第八章 最強受付嬢、家族のために戦う。
「……ねえ、アンタ」
その声には、もう先ほどまでの明るさがなかった。
「三人に、何をしたの?」
「いやー、そんな怖い顔しなでくださいよ。悲しいな」
マリアが一歩、前へ出る。
ウォルターは反射的に後ずさった。
水の分身が、マリアの前に立ちはだかる。
マリアはそれを見もせず、平手を振った。
ぱぁんっ!
水しぶきが弾ける。
また一歩。
ぱぁんっ!
分身が砕け散る。
さらに一歩。
ぱぁんっ!
水の剣が折れ、飛び散った水が床へ落ちた。
「ま、待て。ちょっと落ち着こうじゃないか。話せば分かる、話せば――」
ぱぁんっ!
「ぐっ!?」
ウォルターの顔が横へ弾かれた。
もちろん、身体は水のように揺らめき、すぐに元へ戻る。
それでも、マリアはまったく構わなかった。
「何をしたのかって、聞いてるのよ!」
「いや、だから、俺の話を――」
ぱぁんっ!
「最後まで喋らせてくーーー」
ぱぁんっ!
「黙りなさい!」
ぱぁんっ!
もはや会話になっていなかった。
ウォルターは何か言おうとするたび、マリアの平手で口元を薙ぎ払われる。
水の身体に有効打は与えられていない。傷ひとつつかず、痛みもないはずだ。
それなのに、目の前の女は一切ひるまず、怒りを込めた平手を何度でも叩き込んでくる。条件は互角だった。
「な、何なんだよ、てめぇは……!」
ウォルターは荒れた口調で、初めて本気で動揺した。
マリアに対しても有効打がないウォルターに苛立ちが隠せなくなっていた。
「どうして効かない!! 剣も、牙も、魔術も、何もかも……!」
「丈夫だからよ!」
ぱぁんっ!
「そんなことより、何をしたか答えなさい!」
マリアの怒声が、遺跡に響き渡った。
「クハハハッ!3人には素敵な夢を見てもらってますよ」
水鏡に映される3人の姿は絶望の色に染まっていた。
「正真正銘のクズなのね…人を脅して、魔物をけしかけて……そのうえ、みんなの心まで踏みにじって!!」
ぱぁんっ!
容赦なく何度も腕を振るった。
マリアの変わりように、リュシエラは息を呑んでいた。
先程までのマリアなら、敵の攻撃を受けても、どこか冗談めかした調子で文句を言う。
髪が乱れれば怒り、服が汚れれば嘆き、コロコロと表情の変わる方だった。
けれど、今のマリアは違った。
笑っていない。
ふざけてもいない。
ただ、目の前の男が許せなかった。
自分を頼り、信じてくれている大切な仲間たち。
その心を傷つけ、あざ笑う、そんなウォルターを許す気はなかった。
そして何より――。
「アンタ、1番触れちゃいけないものに手を出したわね」
マリアは、ウォルターの襟元を掴もうと手を伸ばした。
水の身体は、指の間をすり抜ける。
それでも、マリアは手を引かなかった。
「アタシの大事な家族に手を出した」
「……っ」
「謝ったくらいで許されると思わないことね」
ウォルターの顔から、ようやく余裕が消えた。
彼は慌てて距離を取ろうとする。
だが、マリアは逃がさない。
「ま、待て! 俺は――」
ぱぁんっ!
「話を――」
ぱぁんっ!
「聞けって――」
ぱぁんっ!
「だから、喋るなって言ってるでしょうがぁぁぁ!」
マリアの怒声が、遺跡全体を震わせた。
ウォルターは後ずさりながら、歯を食いしばる。
「……くそっ!」
彼は、マリアから逃げるように腕を振り上げた。
床を流れていた水が、鏡のように青白く輝き始める。
水は巨大な唸りとなり、再び大蛇を作り出す。
「だったら、てめぇが怒っていたって意味がないことを教えてやるよ! 仲間たちが壊れちまえば、てめぇだって――」
ぱぁんっ!
「喋るなぁぁぁ!」
ウォルターの身体が大きく揺らめいた。
水の分身たちが、マリアへ向かって一斉に襲いかかる。
だが、マリアは一歩も退かない。
剣が肩に当たる。
水の槍が胴体を貫こうとする。
再生したシーサーペントが牙を剥き、巨大な顎でマリアを噛み砕こうとする。
すべてが、無意味だった。
剣は砕け、槍は弾け、牙は折れた。
マリアの身体には、傷ひとつつかない。
「……っ、どうして……!」
ウォルターは目を見開いた。
「どうして効かないんだ!? 何をぶつけても、傷ひとつつかないなんて……!」
「お互い様でしょう!」
ぱぁんっ!
ウォルターの顔が横へ弾ける。
「だったら、これはどうだ!大切なら、3人まとめてどうにかしてみろよ!」
彼が両腕を広げると、部屋中の水が激しく渦巻いた。
視線は動くことのできない3人に向いていた。
水が無数の槍へと形を変えて、3人に向けて降り注ぐ。
「やめなさい!!」
マリア1人では守れて誰か1人が限界だった。
その時――。
「精霊よ! 我仇なす災いを退け、この者たちを絶望から解き放て!」
リュシエラの祈りが響いた。
優しい光が三人を包み込み、水の槍を弾き飛ばした。
「マリア様! 皆様のことは、私が何とかします!」
「エルフのクソアマがぁぁっ!! 邪魔するんじゃねえぇぇぇ!!」
ウォルターの顔が引きつった。
リュシエラは、マリアに攻撃が集中している隙に、父と兄を助け出していたのだ。
父に支えられた兄の無事を確かめると、リュシエラは三人のもとへ駆け寄り、精霊に癒やしの祈りを捧げ続ける。
「ありがとう」
マリアは一瞬だけ、リュシエラに優しい笑みを向けた。
そして、再び目の前の下衆へと視線を戻す。
「……ふざけるなよ」
ウォルターの声から、軽薄さが消えた。
「何なんだよ、お前……! どうして、そんなに無傷でいられる!? どうして、何をされても平気なんだ!?」
「平気なわけ、ないでしょうっ!!」
マリアは手を振り上げた。
「大切な家族に手を出されて、平気なわけないでしょうがぁぁぁ!!」
「ま、待て! やめ――」
ぱぁんっ!
「だから、黙りなさいって言ってるでしょうがぁぁぁ!」
その瞬間。
マリアの背後で、ルナの耳がピクリと動いた。
◇
「……ママ?」
幻の中にいたはずのルナが、かすかに顔を上げた。
目の前では、家族が再びマリアに襲われている。
けれど、その悲鳴の向こうから、温かな光と聞き慣れた声が何度も名前を呼んでくれた。
『ルナちゃん!』
「……ママ……?」
ルナの瞳が揺れた。
家族の声は、何度も助けを求め、マリアが狂気の舞踏を踊る。
繰り返される悲鳴。
まるで繰り返される紙芝居の様に、
何度も、何度も。
ルナは、震える手をゆっくりと下ろした。
「……違う」
小さく呟く。
「これは……本当じゃ、ない……」
その瞬間、幻影にひびが入った。
ルナが顔を上げる。
「ママは……わたしのママは、誰よりも優しいんだ……!」
青い炎がルナを包み込んだ。
小さな身体が光に覆われ、やがて巨大な魔獣――ルナガルムの姿へと変わっていく。
ルナガルムは、目の前の偽りのマリアを、その爪で切り裂いた。
幻影が砕け散る。
家族の姿も、懐かしい家も、すべてが光の粒となって消えていった。
ルナは涙を流しながらも、力強く立ち上がった。
◇
現実でも、ルナは青い炎を全身にまとい、魔獣ルナガルムの姿へと変容していた。
「……ルナちゃん!」
銀灰色の毛並みをなびかせ、現実へ戻ったルナの耳に、マリアの声が届く。
≪ママ……!≫
ルナガルムは駆け出した。
その大きな身体が、マリアの背中へ鼻先を擦り寄せる。
≪ママ……! ママぁ……!≫
「よしよし、無事でよかった…本当に、よかった…」
マリアは片手でルナの頭を撫でた。
「怖かったわね。もう怖い夢は終わりよ。安心して、ね?」
≪……はい……!≫
ルナガルムは目を細め、マリアに擦り寄った。
その様子を見たウォルターが、顔を歪める。
「くそっ……! 小娘がルナガルムだったなんて聞いてねぇぞ!?」
≪ママ? お姉ちゃんたちは大丈夫かな……?≫
「大丈夫よ。あの子たち、とっても強いんだから」
マリアとルナガルムは、そろってウォルターを睨みつけた。
その視線に気圧され、彼は思わず後ずさる。
◇
ティアナの目の前では、血まみれのマリアが拳を構えていた。
「裏切り者……!」
幻のマリアが、冷たい声で罵り、再び襲いかかってくる。
唇は切れ、身体中に殴打の痕がある。
動くのもやっとの状態で、ティアナの手が震えた。
とうとう、手から剣が滑り落ちた。
カラン、と乾いた音が響く。
もう剣を振りたくない。
これ以上、大切な人を傷つけたくない。
けれど、このまま拳を下ろされれば、自分が殺される。
それでも――。
傷つけるくらいなら、それでもいい。
ティアナは項垂れ、膝をついた。
すべてを諦めようとした、その時。
何か、小さなものが地面に落ちる音がした。
「なーに? そのダッサいゴミは? 髪留め?」
嘲笑うマリアの声が聞こえる。
地面に落ちていたのは、マリアから贈られた髪留めだった。
ティアナは震える手を伸ばし、それを拾い上げる。
これは、マリア様から。
本物のマリア様からもらった、大切なもの。
ティアナは、ゆっくりと顔を上げた。
「……マリア様?」
目の前のマリアは、冷たい目で彼女を睨みつけている。
その声も、その姿も、あまりにも本物に似ていた。
それでも。
『ティアナちゃん』
気のせいかもしれない。
けれど、確かに聞こえた気がした。
いつもの、優しく温かい声。
誰かが失敗しても、困っていても、必ず手を差し伸べてくれる人。
ティアナは、手に取った髪留めを握り締めた。
「……そう、ですね」
彼女はゆっくりと立ち上がり、髪留めを付け直し、剣を拾い上げた。
「マリア様が、人の大切なものをゴミだなんて……」
剣先を、幻のマリアへ向ける。
「わたしの愛する方は、そんなことを言いません!」
迷いを断ち切る鋭い一閃。
幻のマリアの姿が、鏡のように砕け散った。
◇
燃える王都の中で、スカーレットは立ち尽くしていた。
助けを求める声。
倒れた人々。
自分を責める声。
「……わしは、魔王じゃ」
彼女は震える声で呟いた。
「わしには力がある。救える者もいる。じゃが……」
どれだけ手を伸ばしても、誰も救えない。
目の前の人々は、何度も倒れ、何度も助けを求める。
縋りつく腕は、心と身体を縛りつける鎖となって、スカーレットを締め上げた。
孤独な王。
誰も救えない、無力な魔王。
スカーレットは、ぎゅっと目を閉じた。
「……違う」
小さく、そう呟いた。
脳裏に浮かぶのは、昨夜の情景。
月明かりに照らされ、いつもの調子で笑うマリアの姿。
『条件? だったら全部終わったら、魔王ちゃんのオススメのお酒をご馳走してよ』
自分の失敗を笑い飛ばし、悪いことをした者には容赦なく怒り、困っている者がいれば迷わず手を差し伸べる女。
「こんな時に、真っ先にあやつの顔を思い出すなんてな……」
自分が思っている以上に、マリアを信頼している。
その事実に、スカーレットは思わず小さく笑った。
そして、顔を上げた。
自分に縋りつく腕を、静かに振り払う。
「呪うなら呪え。恨むなら恨め。じゃが、我と我が協力者たちの手で、必ず、必ず全てを奪い返しに行こう」
スカーレットの瞳に、強い光が宿る。
「だから今だけは、地獄で眠って待っておれ」
彼女の周囲で、魔力が激しく渦巻いた。
「このような幻に、わしの心を縛らせるものか!」
その瞬間、燃え盛る王都が、轟音とともに砕け散った。
◇
すべての水鏡が砕け、ティアナとスカーレットがゆっくりと立ち上がる。
その姿を見たウォルターは、信じられないものを見るような顔をしていた。
「……嘘だろ?」
ティアナは涙を拭い、自分の頬を両手で勢いよく叩いたあと、剣を構え直している。
スカーレットは怒りを宿した瞳で彼を睨みつけていた。
そしてルナガルムは、マリアの背中に寄り添いながらも、しっかりと前を見据えている。
「な、何なんだよ、お前たちは!? 自分の一番大切なものを壊されたんだぞ!? 恐怖も、後悔も、絶望も……全部、本物みたいに感じたはずだろ!?」
「……確かに、恐ろしい夢でした」
ティアナが答える。
「ですが、あまり人間を舐めないでください!」
「わしも同じじゃ」
スカーレットが冷たく言い放つ。
「貴様のような小物に、わしの心を操れると思うたか?」
「小物だと……!?」
≪ママは、絶対にわたしたちを裏切りません!≫
ルナガルムも力強く言った。
≪よくも、あんな酷い夢を見せてくれましたね!≫
「……くそっ!あのクソエルフが余計なことをしやがったから!!」
ウォルターは歯を食いしばった。
自分の力が通じない。
精神を追い詰めても、仲間たちは戻ってくる。
「みなさま……良かった……」
リュシエラは多くの力を使い果たし、息を切らしながらその場に座り込んだ。
それでも、柔らかく微笑んでいる。
「何なんだよ、お前ら……! どうして、そんなにそいつを信じるだけで、戦えるだ!?」
マリアは三人を振り返った。
「……みんな」
ティアナは剣を構えたまま頷く。
スカーレットは静かに腕を組む。
ルナガルムはマリアの背中から一歩前へ出た。
≪ママ、いっしょに戦います!≫
「マリア様。私たちを頼って下さい!剣にも盾にもなります」
「マリアよ。遠慮はいらぬ。こやつには、相応の報いを受けさせてやろう」
マリアは、ふっと笑った。
「……ありがとう」
そして、ウォルターへ向き直る。
「聞いたでしょう?」
「……何をだよ」
「アンタの負けよ」
「ふざけるなぁぁぁっ! いくら人数が増えたところで、俺に攻撃は無駄なんだよぉぉぉ!!」
ウォルターが両腕を振り上げる。
床を流れる水が、一斉に盛り上がった。
水の分身が増殖し、シーサーペントが大きく口を開く。
「だったら、全員まとめて飲み込んでやる! 水鏡よ、俺の力を示せ!」
巨大な水の大蛇が、再び襲いかかってきた。
だが、今度は誰も怯まなかった。
≪邪魔ですっ!≫
ルナガルムが地面を蹴り、シーサーペントの頭上から業火の息吹を浴びせる。
炎に焼かれた大蛇は、再生と崩壊を繰り返した。
ルナガルムはその頭部に食らいつき、地面へと押さえつける。
二匹の魔獣は唸り声を上げ、石畳の上を転げ回った。
「わしに策がある! 好きにやれ!」
スカーレットが叫ぶ。
策がある。
そして、好きにやれと言うのなら。
「じゃあ、お言葉に甘えて!」
マリアは全力で走り出した。
「魔王様の悪巧みなんか、やらせるかよ!!」
三体の分身が刃を振るい、スカーレットへ飛びかかる。
――その横を、三本の光の矢が駆け抜けた。
矢は分身の身体を貫き、青白い光を放つ。
分身たちは再生することなく、霧散した。
矢を放ったのは、リュシエラだった。
父に身体を支えられながら、震える腕で放った三本の矢。
精霊の力を宿したそれは、分身たちを形作る魔術の繋がりを乱していた。
散った水は再び人型へ戻ることができず、床の上で行き場を失ったように揺らめいている。
「なっ!? 死に損ないの腐れエルフが! 何をしやがった!?」
「ふふっ。魔術の繋がりを、めちゃくちゃにして差し上げましたの」
リュシエラは息を切らしながらも、笑みを浮かべた。
「ご存じありません? 精霊は、いたずら好きなんですわよ?」
「クソアマぁぁぁ!!」
ウォルターはリュシエラへ向かって走り出した。
「行かせるわけ、ないでしょう!」
ティアナの剣が閃く。
ウォルターの胴体が斬り裂かれ、上半身と下半身が分かれた。
本体の再生は始まっている。
それでも、一瞬だけ足を止めることはできた。
「だから、それが何だって言ってんだよぉぉぉ!!」
ティアナを振り返ったウォルター。
その目の前に、一足飛びで現れたマリアの拳が迫っていた。
「しまっ……!」
スカーレットが声を上げる。
「やれ、マリアッ!!」
ウォルターの顔面を、マリアの拳が捉えた。
初めて、有効打が入った。
◇
吹き飛ばされたウォルターは、飛びそうになる意識をどうにか保ち、何が起きたのかを考えようとした。
しかし、答えは浮かばない。
身体の一部を水に変える能力は、今も使える。
ならば、なぜ拳が当たった?
ウォルターは、ゆっくりと顔を上げた。
そこには、自分と同じように、何が起きたのか分からないといった顔をしたマリアが立っていた。
だが、マリアと目が合った瞬間。
彼女は、新しい玩具をもらった子供のような笑顔を浮かべた。
ぞくり。
ウォルターの背筋に、悪寒が走る。
追撃が来る。
そう直感した彼は、反射的に身体を傾けた。
「シーサーペント! 何してる!? 俺を守れぇぇぇ!!」
ルナガルムを弾き飛ばし、炎で焼け爛れた身体を引きずりながら、大蛇が二人の間へ割り込んだ。
マリアは、迫り来るシーサーペントを真正面から見据える。
巨大な顎が開く。
鋭い牙が、彼女へと迫る。
「だから、アンタはちょっと大人しくしてなさいって言ってるでしょうが!」
マリアは、いつも通り逃げなかった。
それどころか両手を伸ばし、シーサーペントの頭部をがっちりと掴む。
「よいしょっと!」
ぐいっ。
大蛇の頭が、強引に横へ向けられた。
「なっ……!?」
水の魔物が、まるで首根っこを掴まれた犬のように引きずられる。
マリアはシーサーペントの頭を床へ押しつけた。
「ちょっと大人しくしてなさい!」
ドンッ!
大蛇の頭が石畳へ叩きつけられる。
しかし、胴体は水に変わることなく、ぐったりと項垂れた。
「うわっ、やだ、ぬるぬるする!」
マリアは顔をしかめる。
「やだもう! さっきのスライムといい、今日はベタベタする事ばっかりじゃないの!」
文句を言いながらも、マリアは大蛇の胴体を両手で掴み、思い切り引っ張った。
水の大蛇が、ぐん、と伸びる。
その巨体が引きずられ、ウォルターの足元へと迫った。
「なっ……! やめろ!」
ウォルターが慌てて後退する。
その瞬間、彼の足元に集まっていた水が乱れた。
水の分身たちの動きが、一瞬だけ止まる。
マリアは、その隙を逃さなかった。
「はい、捕まえたわよぉ!」
「なっ!?」
マリアはウォルターへ飛びかかり、その身体を両腕で抱え込んだ。
水のように揺らめく身体が、彼女の腕の中で形を崩そうとする。
だが、崩れない。
「なんでだ!?」
「――アンチマジックじゃ」
スカーレットが、にやりと笑った。
スカーレットが、ウォルターを押さえつけるマリアの傍らで、楽しげに告げた。
「先日見た術を参考に、少々手を加えてみたのじゃ。まだ試作段階じゃが……ふむ、存外うまくいったようじゃな」
ウォルターの身体がびくりと震える。
「発動の瞬間に構築を消される気分はどうじゃ? 泣きたくなったら泣いてもよいぞ?」
「ふざけるな!!アンチマジック!?そんな芸当、魔術の頂きに至った不死王くらいしか聞いた事ねえぞ!!」
スカーレットは、わざとらしく首を傾げた。
「わしは学ぶのが好きでな。優れたものを見れば、どういう仕組みなのか知りたくなる。理解できれば、再現したくもなる。……それだけのことじゃよ」
「ふざけるな!」
ウォルターが魔力を振り絞ろうとする。
しかし、水の身体は形を保てず、表面を波立たせるばかりだった。
「くふふ。無駄じゃ。今のおぬしでは、逃げることも、分身を作ることもできぬ」
「元魔王のくせに! 何もできない雑魚のくせにぃぃぃ!!」
スカーレットは、わざとらしく口元に手を当て首を傾げた。
「くふふ、雑魚でか弱いわしは、一人では何もできんからなぁ。じゃからお友達もおらんお前と違って、仲間に頼らせてもらうとしよう」
先ほどの仕返しと言わんばかりに、嫌味たっぷりに言い放つ。
ウォルターの顔が引きつった。
「さあ、さっきのお返しよ!」
「ま、待て! 話し合おう! なっ、ほら、俺たち、意外と気が合うかもしれないだろ!?」
「アンタとは絶対に気が合わないわよ!」
「いや、だから、俺は――ギャァァァ!!」
マリアがウォルターを抱え込む腕に力を込める。
「だから、アンタは!」
そのまま豪快にウォルターの身体を高く持ち上げる。
「な、何をするつもりだ!?」
「人の大事な家族に手ェ出した報いよ!きっちり受け取りなさい!!」
次の瞬間――。
「どぉぉぉりゃあああああっ!!」
「やめろぉおぉぉ!!!!!!」
――ドォォォンッ!!
ウォルターの背中が、振り下ろす勢いのまま床へ叩きつけられた。
その場に押さえ込んだまま、マリアは両腕を離さない。
プロレス技――パワーボム。
相手を持ち上げ、背中から叩きつける豪快な技だった。
もちろん、ここにマットはない。
あるのは、古代遺跡の硬い石畳だけである。
「ぐ……が……っ!」
ウォルターの身体が水のように大きく揺らめいた。頭部の片角が折れた。
だが、今度も再生しない。
その一撃はしっかりと意識を奪った。
「やった!」
ティアナの感嘆の声があがった。
ーーーが
マリアはウォルターを押さえ込んだまま、にっこり笑った。
そして、ゆっくりと立ち上がる。
ウォルターの両足を掴み、頭上へ持ち上げた。
「まずは、ルナちゃんの分!」
ビターンッ!!
洗濯物のタオルを伸ばすような勢いで、マリアはウォルターを地面へ叩きつけた。
「これは、ティアナちゃんの分!」
ビターーンッ!!
「スカーレットの分!」
ビターーーーンッ!!
「リュシエラちゃんの分!」
ビタターーーーンッ!!
……ンンンンン?
私たちは、一体何を見せられているんだ?
ティアナは、駆け寄ろうとした体制のまま、目の前の光景に硬直していた。
「マ、マリア様……!?」
ティアナの声は、マリアに届いていない。
マリアは実に楽しそうに、ウォルターをビターン、ビターンと地面へ叩きつけ続けている。
その表情は、先ほどまでの怒りが嘘のように晴れやかだった。
まるで、軽い運動を終えたばかりのような清々しい笑顔である。
一方、当のウォルターは――。
もはや、まともに見ていられないほど悲惨な状態になっていた。
「マリア様、ストーーーーップ!!!!」
ティアナの悲鳴が、遺跡に響き渡る。
その時には、周囲の水の分身もシーサーペントも、まるで糸が切れたかのように動きを止めていた。
やがて、制御を失った水の分身が次々と弾け、周囲に水しぶきが舞い上がる。
◇
「ごめんなさいね……なんだか途中から楽しくなっちゃって……」
マリアは正座をしていた。
あの巨体が小さく見えるほど身を縮め、反省の色を示している。
「……トランス状態じゃな」
スカーレットが、呆れたように呟いた。
「今後はビターンッ禁止にしますからね?」
「で、でもちょっと壊しちゃったけど、遺跡を壊さないように頑張ったから……ね? 許して?」
「ママとってもすごかったです!」
人の姿に戻ったルナがマリアの横で楽しそうにぴょんぴょん跳ねていた。
「いえ……いや、まあ……技としては見事でしたが……」
これで『ちょっと』なのだろうか。
ティアナは言葉を濁し、陥没した床と、そこにボロ雑巾の様になり倒れている魔族を見つめた。
「敵とはいえ、人を持ち上げて何度も叩きつけたりしませんからね?」
「そうかしら?」
「そうです!」
スカーレットが、ようやく息を吐いた。
「……まったく。相変わらず、常識というものが通用せぬな」
「スカーレットに言われたくないわよ!」
「くふふ。それは道理じゃな」
二人は顔を見合わせて笑った。
マリアが拳を差し出すと、スカーレットも拳を合わせる。
「父さん! 兄さん!」
リュシエラは、父に支えられた兄のもとへ、ふらつく身体を引きずりながら駆け寄った。
「リュシエラ……!」
「お父様! お兄様!」
リュシエラは二人を抱きしめた。
「よかった……本当に、よかったですわ……!」
張り詰めていたものが切れたのか、彼女の目から涙がこぼれ落ちる。
父は娘の頭を撫で、深く息を吐いた。
「……心配をかけたな」
「もう……! 本当ですわよ……。お二人とも、無事でよかったですわ……!」
その様子を見て、マリアはそっと微笑んだ。
「よかったわね、リュシエラちゃん」
「……はい!」
リュシエラは涙を拭い、マリアたちへ向き直った。
「皆様、本当にありがとうございます。皆様がいなければ、父も兄も……そして、この街も、どうなっていたか分かりません」
「いいのよ。困っている人がいたら助ける。それがわたしの仕事だもの!」
マリアは胸を張った。
「それに……」
彼女は、床に倒れたウォルターをちらりと見た。
「こんなところで温泉を止められたままなんて、許せないじゃない?」
「……結局、温泉が一番の理由なのでは?」
ティアナが小さく呟く。
「何か言ったかしら?」
「いえ、何も」
ティアナは、くすりと笑った。
その時、リュシエラの父が中央の魔道具へ目を向けた。
「……まだ、終わってはいない」
「え?」
リュシエラが振り返る。
装置の中央では、青い光が不安定に明滅していた。
壁を流れる水も、先ほどまでとは違い、ところどころで流れが弱まっている。
「この魔族によって、装置の出力を無理に引き上げさせられていた。このままでは、結界も温泉への供給も正常には戻らない」
「それじゃあ、まだ直さないといけないのね?」
マリアが尋ねる。
父は頷いた。
「幸い、装置そのものは壊れていない。だが、正常な状態へ戻すには、制御をやり直す必要がある。私と息子で作業をする。少し時間はかかるだろうが、何とかしよう」
「分かりましたわ。ですが、お父様。深刻な状況でないのなら、一度集落へ戻って、皆に無事な姿を見せませんか?」
リュシエラは、遠回しに休むよう促していた。
「お兄様の手当ても必要ですし、温泉街の方々にも知らせなければなりません」
「確かに、そうだな……」
リュシエラの父は炉から手を離し、兄の肩を支えながら出口を目指した。
長い戦いは、ようやく終わった。
あとは遺跡の装置を正常に戻し、温泉街に湯を取り戻すだけだ。
――ただ。
「すまぬ。わしは、あやつに少し話がある。先に行ってはくれぬか?」
スカーレットが、倒れているウォルターへ視線を向けた。
「魔王様?」
「なに、この前にしておいて、また悪さをされても叶わんじゃろ?ほんの少し話すだけじゃ」
彼女はいつもの笑みを浮かべた。
「すぐに追いつく」
そう言って、スカーレットは一人、来た道を引き返した。
◇
「さて……生きておるのじゃろ?」
静まり返った遺跡に、スカーレットの声が響いた。
「……お優しい魔王様じゃないですか。何しに戻ってきたんです?」
倒れていたウォルターが、かすかに顔を上げる。
身体はところどころ水に戻り、まともに立ち上がることすらできなそうだった。
それでも、その口元には薄ら笑いが残っていた。
「なに。ちょっとばかし、ゴミ掃除じゃ」
「……は?」
スカーレットが指を鳴らした。
次の瞬間、光の鎖がウォルターの全身を縛り付ける。
ゴッ!
「がっ!?」
全身が石畳へ叩きつけられた。
「な、何を……!」
「キャンディの代わりに、キサマの術式をもらっていくぞ」
「ふ、ふざけるな! そんなことができるわけ――」
「できるかどうかを、貴様が決めるのか?」
スカーレットは、静かに笑った。
先ほどまでマリアたちに見せていた、気安い笑みとは違う。
冷たく、底の見えない笑みだった。
「……なぜ、わしが魔王になったのか。考えたことはないか?」
「……っ!」
「探求じゃよ」
スカーレットは、ウォルターの頭を押さえつけ、淡々と告げた。
「この世に存在する魔術。術式の構造。魔力の流れ。そして、我に仇なす者たちが持つ、あらゆる力……。わしは、それらを知り、理解し、己のものにしてきた」
「ば、馬鹿な……!」
「魔王という肩書きは、その結果にすぎぬ」
スカーレットの指先に、黒紫色の魔力が集まる。
ウォルターの身体を形作っていた水が、びくりと震えた。
「逃げようとしても無駄じゃ。身体は動かぬ。術式を使おうとしても、もう遅い」
「や、やめろ……!」
「貴様の水鏡。その術式を、わしがいただく」
「待て! 魔族にとって術式は命なんだぞ!? 失えばどうなるか、分かっているんだろう!?」
「無論、知っておる」
スカーレットは、普段の笑みを浮かべ、ことも何気に理解していることを告げるり
「だ、だったらーーー」
「だからどうした?」
ウォルターの言葉を打ち消す様に吐き捨てられた、普段のスカーレットとは異なる口調のたった一言。
「なに、死にはせんよ。術式を失った魔族は、魔力の制御も、自我の維持もままならなくなるだけで、廃人になるくらいじゃろうて」
「嫌だ…嫌だッ!」
光の鎖を外し、その場から逃げだそうともがく様子にスカーレットが首を傾げた。
「貴様は、自分が他者に何をしたかも分からぬまま、被害者のような顔をするのじゃな?」
「や、やめろ! 嫌だ! いやだぁぁぁ!!」
ウォルターが、必死に身をよじる。
だが、身体は動かない。
水鏡の術式も、発動しない。
スカーレットの指先から魔力が、ウォルターの身体を這うように巡り、彼の中核へと入り込んでいく。
「やめろ……! 頼む! 何でもする! だから、それだけは……!」
「先ほどの報いと思って、諦めるのじゃな」
スカーレットの瞳が、冷たく輝いた。
「――簒奪」
その一言とともに、ウォルターの身体から青白い光が引き抜かれた。
「ぎゃああああああああああっ!!」
遺跡に、絶叫が響き渡る。
光はスカーレットの掌へ吸い込まれていった。
スカーレットは、それを眺めて満足そうに微笑んだ。
「ふむ。なかなか面白い術式じゃな」
足元のウォルターだったモノを見下ろした。
そこに、先ほどまでのお喋りで軽薄な男の面影はない。
「……さて。異世界では、こういう使えるものを再利用することを『リサイクル』と言うらしいぞ」
スカーレットは、くふふ、と笑った。
「まあ……もう聞こえてはおらぬだろうがな」
残されたのは、静けさを取り戻しつつある古代遺跡と、暗い通路に立つ魔王スカーレットの姿だけだった。




