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『異世界オネエ転生』 ~元新宿三丁目ママ、無敵チートで最強受付嬢になり気ままに無双します~  作者: 雛森リコ
転生オネエさん、最強受付嬢になる。

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13/21

第六章 最強受付嬢、信頼を拾う。

温泉回でチカラ入りすぎた。



 ガタゴト、ガタゴト。


 車輪が石畳を踏みしめる音とともに、馬車は西へと進んでいた。


 御者台で手綱を握っているのは、普段の装いとは打って変わり、ゆったりとした白い麻地のシャツに若草色のロングスカートを身につけた女騎士ティアナ。


 その後ろ、馬車の客室では――。


「うぅ……もう無理じゃ……」


 ぐったりと座席に沈み込んだ魔王が、青白い顔で呻いていた。


「魔王のお姉ちゃん、大丈夫ですか……?」


 向かいに座るルナが、心配そうに顔を覗き込み、その背中を優しくさする。


「ルナは優しいのぉ……うっ」


「魔王様、顔色が悪いですよ? 少し横になってください」


「だ、大丈夫だ……。私は魔王だぞ。馬車ごときに、このような……うぷっ!?」


 言葉の途中で、魔王は再び口元を押さえた。


 直後、馬車の客室には、美しい女性が発したものとは思えない嗚咽が響き渡る。


 そして、口元からキラキラと輝くものが――。


「うわぁ……」


 マリアが思わず目を逸らした。


 ルナは慌てることなく、出すものを出し切ってぐったりした魔王を横にさせると、用意していた布を丸め、頭の下に差し込んだ。


「これで少し楽になると思います」


「……すまぬ」


「いえいえ。魔王のお姉ちゃんも、無理をなさらないでくださいね」


 普段は尊大な魔王も、今ばかりはルナの言葉に逆らう気力すらないらしい。


 その様子を隣から眺めていたマリアは、感心したように頷いた。


「あの魔王ちゃんが、すっかり大人しくなっちゃって」


「……聞こえておるぞ、マリア」


「はいはい、病人はお静かにねぇ」


「マリアよ、覚悟しておれよ……馬車さえ降りてしまえば、主など……!」


 反論しようとした魔王だったが、馬車が大きく揺れた瞬間、再び顔を青くした。


「うぷっ……!」


「ほらぁ! 無理しないの!」


 マリアは苦笑しながら、正面へと向き直った。


 これ以上からかっていては、本当に大変なことになりそうだ。


 話題を変えるように、マリアは御者台へ声をかけた。


「ところでティアナ。今回の温泉地って、どんなところなの?」


 御者台から、ティアナの声が返ってくる。


「王都から西へ向かった山間部にある温泉街です。馬車で丸一日ほどの距離で、途中の村で休息を取ってから向かうのが一般的ですね」


「丸一日ねぇ。なかなか遠いじゃない」


「はい。王都から離れているうえ、山道もありますから。気軽に日帰りできるような場所ではありません」


「へぇ~。そんな辺鄙なところに、わざわざ温泉街があるのね?」


「辺鄙という表現は、少々失礼かと……」


 ティアナは苦笑した。


「確かに王都からは離れていますが、温泉の質が良いことで有名なんです。それに、山間の美しい景色や古代遺跡、それに教会も観光名所になっています」


「古代遺跡!?」


 マリアの目が輝いた。


「ちょっと、何それ! 温泉に遺跡まであるの? 観光地として盛りだくさんじゃない!」


「ええ。ですが、遺跡の奥はエルフ族が守護する領域となっており、立ち入りが禁じられています」


「エルフって、あのお耳の長い、弓が上手な長命種の?」


「よくご存じですね!ギルドに通う冒険者にもエルフの方がいらっしゃいましたっけ?」


「まぁ、そんなところ、ねぇ」


 マリアは窓の外を眺めながら、遠い目をした。


 ――昔観た、指輪を山に捨てに行く映画。


 そこでエルフ役を演じていた、イケメンハリウッド俳優の姿が脳裏に浮かぶ。


「オー〇ンド様、好きだったなぁ……」


 思わず頬が緩む。


 どうやら、マリアのエルフに関する知識は、異世界の冒険者事情よりも、前世の映画事情に由来しているらしい。


 温泉に、山に、森に、古代遺跡。


 普段は冒険者ギルドで騒動に巻き込まれ、落ち着く暇もない。


 たまには何も考えず、のんびり過ごすのも悪くないだろう。


「いいわねぇ。温泉に浸かって、美味しいものを食べて、ゆっくり休んで……」


「そうですね。私も、皆様とご一緒できるのを楽しみにしていました」


 ティアナの声も、どこか弾んでいた。


 ところが、その言葉を聞いたマリアは、ふと思い出したように首を傾げた。


「……でもさぁ」


「はい?」


「よく国王ちゃん、アタシたちが数日間も王都を離れるのを許してくれたわよねぇ?」


「あー………」


 ティアナが虚に声を漏らすと馬車の中が、一瞬静かになった。


 魔王は横になったまま、薄く目を開ける。


 ルナも思い当たる節があるのか、少しだけ困ったように微笑んだ。


「……そういえば、そうですね」


「だって、アタシたちよ?」


「アタシに魔王ちゃん、あとルナちゃん」


 マリアは自分と魔王、ルナを順に指差した。


「……否定はできませんね。というか、マリア様は問題児のご自覚がおありだったんですね……」


 ティアナの返答は、御者台から妙に小さく聞こえた。


 その疑問に答えるように口開き、ティアナは数日前の光景を思い出す。


 ◇


 ――数日前。王城。


「陛下。数日間、王都を離れる許可をいただきたく存じます」


 謁見の間で、ティアナは恭しく頭を下げていた。


 報告を受けた国王は、最初こそ穏やかな顔をしていた。


「ほう。休暇か。日頃の働きを考えれば、それくらいの休みは必要であろう」


「ありがとうございます」


「それで、どこへ行くのだ?」


「西の遺跡温泉へ出向こうかと」


「ほう!それは良いな。余も長らく行っておらぬから、羨ましい限りだ。して、一人旅か?」


 国王からの問いに、ティアナはわずかに目を逸らした。


「いえ、友人と――」


「ほう、友人…ん?……友人?」


「マリア様、ルナ様、魔王様です」


「…………」


 国王の笑顔が、ぴたりと止まった。


 ティアナの笑顔も引きつっている。申し訳なさそうな表情を浮かべながら、国王の反応を窺っていた。


 マリア。


 魔王。


 そして、マリアに懐いているとはいえ魔獣のルナ。


 彼女たちが揃って王都を離れる。


 国王の脳裏に、さまざまな懸念が浮かび始めた。


 まずは外交問題。


 魔王が王都の外で何かをやらかした場合、誰の何処の責任になる?それは勿論、現在監視下に置いてる余だよー?


 いや、それだけではない。他種族との関係や、旅先の町への影響も考えなければならない。


 マリアが道中で盗賊を見つけたら?

 間違いなく、埃を払うように放り投げるだろう。

 その後始末は誰の管轄?余ぞ?

 

 魔獣が現れたら?

 ……いや、魔獣はもうおるが


 その魔獣がまたマリアに懐いてしまったら?


 そもそも、魔獣がマリアを見ただけで逃げ出して、

 逃げた先に町があったら?


 驚いて騒ぎになったら?

 そこへ魔王まで加わったら?


 いや、待てーーー


 考えれば考えるほど、ろくな未来が見えてこない。


 そして、何より――。


 この面々が数日間も王都からいなくなるのだ。


 その間、王都では何も起こらず、平和そのもの。


 ……いや、むしろ。


 この面々が王都にいるからこそ、問題が起こっているのではないか?


 いない方が平和なのではないか?


 しかし、旅先で反旗を翻してきたら?


 いやいや、そもそも何をしでかすか分からぬ連中なのだ。


 国王の脳内で、考えられる限りの最悪の事態が次々と連鎖していく。


 外交。


 治安。


 器物損壊。


 傷害。


 反乱。


 そして、予測不可能なマリア殿が拾ってくる大騒動。


「……陛下?」


 ティアナが、恐る恐る声をかけた。


 国王は遠い目をしていた。


 もはや、休暇の許可を出すかどうかという話ではない。


 彼女たちが旅立ったあと、王都の平和が保たれるだろう。そう、彼女達がいないからだ。


 だが、旅先で何かが起きた場合、誰が責任を取るのか。


 そして、自分はこの先、何日まともに眠れるのか。


 考えたくもない問題ばかりだった。


「……好きにしろ」


「……はい?」


「好きにしろ! ばーかー! ばーかー!!」


「へ、陛下!?」


「余がどれだけ大変かわからないんだ!!! ばーーか!!!」


 国王は玉座から立ち上がり、まるで駄々をこねる子どものように叫んだ。


「もう知らん! 好きにしろ! 温泉でも何でも行ってこい!!!余は知らんぞぉぉぉ!!!」


「へ、陛下! お気を確かに!」


「皆の者! 陛下がご乱心だ! 抑えよ!」


「うるさぁぁぁい! 余だって休みたいのだぁぁぁ!!、誰だよ!余に召喚なんか勧めてきた奴は!?打首にしてやる!!」


「お気を確かに!言い出したのは陛下自身です!!」


 その日、王城は騒然となった。


 国王は騎士たちに取り押さえられ、そのまま執務室へと連行されたという。


 そして、数日間は誰とも顔を合わせたくないと宣言し、仕事を最低限にまで減らして引きこもったらしい。


 王国の頂点に立つ男も、たまにはすべてを投げ出したくなるのである。


 ◇


「……ということがあったらしいです」


 ティアナの話を聞き終えたマリアは、しばらく黙っていた。


 やがて、ゆっくりと口を開く。


「……国王ちゃん」


「はい」


「お土産、買って帰りましょうねぇ……」


「はい……」


 自分も一端を担っているとはいえ、ティアナの声には深い同情が滲んでいた。


 ルナも胸元で両手を重ね、しみじみと呟く。


「王様、疲れてるんだね……」


「……大人には、そういう時もあるものじゃ」


 横になったままの魔王も、珍しく同情していた。


 マリアは窓の外へ目を向け、晴れ渡る空を見上げる。


「よぉし! じゃあ、せっかく許可ももらったんだもの! 今回は思いっきり楽しむわよぉ!」


「はい!」


「みんなで旅行、楽しみです!」


「……わしは、まず馬車から降りたい……」


 魔王の弱々しい声に、車内に笑いが広がった。


 ◇


 それからしばらくして。


 山道を抜けた馬車の前に、温泉街が姿を現した。


「わぁ……!」


 ルナが、思わず窓に身を寄せる。


 山々に囲まれた斜面には、瓦屋根に木造の建物がいくつも並んでいた。そこかしこから白い湯けむりが立ち上り、温泉特有の香りが風に乗って漂ってくる。


 そして、街の中央には、山の上へと続く長い石段があった。


 整然と積まれた石段の左右には、食べ物や土産物を売る屋台がずらりと並んでいる。


 串焼き、焼き菓子、見慣れない果物、色鮮やかな工芸品。


 観光客たちが楽しそうに行き交い、呼び込みの声があちこちから聞こえてくる。


「ちょっとぉ……! 何これ、すっごいじゃない!」


 マリアが目を輝かせた。


「石段が山の上まで続いてるわ! しかも両側に屋台がいっぱい! これ、アタシの知ってる温泉街にそっくりじゃないの!」


「ママぁ…変な匂いがします…」


 ルナは鼻をひくひくさせながら、困ったように眉を寄せた。


「これが温泉の匂いよ。獣人のルナちゃんには、ちょっとつらいかしら……?」


「慣れれば、らいじょうぶらとおもいます……」


 ルナは鼻を両手で塞ぎ、尻尾をピンと立てたまま固まっていた。


「ふむ……。思っていた以上に栄えているのだな」


 ようやく顔色を取り戻した魔王も、窓の外を眺めた。


「ええ。温泉だけでなく、観光や古代遺跡を目当てに訪れる者も多いそうです」


 ティアナは馬車を進めながら説明する。


「この石段を上っていくと、この地域特有の教会があって、森へと続く道に出ます。その先に古代遺跡があり、さらに奥はエルフ族が守護する領域となっています」


「へぇ……。じゃあ、観光できるのその教会までなのね」


「そうですね、教会までは、一般の観光客も訪れます。ただし、森の奥へは許可なく立ち入ることが禁じられています」


「なるほどねぇ」


 マリアは石段の先を見つめた。

 観光客で賑わう瓦屋根の街並み。

 山を覆う深い森。

 そして、その奥に眠る古代遺跡。

 今はただ、旅先の景色として眺めているだけだった。


◇


 馬車が温泉街の通りを進んでいくと、石段の麓から少し離れた場所に、立派な木造旅館が見えてきた。


 玄関には色鮮やかな花が飾られ、軒先からは湯けむりがゆったりと立ち上っている。


「本日はこちらの宿に泊まります。温泉の評判も良く、食事も美味しいと聞いています」


 馬車を止めながら、ティアナが説明した。


「ごはん……!」


 ルナの耳が、ぴくりと動いた。


「温泉も楽しみですけど、ご飯も楽しみですね!」


「あらぁ、ルナちゃん。さっきまで温泉の匂いに困っていたのに、食べ物の話になった途端に元気になっちゃって」


「だ、だって……! 温泉のお料理って、初めてなんですもん!」


「ふふっ、そうねぇ。せっかくだもの、いっぱい楽しみましょうね!」


 マリアは笑いながら、ルナの頭を優しく撫でた。


 一方、馬車から降りようとした魔王は、座席に手をつき、ゆっくりと立ち上がった。


「ようやく……ようやく着いたのか……」


「魔王ちゃん、足元に気をつけてねぇ」


「ふふ……今回ばかりは、その気遣いに感謝する……」


 人類から恐れられる魔王とは思えないほど、衰弱しきった姿だった。


 そして、次の瞬間。


「うぷっ……!」


「あら、ちょっとぉ! まだ気持ち悪いの!?」


 口元を押さえた魔王を見て、マリアは呆れたように眉を下げた。


 それから、彼女の身体をひょいと抱え上げる。


「肩を貸すわよ。ほら、無理しないの」


「ま、待て!肩を貸すというのは、こういうことではないじゃろ!?自分で歩ける! 歩けるから下ろせぇぇ……!」


「はいはい。今は大人しく運ばれなさいな」


「わしは荷物ではないぞぉぉ……!うぷっ…」


 深紫色のローブから伸びる脚をバタつかせ抗議する魔王を軽々と抱えたまま、マリアは旅館の玄関へ向かっていく。


 その背中を見送りながら、ティアナは額に手を当てた。


 ――陛下。


 ――我々が恐れていた魔王が、今にも馬車酔いに敗北しそうです。


 ……これは、弱点として報告すればいいんでしょうか。


 ティアナは深く息を吐き、二人の後を追った。


◇


「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」


 宿の女将が、柔らかな笑顔で一行を出迎えた。


 年齢は五十代半ばほど。髪はきちんと結い上げられ、落ち着いた色合いの着物を身にまとっている。背筋はまっすぐに伸び、客を迎える所作にも一切の無駄がない。


 この旅館は、創業百年を数える老舗である。


 代々受け継がれてきた建物と温泉、そして心のこもったもてなしを目当てに、貴族から商人、旅の冒険者まで、実にさまざまな客が訪れてきた。


 それは人間だけではない。エルフや獣人をはじめとした多種多様な種族も、ここでは大切なお客様だ。


 女将自身、この道三十年のベテランである。


 どのようなお客様が相手でも、表情を崩さず、礼儀正しく応対する。それが長年培ってきた彼女の仕事であり、誇りでもあった。


「本日はようこそお越しくださいました。どうぞ、ごゆっくりおくつろぎくださいませ」


 女将は完璧な笑顔で、一行を迎えた。


 ――迎えたのだが。


 視線の先には、黒いドレスに身を包み、華やかな化粧と装飾品で着飾った、身長百八十センチを優に超えていそうな筋骨隆々とした巨漢がいた。


 大ぶりのイヤリングにネックレス。艶やかな黒髪。丁寧に整えられた化粧。


 装いだけを見れば、間違いなく女性のものだ。


 しかし、立派な肩幅と堂々たる体格は、どう見ても戦士の様な屈強な男性のそれである。


 しかも、その人物は深紫色のローブをまとった高貴そうな女性を、まるで荷物でも運ぶかのように軽々と右肩に抱えていた。


 ……さて。


 女将は、心の中で静かに息を整えた。


 驚くな。


 お客様の外見に動揺するなど、もってのほか。


 長年この仕事を続けてきたのだ。珍しいお客様には、これまでにも何度となく出会っている。


 どのようなお客様にも、分け隔てなく接する。


 それが老舗旅館の女将というものだ。


 ――とはいえ。


 ――あの方は、一体……?

 

 さて、考えろ。長年の経験からお客様の状態を!


 胸の内に浮かんだ疑問を、女将は笑顔の裏に押し込めた。


「お連れ様は、お加減が優れないのでしょうか?」


「ええ、ちょっと馬車に酔っちゃったみたいなのよ。お部屋まで運んじゃってもいいかしら?」


「もちろんでございます。お部屋までご案内いたしますので、どうぞお任せくださいませ」


よっしゃ、正解!!人攫い御一行じゃなかった、さすが自分と女将は内心ガッツポーズをした。


「あら、助かるわぁ。ありがとう」


 マリアは、にこやかに礼を言った。


 その声や表情には、少なくとも悪意や不審な雰囲気はない。


 むしろ、抱えている女性を気遣う様子はごく自然だった。


 ……ええ、そうです。


 女将は心の中で頷いた。


 お客様はお客様。


 見た目で判断してはいけない。


 そう自分に言い聞かせながら、ふと、マリアに抱えられた女性へ視線を向けた。


 女性は苦しそうに目を閉じて、口元を押さえている。


 その顔立ちは息を呑むほど美しく、身にまとう雰囲気もただ者ではない。深紫色のローブの下から覗く衣装も上等なもので、どこか高貴な身分を思わせた。


 そして、先ほどからマリアが口にしている呼び名が、女将の耳に残っていた。


 ――魔王ちゃん。


 ……まおうちゃん?


 女将の笑顔が、ほんの一瞬だけ引きつりかける。


 いやいや、まさか。


 聞き間違いに違いない。


 きっと、マオさん。


 そう、マオさんというお名前なのだろう。


 少し珍しい響きではあるけれど、世界は広い。名前など、いくらでもある。


 女将は自分を納得させるように、心の中で何度も頷いた。


 魔王などという物騒な存在が、こんなところにいるはずがない。


 ましてや、馬車酔いでぐったりしているなど、あってたまるものか。


「それでは、お部屋へご案内いたします」


 女将は最後まで、完璧な笑顔を崩さなかった。


 ――この仕事を三十年続けてきた経験は、伊達ではない。


 今日ほど、自分の接客経験を信じたことはなかった。


◇


 手続きを済ませ、荷物を部屋へ運んでもらう。


 案内された部屋は、広々とした和室風の客間だった。大きな窓からは山の景色が一望でき、床には畳が敷かれている。


 靴を脱いで部屋へ上がるよう案内されたとき、マリアはもしやと思った。


「まあ……! この世界にも和室があるのね! 素敵なお部屋!」


「マリア様、このワシツは、この辺り特有の文化です。昔、遠い国から渡来した旅人が伝えたものだと聞いています」


「素敵な旅人がいたのねぇ」


 マリアは部屋を見渡し、満足そうに頷いた。


 この街に来てからもしかしたらとは感じていたが、かつて自分と同じように召喚された日本人が、この世界にいたのかもしれない。


 そう考えると、なんだか不思議な縁を感じる。


 石段の温泉街、畳のある部屋、温泉。


 前世で当たり前のように親しんでいた文化が、この世界にも残っているのだ。


 先人がいたのなら、感謝せずにはいられない。


「でもこの畳は、アタシが知っているものより柔らかい、まるでマットみたいね?」


「お部屋なのに、葉っぱの香りがします!」


 ルナは靴を脱いで畳に足を乗せ、鼻をひくひくと動かした。


「ふふっ。ルナちゃん、この床は畳っていうのよ?」


「タタミ……。えへへ、いい香りで、ふかふかしています!」


 ルナは足元の感触を楽しむように、そっと踏み直した。

 それから窓辺へ駆け寄り、外の景色を眺める。


「……! 窓の外、森がいっぱいです!」


 その言葉に、ティアナも窓の外へ目を向けた。


 山の斜面には深い緑が広がり、その向こうには、さらに高い山々が連なっている。


「確かに、空気が澄んでいますね。王都とは大違いです」


「ほんと、来てよかったわねぇ。こういう場所でのんびりするのが、今回の目的なんだから」


 マリアは腰に手を当て、胸を張った。


「よし!長い道中、ティアナちゃんは運転を頑張ってくれたし、魔王ちゃんは……まあ、見てのとおりだし!」


「……誰のせいだと思っておる……うぷっ……」


「馬車の揺れのせいでしょ?」


「これは、おぬしに担がれたのが原因だ!」


「あら、元気になった途端に口も回るようになっちゃって」


「誰が元気になっただ! まだ少し気持ち悪いわ!」


「はいはい、無理しないの」


 降ろされたばかりの魔王は、まだ足取りがおぼつかなかった。


 それでも、先ほどまでの青白い顔色は少しずつ戻ってきている。


「今日は温泉に入って、美味しいものを食べて、ゆっくり寝る! 明日はゆっくり観光! それ以外の予定は一切なし!」


「教会も見学されます?」


 ティアナが尋ねた。


「もちろん、それも観光のうちよ!」


「石段上の教会までいくのか?」


 いつの間にか自身で用意したお茶を飲み、ようやく落ち着いた魔王が口を挟む。


「もちろん、せっかくの旅行なんだもの。名所にはいかないとね」


 いつにも増して楽しそうなマリアだった。


 旅行先で何かを成し遂げようなどという、大それた予定はない。


 ただ、温泉に入り、美味しいものを食べ、普段とは違う景色を楽しむ。


 それだけで十分だった。


「では、さっそく温泉に行きましょうか」


 ティアナが提案すると、ルナがぱっと顔を輝かせた。


「はい! おっきいお風呂、楽しみです!」


「わしも温まるとするかな。馬車のせいで身体がガチガチじゃ……」


「はいはい。じゃあ、みんなで温泉を満喫しましょう!」


 マリアは勢いよく立ち上がった。


◇


 旅館の浴場へ向かう途中、三人は廊下の突き当たりに並ぶ暖簾の前で足を止めた。


「これ……何かの絵ですか?」


 ルナが首を傾げる。


「この辺りで使われている目印ですね。男性は青、女性は赤、と分かりやすくしているのでしょう」


 ティアナが説明した。


 青い暖簾には白い文字で『男』。その隣に掛かる赤い暖簾には『女』と書かれている。


 どこか懐かしい、銭湯を思わせる造りだった。


 マリアは、その文字を見つめながら目を細めた。


 ――やっぱり


 和室に畳、そして男女を分ける暖簾。


 この世界で偶然ここまで似た文化が生まれるものだろうか。確証はない。

けれど、そう考えると嬉しくなってしまう。


 マリアは、心の中で改めて感謝した。


「あ、そうそう。アタシは貸切風呂を使わせてもらうわね」


「……貸切風呂?」


 魔王が首を傾げた。


 マリアは男女の浴場から少し離れた場所にある、個室風呂の扉を指差した。


 宿の説明によれば、お忍びの貴族や家族連れなどが利用するための風呂らしい。


「ええ。アタシはこっちでゆっくり入るから、みんなは大きなお風呂を楽しんできてちょうだい」


「ママ、私たちと一緒に入らないんですか?」


 ルナが不思議そうに尋ねた。


 マリアは、ぴたりと動きを止めた。


 そして、ゆっくりと三人を見渡す。


「……ルナちゃん」


「はい?」


「悲しいけど、アタシにも越えられない一線ってものがあるのよ……」


「一線……ですか?」


「そうよ。オネエモラルよ」


 マリアは珍しく真剣な顔で頷いた。


 その視線が、自身の身体へと落ちる。


 その意味を察したティアナは、みるみる顔を赤くした。


「あーーー! あーーー! ルナさん、わたしとお風呂に行きましょうね!」


「えっ? ティアナさん、どうしたんですか?」


「な、何でもありません! さあ、行きましょう!」


「……はーい?」


 ルナは首を傾げながらも、ティアナに背を押され暖簾を潜っていった。


「ルナちゃん、ティアナちゃんの言うことをちゃんと聞くのよ」


「はーい、ママ。いってきまーす!」


 そんな二人を見送っていた魔王は、どこか納得のいかない顔をしていた。


「……男湯に入ればよいのではないか?」


「それはそれで困るのよ!」


 マリアが即答した。


「いい男がいたら、アタシだって落ち着いて温泉に入れないじゃない!」


「そこは気にするのか……」


 魔王が呆れた声を漏らす。


「当たり前でしょ! 温泉は心と身体を休める場所なの! 目の保養に気を取られていたら、疲れが取れないじゃない!」


「……おぬしの場合、別の意味で疲れそうじゃな」


「何か言ったかしら、魔王ちゃん?」


「何でもない」


 魔王は素早く目を逸らした。


「それじゃあ、みんな、ゆっくり楽しんできてねぇ!」


 マリアに見送られ、三人は女湯へ向かった。


  ◇


 湯船から立ち上る湯けむりが、木造の浴場を柔らかく包み込んでいた。


 見事な露天風呂の向こうには山々の緑が広がり、木の床には温泉の湯が流れる音が静かに響いている。


「おっきー!お外のお風呂だ――!」


 浴場に入った途端、ルナが目を輝かせた。


 広々とした湯船を見つけるなり、ぱたぱたと駆け出そうとする。


「ルナさん、走らないでください!」


「わわっ!? す、すみません!」


 ティアナに呼び止められ、ルナは慌てて足を止めた。


 ぴょこんと立った耳が、申し訳なさそうに少しだけ垂れる。


「転んだら危ないですからね。床も滑りやすいですし」


「はい……。でも、こんなに大きなお風呂、初めてなんです!」


「気持ちは分かりますけれど、まずは身体を洗いましょう」


「はーい!」


 三人は浴場の洗い場へ向かった。


 並んだ洗い場には、木製の椅子と桶が用意されている。


 ルナは椅子にちょこんと腰掛け、備え付けの石鹸を手に取った。


「これ、いい匂いがします!」


「温泉地の特産品でしょうか。花のような香りですね」


 ティアナが答えながら、長い金髪をまとめる。


 その隣で、魔王は暗い朱色の髪を肩から払った。


「ほう。香油が使われておるのか。備品にしては、なかなか上等なものを使っておるな」


「魔王様、お詳しいのですね」


「当たり前であろう。国を追われた身といっても、元魔王じゃからな」


 ティアナは苦笑しながら、桶でお湯を身体に掛ける。


 その際、隣に座る魔王の姿が目に入った。


 陶磁器を思わせる白い肌。すらりと伸びた手足。湯に濡れた暗い朱色の髪が、肩から背中へと流れている。


 普段のローブ姿からも分かってはいたが、魔王は女性らしい曲線を備えた、均整の取れた身体つきをしていた。


 そして、双丘をなす、瑞々しい小玉スイカのようなふくらみ。


 ティアナは、つい自分の胸元のリンゴへ視線を落とした。


 しかし、目の前の魔王と比べると――。


「ティアナよ」


「はいっ!?」


「特段、見られて恥ずかしいものではないが……そうまじまじと見られると、さすがのわしも恥ずかしいのじゃが?」


「――っ! す、すみません!」


 思考でも読まれたのかと思うほどの絶妙なタイミングで声を掛けられ、ティアナは慌てて桶いっぱいのお湯を被った。


「……何をしておるのだ、そなたは」


「な、何でもありません!」


「そういうことにしておこう」


◇


 三人はそれぞれ身体に湯を掛けた。


 ティアナは髪をお湯で流し、手際よくまとめ直すと、身体についた汗や旅の埃を丁寧に落としていく。


 鍛錬でできた細かな傷が、肩や腕、脚のあちこちに残っていた。


 だが、それらは彼女が日々剣を振るい、仲間を守るために積み重ねてきた努力の証でもある。


 魔王は、そんなティアナの様子を横目で眺めていた。


「……ティアナ」


「はい? 魔王様」


「そなた、こうして見ると、ずいぶんと女性らしい身体をしておるのだな」


「――っ!?」


 ティアナの手が止まった。


「ま、魔王様!? いきなり何をおっしゃるのですか!」


「おぬしも、さっきわしを見ておったではないか。見たままの感想だが?」


 魔王は悪びれもせず、ふっと笑った。


「騎士として鍛えておるのだから、もっと筋骨隆々としているのかと思っていたが、細かな傷こそあるものの肌の手入れも行き届いており、身体の線はしなやかで女性らしさも失われておらぬ」


「そ、そんなことを、真顔で言わないでください!」


「なぜだ? 褒めておるのじゃぞ?」


 魔王は、さらに興味深そうにティアナを眺めた。


 湯に浸からないようまとめ上げられた、錦糸のような金髪。


 鍛錬によって引き締まった腹部には、うっすらと筋肉の線が浮かんでいる。


 肩から腕にかけてはしっかりと鍛えられている一方、腰から脚にかけてはしなやかで、騎士としての強さと女性らしさが共存していた。


 まさに、健康的なモデル体型といってよいだろう。


 ティアナは、まじまじと見てくる魔王から身を隠すように、両腕を胸元へ寄せた。


 かえって姿勢が不自然になり、隠しているはずの双丘と谷間が強調されてしまう。


「出るところは出て、くびれは程よく締まっておる。なかなか見事なものではないか」


「ま、魔王様ぁ……!」


「そうじゃ。わしが描く絵のヌードモデルなど、やる気はないか?」


「そんな恥ずかしいこと、できるわけありません!」


「くく、冗談じゃ、絵など描けんよ」


「なんなんですか、ホントに!?」


 魔王は、その反応を楽しむように口元を緩めた。


「ふむ。馬車を運転してくれた礼も兼ねて、背中でも流してやろうか?」


「け、結構です!」


「遠慮することはない。わしはこう見えて、面倒見がよいのだぞ?」


「ご自分でおっしゃらないでください!」


「そうか、それは残念じゃ。せっかく、そなたの働きを労ってやろうと思ったのだが」


 魔王は、わざとらしく肩をすくめた。


「……まったく。そなたは、からかいがいのある娘だ」


「魔王様ぁ……!」


 ティアナは顔を真っ赤にしたまま、洗い桶を抱え込んだ。


 濡れた頭と尻尾を犬の様にブルブルと振り終えたルナが、ぱっと顔を輝かせる。


「じゃあ、私がお二人を洗ってあげます!」


「えっ?」


「ルナさん!?」


 思いもよらない申し出に、二人の声が重なった。


「さっき言ってました、ティアナさんは馬車を運転してくれましたし、魔王のお姉ちゃんも、長い道を一緒に来てくれました! お二人とも、いっぱい頑張ったんです!」


 ルナはにこにこと笑い、手にした石鹸を掲げ、平坦な胸を自信たっぷりに張った。


 灰銀色の髪が肩で揺れ、獣耳がぴんと立つ。


「私、毛繕いは得意なんですよ! 任せてください!」


「い、いや、ルナ。そこまでしてもらわずとも……」


「そ、そうですよ! ルナさんは、ご自分の身体を洗ってください!」


「ええっ? でも、私がやったら、お二人とも気持ちいいと思います!」


 ルナは不思議そうに首を傾げた。


「仲間同士で毛繕いするのは、普通のことですから!」


 その表情には、邪気の欠片もない。


 ただ純粋に、二人を労いたいと思っているだけだった。


 魔王とティアナは顔を見合わせた。


 魔王は小さく咳払いをし、ティアナはまだ赤い顔のまま視線を彷徨わせる。


「……まあ。せっかくの申し出だ。少しくらいなら、よかろう」


「魔王様!?」


「何だ? 騎士様は、こんな健気な娘の申し出を断るというのか?」


「そ、そんなこと言っておりません!」


「ふふっ。だそうだ」


 魔王は楽しそうに笑った。


「では、ルナ。頼めるか?」


「……お願いします」


 ティアナは、観念したように小さく頷いた。


「はい! お任せください!」


 ルナは嬉しそうに頷き、まずはティアナの背後へ回った。


「ティアナさん、失礼しますね」


「は、はい……。お願いします」


 ルナは石鹸を泡立てると、ティアナの背中を優しく洗い始めた。


「くすぐったくないですか?」


「だ、大丈夫です」


「ここはどうですか?」


「はい……。とても気持ちいいです」


「えへへ、よかったです!」


 ルナは楽しそうに尻尾を揺らしながら、丁寧に泡を広げていく。


 ティアナは少しくすぐったそうに肩をすくめたが、やがて緊張が解けたのか、ふっと表情を和らげた。


 ところが――。


「よし! 背中、終わりです!」


「ありがとうございます、ルナさん。では、あとは自分で――」


「それじゃあ、次は腕と前ですね!」


「えっ?」


「いっぱい手綱を引いてたから、腕も疲れていると思います!」


 ルナは、ティアナの肩や腕を丁寧に洗っていく。


 その手つきは思いのほか慣れていた。


「ここはどうですか? 痛くないですか?」


「い、いえ、痛くはありませんが……!」


「よかったです! じゃあ、前も!」


「ル、ルナさん、そこまでしていただかなくても……!ちょ///やっ…///アンッ……ルナ、さん///」


「大丈夫ですよ! あと少しです!」


 そう、ルナはちゃんと言っていたのだ『毛繕い』が得意だと。

 背中を、洗う、とは一言も言っていないのだと。


 ここで雑学だが、動物が互いに行う毛づくろいは、専門用語でアログルーミングと呼び、相手との親和性や信頼関係を示す重要な行動であるのだ。


 つまり、ルナは今、心の底から労っているのである。


ーーーただし、グルーミングは獣が納得するまで続くものなのだ。


「ひゃっ!? ル、ルナさん! そこは、くすぐったい!?ダメ、です///!あっ…///やぁ…///あーーーーーーーんッ!!///」


 ティアナの艶やかな声が浴場に響いた。


 少し離れた場所で見ていた魔王は、口元を押さえて肩を震わせている。


 それでもルナは、最後まで真剣に、ようやく満足そうに頷いた。


「はい! ティアナさん、おしまいです!」


息も絶え絶えになり、まとめた髪は乱れ、上気した頬で恍惚の表情を浮かべ洗い場に転がるティアナが出来上がった。


「では、次は魔王のお姉ちゃんですよ!」


「の、のお、ルナよ? わ、わしは、やっぱり大丈夫じゃから……」


「大丈夫です!任せてください!」


「話を聞かぬな、そなたは!?」


 ルナは鼻息荒く、先ほどと同じように、丁寧に泡を広げていく。 その無邪気な笑顔は止まらなかった。


「や、あっ…そこはーーッ…アーーーンッ!!///」


 魔王の抗議と、ルナの無邪気な返事が、しばらく浴場に響き続けた。


◇


 しばらくして、ようやく三人は湯船に浸かっていた。


 やり遂げたという満足感に包まれ、ルナは艶々とした笑顔を浮かべている。


 その隣では、ティアナが赤い顔をしたまま、両手で顔を覆っていた。


「……もう、お嫁に行けない……」


「何を大げさなことを言っておるのだ」


 魔王は、少しだけ気の毒そうにティアナを眺めた。


「ルナは善意でやってくれたのだぞ?」


「それは分かっています……。分かっていますけれど……!」


「えへへ。お二人とも、気持ちよくなりましたか?」


「……ええ。おかげさまで///」


 ティアナは、力なく微笑んだ。


「わしも……まあ、悪くはなかった///」


 魔王も、どこか複雑な顔で頷く。


「よかったです!」


 ルナは嬉しそうにお湯の中で尻尾をゆったり揺らした。


 そのまま、しばらく三人の間には穏やかな時間が流れた。


 ふと魔王は、湯気の向こうに見えるティアナへ視線を向けた。


「……ティアナ」


「はい、何ですか、魔王様?」


「そなたは、本当に変わった娘だな」


「……え?」


 ティアナは、きょとんとした。


 魔王は、いつものからかうような笑みを少しだけ引っ込め、静かに続けた。


「人間でありながら、仮にも魔王と呼ばれるわしと、魔獣のルナのそばにおる。それなのに、そなたはわしらを特別扱いせぬ」


「…………」


「恐れるわけでも、媚びるわけでもない。かといって、無遠慮に踏み込んでくるわけでもない。まるで、最初から同じ場所におった仲間や友人であるかのように接しておる」


 魔王は、湯船の向こうへ視線を向けた。


「人間というものは、わしのような魔族を見ると、大抵は怯えるか、好機の目を向けるか、酷いものでは敵意を向けるかのどれかじゃ。ルナに対しても、魔獣というだけで距離を置く者は多いだろう」


 そこで、魔王は小さく息を吐いた。


「それなのに、そなたは実に自然だ。……不思議なものだな」


「そ、それは……」


 ティアナは困ったように笑い、頬を赤くした。


「マリア様のおかげ、でしょうか」


「マリアの?」


「はい。マリア様と一緒にいると、いろいろと……その……」


 ティアナは、ふっと遠い目をした。


「魔王様が大魔法をぶっ放しても、ルナさんがならず者を軽々と吹き飛ばしても……以前ほど驚かなくなってしまったんです」


「…………ほう?」


 魔王の眉が、ぴくりと動いた。


「最初は、もちろん驚きましたよ。魔王様と一緒に過ごすなんて、普通では考えられませんから。でも、マリア様は魔王様にも、いつも通りですし……ルナさんに対しても同じです」


 ティアナは、何かを思い出したように、ゆっくりと星空を見上げた。


「気づけば、私まで普通に接するようになっていました」


「つまり、簡単に言えばマリアのせいで感覚が麻痺したと?」


「……はい。否定できません」


 ティアナは再び遠い目をしていた。


「マリア様と過ごしていると、常識というものが、少しずつ分からなくなっていくんです」


「それは……難儀なことだな」


「でも、この感じは、その……悪くないなって思っています」


 ティアナは、照れくさそうに笑った。


「魔王様とこうしてお話しすることも、ルナさんと一緒に過ごすことも、以前の私なら考えられませんでしたから」


「ふむ……」


 魔王は、妙に納得した様子で頷いた。


「それは、わしも身に覚えがある」


「魔王様もですか……?」


「なにせ、あやつは魔王であるわしに向かって、小娘扱いした挙句、初対面から遠慮というものがなかったからな」


「それは……本当に、そうですね」


 二人は顔を見合わせ、思わず苦笑した。


「でも、私は……」


 ティアナは少しだけ表情を和らげた。


「マリア様と出会えてよかったと思っています。ルナさんとも、魔王様とも、こうして一緒に旅にも来られましたから」


「……そうか」


 魔王は、穏やかな顔で目を細めた。


「ならば、わしも少しは感謝せねばならぬな。あの騒がしいレディに」


「ふふっ。そうですね」


 ルナは二人の会話を聞きながら、嬉しそうに頷いていた。


「マリア様がいてくれると、毎日楽しいですよ!」


「……まったく。そなたは、何でも素直に言うのだな」


 魔王が呆れたように呟く。


「えへへ。そうでしょうか?」


「そうだとも」


 ティアナも、柔らかな笑みを浮かべた。


「でも、ルナさんらしくて素敵だと思いますよ」


「えへへ……ありがとうございます!」


 三人の笑い声が、湯けむりの中に静かに溶けていった。


◇


 一方、その頃。


 貸切風呂では――。


「はぁぁぁ……生き返るわぁ……!」


 マリアが、広々とした湯船に肩まで浸かり、心の底から息を吐いていた。


 長旅の疲れが、温かい湯に溶けていく。


「やっぱり温泉って最高ねぇ……。個室だから誰にも気を遣わず、ゆっくりできるなんて……逆に贅沢だったかしら…?」


 マリアは目を閉じ、湯船の縁に頭を預けた。


 もちろん、黒い長髪が湯に浸からないよう、きっちりとまとめてある。


 化粧も落とし、装飾品も外しているため、普段の華やかな姿とは少し違う。


 それでも、彼女の大柄な体格と堂々とした雰囲気は変わらなかった。


「……ふふっ」


 マリアは、思わず笑みをこぼした。


 温かい湯に浸かり、星空と山の景色を眺める。


 聞こえるのは湯の流れる音と虫の音、遠くからかすかに届く街のの生活音。


 こんなにも穏やかな時間を過ごせるなんて、前世でもなかなか余裕も無かっただけに感動すら覚える。


 好きでやっていた仕事ではある。


 けれど、毎晩遅くまで店を営業し、閉店作業を終えれば、日中はエステやヨガ、お買い物。

そうしているうちに、また開店準備の時間がやってくる。


 充実してはいたが、のんびり温泉旅行を楽しむ時間など、そうそう取れるものではなかった。


 『意外と余裕ありますよね?』


 ふと、空耳だろうか。


 女神ちゃんの声が聞こえた気がしたが


 ーーー気のせいだろう。


 ましてや、異世界の山奥にある老舗旅館で、見たこともない景色を眺めながら湯に浸かるなんて。


 人生、何が起こるか分からないものだ。


「女神ちゃん、ありがとねぇ……」


 マリアは、湯の中でそっと手を合わせた。


 異世界に転生したときは、まさかこんな生活になるとは思っていなかった。


 最初はいろいろあった。


 国王ちゃんには振り回されるし、ギルドでは何かと騒ぎに巻き込まれるし、気づけば悪霊退治にまで付き合う羽目になった。


 倒せと言われた魔王ちゃんに至っては、今や一緒に温泉旅行をしている。


 ……冷静に考えると、なかなかすごい状況だ。


「いい世界に来られたわよねぇ……」


 マリアは、湯けむりの向こうに広がる山々を眺めた。


 この世界には、美味しいものがある。


 見たこともない景色がある。


 知らなかった文化があり、出会ったことのない人々がいる。


 そして、気づけば一緒に旅行を楽しむ相手までできていた。


 ルナは、何をするにも一生懸命で、見ているだけで頬が緩んでしまうような子だ。


 ティアナは、真面目で責任感が強いくせに、時々こちらが驚くほど素直な反応を見せてくれる。


 魔王ちゃんは、偉そうで、口が悪くて、すぐに張り合ってくるけれど……あれで意外と面倒見もいい。


 性格も、考え方も、育ってきた環境も違う三人。


 そんな彼女たちと一緒にいると、毎日何かしら面白いことが起きる。


 少し騒がしくて、時々呆れさせられて、たまに予想もしない方向へ話が転がっていく。


 けれど、それも含めて、今の暮らしはずいぶん気に入っていた。


「……みんな、ありがとねぇ」


 マリアは、三人に向けて小さく呟いた。


 わざわざ口に出して伝えるようなことでもない。


 きっと、面と向かって言ったら、ルナちゃんは照れて、ティアナちゃんは恐縮して、魔王ちゃんは何か言い返してくるだろう。


 そんな光景まで、簡単に想像できてしまう。


「ふふっ……」


 マリアは目を閉じ、身体から力を抜いた。


 特別なことなど、何もいらない。


 こうして温泉に浸かって、美味しいものを食べて、気の置けない相手と笑って過ごす。


 それだけで、十分に幸せだった。


「……女神ちゃん。アタシ、結構いい人生送ってるわよ」


 湯けむりの向こうへ、そっと言葉を投げかける。


「だから、もうしばらくは、楽しくやらせてもらうわねぇ」


 そして、マリアは深く息を吐いた。


 ――この素敵な時間が、少しでも長く続きますように。


 そんな願いを胸に、彼女は温泉の心地よさを存分に味わうのだった。


◇


 ――深夜。


「……ん、んん……?」


 マリアは、顔に何かが覆いかぶさっているような息苦しさに目を覚ました。


 暗闇の中、鼻先をくすぐる柔らかな毛。


 そして、顔面に感じるずっしりとした重み。


「…………」


 マリアはしばらく無言で天井を見つめた。


 いや、正確には見つめようにも、視界の大半がふさがれている。


「……ルナちゃん?」


 そっと声をかけてみる。


 返事はない。


 すぅ……すぅ……。


 規則正しい寝息が、マリアの顔のすぐ上から聞こえてきた。


「ちょっとぉ〜……ママ、息ができないんだけど〜……?」


 寝惚けた頭で小声で抗議してみても、当の本人は夢の中だ。


 どうやら寝返りを打った拍子に、マリアの顔の上へ転がり込んできたらしい。


 マリアは起こさないように気をつけながら、ルナの身体をそっと持ち上げた。


 そのまま自分の隣へ移動させる。


 すると、ルナは一瞬だけ耳をぴくりと動かしたものの、すぐに身体を丸めた。


「……んぅ……」


 小さな声を漏らし、尻尾を抱えるようにして再び眠りに落ちる。


「まったく……寝相まで子犬ちゃんなんだから」


 マリアは苦笑しながら、ルナの肩まで布団を掛け直した。


 その隣では、ティアナは横向きで小さな寝息を立てていた。


「ティアナちゃんは、寝てる時はまるでお姫様ねぇ」


 起きているときは生真面目で、周囲に気を配る彼女だった。

寝ている間は何処にでもいる少女となんら変わりはなかった。


 マリアは二人の寝顔を確かめると、静かに息を吐いた。


 さて。


 もう一度眠ろうかと思ったところで、ふと気づく。


「……あら?」


 部屋の中に、もう一人の姿がない。


 魔王。


 つい先ほどまで、確かに同じ部屋で休んでいたはずだ。


 マリアは音を立てないように上体を起こし、部屋の中を見回した。


 障子の向こうで揺れる影。


 和室の隣に続く広縁のあたりから、かすかに人の気配がした。


 マリアはそっと立ち上がり、足音を忍ばせて障子を開けた。


 夜風が、頬を撫でる。


 広縁には、月明かりを浴びながら庭を眺める魔王の姿があった。


 手には小さなグラス。


 琥珀色の液体をゆっくりと傾けている。


「……あら。こんな時間にひとり晩酌?」


 声をかけると、魔王の肩がわずかに揺れた。


 だが、驚いたのは一瞬だけだった。


「なんじゃぬしか。起こしてしまったか?」


「いいえ。ちょっと、うちの子が顔に乗っかってきちゃってねぇ」


「……顔に?」


「ええ。おかげで、危うく夢の中で三途の川を渡るところだったわ」


「ふふっ……なんじゃそれは」


 魔王は小さく笑った。


 その笑みは、いつものような余裕に満ちたものではなかった。


 どこか疲れていて、どこか寂しそうな。


 マリアはそれ以上ふざけることなく、魔王の隣に腰を下ろした。


「お酒、好きなの?」


「嫌いではない。……だが、こうして一人で飲むのも、久しぶりじゃがな」


「そう」


 マリアは庭へ視線を向けた。


 月明かりの下、手入れされた木々が静かに揺れている。


 しばらく、二人の間に沈黙が流れた。


 先に口を開いたのは、魔王だった。


「……妙なものじゃな」


「何が?」


「国を追われた時は、帰る場所も失ったというのに。今のわしは、こうして酒を飲み、温泉に浸かり、明日のことを考えておる」


 魔王はグラスの中の液体を見つめた。


「そなたたちと過ごす時間は、存外に楽しい。ルナに、ティアナも……もちろん、そなたもな」


「光栄だわ」


「じゃが……」


 魔王の指先に、わずかに力がこもる。


「わしは、民を置いてきたのじゃ」


 静かな声だった。


 怒りも、嘆きも、表には強く出ていない。ただ事実として口に出した一言。


 だからこそ、その言葉には重みがあった。


「わしを信じ、国に残った者たちがいる。わしの帰りを待っている者もいるじゃろう。今この瞬間にも、強行派の連中が何を企んでいるか分からぬ」


 グラスの中で、琥珀色の酒が揺れた。


「それなのに……わしは、こんなにも平穏な時間を心地よいと感じておる」


 魔王は自嘲するように笑った。


「友と呼べる者たちに囲まれ、温かな湯に浸かり、明日もまた楽しいことがあるのではないかと考えてしまう。……国を失った身で、民を置いてきた身で、そんな幸せを感じていてよいものなのかとな」


 マリアは、すぐには答えなかった。


 慰めの言葉を探しているわけではない。


 ただ、魔王が自分の言葉を続けるのを待っていた。


「……それに、そなたには悪いことをしたと思っておる」


「悪いこと?」


「最初はな、そなたを利用するつもりじゃった」


 魔王はマリアを見た。


「そなたは強い。しかも、力を誇示することに執着せず、困っている者を見れば自然と手を差し伸べる。だからこそ、火中に巻き込まれたとしても、そなたならわしの力になってくれるのではないか……そう考えておった」


 その瞳に、迷いが浮かぶ。


「そなたの人のよさにつけ込もうとしていたのじゃ。今さら言い訳をするつもりはない」


 魔王は小さく息を吐いた。


「……すまぬ」


「ーーー知ってたわ」


「……は?」


 あまりにもあっさりした返事だった。


 魔王は思わず目を丸くした。


「し、知っておったのか!?」


「ええ」


「いつからじゃ!」


「いつからって……最初に会った頃から、なんとなく?」


「なんとなくで分かるものか!?」


「分かるわよぉ。わたし、こう見えても客商売のプロなんだから」


 マリアは肩をすくめた。


「新宿三丁目で長いことお店をやってたのよ。いろんなお客さんを見てきたわ。悩みを抱えてる人、嘘をついてる人、強がってる人……それから、誰かに頼りたいのに素直に頼れない人もね」


 月明かりの下、マリアは穏やかに微笑んだ。


「相手が何を考えてるのか、表情や言葉の端々から察することはできるの。でもね、だからって、こっちから全部を問い詰めたりはしないわ」


「……なぜじゃ?」


「話したくないことだってあるでしょ?」


 マリアは、広縁の外へ視線を向けた。


「人にはそれぞれ事情があるもの。言いたくないことまで無理に聞き出したって、いいことばかりじゃないわ。それに、相手が自分から話してくれたことなら、ちゃんと耳を傾ける。それがわたしのやり方なの」


 魔王は黙ってマリアを見つめていた。


「だから、魔王ちゃんが何か企んでるんだろうな、とは思ってた。でも、それを聞くかどうかは魔王ちゃんが決めることよ」


「……そなたは」


「ん?」


「本当に、妙な人間じゃな」


「あら、初対面のときにも似たようなことを言われた気がするわねぇ」


「褒めておるのじゃぞ」


「はいはい。ありがたく受け取っておくわ」


 マリアは楽しげに笑った。


 魔王もつられて口元を緩めたが、すぐに表情を引き締める。


「……それでも、わしがそなたを利用しようとしたことに変わりはない」


「そうね」


 マリアは否定しなかった。


「でも、今こうして話してくれた。それで十分じゃないかしら」


「十分……?」


「ええ。過去に何かを企んでいたとかも大事だけど、これからどうするかのほうが、もっと大事でしょ?」


 魔王はグラスを見下ろした。


「わしは……国を取り戻したい。民を守りたい。強行派の好き勝手にもさせたくない」


「うん」


「じゃが、いくら魔王と恐れられる力があっても使えなければただの小娘。今のわしには、何もかもが足りぬ。時間も、情報も、味方も……」


「それで?」


 マリアは、いつもの穏やかな調子で尋ねた。


「これから、どうしたいの?」


 魔王はしばらく考え込んだ。答えは分かっている。

分かっているが、それを伝えていいのかを悩んだ。


 やがて、ゆっくりと顔を上げる。


「……そなたに、協力してほしい」


 その声には、もう駆け引きの色はなかった。


「わしの事情を知ったうえで、力を貸してほしいのじゃ。そなたの優しさにつけ込むのではなく……わし自身の願いとして」


 マリアは魔王の目を見つめた。


 そして、ふっと微笑んだ。


「いいわよ」


「……即答か?」


「だって、魔王ちゃんが困ってるんでしょ?」


「いや、しかし……もう少し考えるとか、条件をつけるとか……」


「あら、だったら、全部終わったら魔王ちゃんのオススメのお酒ご馳走してよ?」


 マリアは人差し指を立てた。


「…おぬしはブレぬな」


 魔王は口元に手を当てて笑った。


「ただし、一つだけ約束してちょうだい」


「……何じゃ?」


「一人で全部背負おうとしないこと」


 魔王の瞳が、わずかに揺れた。


「国のことも、民のことも、魔王ちゃんが大切に思っているのは分かるわ。でも、だからって一人で抱え込まなきゃいけないわけじゃないでしょ?」


「……」


「誰かを頼るのは、弱いことじゃないわ。それにね、協力するっていうのは、相手に全部任せることでもないの。できることを持ち寄って、一緒に進むってことよ」


 マリアはにっこりと笑った。


魔王にとっての日常は、いつだって寝首を掻こうとする奴らばかり、まともに家臣と呼べる者は居なかった。

誇示した力を示す為、自分のことで必死だった。


「わしは、ヒトの上に立つのは下手くそじゃな」


「そう言うことも相談なさい。これでもオカマバーのママ何年もやって無数の妖怪従えてたのよ?」


そんな、初めて言われる言葉。


「だから、これからはちゃんと相談してちょうだい。わたし、出来ることなら手伝うから。」


「……そなたに手伝って貰えば、出来ぬことなど何もなくなりそうじゃな」


「あら、失礼ねぇ。ママだって苦手なことくらいあるわよ?」


「例えば?」


「細かい作業とか、針仕事とか……あと、寝癖を直すのとか?」


「くくッ…わしの悩みがくだらなくなるくらい重大な問題じゃな」


 思わず声が弾み、二人は顔を見合わせて笑った。


 その笑い声は、眠っている二人を起こさないよう、すぐに小さなものへと変わった。


 やがて、魔王は手にしていたグラスを置いた。


「……ありがとう、マリア」


 今度の言葉には、心からのものだった。


 マリアは頷いた。


「どういたしまして。これからよろしくね、魔王ちゃーー」「スカーレット」


マリアの言葉を遮る様に、置いたグラスと新しく用意したグラスに琥珀色の酒を注ぎながら、魔王は言葉を続けた。


「わしの名はスカーレット、協力者にまで魔王と呼ばれるのは、いささか礼にかけるからな、今後は気軽に呼んでくれ」


「ふふ、そう、よろしくねスカーレット」


琥珀色の詰まったグラスと共に、スカーレットは名前を預けた。


「うむ。……改めてよろしく頼む」


 二人は軽くグラス合わせた。


 小さくガラスのぶつかり合う音が響いた。


 それは、主従の誓いでも、王と臣下の契約でもない。


 魔王スカーレットにとって初めての友であり、心のおける協力者――二人だけの、小さな約束だった。


 広縁を吹き抜ける夜風は、先ほどよりも少しだけ心地よく感じられた。


 魔王は、隣の和室へ視線を向ける。


「……ところで、ルナは本当にそなたの顔に乗っておったのか?」


「ええ。あと少しで最強無敵ママを倒す伝説の魔獣が生まれるところだったわ」


「ふっ……くくっ……!」


「笑いごとじゃないのよぉ」


 スカーレットは口元を押さえながら、肩を震わせた。

 その笑顔は、いままでの本心を隠す様な笑いではなく心からのものだった。


 少なくとも今夜だけは、国を追われた魔王ではなく、仲間と旅をする一人の女性として笑っていられた。


 そしてマリアもまた、そんな彼女の笑顔を、何も言わずに見守っていた。

魔王改め、3人目のヒロイン、スカーレット様です

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