第七章 最強受付嬢、旅先で問題を拾う②
教会の裏手へ回ると、そこには人ひとりが通れるほどの細い道が続いていた。
石畳はすぐに途切れ、木々の根がむき出しになった山道へと変わっていく。道の両側には背の高い木々が生い茂り、頭上を覆う枝葉が陽光を遮っていた。
「この先に、源泉のある遺跡があるのよね?」
「はい。この森の奥にあるそうです」
ティアナが周囲を警戒しながら答えた。
「ただ、先ほどの話では、エルフの方々が立ち入りを拒んでいるのでしたね」
「そうなのよねぇ。こっちは温泉に入りたいだけなんだけど」
マリアは肩をすくめた。
せっかく楽しみにしていた温泉旅行だ。あの素晴らしいお湯を一度しか堪能できずに帰るなんて、あまりにも悲しすぎる。
とはいえ、森の管理者であるエルフたちが話を聞いてくれない以上、強引に押し通るわけにもいかなかった。
今回は温泉街の住人から依頼を受けて来ている。自分たちの行動が、住人とエルフの関係を悪化させることだけは避けたかった。
「ママ、また温泉に入れるようになるといいですね!」
「そうねぇ。ルナちゃんは、温泉まんじゅうも食べたいものね?」
「はいっ!」
ルナは元気よく頷いた。
「……目的が少々偏っておらぬか?」
スカーレットが呆れたように言う。
「何言ってるのよ。おいしいものと温泉は、旅行の大事な要素でしょ?」
「否定はせぬが……」
スカーレットは言いかけて、ふと森の奥へ視線を向けた。
それに気づいたティアナとルナも、すぐさま周囲への警戒を強める。
三人の表情から、先ほどまでの気楽さが消えた。
「……誰かおるぞ」
「えっ?」
マリアが気の抜けた声を上げた、その直後だった。
木々の間から複数の人影が現れ、一行を取り囲んだ。
ルナは耳をぴくぴくと動かし、周囲を鋭く見回す。先ほどまでの無邪気な少女とは思えないほどの鋭い眼差しで、牙をのぞかせながら、いつでも飛び出せるように身構えた。
ティアナも剣の代わりに、道端に落ちていた太めの棒を握り締める。
現れた者たちは、長く尖った耳と整った顔立ちを持つエルフの女性たちだった。
彼女たちは弓や短剣を携え、警戒を露わにしながら道を塞いでいる。
「全員、そこで止まれ!」
先頭に立つ短髪のエルフが鋭く叫んだ。
「この先は我らの領域だ。人間が立ち入ることは許されない。今すぐ引き返せ!」
「ええ、そうしたいのは山々なんだけどねぇ」
マリアは両手を軽く上げ、敵意がないことを示した。
「ちょっとお話をしに来たのよ。街の温泉が出なくなっちゃったみたいでね」
「……温泉?」
エルフたちの表情がわずかに変わる。
「……見慣れない連中だな。街の者から依頼を受けたのか? ならば、なおさら帰れ。ここから先は危険だ」
「危険って、何かあったの?」
「お前たちには関係のないことだ」
取りつく島もない。
マリアが困ったように眉を下げた、そのときだった。
「お前! 魔族か!」
その声に、エルフたちの視線が隣に立つスカーレットへと移った。
そして、顔に浮かんでいた困惑が、たちまち強い警戒へと変わる。
「……おい。なぜ魔族がいるんだ!」
短髪のエルフが声を上げ、短剣を構えた。
それに続くように、周囲の者たちも一斉に武器を向ける。
「貴様、あの遺跡を占拠している魔族の仲間か!?」
「ほう? わしの仲間は、こやつらだけじゃよ」
スカーレットは心当たりがないとばかりに首を傾げた。
しかし、エルフたちの警戒は解けない。
周囲の緊張が高まる中、今にも飛びかかりそうなルナの肩に、ティアナがそっと手を置いた。
「とぼけるな! こんなところに魔族が来るなど、遺跡に居座る奴らの仲間としか考えられん!」
「仮に、わしらが貴様らの敵だったとしたら……わざわざ、のこのことこんな山道を歩いて来ずとも――」
ククッ、とスカーレットが小さく笑った。
その口元には、今まで見せたことのない邪悪な笑みが浮かんでいる。
「――この山ごと消し飛ばしてしまえばよいだけなのじゃが?」
次の瞬間、空を覆い尽くすほどの赤黒い魔法陣が幾重にも展開された。
周囲の空気が一変する。
肌を刺すような魔力が森全体を包み込み、木々がざわめいた。息をすることさえ苦しくなるほどの圧迫感が、エルフたちを襲う。
誰ひとり、動けなかった。
弓を引くことも、逃げ出すこともできない。
圧倒的な魔力を前に、エルフたちは自分たちの死を確信した。
「ちょっとちょっと。みんな、落ち着きなさいって」
そんな中、マリアが呆れたように割って入った。
「この子はアタシたちの仲間よ。何度も言うけど、街の温泉が止まっているから、何が起きているのか聞きに来ただけ。スカーレットも、脅すにしてもやりすぎよ?」
「なんじゃ、わかっておったか」
「あなたが本気でやる気なら、容赦なく撃ってたでしょう?」
「ほう。わしのことを、よく理解しておるではないか」
スカーレットは、いたずらを見つかった子供のように、不敵な笑みを浮かべた。
◇
スカーレットが手をひと振りすると、膨大な魔力が霧散し、赤黒い魔法陣が跡形もなく消え去った。
森に静寂が戻る。
しかし、エルフたちはすぐには動けなかった。先ほどまで山全体を覆い尽くさんばかりに広がっていた圧倒的な魔力。その余韻が、まだ身体にまとわりついているかのようだった。
「皆さん、武器を納めてください」
静寂を破るように、柔らかな声が森の奥から響いた。
一人の女性が、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。
すらりと伸びた手足に、しなやかな体躯。流れるような亜麻色の長い髪と整った顔立ちには、エルフ特有の凛とした美しさが宿っていた。
深緑色のアーチャードレスは細身のシルエットを描いているが、胸元には目を見張るほど豊かな膨らみが、ひときわ目を引く存在感を放っていた。
彼女は周囲の仲間たちを一瞥してから、一歩前へ出る。
そして、スカーレットをまっすぐに見据えた。
「無礼をお詫び申し上げます。族長代理として、一族を代表し、心より謝罪いたします」
動きやすさを考慮した、前後に分かれるロングスカートの裾を優雅につまみ上げる。幾重にも重なった布が美しいドレープを描き、彼女は静かに頭を下げた。
口調と所作は礼儀正しい。しかし、若草色のペリドットを思わせる瞳には、まだ警戒の色が残っていた。
「謝罪を受け入れよう。わしも、少々余興が過ぎたことは詫びよう」
「感謝いたします」
族長代理と名乗ったエルフは頭を上げた。
その眼差しには、目の前の相手を慎重に見極めようとする強い意志が感じられた。
「立ち話もなんですし、よろしければ我が家へお越しいただけませんか?」
◇
族長代理の案内で森の奥へ進むと、やがて木々の間に小さな集落が姿を現した。
そこに建ち並んでいるのは、木材だけで組まれた家ではなかった。
古代遺跡の跡地を利用し、崩れかけた石壁を土台に、石や粘土で補強した住居が点在している。遺跡の一部をそのまま壁や柱として活用しているらしく、古い文明の名残と豊かな自然が調和した、独特の景観を作り出していた。
道を進むマリアたちに、住民の視線が集まる。
物陰からこちらをうかがっているのは、女性や子供、老人ばかりだった。中には怪我をして松葉杖を突いている男性もいたが、ほかに成人男性の姿はほとんど見当たらない。
マリアは何気なく集落を見回した。
――エルフって、イケメンが多いイメージだったんだけど……。
そんなことを考えながら、近くにいた子供ににっこりと微笑みかける。
すると、子供はびくりと肩を震わせ、慌てて物陰に隠れてしまった。
――あら、逃げられちゃった。
マリアは少しだけ肩を落とした。
どうやら、この大きな体と派手な格好は、子供には刺激が強すぎたらしい。
そんなことを考えているうちに、一行は集落の中でもひときわ頑丈そうな石造りの家へと案内された。
扉をくぐると、壁際には木製の棚が並び、弓や矢筒、薬草を入れた籠などが整然と置かれている。簡素ながらも、ここが集落をまとめる者の住まいであることがうかがえた。
「どうぞ、お掛けください。お茶をお出ししたいところなのですが、今は少々落ち着かない状況でして……」
「いいのよぉ。こっちも急に押しかけちゃったんだもの」
マリアは気にした様子もなく、勧められた椅子に腰を下ろした。
温泉街の住人から、温泉が止まった原因を調べてほしいと頼まれたこと。そのために森の管理者であるエルフたちのもとを訪ねてきたこと。
そのあたりの事情は、集落へ向かう道すがら説明してあった。
事情を聞いた族長代理の女性は、ほっとしたように微笑んだ。
「改めまして。私はこの集落で族長代理を務めております、リュシエラと申します。どうぞ、よろしくお願いいたしますわ」
彼女は丁寧に一礼した。
「まずは、皆さんのお名前をお聞かせいただいてもよろしいでしょうか?」
「もちろんよ。アタシはマリア。よろしくね!」
マリアが名乗ろうとした、そのときだった。
「わたしはルナ! ママの家族! 人間はわたしのこと、ルナガルムって呼んでます!」
ルナが元気よく手を挙げた。ふさふさの尻尾を揺らし、胸を張っている。
「あら、元気いっぱいで可愛らしい……。ルナ、ガルム……?」
リュシエラの笑顔が、ぴたりと止まった。
その様子を見ていたティアナは、「分かります。その反応になりますよね」と言いたげな、ぎこちない笑顔を向けていた。
スカーレットは優雅に足を組み、さも当然といった顔で告げた。
「わしは、ただの国を追われた魔王じゃ」
「…………はい?」
リュシエラの笑顔がさらに固まった。
まるでゼンマイの切れかけた玩具のように、ぎこちなく首をスカーレットへ向ける。
「どこにでもいる、魔王じゃ」
「ま、魔王……?」
リュシエラはスカーレットの顔をまじまじと見つめた。
先ほど森で見せつけられた圧倒的な魔力を思い出したのだろう。
「ふふっ……へえ、魔王ですかぁ。長く生きてきましたけど、わたし、初めて見ました。すごいなぁ……」
笑顔を保とうとしているものの、頬がわずかに引きつっている。
――分かります。その気持ち。
そのぎこちない笑顔を目にしたティアナは、なぜか慈愛に満ちた微笑みを送っていた。
小さく咳払いをしたティアナは、席から立ち上がり、背筋を伸ばして騎士らしく姿勢を正した。
「王国騎士団副団長、ティアナ・ガーランドベルです。現在は休暇中のため、剣も持たず、このような服装であることをお許しください」
今のティアナは、麻のシャツに若草色のロングスカートという休暇中の装いだ。普段の軽鎧姿とは違うものの、その立ち居振る舞いには隠しきれない気品があった。
「まぁ! 騎士! 女騎士、なんですね! 本物を拝見するのは初めてです!」
リュシエラは椅子から飛び上がった。
先ほどまでのこわばった笑顔が一変し、顔いっぱいに喜色が広がる。
……いや、喜色というには、どこか様子がおかしい。
リュシエラの目がすうっと細められ、口元が緩む。先ほどまでの淑やかな微笑みとは明らかに違う表情が浮かんでいた。
「ええ、まあ……そうですが? お、女騎士……?」
「そうですか……女騎士なんですね……ふふ、ふふふ……」
リュシエラはティアナの手を取ると、その甲を両手で包み込んだ。
そして、なぜか親指で手の甲をゆっくりと撫で始める。
「……ひっ!? あ、あの?」
「いえいえ、何でもありませんよ。ふふっ……」
口元はだらしなく緩み、瞳は妙にきらきらと輝いている。
穏やかで上品なエルフの女性。
そう思っていた相手の顔が、今はどうにも怪しい。
ティアナの背筋に、ぞわりと悪寒が走った。
――何だ、この人は……?
先ほどまでの淑やかな雰囲気の奥底から、何か得体の知れない熱意が漏れ出している。
相手は集落をまとめる族長代理だ。振る舞いも口調も礼儀正しく、先ほどまでは隙のない人物に見えた。
それなのに、今の反応は明らかにおかしい。
「……あの、手を離していただけますか?」
「あらあら、失礼いたしました」
リュシエラは名残惜しそうに手を離した。何事もなかったかのように微笑み、にこにことこちらを見ている。
ティアナはそっと自分の手を引き寄せ、警戒を解かないまま椅子に座り直した。
「最後はアタシね。マリアよ。よろしく!」
マリアは胸に手を当て、にっこりと笑った。
リュシエラは中腰の姿勢のまま、マリアの顔から足の先まで、じっくりと視線を巡らせた。
やがて、不思議そうに首を傾げる。
「……殿方ですか?」
「レディよ」
「……変態ですか!?」
「レディよ!!」
マリアの声が、石造りの家に朗々と響き渡った。
「ちょっとぉ! 初対面でその判断は失礼じゃないかしら!?」
「ふふふ、申し訳ございません。あまりお見かけしないお姿でしたので……。もしや、異世界の方でしょうか?」
「っ!?」
マリアが大げさに動揺した。
その様子を見て、ティアナが思わず口を挟む。
「どうして、そう思われるのでしょうか?」
「かつて、この里と街を興したのは、異世界から訪れた旅人だったと聞いております。その方が現れたことで、この世界に大きな変化が起きたのだとか。あの遺跡も、かつて異世界の旅人が造ったものだそうです」
リュシエラの説明に、マリアは「話してもいいのかしら?」と言いたげな表情で、ティアナをちらちらと横目で見た。
「マリア様、よろしいかと思います。私も、この遺跡が異世界の方によって造られたという話は初めて聞きました。リュシエラさんなら、むやみに口外することもないでしょう」
「よかった。アタシ、隠し事って苦手なのよね」
マリアはほっと息をつくと、自分が異世界から召喚されたことを含め、簡単に事情を説明した。
「ママは、違う世界から来た方なんですか?」
「わしも初耳なんじゃが……」
同じく初めて聞いたルナとスカーレットは、そろって目を丸くしていた。
「しかし……異世界から来られた勇者様とは。その……わたしが想像していたお姿とは、ずいぶん違うのですね……」
リュシエラは、どこか言葉を選ぶようにマリアを見つめた。
「言いたいことはよく分かりますが、マリア様は少々目立つお姿ではありますが、基本的に無害ですので」
「ティアナちゃん……?」
マリアがじとりとした目を向ける。
その様子を見て、スカーレットが口元を押さえて笑った。
「くくっ……ティアナも容赦がなくなってきたのぉ」
「スカーレット、絶対面白がってるでしょ!」
「おや? わしはマリアを立派なレディと認めておるぞ?」
「その顔で仰っても、説得力がありませんね」
ティアナがすかさず指摘する。
そんなやり取りを、ルナは不思議そうに眺めていた。
「ママは素敵なレディさんですよ?」
「ルナちゃん……!」
マリアは感激したようにルナを抱きしめた。
「ええっと……そうなりますと、皆さんは勇者マリア様のお仲間なのですか?」
「勇者はやめてよぉ。柄じゃないわ」
「監視対象です」
「ママです!」
「協力者じゃ」
ティアナ、ルナ、スカーレットが、それぞれ即答した。
三者三様の返答に、リュシエラは目をぱちくりとさせる。
「……皆さん、本当に仲がよろしいのですね」
「それで、異世界の方でしたら、マリア様はお強いのでしょうか?」
「か弱いレディ――」
「強靭じゃな」
「無敵のママです!」
「最強ですね」
マリアの言葉をかき消すように、三人が口々に答えた。
まるで、どこかの白い竜を表現するときにしか聞かないような言葉ばかりである。
マリアは少しだけ肩を落とした。
そんな彼女を横目に、リュシエラの疑問はますます深まっていく。
「……皆さんのお話を聞いていると、ますます不思議な方々ですね」
リュシエラは小さく笑ったあと、ふと表情を改めた。
「話を戻しますが、一つ、伺ってもよろしいでしょうか?」
「は、はい。何でしょう?」
「集落に到着してから、女性や子供、老人の姿は見かけました。それに、怪我をされた男性も。しかし、それ以外の成人男性の姿がほとんど見当たりません。何かあったのですか?」
その問いに、リュシエラの表情から笑みが消えた。
先ほどまでの微笑みが陰り、ほんの一瞬、視線が伏せられる。
「……やはり、お気づきになりましたか」
彼女は静かに息を吐いた。
「この集落の男性たちは、古代遺跡の調査に向かったまま、戻ってこないのです」
「戻ってこない……?」
マリアの表情が引き締まる。
「はい。そもそもの始まりは、昨夜、遺跡で起きた異変でした」
リュシエラは、ゆっくりと語り始めた。
「私たちエルフは、古くからあの遺跡を管理してきました。ところが昨夜、内部から聞き慣れない物音が響き、これまでこの辺りでは見かけなかった魔物まで現れるようになったのです」
「魔物が……?」
ティアナが眉をひそめる。
「はい。異変を確かめるため、数名の戦士が遺跡へ向かいました。しかし、夜になっても戻らず……心配になった後続隊が様子を見に行ったところ……」
リュシエラは唇を噛んだ。
「オーガによって、彼らの遺体が遺跡の入口に投げ捨てられていたのです」
「……っ!」
ティアナが息を呑む。
その横で、マリアがそっとスカーレットに耳打ちした。
「ねぇ、スカーレット。オーガって何?」
「知らぬのか? 赤い肌に三メートルほどの巨体、額には一本の角が生えた魔物じゃよ」
「……まるで昔話の赤鬼みたいね」
「そうじゃな。人間の伝承にある鬼と、姿はよく似ておる」
マリアは小さく頷き、リュシエラへと向き直った。
「それで、その後はどうなったの?」
リュシエラは一度頷き、話を続けた。
「すぐに討伐隊を編成し、再び遺跡へ向かいました。ですが、その部隊も壊滅状態となりました。満身創痍で戻ってきた者は数名だけで、多くの者が消息不明となっております」
彼女は膝の上で、ぎゅっと両手を握り締めた。
「それ以来、遺跡の入口周辺には、オークやオーガ、ゴブリンまで徘徊するようになりました。まるで、私たちが中へ入るのを拒んでいるかのように……。近づくことすら難しくなり、今では様子を確かめることもできません」
リュシエラは一度言葉を切った。
「討伐隊には、私の父と兄も参加していました。父はこの集落の族長です。私は父が戻るまでの間、代理として集落を預かっています」
その言葉に、マリアたちは顔を見合わせた。
「……お父さんも、お兄さんも?」
「はい。今も、二人の消息はわかっていません」
彼女の声は落ち着いていた。
しかし、膝の上で組まれた指先には、隠しきれない力がこもっている。
「本当は、私自身もすぐに遺跡へ向かいたいのです。ですが、残された者たちを守る者も必要です。私まで集落を離れれば、ここを守る者がいなくなってしまいますから」
リュシエラは握りしめた手を緩め、困ったような笑みを浮かべた。
「街の方々を巻き込むわけにはいかなかったとはいえ、立ち入りを拒む際に、少々手荒な対応をしてしまったことは反省しております。事情を説明する余裕もなく、申し訳ありませんでした」
「だから、街の人たちが森に入ろうとするのを止めていたのね?」
マリアが尋ねる。
「……はい」
リュシエラは小さく頷いた。
「私たちの戦士でさえ、あれほどの被害を受けたのです。事情を知らない方々を巻き込むわけにはいきませんでした」
「なるほどねぇ……」
マリアは腕を組み、考え込むように目を伏せた。
温泉街の人々も、エルフたちも、どちらも自分たちの大切なものを守ろうとしていたのだ。
ただ、互いの事情を伝え合う余裕がなかった。エルフたちにとって、街の住人は守るべき存在だったのだろう。
そして、その間にも遺跡の異変は続き、行方不明者は増えている。
「その……戻ってきた方々は、何か話していましたか?」
静寂を破るように、ティアナが尋ねた。
「はい。彼らは遺跡の中で、魔族と遭遇したと言っていました。それに、魔物たちはその魔族の指示に従っているように見えたそうです」
「魔物を従える魔族、か……」
スカーレットの目が、すっと細められた。
先ほど入口で襲ってきたエルフたちの言葉にも、合点がいったのだろう。
それまで余裕を浮かべていた表情から、笑みが消える。
「……なるほどな。魔族が関わっておるのか」
彼女は静かに立ち上がると、リュシエラへと向き直った。
「此度の件、わし自身が関与しておるわけではない。じゃが、魔族を統べる王として、同族の振る舞いを看過することもできぬ」
スカーレットは普段の軽口を収め、深く頭を下げた。
「我が同族が、おぬしたちに多大な迷惑をかけておるようじゃ。すまぬ」
「ま、魔王様……!」
リュシエラは驚いたように目を見開いた。
魔族の王が、自分たちエルフに頭を下げる。
それは彼女にとって、思いもよらないことだったのだろう。
「どうか、お顔をお上げください。魔王様ご自身は無関係なのでしょう?」
「そうじゃとしても、魔族の仕業であるならば、わしにも無関係とは言い切れぬ。ましてや、家族や仲間を失いかけておる者を前に、何もせずにおるわけにはいかぬからな」
スカーレットは顔を上げると、真剣な眼差しでリュシエラを見つめた。
「……必ずや、この件の真相を確かめよう。もし同族が不当におぬしたちを傷つけたのならば、その責任は取らせる」
「……ありがとうございます、魔王様」
リュシエラは胸元に手を添え、安堵したように微笑んだ。
その表情からは、先ほどまでの魔王に対する警戒心が、わずかに薄れていた。
マリアは二人のやり取りを見守りながら、小さく頷いた。
温泉街の人々も、エルフたちも、そしてスカーレットも。それぞれが、自分の大切なものを守ろうとしている。
みんな不器用で、ただ、互いの事情を伝え合う余裕がなかったのだ。
「……勝手なお願いだということは、わかっています」
リュシエラは椅子から立ち上がり、深々と頭を下げた。
「襲い掛かった身で、このようなお願いをするのは不躾だと承知しております。ですが、もし私たちの敵ではないのでしたら……どうか、遺跡の調査に力を貸していただけないでしょうか」
声が、わずかに震えた。
「父と兄を……そして、まだ戻っていない仲間たちを、助けたいのです」
室内に静寂が落ちた。
マリアは、頭を下げたままのリュシエラをじっと見つめた。
集落を守るため、自分が遺跡へ向かうことを諦めている。
仲間を失い、家族の安否さえわからない。それでも、残された者たちのために気丈に振る舞っているのだ。
そんな彼女の姿を前に、マリアが黙っていられるはずもなかった。
「もちろんよ」
「え……?」
リュシエラが顔を上げる。
マリアは、いつもの人懐っこい笑みを浮かべていた。
「手伝ってあげるわ。困ってる人がいるのに、見て見ぬふりなんてできないもの!」
「マリアさん……」
「それにね、アタシたちも温泉を楽しみにして来たのよ。せっかくの旅行なんだもの。みんなが安心して温泉に入れるようにするのも、大事なことでしょ?」
「……ふふっ。そうですね」
リュシエラの顔に、ようやく少しだけ笑みが戻った。
「ありがとうございます。本当に……ありがとうございます」
「お礼は、みんなが無事に戻ってきてからでいいわよ」
マリアは軽く手を振った。
「それに、温泉まんじゅうもまだ食べ足りないしね!」
「はいっ! ルナもママのお手伝いをします!」
ルナは勢いよく立ち上がり、尻尾をぶんぶんと振った。
「ママの役に立ちます! 頑張ります!」
「ふふっ、頼りにしてるわよ、ルナちゃん」
マリアが頭を撫でると、ルナは嬉しそうに目を細めた。
「……まあ、そうなるであろうな」
スカーレットは、やれやれと肩をすくめた。
「主がおるのじゃ。最初から、こうなると思っておったわ」
「私もです。マリア様が事情を聞いて、そのまま帰るとは思っていませんでした」
ティアナも苦笑しながら頷いた。
「ちょっとぉ! 二人とも、アタシが何も考えずに引き受けたみたいな言い方しないでくれる?」
「違うのか?」
「違うんですか?」
「違うわよ!」
「ふふっ。そうです、ママはとっても優しいですから!」
ルナが嬉しそうに笑う。
マリアは疑わしげに目を細めたが、スカーレットもティアナも涼しい顔をしていた。
リュシエラまで、つられるように小さく笑う。
張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ和らいだ。
◇
「……それでは、行きましょう」
リュシエラはそう告げると、壁際に立てかけてあった大弓を手に取った。
「遺跡までの道案内は、私にお任せください。あの場所は、私たちエルフが代々管理してきた土地です。内部の構造や、最深部へ続く道も把握しています」
「でも、リュシエラちゃんは族長代理なんでしょう? 集落を離れても大丈夫なの?」
マリアが尋ねると、リュシエラは一瞬だけ集落の住人たちがいる方へ目を向けた。
「本来なら、私がここを離れるわけにはいきません。父が戻るまで、皆を守る責任がありますから」
彼女の表情に、再び迷いが浮かぶ。
しかし、その視線はすぐにスカーレットへと向けられた。
「ですが……異世界の旅人であるマリアさんに、魔王様までいらっしゃるのであれば、話は別です」
「ほう?」
スカーレットが興味深そうに眉を上げる。
「私一人や、残された仲間たちだけでは、遺跡へ向かうことは叶わなかったと思います。しかし、これほどの力をお持ちの方が味方にいてくださるのなら――」
リュシエラは大弓を握り直した。
「遺跡の異変を止め、父と兄、そして仲間たちを救い出すためには、こちらから動く好機だと思います。それに、私も弓と精霊術を扱えますし、遺跡の知識もあります。皆さんのお役に立てるはずですわ」
「道案内がいるのは助かっちゃうわね!」
マリアが納得したように頷く。
「はい。それに……皆さんに助けをお願いした私だけが、ここで待っているわけにはいきません」
リュシエラは真っ直ぐにマリアを見つめた。
「父と兄を、仲間たちを助けたい。そのために皆さんのお力を借りるのですから、私自身もできる限りのことをしたいのです」
その言葉には、族長代理としての責任と、家族を想う一人の女性としての決意が込められていた。
「……わかったわ。道案内、お願いするわね!」
マリアが笑顔で応じると、リュシエラの顔にも明るさが戻った。
「はい! お任せください。それに――」
次の瞬間。
それまで凛々しかったリュシエラの表情が、ふにゃりとだらしなく緩んだ。
彼女はマリアへ一歩近づくと、豊かな胸元をぐいっと押し出すように身をかがめた。
「このお礼は、わたくしの身体で、いかようにも! さあ、勇者様の逞しい腕で、好きなように弄んでくださいませ!」
「……はい?」
マリアの笑顔が、ぴたりと止まった。
つい先ほどまで、家族と仲間のために毅然と振る舞っていた族長代理とは思えない変貌ぶりである。
「ちょ、ちょっとぉ!? 随分と熱烈なお礼だけれど、まずは皆の無事を確かめるのが先でしょ!」
マリアは慌てて両手を前に出し、迫ってくるリュシエラをやんわりと押しとどめた。
「まあまあ、遠慮なさらずに! わたくし、こう見えても尽くす方ですわ!」
「そういう問題ではありません!」
顔を真っ赤にしたティアナが、二人の間に割って入った。
「リュシエラさん! 女性がそのようなことを軽々しく口にするものではありません!」
「あらあら、ティアナさんはお堅いのですねぇ」
「お堅いとか、そういう問題では……!」
ティアナはリュシエラの肩をつかみ、マリアから引き離す。
その一方で、スカーレットは面白そうに目を細めていた。
「ほほう。先ほどまでの殊勝な態度はどこへやら。なかなか大胆な娘ではないか」
「感心してないで止めてください、スカーレット!」
「わしも混ざって、マリアにすり寄ればよいかのぉ?」
「そういうことを言っているのではありません!」
「わたしもママにくっ付きます!」
「ルナちゃんまで!?」
いつもの調子で言い合う一同をよそに、リュシエラは名残惜しそうにマリアを見つめていた。
マリアは小さく咳払いをすると、改めて彼女に向き直る。
「と、とにかく! アタシたちは、みんなを助けに行くのよ。お礼の話は、全員が無事に戻ってきてからにしましょ?」
「……まあ。皆さんがお戻りになってから、ですか?」
「そう! だから今は、遺跡の案内に集中してちょうだい!」
「ふふっ、承知いたしました。では、そのときは改めて……」
「改めなくていいですから!」
ティアナの鋭いツッコミが、石造りの家に響いた。
ひとしきり騒いだあと、リュシエラはようやく気を取り直し、身なりを整えた。
「……失礼いたしました。少々、気持ちが先走ってしまいましたね」
「少々……?」
ティアナが疑わしげに呟いたが、リュシエラはにこやかな笑顔で聞き流した。
「それでは、改めて。遺跡の最深部までの道は、私がご案内いたします。ただし、何が待ち受けているのかは、私にもわかりません。どうか、皆さんも十分にお気をつけください」
「さあ、頑張って鬼退治して、みんなを助けに行きましょう!」
マリアが勢いよく拳を握る。
「もちろんです。よろしくお願いいたしますね、マリアさん」
リュシエラは微笑み、出発の準備を整えるように身を翻した。
深緑色のアーチャードレスの上から、胸元を覆う胸当てを確かめる。胸当てを留める紐は、豊かな胸を支えるように張っていた。
続いて、腰の後ろに携えた矢筒の位置を直し、壁際に立てかけてあった身の丈よりも大きな大弓をしっかりと握り締める。
先ほどまでの浮ついた様子は消え、そこには集落を守る者としての凛とした姿があった。
「では、皆さん。遺跡へご案内いたします」
その声には、先ほどまでの不安に押し潰されそうな響きはなかった。
家族と仲間を取り戻すために。
そして、これ以上、誰も失わないために。
エルフの族長代理リュシエラは、マリアたちと共に古代遺跡へ向かう決意を固めたのだった。




