてもらい、ルナはなんとも気持ちよさそうな表情を浮かべている。
「わぁ……きもちいです〜……」
「ふふっ。綺麗な毛並みですね」
すっかり綺麗になった髪と尻尾を見て、犬の様に頭をブルブル払った。
そしてルナは嬉しそうに、何かを思い立ったように、ばしゃばしゃと水を掻き分けて岩の端まで移動する。
「ママ! 見てください! 綺麗になりました!」
岩の向こうから、幼い身体とふわふわの尻尾がひょこりと顔を出した。
「あら、本当ねぇ! ふっわふわじゃない!」
「えへへ……!」
「でも、レディがすっぽんぽんで歩き回っちゃダメよー? ちゃんと身体を拭いて、お洋服を着てからね!」
「はーい!」
素直な返事に、マリアも自然と頬を緩めた。
その一方で、スカーレットは少し離れた場所で冷たい水を手桶ですくい、長い髪を洗っていた。
「温泉もよいが、こうして森の水に触れるのも悪くないのう」
「でも、温泉が復活したら、そっちも楽しみでしょ?」
「当然じゃ。聞けば、あの宿は風呂で酒を飲んでもよいそうじゃぞ?」
スカーレットは、にやりと笑った。
「あら、それは素敵!」
「くふふ、なんじゃ? 一緒に呑むか? せっかくなら同じ風呂でな」
「揶揄うんじゃないわよ」
呆れたように返すマリアに、スカーレットは楽しそうに笑うのだった。
やがて、全員が身体を清め終えると、エルフたちはルナには新しい服と預かった衣服を綺麗にして戻してくれた。
泥や水の汚れはすっかり落ち、ほつれた部分には応急処置まで施されている。
「まあ! すごいじゃない!」
マリアは自分のドレスを広げて目を輝かせた。
「汚れも落ちてるし、ほつれまで直ってるわ! アタシ、こういう細かい気配りに弱いのよぉ!」
「お喜びいただけて何よりです」
エルフの女性たちは、嬉しそうに笑った。
◇
日が傾き、森が柔らかなオレンジ色に染まり始めた頃。
集落の広場には、ささやかな宴の準備が整っていた。
木の卓には、焼きたてのパンや香草を使った料理、森で採れた果実が並んでいる。
「この果物、おいしいわねぇ!」
「こちらの料理、王都でも食べたことのない味わいで絶品じゃな」
「ママ、こっちも食べてみてください!」
ルナが差し出した果実を、マリアは嬉しそうに口へ運んだ。
「んーっ! これもおいしい!」
ルナは満足げに笑う。
戦いの緊張は薄れ、集落には穏やかな日常が戻りつつあった。
怪我人はまだ多くいるが、皆が食事を楽しみ、笑い合っている。
そんな中、ティアナはマリアの隣に座っていた。
先ほどの水浴び場で、自分の気持ちに気づいてしまったティアナ。
今までは、憧れの人が近くにいることを嬉しく思うだけだった。
しかし、今は違う。
「ティアナちゃん、これ食べてみない? 結構おいしいわよ! はい、あーん」
「えっ!? あ、あの……あーん……」
マリアの手づから差し出された果実を、ティアナはぎこちなく口に運んだ。
「どう?」
「……お、おいしいです!」
「でしょ? ほら、こっちも食べてみなさいよ!」
楽しそうに笑うマリア。
確かに美味しいはずなのに、味などまともに分からなかった。
嬉しそうなマリアの横顔に、ティアナの胸が跳ねていたのだ。
(ち、近い……!)
肩が触れそうなほど近くにいる。
いつもと同じ距離のはずなのに、今は妙に意識してしまう。
マリアがこちらを向くたび、心臓が大きく跳ねた。何か話そうとしても、言葉がすぐには出てこない。
(お、落ち着け、落ち着け、わたし……! いつもどおりに、平常心に……!)
そう思えば思うほど、隣にいるマリアの存在が気になってしまう。
「……ティアナちゃん?」
「ひゃっ!?」
突然声をかけられ、ティアナは思わず肩を跳ねさせた。
「本当に大丈夫? やっぱり疲れてるんじゃない?」
「も、申し訳ありません! 少し考え事をしておりまして……!」
「そう? ならいいんだけれど、無理しちゃダメよ?」
マリアはそう言って、心配そうに微笑んだ。
その優しさが、今のティアナにはあまりにも眩しかった。
(ああ……もう……!)
胸の鼓動が、ますます速くなる。
このままでは、顔を見られただけで何を考えているのか悟られてしまいそうだ。
「……は、はい。ありがとうございます、マリア様」
ティアナは慌てて顔を伏せた。
森の向こうでは、夕日がゆっくりと沈み始めている。
(お願いです……夕日よ。どうか、わたしの顔を隠してください……!)
耳まで真っ赤にしながら、ティアナは心の中で祈った。
そんな彼女の様子を、少し離れた席から眺めていたスカーレットが、にやりと笑っていた。
「あ、そうだわ。二人分、飲み物を取ってくるわね」
「ありがとうございます……」
ティアナが顔を覆い、団子虫のように身体を丸めているのを見て、マリアは気を遣ったのか席を立った。
それを待っていたかのように、スカーレットがにやにやと近づいてくる。
「おやおや。ティアナは、またマリアに見惚れておったのか?」
「なっ!? ち、違います!」
「ほう? では、なぜ顔が赤いのじゃ?」
「そ、それは……!」
「くふふ。隠そうとするほど、怪しく見えるものじゃぞ?」
「魔王様!」
ティアナが顔を覆うと、ルナが不思議そうに首を傾げた。
「ティアナお姉ちゃん、お顔が赤いですけど、熱があるんですか?」
「ち、違います! 大丈夫ですよ!」
「そうですか? よかったです!」
ルナは何の疑いもなく頷き、果実を頬張った。
ティアナはますます顔を赤くするのだった。
そんな賑やかな時間は、あっという間に過ぎていった。
◇
「皆様、お待たせいたしました」
広場に族長の声が響いた。
作業を終えた族長とその息子が、広場へ戻ってきたのだ。衣服には作業の跡が残り、額には汗が滲んでいた。
まだ怪我が癒えきっていないはずだが、その表情は明るい。
「炉の復旧が完了しました。制御も安定しております。これで温泉への湯の供給も、遺跡を守る結界も元に戻ります」
「やったぁぁぁ! 温泉復活よぉぉぉ!」
マリアは両手を上げて喜んだ。
「……マリア様、もう少し落ち着いてください」
「無理よ! 忘れたの? アタシたちは温泉旅行に来たのよ?」
「……そう、ですね。本来は、のんびり旅行をする予定だったのが……どうしてこんなことになったんでしょうね……」
その「どうして」という言葉には、いろいろな意味が込められていたのだろう。
ティアナは力なく頭を抱え、遠い目をした。
「まあ、よいではないか。旅はまだ続くのじゃから」
スカーレットは満足げに笑った。
「皆様には、何とお礼を申し上げればよいのか……」
族長が頭を下げると、マリアは慌てて手を振った。
「そんな、かしこまらなくていいのよ! 成り行きだっただけなんだから」
ティアナは、成り行きでまた死にかけたことについては言及しなかった。
――言わないと決めたのだった。
「もし、またこの地を訪れることがあれば、いつでも歓迎いたします」
リュシエラも、名残惜しそうにマリアたちを見つめた。
「皆様と過ごした時間は、本当に楽しいものでしたわ。お別れするのが寂しいですけれど……」
そう言いながらも、リュシエラの表情には、どこか期待に満ちた輝きがあった。
◇
日も傾き、夜の帳が下りようとしていた。
森の入り口では、族長をはじめとするエルフたちが、旅立つマリアたちを見送るために集まっていた。
温泉の復旧も済み、マリアたちは残りの旅程を楽しむべく、再び王都へ向かうことになったのだ。
「皆さん、このたびは本当にありがとうございました。皆さんのおかげで、里に平穏が戻りました」
族長が深々と頭を下げる。
「いいのよ。困ったときはお互い様でしょ?」
マリアは胸を張り、いつもの調子で笑った。
「温泉も無事に戻ったようですし、これでひと安心ですね」
ティアナがそう続けると、ルナは大きな狼耳をぴこぴこと動かしながら、周囲を見渡した。
「あれ? リュシエラお姉さんがいないですね……」
その言葉に、族長は困ったように眉を下げた。
「すみません。娘は宴席の際に部屋へ戻ったきりでして……。姿を見せておりません」
「仕方あるまい。一時的とはいえ、里の者たちの不在を一人で背負っておったのじゃ。精神的な疲労も相当なものじゃろうて」
スカーレットが、もっともらしく頷いた。
「そうねぇ……。お別れを言えないのは寂しいけど、ゆっくり休んでほしいわね」
マリアも納得したように頷いた。
族長たちと最後の挨拶を交わし、一行はそろそろ出発しようと歩き始めた。
――そのときだった。
「あああああっ! お待ちくださいませぇぇぇ!」
森の奥から、聞き覚えのある声が響いた。
「……ん?」
マリアが振り返る。
木々の間から、巨大な荷物を抱えたリュシエラが駆けてきた。
背負った大きな袋からは、大弓の柄がはみ出している。袋そのものも、彼女の身体がすっぽり隠れてしまいそうなほど膨らんでいた。
さらに両手にも、今にもはち切れそうな荷物を抱えている。
どう見ても、身軽な旅支度とは言い難い。
「よかった……! 間に合いましたわ……!」
「リュシエラ!? その荷物、いったいどうしたのだ!?」
「お父様、今までお世話になりました!」
「いや、お前は、突然何を言っているのだ!?」
父の問いかけなど気にも留めず、リュシエラは一同の前でぴたりと立ち止まった。
「皆さん、私もご一緒させてください!」
「……はい?」
マリアが目を丸くする。
「以前から夢見ていたのです。異世界の来訪者様のお側で、外の世界を見て回ることを!」
リュシエラは満面の笑みで言い切った。
「いや、まあ……外って言っても王都に帰るだけなのだけれど…」
マリアは彼女の荷物へ目を向けた。
嫌な予感を覚えながら、そっと尋ねる。
「一応、聞くけど……その荷物の中身を聞いてもいいかしら?」
「もちろんです!」
リュシエラは待ってましたとばかりに、背負っていた袋を下ろした。
どさっ。
地面がわずかに揺れるほどの音が響く。
そして彼女は袋の口を開けると、中から大量の冊子を取り出した。
「こちらは、私がこれまでに受け継ぎ、収集してきた大切な遺産です!」
冊子の表紙には、長い年月を経て色褪せたものもある。だが、妙に艶めかしい絵や意味深な題名は、今なお強烈な存在感を放っていた。
いわゆる――薄い本の山である。
その正体を察したマリアの顔が、みるみる引きつっていく。
「ちょ、ちょっと待ちなさい! まさか、これ全部……!」
「はい! かつてこの里を訪れた来訪者様から受け継いだものです。今では、私自身が創作した作品もございますわ!」
「やっぱりぃぃぃっ!?」
マリアの悲鳴が森に響き渡った。
しかし、リュシエラはまったく気にする様子もなく、集まっていたエルフの女性たちへと向き直る。
「皆さん。こちらをお渡ししておきますね」
「リュシエラ様……! 本当に、よろしいのですか!?」
「ええ。私がいない間も、どうかこの文化を絶やさないでください」
「「「リュシエラ様ぁぁぁぁっ!!」」」
エルフの女性たちが、黄色い悲鳴を上げた。
ある者は冊子を胸に抱きしめ、ある者は感極まって涙を浮かべ、またある者は表紙を見つめながら感動に震えている。
「この構図……! この絶妙な距離感……!」
「こちらの遺産も、後世に語り継がねば……!」
「リュシエラ様のご不在中、私たちが責任を持って受け継ぎます!」
「ふふふ……。頼みましたよ、皆さん」
リュシエラは満足げに頷いた。
まるで、長年守り続けてきた至宝を託す賢者のような表情である。
ただし、託しているのは秘宝ではない。
彼女の性癖の根幹を成す、あらゆる趣味嗜好が詰め込まれた同人誌の山だった。
「……何を見せられてるの、アタシたち?」
マリアが遠い目をする。
ちなみに、この里の女性エルフたちは、以前からリュシエラによる熱心な布教を受けていた。
そのため、彼女の作品に対する理解は深く、性癖もそれなりに――いや、かなり鍛え上げられている。
リュシエラが旅立つにあたって行ったのは、いわば『負の遺産の継承』だった。
「……はぁ」
その様子を見守っていた族長が、深いため息をついた。
「お恥ずかしいところをお見せしました」
「い、いえ……まあ……」
マリアは、もはや何と返せばいいのか分からなかった。
「この子は昔から、かつていらっしゃった来訪者様と、その世界への憧れが強くてな……。もうご存知かと思いますが、いつからか、こういう碌でもないことになると、目を輝かせて夢中になるようになってしまったのです……」
「まあ! 酷いですわ、お父様! 碌でもないことだなんて!」
「女性が魔物に襲われる本が、碌なものなわけがあるか!!」
ごもっともである。それも性的な意味で。
マリアたちは、思わず頷いてしまった。
「しかも、お前はそれを自分で描いておるのだぞ……」
「お父様! 創作活動は文化の発展に必要不可欠ですわ!」
「言い方を変えても、内容が内容だ!!」
父親の容赦ない返答に、リュシエラは頬を膨らませた。
族長はそんな娘を見て、再び大きく息を吐いた。
「知識も癒しの力も申し分ないのですが……。この調子で、何の後ろ盾もないまま街へ出したら、いったい何をしでかすことやら……」
マリアは、先ほどの同人誌の山を思い出した。
裏路地で暴漢に襲われる女性の物語。貴族に隷属させられる女性の物語。そして、魔物にあんなことやこんなことをされて、×××なことになる物語――。
想像するだけで、頭が痛くなってきた。
「……まあ、確かに」
「そこで、ひとつお願いがあるのです」
族長は姿勢を正し、マリアに向かって深々と頭を下げた。
「どうか、この子のことを見ていていただけないでしょうか。世間知らずなところもありますし、何より……放っておくと、本当にろくでもない方向へ一直線になりそうで…」
「お父様!? 私はもう立派な大人ですよ!?」
「その立派な大人が、公の場で同人誌の継承式を始めているのだが?」
「もちろん、崇高な遺志のもとですわ!」
リュシエラが高らかに宣言する。
マリアは額に手を当て、しばらく考え込んだ。
確かに、彼女は癒しの力には全員が助けられた。遺跡での一件でも、その力は十分に頼りになった。
ただし、別の意味で目が離せない人物であることも、今回の騒動ではっきりしてしまった。
「……分かったわ。アタシたちと一緒に来なさい」
「本当ですか!? ありがとうございます、マリア様!」
リュシエラはぱっと顔を輝かせ、勢いよく頭を下げた。
「それでは、マリア様」
リュシエラは、すっとマリアの腕に抱きついた。
そして、その豊かな胸を遠慮なく押し付ける。
ティアナの眉が、ぴくりと動いた。
「今後とも、末永くよろしくお願いいたしますわ」
「え? 末永く???」
「まずはマリア様との愛の巣で、マリア様の生活を把握するところから始めましょう。食事、睡眠、健康管理……それから、将来設計についても、きちんとお話し合いを!」
恐ろしく饒舌に語り始めるリュシエラを、マリアは固まったまま見つめていた。
「リュシエラさん、離れてくださいー!」
ティアナが慌てて引き剥がそうとするが、リュシエラは腕にしがみついたまま離れようとしない。
「嫌ですわー! マリア様はお強く、優しく、魅力的なお方。次代へその素晴らしい資質を残すことは、世界にとっても大きな利益となるはずですわ!」
「……は?」
リュシエラを引き剥がそうとするティアナとマリアは、揃ってぽかんと口を開けた。
リュシエラは、真剣そのものの顔で続ける。
「ですから、ぜひとも! マリア様の子種を授かり、私とマリア様の遺産を作りましょう!」
「ぶふぉっ!?」
マリアが吹き出した。
「ちょ、ちょっと待ちなさい! 今、何て言ったの!?」
「マリア様の×××でして、××で激しく×××で淫れたわたしの×××を、その逞しい腕で×××して、子種を授かりたいと申し上げました!」
「聞き間違いどころか、アナタ何を何言ってんだぁぁぁ!!」
「リュシエラさん!? 何をおっしゃっているのですか!?」
ティアナとマリアの絶叫が重なった。
「何か問題でも?」
「問題発言と思っていないことが問題なんですよ!?」
ティアナの鋭いツッコミが飛ぶ。
しかし、リュシエラはいたって真剣だった。
「…………目の前に、こんなに粋のいいアナタだけのメス豚がいるんですわよ?」
「一体どういう流れでアナタはメス豚になったのよ!!」
「私はエルフですので、人間とは寿命も異なります。大切な方の子孫を残すことは、未来を考えるうえでも重要なこと。ましてや、マリア様ほどの方の血筋を残せるのであれば、これ以上の幸運はありませんわ」
「いやいやいや! ちょっと待って! さっきも言ったけど、話を聞きなさい!」
マリアは両手をぶんぶん振った。
「大丈夫です。女装される殿方でも、夫の趣味には寛容ですので!」
「いや! 違くてぇ!?」
「大丈夫です! 付いているものは付いていれば、いかようにもなります!」
「言い方ぁぁぁ!!」
リュシエラは、にっこりと微笑んだ。
「ですので、まずはマリア様のことを深く理解するところから始めます。焦る必要はありませんもの。時間は、たっぷりございますから」
「時間の問題じゃないのよぉぉぉ!!」
マリアの悲鳴が、森に響き渡った。
ルナはきょとんと首を傾げる。
「ママの子種……?」
「ルナちゃんは知らなくていいの!」
「えーー! なんでーー! 教えてください!」
ルナは頬を膨らませた。
ティアナは頭を抱え、スカーレットは腹を抱えて笑っている。
族長は、深々とため息をついた。
「……このような娘だが、どうか頼む」
「マリア様。改めまして、これからよろしくお願いいたしますわ」
リュシエラは、マリアの腕に抱きついたまま、優雅に微笑んだ。
その笑顔は、誰が見ても美しい。
気品があり、知的で、優雅で――。
ただし、言っていることはとんでもない残念美人だった。
こうして、エルフの娘リュシエラが、新たな仲間として一行に加わることになったのである。
温泉旅行は、まだ終わらない。
そして、マリアの受難もまた、まだまだ終わりそうになかった。
◇
その夜。
旅館の離れにある家族風呂。
広々とした湯船には、白い湯気がゆったりと立ち上っていた。
「はぁ~……色々あったけど、街の人たちにも喜んでもらえてよかったわぁ~……」
マリアは湯船の縁に背中を預け、長い脚を伸ばした。
温泉が止まった騒動に始まり、森での調査、遺跡での魔将との戦い。振り返ってみれば、なかなか慌ただしい一日だった。
それでも、温泉は無事に復活し、街の人々にも笑顔が戻った。
ようやく訪れた、束の間の休息。
肩まで湯に浸かったマリアは、満足げに目を細めた。
「お肌もつるつる。髪もさらさら。これぞ温泉の力……あぁ~~……」
誰に聞かせるでもなく呟き、そのまま全身の力を抜く。
極楽とは、まさにこのこと。
マリアが温泉の恩恵を全身で堪能していると――。
ガラリ。
突然、脱衣所の戸が開いた。
「ママぁ……」
「あら、ルナちゃん?」
タオルを胸元に巻いたルナが、そっと顔を覗かせた。
「一緒に入ってもいいですか?」
「あらあら、仕方ないわねぇ……おいでなさいな」
ルナは嬉しそうに頷くと、湯船へと入ってきた。
そして、迷うことなくマリアの膝の上にちょこんと腰を下ろす。
湯気の向こうで、マリアのお腹に触れるふわふわの尻尾が、気持ちよさそうに揺れていた。
「えへへ。昨日は一緒に入れなかったので、嬉しいです」
「ふふっ。この子ったら。もっと大きなお風呂もあるのに、わざわざアタシのところに来るなんて」
「だって、ママと一緒だと、もっと気持ちいいです」
「もう、ルナちゃんったら。そんなこと言われたら、ママ、嬉しくなっちゃうじゃない」
マリアは頬に手を当て、ふにゃりと表情を緩めた。
温泉の温もりと、愛らしい娘の甘えっぷり。
これ以上の癒やしがあるだろうか。
――いや、ない。
マリアがすっかり骨抜きになっていた、そのとき。
「マリア様ぁぁぁぁっ!」
脱衣所の戸が、勢いよく開いた。
「ちょっと待ちなさい、リュシエラさん! そっちはダメですって――!」
続いて聞こえてきたのは、ティアナの悲鳴じみた声。
そして次の瞬間。
リュシエラが、湯気を蹴散らす勢いで浴室へ飛び込んできた。
「マリア様! わたくしが背中を流して差し上げますわぁぁ!」
「……ちょっとぉぉぉぉぉっ!?」
マリアの顔が凍りついた。
リュシエラは何も身につけておらず、豊かな胸元を隠すことすらせずに、鼻息と頬を上気させている。
その表情は、憧れの相手を前にした乙女そのもの。
ただし、口元はだらしなく緩み、瞳は獲物を見つけた猛獣のように輝いていた。
その背後から、胸元にタオルをきっちり巻きつけたティアナが、もう一枚のタオルを握りしめて駆け込んでくる。
「あ、あの、申し訳ありません、マリア様! リュシエラ様が、どうしても止まってくださらなくて……!」
「ティアナさん、失礼ですわよ! わたくしは妻として、夫の背中を流しに来ただけですわ!」
「あなたとマリア様は夫婦ではありませんよね!? その理屈はどこから来たんですか!?」
「えっ? 夫婦なら一緒にお風呂に入っても問題ありませんでしょう?」
「夫婦じゃないって言ってるんです!!」
「とりあえずタオル! タオルで前を隠してください!!」
ティアナが手にしたタオルを差し出す。
しかし、リュシエラはそれを受け取ろうともせず、堂々と胸を張った。
「エルフ、ミラレテハジルコトナイ」
「なんで急に片言なのよ!?」
マリアのツッコミが浴室に響き渡る。
しかし、リュシエラはまるで悪びれる様子もなく、マリアへと熱い視線を送った。
「さあ、マリア様。遠慮なさらず、こちらへ」
「遠慮以前に、みんなの話を聞きなさいな!」
「ママは、わたしの家族です!」
ルナが、マリアをぎゅっと抱きしめながら、きっぱりと言い切った。
どうやら、マリアを取られまいとしているらしい。
「そうですわよね! つまり、ルナさんは実質わたくしの娘! ……ママって呼んでもいいんですよ?」
「ちょっとぉ……どうしてそうなるのよぉ……」
「リュシエラお姉さんは、ママじゃありません……」
ルナがきっぱりと告げる。
リュシエラはぴたりと動きを止め、少しだけ考え込んだ。
「……確かに。わたくしがお母様というのは、少々無理がありますわね」
「そこは納得するのね!?」
マリアが思わず声を上げる。
だが、リュシエラはすぐさま顔を上げた。
「でしたら、お姉さんで構いませんわ! マリア様。ルナさんのお姉さんであれば家族同然! 一緒に入浴するのは当然ですわ!」
「アナタの家族認定、ずいぶんガバガバじゃない!?」
「が、ガバガバだなんて……! そ、そういう意味ではなく……締まりは、初めてですので、きっと良い方だと思いますわ……」
「何の話をしてるのよ!?」
「マリア様としっぽり……うへへ……じゅるり……あら、涎が……じゅるり」
「近寄るんじゃないわよぉぉぉっ!!」
リュシエラが、じりじりとマリアへ近づこうとする。
その肩を、ティアナがガシッと掴んだ。
「待ちなさい! そもそも、成人した女性が男性……いえ、マリア様と入浴しようとすること自体、問題があるでしょう!」
「まあ……!」
リュシエラは、何かに気づいたように目を見開いた。
「ティアナさんも、マリア様を男性として意識していらっしゃるのですわね!?」
「なっ……!? ち、違い……いえ、違わないと言いますか! そういう意味ではなく!」
ティアナの顔が、みるみる赤く染まっていく。
言いながら、ちらり、ちらりとマリアへ視線を送ってしまう。
――違う。
これは、そういうことではない。
リュシエラがマリア様にぴったりとくっついている姿を想像しただけで、胸の奥が妙にざわついたのは嘘では無い。
しかしだ、このままリュシエラを放っておけば、何をしでかすかわかったものではない。
そう。これはあくまで監視だ。
騎士として、マリア様の監視役として、仲間の安全を守るための監視。
決して、マリア様と一緒に入浴したいわけではない。
決して。
「……わ、私も入ります。これは……その、監視のためです!」
「まあ! ティアナさんも家族でしっぽり! 欲望には素直になりませんとね!」
「その言い方はやめてください! 欲望とかそういうのではありませんっ!!」
リュシエラは、ティアナの赤面した叫びを華麗に聞き流すと、さっさと湯船へ入った。
「失礼致します///」
ゆったりと見惚れる様な優雅な所作でリュシエラは、マリアの右隣にぴったりと寄り添う。
「ちょっ、近い近い近い!」
「まあ、マリア様。照れていらっしゃるのですか?」
「照れてるんじゃなくて、アンタが近いのよ!」
改めて近くで見るリュシエラは、本当に顔立ちが整っている。
長いまつ毛に切れ長の瞳。艶やかな亜麻色の髪。均整の取れた身体つき。豊かな胸元も相まって、世の男性なら誰もが振り返るような美貌の持ち主だろう。
――なのに。
内面の残念さを知ってしまった今となっては、どうしてもそちらの印象が勝ってしまう。
美人なのに、実に惜しい。
いや、惜しいという言葉では足りない。
本当に残念。
「……顔はいいのにねぇ」
「はい? 何かおっしゃいましたか、マリア様?」
一方、ゼンマイの切れかけた玩具のようなぎこちない動きでティアナは湯船に近づいて行く。
本当はリュシエラを連れて、すぐに出て行くつもりだった。
…しかし、本当にそれだけなら私まで服を脱ぐ必要はになかった。
リュシエラを理由にあわよくば一緒に入ることを考えていたのではないか?
そんな、自責の念と羞恥心で完全に逃げ場を失ったティアナは、顔を真っ赤に染めたまま、そっと湯船へ足を入れた。
今さら引き返すわけにもいかない。
羞恥に耐えながら、彼女はゆっくりとマリアの左隣に腰を下ろした。
こうして、旅館の家族風呂は、にわかに人口密度が上昇した。
右隣には、マリアにぴったりと身体を寄せるリュシエラ。
膝の上には、マリアの脚の間にちょこんと座るルナ。
そして左隣には、マリアと肩が触れるか触れないかという距離で、緊張しきったティアナ。
四人も入れば、さすがに少々窮屈である。
「……ねえ。これ、アタシが真ん中にいる必要ある?」
「もちろんですわ!」
「ママのお膝は、わたしのです!」
「わ、私は……その……ごめんなさい……」
「アンタたち、淑女として、もうちょっと遠慮ってものを覚えなさいな……」
マリアは天を仰いだ。
湯気の中、リュシエラは幸せそうにマリアの肩へ頬を寄せ、ルナは安心しきった様子で身体を預けている。
ティアナはというと、隣のマリアが少し動くたびに肩が触れそうになり、そのたびに落ち着かない様子で視線を泳がせていた。
顔は赤い。耳まで赤い。
それでも、決して席を立とうとはしなかった。
マリアは、そんな三人を順番に見渡す。
「……アタシ、温泉に癒やされに来たはずなんだけど?」
「もっとサービスをお望みということですか!!?」
「そういう意味じゃないのよぉぉぉっ!!」
結局、その夜の家族風呂は、マリアのツッコミが途切れることなく続いたのだった。
◇
翌朝。
温泉街は、昨日までの騒ぎが嘘のような活気を取り戻していた。
通りには朝早くから店が開き、湯けむりの向こうでは、湯上がりの客たちが楽しそうに行き交っている。
温泉の復活を喜ぶ声が、あちらこちらから聞こえてきた。
宿の玄関先では、女将が一行を見送るために待っていた。
「街の方々から伺いました。皆さん、本当にありがとうございました。温泉も無事に戻り、街の者たちもようやく安心して暮らせます」
「こちらこそ、お世話になったわ。お料理もお風呂も最高だったわよぉ」
「そう言っていただけると、こちらも嬉しゅうございます。またぜひお越しくださいませ!」
「ええ、ぜひまた来るわ!」
マリアは笑顔で応じた。
その横では、街の人にお土産として蒸したての温泉まんじゅうをたくさん頂き、嬉しそうに抱えているルナの尻尾が、期待に満ちてふわふわと揺れた。
「ママ!馬車で食べて良いですか!?」
「ふふっ。もちろんよぉ。温かいうちに食べなさい」
「ありがとうございます!」
街の人々から感謝の印として贈られた品々とともに、荷物をすべて馬車へ積み込んだ。
御者台に座っているリュシエラが声を掛ける。
「それでは、出発しますわよ。皆様、乗車してくださいませ」
「はいです!」
ルナは元気よく返事をすると、腕いっぱいに温泉まんじゅうを抱え、馬車へ乗り込んだ。
「うむ……できれば、乗り物に乗らずに帰りたいものじゃが……」
スカーレットは、すでに馬車酔いへの不安を隠しきれない顔で座席に身を沈めていた。
「スカーレット、大丈夫? 出発前から具合悪そうだけれど…?」
「出発する前から、帰り道の揺れを想像しておるのじゃ……」
「想像だけで酔わないでちょうだいよ……」
マリアが呆れながらも、スカーレットの様子を気遣う。
その一方で、ルナは貰ったばかりの温泉まんじゅうを大事そうに抱えていた。
「いただきます!」
「はい、召し上がれ」
「ん~~~! おいひいれす~~!」
蒸したてのまんじゅうを頬張り、ルナは幸せそうに目を細めた。
頬をふくらませながら、ふわふわの尻尾を左右に揺らす。
マリアも思わず笑みをこぼした。
「よかったわねぇ、ルナちゃん」
「はい! お土産にもたくさん貰いましたので、帰ってからも食べられます!」
「ふふっ、楽しみね」
車内に広がる、穏やかな空気。
御者台で手綱を握るリュシエラは、背筋を伸ばし、前方を見据えていた。
その横顔には、凛とした美しさがある。
長い髪を風になびかせながら、迷いなく馬を操る姿は、まさに物語のエルフのイメージそのものだった。
――こうして見ていると、本当に素敵な女性なのよねぇ。
マリアは感心したように、その後ろ姿を眺めた。
その姿に昨夜の出来事が脳裏をよぎる。
◇
昨夜。旅館の部屋。
全員がそれぞれが寝床に入り、ようやく静かになった頃だった。
「マリア様ぁ……失礼いたしますわぁ……」
リュシエラは、周囲の様子をうかがいながら、そろりそろりとマリアの布団へ近づいていた。
同じ部屋で全員が寝静まる事を待っていた。
寝ているマリアの隣へ潜り込むという行為に、彼女は妙な高揚を覚えていた。
あと少し。
あと少しで、マリア様のお隣に――。
バサッ!!
剥ぎ取った布団の中では、身体を丸めスヤスヤ眠るルナがいた。
「あら〜……??」
「……アンタ、何してるの?」
「ひゃっ!?」
暗闇から聞こえた声に、リュシエラは飛び上がった。
そこには、気配を消して、腕を組んでちたマリアがこちらを睨んでいた。
「まったく! アンタは少しは反省しなさい!」
「い、いえ、これは、その……わたくし、寝相が少々悪くて……」
「寝相で他人の布団を剥ぎ取る人がどこにいるのよ!」
その後、リュシエラは抵抗する間もなく布団でぐるぐる巻きにされ、その上からどこで用意したかロープで縛り、簀巻きのような姿で自分の寝床へ転がされる羽目になった。
「マリア様ぁ! もっと!もう少しきつくても大丈夫ですわぁぁぁっ!!」
「本当にアンタは少しは反省しなさぁぁぁいっ!!」
◇
頭痛がしてきたマリアは、御者台のリュシエラを改めて見た。
今は何事もなかったかのように、涼しい顔で手綱を操っている。
そのギャップにどうしても笑いが込み上げてきた。
「……ふふっ」
マリアの口元が、思わず緩む。
「ママ? ほうひはんれふか?」
「ん? 何でもないわよ、ルナちゃん」
マリアは小さく首を振った。
当のリュシエラはというと、なにを思い出しているのか、時折ひとりでに口元を緩めていた。
「……ふふふ」
「リュシエラさん。本当に、何を思い出しているんですか?」
馬車の中から顔を出したティアナが、警戒心を露わにして尋ねた。
「何でもありませんわ。ええ、本当に……ふふふ」
「その顔で言われても、まったく信用できません!」
「おい、そこの変態残念エルフ……。余計なことを考えるのはやめて、揺れぬように集中して運転するのじゃ……」
スカーレットが、うんざりした様子で釘を刺す。
「承知しておりますわ、魔王様」
リュシエラはにっこりと微笑んだ。
「……本当にわかっておるのかのう」
スカーレットは不安げに眉をひそめた。
やがて馬車は温泉街を抜け、森を横目に街道を進み始める。
昨日までの騒動が嘘のように、穏やかな旅路だった。
――もっとも、それも長くは続かなかった。
しばらく走ったところで、スカーレットの顔色が徐々に悪くなっていったのだ。
「……う、うぷっ……」
「スカーレット、大丈夫?」
「だ、大丈夫じゃ……まだ……」
「まだって何よ、まだって」
スカーレットは口元を押さえ、窓の外へ視線を向けた。
馬車が石を踏むたび、身体が小さく揺れる。
「……やはり、馬車というものは好かぬ……」
「よっぽどねぇ…ねぇ、スカーレット?あなた、馬車酔いを防ぐ魔法とか作れないの?」
マリアが何気なく尋ねた。
「そんなことができたら苦労せん……」
「そういうものなのねぇ。魔法って難しいのね」
マリアは少しでも揺れが少なくなるよう、スカーレットの座る位置を整えてやった。
その後、馬車は街道を進み、スカーレットの体調を鑑みて途中の村で休憩を取った。
スカーレットを休ませ、昼食を済ませた一行は、再び王都を目指す。
ルナは昼食の後も温泉まんじゅうをモリモリ味わい、休憩後はティアナが御者台で手綱を握り、スカーレットは揺れる馬車の中で必死に耐えていた。
いくら街道と言っても街から離れれば、草が生えていないだけの道になると、やがて、馬車の揺れが一段と大きくなる。
「う……ぷっ……」
スカーレットが、ぐったりと座席に沈み込んだ。
それを見ていたリュシエラは、ふと思いついたように手を上げた。
「魔王様。少々よろしいかしら?」
「なんじゃ……残念変態エルフ……」
「こちらへどうぞ」
リュシエラは背筋を伸ばして座り直すと、自分の太ももをぽんぽんと叩いた。
どうやら、膝枕を勧めているらしい。
「……何のつもりじゃ?」
「少しでも楽になっていただければと思いまして。わたくしの精霊術ですこしは良くなるかもしれませんわ」
「ふむ……」
普段の言動からもスカーレットは眉をひそめたものの、背に腹は代えられない。
促されるまま、リュシエラの膝へ頭を預けた。
「精霊よ、彼の者を癒やしたまえ」
リュシエラが静かに詠唱すると、柔らかな光がスカーレットの額を包み込んだ。
しばらくすると、強張っていた表情が少しずつ和らいでいく。
「おお……これは……」
スカーレットは、ほっと息を吐いた。
「どうですか、魔王様? 少しは楽になりましたか?」
「ほお……。これは、なかなか心地よい……」
やがてスカーレットは目を閉じ、静かな寝息を立て始めた。
どうやら、ようやく落ち着いたらしい。
リュシエラは優しく微笑み、馬車の中にいるマリアへ声をかけた。
「魔王様の介抱はわたくしにお任せくださいませ。マリア様はごゆっくりなさってください」
「大丈夫なの?」
「ええ、大丈夫ですわ……。むしろ、この足の痺れが、なんとも心地よく……」
「心配して損したわ」
マリアは呆れたように肩をすくめた。
その間も、リュシエラは幸せそうな笑みを浮かべている。
スカーレットの寝息と、馬車の規則的な揺れ。
そんな穏やかな時間が、しばらく続いた。
◇
夕刻。
空には蒼い月が昇り始め、街道を淡く照らしていた。
その向こうに、ようやく見慣れた高い城壁と大門が姿を現す。
アルヴェリア王国の王都である。
「はぁ~……やっと帰ってきたわねぇ!」
マリアは大きく伸びをした。
「皆さん、長旅お疲れさまでした」
御者台から振り返ったティアナが、ほっとした笑顔を見せる。
ティアナのいる御者台にマリアがひょっこりと顔を出して来た。
「ティアナちゃんこそ、お疲れさま。ずっと馬車を任せちゃってごめんなさいね」
「い、いえ。馬の扱いには慣れていますから、大丈夫です」
ティアナはそう答えたものの、その頬はほんのり赤く染まっていた。
「ん~? やっぱり顔が赤いわねぇ。ずっと運転していたから、疲れちゃったのかしら?」
「だ、大丈夫です! 夜風で少し火照っただけですから!」
「そう? 無理はしちゃダメよ?」
「は、はい……!」
マリアが心配そうに顔を覗き込むと、ティアナはぎこちなく微笑んだ。
近くで見るマリアの顔に、また胸が高鳴ってしまう。
――落ち着きなさい、ティアナ・ガーランドベル!
自分に言い聞かせながら、彼女はそっと視線を逸らした。
その一方で、ようやく目を覚ましたスカーレットが、のそのそと身体を起こす。
「……やっと着いたか。リュシエラ、心より感謝するぞ。おかげで助かったぞ」
「ふふっ。ご体調がよくなられたようで、何よりですわ」
リュシエラは嬉しそうに微笑んだ。
しかし、スカーレットが身体を起こした拍子に、彼女の足へ重みがかかる。
「ひゃあぁぁ……っ! ま、魔王様……! そ、そこは……足が……っ!」
「む? どうしたのじゃ?」
「い、いえ……! どうぞ、そのまま……!おほーーー!!」
「……?」
冬眠から目覚めた熊のように、まだ寝ぼけ眼のスカーレット。
その足元では、痺れた脚を刺激されて妙な声を上げるリュシエラ。
マリアはその光景を見て、深々とため息をついた。
「……ほんっと、最後まで騒がしいわねぇ」
ルナは、そんな一行の様子を微笑ましそうに眺めながら、マリアの手をきゅっと握った。
「ママ。帰ってきましたね」
「ええ、そうね。色々あったけど、楽しい旅行だったわね」
マリアはルナの頭を優しく撫でた。
温泉街での騒動も、遺跡での戦いも、決して楽なものではなかった。
それでも、こうして仲間たちと一緒に帰ってこられた。
みんなが無事で、笑顔でいられる。
それだけで十分だと、マリアは思う。
「さあ、みんな。明日からはまた、いつもの日常よ!」
「はい、ママ!」
「承知しました、マリア様!」
「わしは、しばらく馬車には乗りたくないのじゃ……」
「わたくしは、いつでもマリア様とご一緒したいですわ!」
「アンタはまず、反省しなさい!」
王都の夕暮れに、マリアのツッコミが響き渡る。
こうして、温泉旅行は幕を閉じた。
とりあえず出したかったヒロインは揃いました
終始様子のおかしなリュシエラ、難しい




