第七章 最強受付嬢、旅先で問題を拾う③
リュシエラが出発の準備を整えると、マリアたちは集落の入口へと向かった。
外では、先ほどまで警備にあたっていたエルフたちが、武器を手に周囲を警戒している。
太陽はすでに高く昇り、木々の隙間から差し込む光が、集落の石造りの家々を照らしていた。
「皆さん、少しよろしいでしょうか」
「リュシエラ様!」
リュシエラが声をかけると、警備をしていたエルフたちが一斉に振り返った。
彼らはリュシエラの姿を認めると安堵したような表情を浮かべたものの、その後ろにいるマリアたちへ目を向けた途端、露骨に敵意と警戒を露わにした。
「私はこれから、この方々と一緒に遺跡へ向かいます。少しの間、集落をお願いしますね」
「な、何を仰っているのですか、リュシエラ様!? この素性の知れぬ者たちに頼るというのですか!?」
若いエルフの一人が、驚いた様子で声を上げた。
ほかのエルフたちも、納得がいかないといった表情を浮かべている。
「そうです。こちらの方々が力を貸してくだされば、父や兄たちを救い出し、遺跡の異変を止められると確信しております」
リュシエラは、迷いのない眼差しでマリアたちを振り返った。
「必ず戻ります。私が戻るまで、皆さんは無理をせず、集落の民を守ってください。ただし、無理な戦いは禁物です。危険を感じたら、集落を捨ててでも民を連れて安全な場所へ避難すること。いいですね?」
「……承知しました。どうか、お気をつけて」
まだ何か言いたげな様子ではあったが、エルフたちは不安を押し隠すように頷いた。
リュシエラは彼らに微笑みかけると、マリアたちのもとへ戻ってきた。
そのとき、ティアナがふと思い出したように口を開く。
「リュシエラさん。ひとつお願いがあるのですが」
「あら、何でしょう?」
「剣を一本、貸していただけませんか?」
ティアナは自分の腰へ目を落とした。
普段なら、そこには愛用の剣がある。しかし、今回の旅では武器を携帯していなかったのだ。
「この先、素手では対処できない状況も考えられますから」
「女騎士様ですものね。それは確かに必要ですわね!」
リュシエラはなにか含みの頷いたものの、自分の腰にあるのは弓と矢筒だけだ。
「警備の者が使っている予備の剣なら、お貸しできると思いますが……」
「それなら、さっきの警備の方にお願いしてみましょうよ」
マリアの提案に、ティアナも頷いた。
こうして一行は、警備のエルフから予備の剣を一本借り受けることになった。
剣を腰に差したティアナは、ようやく落ち着いた表情を見せる。
「ありがとうございます。これで、私も前に出て戦えます」
「ふふっ。頼もしい限りですわ」
リュシエラは微笑むと、森の奥へと歩き出した。
マリアたちも、その後に続く。
◇
先頭を歩くのは、大弓を背負ったリュシエラ。その後ろにマリア、ルナ、ティアナ、スカーレットが続いた。
「ところで、リュシエラちゃん」
歩きながら、マリアが口を開く。
「さっきから気になってたんだけど、この辺りって、どうして魔物に襲われないの?」
「確かに……。言われてみれば、普通の集落なら魔物を防ぐための防壁や見張り台があってもおかしくありませんね」
ティアナは周囲を見回し、なぜ今まで気づかなかったのだろうと考え込んだ。
リュシエラは、木々の向こうに見える温泉街の方角へ目を向けた。
「そうですね。他の街から来た方には、不思議に思えるかもしれません。ここが魔物に襲われず、人々が安心して暮らせるのは、ある遺産のおかげなのです」
「遺産……?」
ルナが首を傾げた。
「はい。先ほども少しお話ししましたが、ずっと昔、この世界とは別の世界からやって来た方がいらっしゃいました」
リュシエラは穏やかな声で語り始めた。
「その方は、私たちにさまざまな知識を伝え、いくつもの不思議な仕組みを遺してくださいました。温泉街にある設備も、そのひとつなのです」
「やっぱり、私みたいな人がいたのね」
マリアが興味深そうに相槌を打つ。
「ええ。その方は源泉を整え、温泉として利用できるようにし、そこに街を築きました。遺跡の地下には、地中から湧き出すお湯を街へ送り出す設備があります。そして、街に魔物が近づきにくくなる、結界のようなものが組み込まれております」
「なるほどねぇ。だから、こんな山奥なのに温泉街として栄えているわけね」
「はい。あの遺産があるからこそ、私たちは安心して暮らし、温泉を人々に提供できるのです。それは、あの方が望まれたことでもありますわ」
リュシエラの表情には、誇らしさとともに、誰かを懐かしむような柔らかな微笑みが浮かんでいた。
「もちろん、仕組みのすべてを私たちが理解しているわけではありません。あの方から教わった知識と、長年の管理によって、今日まで維持してきたのです」
「異世界からの来訪者が、そんなものまで作っていたなんて……」
ティアナが感心したように呟く。
その隣で、スカーレットも興味深そうに耳を傾けていた。
「異なる世界の知識か。魔法とはまた違った技術とは興味深い」
「ええ。遺跡もそうですが、あの方との思い出は、私にとってかけがえのない宝物ですわ」
リュシエラはそう答え、少しだけ声を落とした。
「だからこそ、今回の異変は見過ごせません。あの場所が壊されてしまえば、温泉街だけでなく、私たちの暮らしそのものが危うくなりますから」
その言葉に、マリアたちの表情も引き締まる。
しかし――。
マリアは、ふとリュシエラの言葉に違和感を覚えた。
「……ねえ、リュシエラちゃん。その異世界から来た人のこと、まるで実際に会ったことがあるみたいな口ぶりね?」
「ええ。幼い頃にお会いしましたよ? もう、三百年くらい前になるでしょうか」
「三百年!?」
マリアが思わず声を上げた。
「ええ。私はつい最近、成人したばかりですけれど……年齢は四百を超えたところですわ」
リュシエラは、何でもないことのように微笑んだ。
マリアはまじまじと彼女の顔を見つめる。
エルフは長命だと聞いていたが、それにしても目の前の女性は若々しい。艶やかで枝毛ひとつない亜麻色の髪に、張りがあり、くすみのない肌。どう見ても二十代そこそこにしか見えなかった。
「……あの…どこの化粧品を使っているの?」
「マリア様。今は有事ですよ?」
ティアナから刺すような視線が飛んできた。
「わ、わかってるわよ!」
マリアは咳払いをひとつして、リュシエラは昔を懐かしむように、再び口を開いた。
「その方は、私を見つけると、いつも嬉しそうに『リュシエラたん』と愛称で呼んでくださったのです。それから、ときどき『エルフヨウジョキター』と、不思議な言葉を口にされていました」
「な、なんじゃ? その『ヨウジョキター』というのは……」
スカーレットが困惑した顔で尋ねる。
「残念ながら、意味は教えていただけませんでした。今でも、どういう意味なのか分からないのです」
「……なんだか、ごめんなさいね。たぶん、その方、アタシと同郷だわ」
「本当ですか!? ぜひ、言葉の意味を教えてください!」
目を輝かせるリュシエラ。
マリアは同郷の者として、遠い目で空を見上げるしかなかった。
「同郷の、とある地方の言葉でね……あなたのことが大好き、って意味よ」
「まあ! そうだったのですね!」
嬉しそうに微笑むリュシエラ。
その純粋な反応を見て、マリアは心の中で誓った。
(……この子の素敵な思い出を、これ以上汚さないようにしよう)
そんなマリアの決意をよそに、リュシエラはさらに話を続けた。
「ちなみに、あの方はほかにもさまざまなものを遺してくださいました。芸術にも造詣が深く、実に多くの書物をお描きになられまして」
「芸術的な書物……ねぇ」
リュシエラは、なぜか頬に手を当て、うっとりとした表情を浮かべた。
マリアは、珍しく嫌な予感しかしなかった。
「ええ! わたくしのおすすめは、本当に素晴らしい作品ですわ! 異種族の男女の愛について、実に詳しく描かれているのです。脂ぎった雄々しきオークに女騎士が組み敷かれ、さまざまな体勢で愛を確かめ合う様子が、絵とともに――」
「ちょっと待ってぇぇぇぇ!!」
マリアがオネエらしからぬ大声を上げた。
確実にルナには聞かせられない。いや、誰に聞かせてもよい内容ではない。
リュシエラは不思議そうに首を傾げた。
「とにかく、その書物を読んでから、わたくしはさまざまな愛について学びましたの。特に、女性が魔物に従わされたり、醜い貴族に売買されたりして、物のように扱われながら尽くす方法を仕込まれる様子などは……」
「いやいやいや! 待ちなさいって言ったわよねぇ!?」
マリアは慌てて話を遮った。
「ちなみに……その本、今も残っているの?」
「もちろんですわ! すべて大切に保管しております。表紙は少々傷んでいましたが、中の絵はとても鮮明で……」
リュシエラは、まるで宝物について語るかのように目を輝かせた。
そう。これは日本では通称『薄い本』と呼ばれるもの――同人誌である。
しかし、この世界の住人にとっては、あまりにも生々しく、刺激の強い内容だった。
「そ、その……異世界から来た方が遺したものって、かなり過激なのですね……」
先ほどから女騎士という言葉に反応していたリュシエラの様子を思い返し、ティアナの顔がみるみる赤く染まっていく。
自分も、あのような目で見られていたのかもしれない。
そんな考えが頭をよぎり、どう反応してよいのか分からなくなっていた。
「異世界の文化というものも、なかなか興味深いのう」
スカーレットは顎に手を当て、もっともらしく頷いていた。
ただ、その頬がほんのり赤くなっていることには、本人も気づいていないらしい。
同人誌は、創作の世界だからこそ成立するファンタジーだ。
しかし、魔物も亜人種も実在するこの世界では、フィクションのはずの物語が、あまりにも生々しい現実味を帯びてしまう。
魔王すら赤面させる、まさに特級呪物であった。
「リュシエラちゃん、その本に書かれていることは、あくまで創作だからね!? 夢物語よ、夢物語!」
「あら~…ですが、実際の魔物でしたら、「あーーーっ!」が猛々しい「あーーーっ!」が無理矢理「あーーーっ!」されて大きな殿方の――」
「あーーーっ! あーーーっ! それ以上は言わないでください!!」
ティアナは茹で蛸のように真っ赤になりながら、ルナの耳を両手で塞ぎ、リュシエラの声をかき消すように叫び続けた。
「……リュシエラちゃん、それはたぶん、異世界からの来訪者が遺したものの中でも、かなり特殊な部類よ」
マリアはこめかみを押さえた。
「温泉を沸かして街を守る仕組みは、素晴らしい遺産だと思うわ。でも、その本は……」
「負の遺産ですね」
「負の遺産なのじゃな」
ティアナが真顔で言い切った。
スカーレットも、なぜか納得したように頷く。
「あらあら。そんなにおかしなことを言ったつもりはないのですが……」
リュシエラだけが、心底不思議そうな顔をしていた。
「と、とにかく! その話は後にしましょう!」
マリアが強引に話を切り上げる。
「今はみんなを助けることが先決よ!」
「そうですわね……。無事に戻れた暁には、皆様もぜひご覧になってくださいね!」
「見ないわよ!!!!!」
マリアの即答が、森に響いた。
リュシエラは不思議そうに首を傾げたものの、その表情には、いつか改めて同人誌について語りたいという熱意がしっかりと残っていた。
マリアはそれを見て、何とも言えない顔で空を仰いだ。
(異世界への影響……いろいろ考えないとダメね、ほんとに)
◇
しばらく森を進んだところで、リュシエラが足を止め、前方を指さした。
「……見えてきましたわ。あれが遺跡です」
木々の隙間から、古びた石造りの建造物が姿を現した。
長い年月を経て壁面には苔が広がり、ところどころに蔦が絡みついている。周囲の森に溶け込むように佇むその姿は、かつて高度な技術を持った転生者が使っていた施設とは思えないほど静かだった。
「どうして、あんな外観にしたのかしら?」
マリアが首を傾げると、リュシエラは少し困ったように微笑んだ。
「以前、あの方に尋ねたことがあります。そうしたら、『ロマンだから』と仰っていましたわ」
「……ロマン?」
「はい。私にも詳しい意味は分かりませんでしたが、あの方はとても満足そうでした」
「……ああ、うん。なんとなく分かるわ」
マリアは遠い目をした。
異世界から来た者の感性というものは、時に理解しがたいものらしい。
そんな遺跡の入口には、明らかに異様な光景が広がっていた。
大きな棍棒を持ったオークが数体。その周囲を、短剣や粗末な武器を手にしたゴブリンたちがうろついている。
「……あそこにいるのは、オークとゴブリンですわね」
リュシエラが声を潜めた。
「数は、オークが三体。ゴブリンが五体……いえ、奥にもう一体います。入口を見張っているようです」
「なるほど。堂々と入るのは難しそうね」
マリアたちは道から外れ、草むらに身をかがめて様子をうかがった。
リュシエラは弓を構えながら、慎重に敵の位置を確認する。
「私が弓で一体を仕留めれば、残りもこちらに気づくでしょう。できれば、奇襲で数を減らしたいところですが……」
「なら、先手を打ちましょう」
ティアナが借りた剣の柄に手をかけた。
「入口を突破できれば、内部へ進めます。敵の数は多いですが、この程度なら問題ありません」
「そうね。アタシたちに任せてちょうだい!」
マリアは笑顔で頷くと、草むらからゆっくりと立ち上がり、堂々と前へ歩き出した。
「……えっ?」
リュシエラが止める間もなかった。
入口にいた魔物たちが、一斉にマリアへ視線を向ける。
「グルル……?」
突然現れた大柄な人影に、ゴブリンたちが戸惑ったような声を上げた。
「えっ、マリアさん!?」
リュシエラが呆気に取られている間に、ルナが草むらから飛び出した。
「いきますっ!」
小柄な身体が、地面を蹴って一気に距離を詰める。
「グギャッ!?」
マリアに意識を向けて反応が遅れたゴブリンが振り返った瞬間、ルナの一撃を受けて吹き飛んだ。
そのままルナは流れるように次のゴブリンへと向かい、相手が武器を振り上げるより早く懐へ潜り込む。
別のゴブリンが慌てて短剣を突き出したが、ルナは身をひねってかわし、素早い連撃を叩き込んだ。
ゴブリンたちは、次々と地面へ倒れていく。
「これで、三匹目ですっ!」
灰銀色の髪とふさふさの尻尾を返り血で濡らしながら、小柄な獣人の少女が次々と魔物を制圧していく。
「なっ……!」
リュシエラは目を見開いた。
続いて、ティアナも飛び出す。
「魔物相手なら、手加減をする必要もありませんね!」
剣を構えた彼女は、オークが振り下ろした棍棒をかわし、脚の腱を斬りつけて体勢を崩させる。
そして、隙のできた首元へ鋭い一閃を叩き込んだ。
大柄な魔物が喉から血しぶきを上げながら地面へ倒れ込む。
「残りは任せるのじゃ」
スカーレットが片手を掲げた。
指を鳴らす音が響くと同時に、周囲の空気が凍りつく。
次の瞬間、入口付近にいたオークとゴブリンたちの足元から、無数の氷柱が突き出した。
魔物たちは逃げる間もなく氷に貫かれ、その身体ごと凍りついていく。
「……え?」
リュシエラは、ぽかんと口を開けた。
ほんの数秒。
たったそれだけの時間で、入口を守っていた魔物たちは、ほぼすべて制圧されてしまったのだ。
「ふふん。まあ、こんなものじゃな」
スカーレットが満足げに胸を張る。
「魔王のお姉ちゃん、すごいです!」
「当然じゃ。わしを誰だと思っておる」
「魔王様、油断は禁物ですよ。まだ周辺に敵がいるかもしれません」
ティアナが剣を構えたまま、入口の奥を見据える。
「わかっておる。……む?」
そのときだった。
森の奥、背後から突然、一体のオークが姿を現した。
「グオオオオッ!」
仲間を倒されたことに激昂したのか、オークは棍棒を振り上げ、近くにいたマリアへと突進してきた。
「あら?」
マリアが振り返ったときには、もう遅かった。
「マリアさん、危ないですわ!」
リュシエラが叫ぶ。
オークの棍棒が、マリアの頭上から勢いよく振り下ろされた。
――ゴォンッ!!
鈍い音が森に響いた。
棍棒はマリアの頭に直撃し、その衝撃で木製の武器が大きく軋む。
次の瞬間、棍棒はマリアの頭に耐えきれず、バキバキと音を立てて砕け散った。
しかし、マリアは倒れなかった。
「ぐふっ!?」
オークは明らかに動揺をした。
「……もう!」
頭を押さえながら、ゆっくりと顔を上げる。
その額には、傷ひとつついていない。
「えっ……?」
リュシエラは目を丸くした。
今の一撃は、まともに受ければ人間の頭蓋など簡単に砕けるはずだ。
それなのに、目の前の女性は、まるで木の葉でも被ったかのように、身体についた木屑を払っているだけだった。
「ちょっとぉ! 髪が乱れたじゃないの!」
マリアはオークを見上げ、鋭い視線を向けた。
オークは武器を失ったことも気にせず、雄叫びを上げながら両腕を振り回す。
「グオオオオッ!!」
「もう! 大人しくしなさい!」
マリアは大きく振りかぶられた腕を避けようとするでもなく、ただ目の前のオークを見つめた。
そして――。
パァァンッ!!
乾いた音が森に響いた。
マリアの平手打ちを受けたオークの巨体が、横方向へ吹き飛んでいく。
地面を何度も転がった末、木の根元にぶつかって動かなくなった。
「……え?」
リュシエラは、今度こそ完全に言葉を失った。
棍棒の直撃を受けても無傷。
そのうえ、片手の平手打ちでオークを吹き飛ばしたのだ。
いったい、何が起きたのか。
「もう、野蛮なんだから!」
マリアは手のひらを軽く振り、乱れた髪を整えた。
「マリア様……。今の攻撃、避ける気がまったくありませんでしたよね?」
「え? だって、気づいたときには当たってたんだもの」
「そういう問題ではありません!」
ティアナが頭を抱える。
「マリアさんは、本当に異世界の方ですわね……」
リュシエラは呆然としたまま呟いた。
彼女はこれまで、数多くの魔物と戦ってきた。
強い戦士も、優れた魔法使いも知っている。
だが、攻撃をまともに受けて平然としている者も、平手打ちだけでオークを吹き飛ばす者も、見たことがなかった。
もちろん、マリアだけではない。
ルナの身軽さと高い戦闘能力。ティアナの研ぎ澄まされた剣さばき。スカーレットの圧倒的な魔術。
どれも、普通の冒険者とは比べものにならない。
マリアは何でもないことのように答えた。
リュシエラは、改めてマリアたちを見つめた。
やはり、異世界から来た方には、この世界の常識が通用しないのかもしれない。
だが、今はその不思議さが、何よりも頼もしかった。
(この方たちなら……)
リュシエラは、ぎゅっと大弓を握り締めた。
(父も、兄も、みんなも……きっと助け出せる)
胸の奥に、希望の灯がともる。
不安に押し潰されそうだった心が、少しずつ力を取り戻していく。
「皆さん……本当に、頼もしいですわ」
「でしょ? うちの子たち、すごいんだから!」
マリアが誇らしげに胸を張る。
「ママ、わたし、頑張りました!」
「ルナちゃん、血まみれじゃない!?」
「大丈夫です! わたしの血じゃありませんから!」
「そういう問題じゃないわよ!」
マリアは慌ててハンカチを取り出し、ルナの顔についた返り血を拭ってやった。
ルナは嬉しそうに尻尾を揺らしている。
「さて。入口の魔物は片づいたわね。中へ入りましょう!」
マリアの言葉に、全員が頷いた。
リュシエラは一度だけ、遺跡の奥を見つめる。
「……みんな、父さん、兄さん。どうか、無事でいてください」
小さく祈ると、彼女は仲間たちとともに遺跡の入口をくぐった。
◇
遺跡の内部は、入口から差し込む日の光以外に明かりがなく、薄暗かった。
ほんの少し奥へ進んだだけで光は届かなくなり、足元すら見えづらくなる。
「思ったより暗いですね……」
ティアナが目を細める。
「ご安心ください。明かりなら、私にお任せを」
リュシエラは片手を前へ差し出した。
「精霊よ。迷える私たちの道を照らせ」
彼女の指先に、小さな光が生まれた。
それはふわりと空中へ浮かび上がると、リュシエラの頭上で静かに止まった。
光の届く範囲は、およそ十メートルほど。
まるで暗闇の中を懐中電灯で照らしているかのように、周囲と前方の通路が浮かび上がる。
「へえ! 便利な魔法ねぇ!」
マリアが感心したように声を上げる。
「ふふ、これは魔法ではなく精霊術といいます。精霊の力を借りて、さまざまな現象を引き起こすのです。もっと大きな光を生み出すこともできますが、今は敵に気づかれないよう、この程度にしておきましょう」
「初めて見ましたが、不思議ですね。光なのに、どこか温かみを感じます」
ティアナが光の球体にそっと手を伸ばす。
光はティアナの手の周りをくるりと回ると、再び元の位置へ戻った。
「まあ、なんだかかわいいわね」
マリアも興味津々といった様子で眺めていたが、リュシエラに促され、一行は慎重に通路を進んでいく。
壁や天井には、金属とも石ともつかない素材で作られた太い管が何本も走っていた。
ところどころに継ぎ目や分岐があり、壁の奥へと伸びている。
「これは……お湯を運ぶためのパイプかしら?」
マリアが壁に目を向けた。
「はい。遺跡の地下で温められた水を、街へと送り出すためのものです。こちらの配管は、普段ならかなりの量のお湯が流れているはずです」
リュシエラが説明する。
「これが壊れたら、温泉も止まっちゃうわけね」
「そういうことです。だからこそ、できるだけ設備を傷つけずに進みたいところなのですが……」
リュシエラは、少しばかり不安そうに前方を見た。
その直後。
「グギャッ!」
通路の奥から、ゴブリンが飛び出してきた。
手には錆びた短剣。こちらを見つけるなり、甲高い声を上げて突っ込んでくる。
「また出たわね!」
マリアが声を上げるより早く、ティアナが前へ出た。
「はっ!」
一閃。
ゴブリンはあっさりと地面へ倒れた。
続いて、壁の陰からオークが姿を現す。
「グオオオッ!」
「ルナちゃん、お願い!」
「はいっ!」
ルナが飛び出し、オークの頭上へ跳び上がる。
そして、空中で身体をひねると、鋭い踵落としを叩き込んだ。
ドゴッ!!
直撃を受けたオークは頭から地面へ叩きつけられ、そのまま動かなくなった。
「すごい……!」
リュシエラが驚く間にも、その先からさらに数体のゴブリンが現れた。
「もう、次から次へと!」
「ずいぶんと歓迎されておるようじゃな」
スカーレットが片手を振ると、魔力の衝撃が通路を走り、ゴブリンたちをまとめて壁際へ吹き飛ばした。
「歓迎というより、襲撃ですわね……精霊よ!仇名す敵を退けよ!」
リュシエラは大弓に矢を番え、解き放たれた矢は精霊の力により不規則な軌道を描き二体のゴブリンを貫いた。
それからも、行く手を阻む魔物たちが次々と現れた。
しかし、ルナが駆け、ティアナが剣を振るい、リュシエラが矢を放ち、スカーレットが魔法を放つたびに、魔物たちはあっという間に無力化されていく。
マリアはというと――。
「ちょっと! そっちは通路が狭いんだから、暴れないでちょうだい!」
棍棒を振り回すオークの攻撃を、またしてもまともに受けていた。
ゴンッ!
「いたぁっ!」
反射で思わず声を上げたものの、もちろん傷ひとつない。
オークが驚いて動きを止めたところへ、マリアの平手打ちが飛ぶ。
パァンッ!
巨体が通路の奥へ吹き飛んだ。
しかし、そのまま壁に激突すれば、遺跡の設備まで壊しかねない。
「阿呆が!」
スカーレットが指を鳴らし魔術を発動させる。
壁にぶつかる寸前でオークの身体がぴたりと止まり、次の瞬間、地面へと叩き落とされた。
「おい、マリアよ! 何度も止めてやれると思うでないぞ! ぬしが暴れては遺跡が傷つく。もう少し大人しくできぬのか?」
「暴れてるのはアタシじゃないわよ!」
マリアは頬を膨らませた。
「うーーーん……でも、確かに遺跡を壊したら温泉に入れなくなっちゃうわね」
頬に手を当て、小首を傾げるマリア。
「そこは温泉を心配するところなのですか……?」
ティアナが呆れた声を漏らした。
リュシエラは苦笑しながらも、彼女たちの姿を頼もしく見つめる。
戦闘が起きるたびに驚かされるが、彼女たちの実力は疑いようもない。
◇
やがて、通路は緩やかな下り坂へと変わった。
進むにつれて、空気が湿り気を帯びてくる。
どこからか、水の流れる音も聞こえてきた。
「……この先ですわ」
リュシエラが足を止め、前方へ目を向けた。
「この先に、大きな貯水槽があります。遺跡の地下で集められた水がそこへ流れ込み、浄化などの処理を経て、温泉街へ送り出される仕組みになっているのです」
「水のろ過まで、ここでやっているのね」
「ロカ、というものが何かは分かりませんが、水をきれいにする仕組みということであれば、そのとおりですわ」
リュシエラは慎重に光を進めた。
やがて通路の先が開け、広大な空間が姿を現す。
天井は高く、壁には無数の管が張り巡らされていた。その配管が続く先には、いくつもの巨大な貯水槽が並んでいる。
水面は静かに揺れ、天井から落ちる雫が小さな波紋を広げていた。
だが――。
「……やはり、おかしいですわね。水が少ないですわ」
リュシエラが眉をひそめた。
マリアも貯水槽を覗き込む。
普段なら、槽いっぱいに水が蓄えられ、配管からは絶え間なく温水が送り出されているはずだった。
ところが、今は水位が明らかに低い。壁の配管から滴る水も、申し訳程度しかない。
「これでは、温泉街に十分なお湯を送れないはずですわ……」
そのときだった。
ぼこり。
貯水槽の水面が、不自然に盛り上がった。
「……あら?」
マリアが首を傾げる。
ぼこ、ぼこぼこぼこっ!
水面が激しく泡立ち、何かが槽の底から浮かび上がってくる。
次の瞬間――。
――ぶわぁっ!!
半透明の巨大な塊が、水しぶきを撒き散らしながら飛び出してきた。
青白く透き通った身体の内側では、水が渦を巻いている。表面はぷるぷると波打ち、いくつもの触手のような突起が不規則に伸び縮みしていた。
「ス、スライム!? こんなところに、どうして……!」
ティアナが剣を構える。
「驚かれました?ご安心ください、このスライムは危険な存在ではないのです」
そう言って、リュシエラは一歩前へ出た。
「この貯水槽にいるスライムは、設備の中を流れる水を浄化し、汚れを取り除く役割を担っています。遺跡を維持するために欠かせない存在で、普段は人を襲うことなどありません」
「へえ……魔物なのに、温泉の設備を手伝ってくれているのね」
「ええ。このプルプルした触手、すごくイイですよね……」
リュシエラの表情がうっとりとスライムに向けられる。
身体を不規則に震わせ、まるで何かを探すように触手を伸ばしている。その動きには、普段の穏やかさがまるでなかった。
目の前のスライムは、明らかに様子がおかしかった。
「!?皆さん、離れてください! このスライム、何かが――」
言い終えるより早く、スライムの身体が大きく膨らんだ。
ぶるんっ!
無数の触手が弾けるように広がり、リュシエラへ襲いかかる。
「きゃっ!?」
あっという間だった。
半透明の身体がリュシエラを包み込み、そのまま貯水槽の縁から引きずり込んでしまう。
「リュシエラちゃん!?」
「リュシエラさん!」
マリアとティアナが同時に叫んだ。
スライムはリュシエラを取り込んだまま、さらに触手を伸ばしてくる。
「きゃあっ!」
ルナが跳び退き、ティアナは剣で触手を弾き返した。
スカーレットも即座に魔力を解き放つ。
「このっ、気色が悪い!」
魔力の衝撃が触手をまとめて吹き飛ばした。
しかし、切り離されたように見えた触手は、床に落ちるとすぐに形を崩し、ぬるりと本体へ戻ろうとする。
「こやつ、いくら散らしても戻ってくるぞ!」
「スカーレット! リュシエラちゃんを先に助けて!」
マリアの声に、スカーレットの表情が変わった。
スライムの半透明な身体の向こうに、リュシエラの姿が見える。
彼女は身体をよじり、必死に抜け出そうとしていた。
「……っ、皆、さん……!」
だが、全身を這う粘液に包まれた手足は思うように動かず、身体が徐々に沈み込んでいく。
頭まで覆われ、声は粘液に遮られ、ほとんど聞こえなかった。
リュシエラの身体は踠き、ビクリと動いてのち、脱力していくのだった。
「まずい! 早く引き剥がさねば!」
スカーレットが手を掲げる。
本来なら、氷の魔術でスライムの動きを封じることもできる。
だが、リュシエラごと凍らせるわけにはいかない。貯水槽や配管を壊すことも避けなければならなかった。
ほんの一瞬、スカーレットの判断が遅れる。
その間にも、スライムの身体は大きく膨らみ続けていた。
「ええい、仕方あるまい!」
スカーレットは両手を広げた。
「風よ!」
轟音とともに、強烈な風が貯水槽の間を駆け抜けた。
狙いは、スライムの身体を引き剥がし、リュシエラを解放すること。
風はスライムの身体を直撃し、その巨大な塊を一気に吹き飛ばした。
ぼぉんっ!!
激しい破裂音と共に半透明の身体が、まるで巨大な水風船のように弾ける。
ぷるぷるとした粘液が、四方八方へ飛び散った。
だが――。
人命を優先するあまり、力の加減がおろそかになっていた。
「なっ……!?」
「きゃああっ!」
「わわっ!?」
「ぬおおおっ!?」
ルナ、ティアナ、マリア、そしてスカーレット。
全員が避ける間もなく、降り注ぐスライムの直撃を受けた。
頭に。
肩に。
顔に。
そして、服の上から全身に。
べちゃっ! べちゃべちゃっ!!
粘液があちこちに張りつき、床にまで飛び散っていく。
「…………」
数秒間、誰も言葉を発しなかった。
ティアナの金色の髪には、透明な粘液がべったりと絡みついていた、旅装の上着は粘液で濡れ、青い下着の色を薄ら透かし、長いスカートにも、粘り気のある塊がいくつも張りついている。
ルナは頭から粘液を被り、狼耳をぺたりと伏せていた。顔に掛かった粘液が口の横をたらりと流れ、銀灰色の髪から雫が滴り、ふさふさの尻尾までしっとりと重くなっている。
スカーレットも例外ではない。
艶やかな赤い髪には粘液が絡まり、頭の先から角、深紫色ドレスの肩や裾には、半透明の粘液がいくつも滴っている。
そして――。
「…………」
マリアは、顔面に張りついた粘液を指でつまみ、ゆっくりと引き剥がした。
長い髪も、胸元も、肩も、ドレスの裾も。
どこを見ても、ぷるぷるとした粘液だらけである。
「…………スカーレット?」
「ま、待つのじゃ! 今のは、リュシエラを助けるために――!」
「それは分かってるわよ、わかってるけど…」
マリアは静かに頷いた。
そして、粘液が垂れる前髪をそっと持ち上げる。
「でもねぇ……」
低い声が、貯水槽に響いた。
「せっかく整えた髪も、お気に入りのドレスも、ぜーんぶベッタベタじゃないのぉぉぉ!!」
「す、すまぬ! 加減を誤ったのじゃ!」
「ママ、わたしもお口に入ってべたべたです……」
ルナが舌を出し、手を受け皿に口から唾液に混ざって粘液をだらりと垂らし、しょんぼりと耳を伏せる。
「ルナちゃん……! ぺッしようね!なんだかその吐き方はなんか良くないから、ペッしましょ!」
「はい……」
マリアはルナの頭を撫でようとしたが、手のひらにも粘液がべったりついていることに気づき、動きを止めた。
「……これ、どこから拭けばいいのよぉ」
「マリア様、今はそれどころではありません!」
自身の姿に顔を赤らめていた、ティアナが叫ぶ。
「リュシエラさんは!?」
その声に、全員がはっとして貯水槽へ目を向けた。
スライムの巨大な身体は吹き飛ばされ、無数の塊となって床に散らばっていた。
その中心で――。
「けほっ、げほっ! ごほっ!」
リュシエラが、粘液の中から這い出してきた。
「リュシエラちゃん!」
マリアが駆け寄る。
リュシエラは咳き込みながら、口元に残っていた粘液を吐き出した。
「けほっ……うぅ……!」
全身はすっかり粘液まみれだった。
亜麻色の髪は額や頬に張りつき、緑の衣装も粘液で濡れている。なんとか抜け出せたものの、まだ息が整わないらしく、肩を上下させていた。
「大丈夫!? 息はできる!?」
「は、はい……。なんとか……」
リュシエラは答えた。
ところが、次の瞬間。
彼女の顔が、みるみるうちに赤くなっていった。
「……わ、わたし……スライムに……喉まで……」
「リュシエラちゃん?」
「ま、まさか……胸も、あんなとこやこんな所まで触られて、あのようなことが、本当に……!」
何かを思い出したかのように、リュシエラは両手で顔を覆った。
そして――。
「わたしはスライムに、全身でスライムに犯れっ!!包まれて……あぁぁっ! まさか、イキかけそんなぁぁぁぁっ!!」
ティアナは眉間を押さえた。高揚した表情を浮かべ床を転げ回った。
マリアも、心配そうな表情から何とも言えない顔へと変わっていく。
「……リュシエラちゃん。苦しかったのよね?」
「はい……! ですが、それだけではなく……いえ、これは、わたくしの中の何かが……!」
「何かを目覚めさせないでちょうだい!」
マリアが思わず叫ぶ。
リュシエラは両手で頬を押さえ、床を転がりながら身悶えしていた。
その様子を、ティアナは冷めた目で見下ろす。
「……いっそのこと、溺れてしまえばよかったのに」
「ティアナ!?」
「冗談です、マリア様。……半分くらいは」
「半分は本気なのね!?」
スカーレットは咳払いをひとつして、気まずそうに視線をそらした。
「と、とにかく、全員無事で何よりじゃ。少々、粘液まみれになってしまったが……」
「少々じゃないわよぉぉぉ!」
マリアの叫びが、再び貯水槽に響き渡った。
◇
ひとまず、全員で身についた粘液を拭い落とすことになった。
とはいえ、手で拭ったところで粘液は伸びるばかり。布で拭けば布に絡みつき、髪に張りついたものはなかなか取れない。
「うう……耳まで、べたべたです……」
ルナが頭部でぺたんと折り畳まれた濡れた耳を両手で挟み、しょんぼりと肩を落とす。
「大丈夫よ、ルナちゃん。帰ったら、ママがきれいにしてあげるからね」
「はい……」
マリアはルナを慰めながらも、ドレスに張りついた粘液を見て深いため息をついた。
「これ、ちゃんと落ちるのかしら……」
「その点は心配いらぬ。スライムの粘液は、水で十分に洗い流せるはずじゃ」
「なら、最初から水で流してちょうだい!」
「うむ。……と、その前に」
スカーレットは、床に散らばったスライムの欠片へ視線を向けた。
吹き飛ばされた塊は、まだ小さく震えていた。だが、先ほどのように襲いかかってくる気配はない。
スカーレットは片膝をつき、魔力を探るように手をかざした。
「……妙じゃな」
「何か分かったの?」
「このスライム、魔力がひどく欠乏しておる」
「魔力が欠乏?」
ティアナが首を傾げる。
「うむ。本来なら、貯水槽の水を浄化しながら、周囲にある魔力を少しずつ取り込んで活動する仕組みなのじゃろう。ところが、今はその魔力がほとんど残っておらぬ」
スカーレットは、壁を走る配管と貯水槽を見比べた。
「この温泉の設備には、湯を沸かすだけでなく、魔力を水に混ぜ込む仕組みがあるようじゃな。おそらく、温泉を温めたり、魔物を遠ざける結界を維持したりするためのものじゃろう」
「なるほど……。だから、このスライムも魔力を利用して働いていたのね」
マリアが納得したように頷く。
「しかし、今は水の量が減っておる。魔力を含んだ水が十分に供給されず、スライムは活動に必要な魔力を失ってしまった。その結果、魔力を求めて暴走した……というところじゃろう」
「では、スライムそのものが悪いわけではないのですね?」
リュシエラが尋ねた。
ようやく落ち着きを取り戻した彼女は、荒げた息を整えながらまだ頬を赤くしながら、散らばったスライムを見つめている。
「そうじゃ。少なくとも、今の状態を見る限りはな。設備の異常が原因で、こやつもまともに活動できなくなっておるのじゃろう」
「それなら、魔力と水を補充すれば元に戻るかもしれないってことかしら?」
マリアが貯水槽を覗き込んだ。
息と身なりを整えたリュシエラも頷いた。
「可能性はあります。ですが、貯水槽に水を流し込む仕組み自体が止まっているのでは……」
「なら、魔術で直接足せばよい」
スカーレットは立ち上がると、貯水槽へ手を向けた。
青く輝く幾何学模様と魔法陣が展開され、空気中の水分が集まり始めた。
最初は小さな雫だったものが、次第にまとまり、透明な水の流れとなって貯水槽へ注ぎ込まれていく。
スカーレットは水量を確かめながら、水位が少しずつ上がっていく。
「こんなものじゃろうか?」
貯水槽がある程度の水位まで満たされた、そのときだった。
床に散らばっていたスライムの欠片が、一斉に震え始めた。
「あらっ?」
マリアが身構える。
だが、今度は襲ってくる様子がない。
小さな塊は、まるで何かに引き寄せられるように、床をゆっくりと這い始めた。
ぬるり。
ぬるぬる。
散らばった粘液が集まり、ひとつ、またひとつと貯水槽へ戻っていく。
やがて、すべての欠片が水面へと滑り込み、半透明の身体が再び形を取り戻した。
先ほどまでの荒々しい動きは消え、スライムは貯水槽の中で穏やかに揺れている。
「……落ち着いた、のでしょうか?」
ティアナが慎重に剣を下ろす。
「そのようじゃな」
スカーレットは魔力の流れを確かめ、頷いた。
「わしの魔力が含まれた水が補充されたんじゃ、必要な魔力も確保できたのじゃろう」
スライムは、まるで何事もなかったかのように、貯水槽の中でぷるんと身体を揺らした。
「……さて」
マリアは、ゆっくりと自分の姿を見下ろした。
髪にも、ドレスにも、まだ粘液があちこちに残っている。
「スカーレット?」
「な、何じゃ……?」
「温泉を直すのはいいわ。スライムが元気になったのもいいことよ」
マリアはにっこりと微笑んだ。
その笑顔を見たスカーレットの背筋に、嫌な予感が走る。
「じゃが……」
「でもねぇ……」
マリアは、粘液の張りついたドレスの裾をつまみ上げた。
「このベトベトなんとかして頂戴!!」
「分かった、分かったから大声を出すでない!」
貯水槽に、二人の声が響き渡る。
その隣では、ティアナが粘液のついた髪と服を見てため息をつき、ルナが耳と尻尾を気にしていた。
そしてリュシエラだけは、また頬を赤らめたまま、何やら遠い目をしている。
「……あの本に書かれていたことは、すべて空想だと思っておりましたのに……」
「リュシエラさん。今は忘れてください」
ティアナが即座に釘を刺した。
「……はい」
返事だけは素直だった。
しかし、その顔に浮かぶ妙に満ち足りた表情を見て、ティアナはもう一度、深いため息をついたのだった。




