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『異世界オネエ転生』 ~元新宿三丁目ママ、無敵チートで最強受付嬢になり気ままに無双します~  作者: 雛森リコ
転生オネエさん、最強受付嬢になる。

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第五章 最強受付嬢、魔族を拾う⑥


「……アンデッドドラゴンですって!?」


 ティアナが息を呑んだ。


 魔王は歯を食いしばり、怒りに震える声で告げる。


「人の命を贄にして、こんなものまで呼び出すとは……! 貴様ら、どこまで人の道を踏み外せば気が済むのだ!」


「ひ、ひいっ……!」


 召喚した張本人である商人は、アンデッドドラゴンを前にしてすっかり腰を抜かしていた。


「わ、私は知らん! こんなことになるとは思わなかったんだ!」


「今さら何を言っている!」


 ティアナの怒声が広間に響く。


「あなたが呼び出したのでしょう!」


「ち、違う! 私はただ、おまえらを始末しようと……!」


「それを同じと言うのです!」


 ティアナは剣を構え、巨大な腐敗した竜を睨みつけた。


「……冗談ではすまぬな」


 魔王の表情から、先ほどまでの余裕が消えていた。


 トパーズ色の瞳が、アンデッドドラゴンの動きを慎重に追う。


 その手元に、巨大な魔法陣が展開した。


「まずは動きを封じる!」


 魔王の指先から、紫紺の光が放たれる。


 だが――。


 バチンッ!


 魔法陣が、まるでガラスの様に砕け散った。


「なっ……!」


 魔王が目を見開く。


 放たれた魔術は竜へ届くことなく、無数の光の粒となって消えていった。


 その背後で、骸骨の魔術師が愉快そうに嗤う。


《ククク……無駄だ。わしがいる限り、この場で放たれる魔術はすべて消し去る》


 リッチ。


 死霊術を極め、死者を操る魔物。


 先ほどから魔王が感じていた不快な魔力の正体は、こいつものだったのだ。


「わらわの術を解析してよって不愉快な奴じゃな…」


《ククク、流石は偉大な魔王殿?どれほど強大な魔力を持とうとも、発動しなければ無意味よ》


 リッチが骨ばった指を動かす。

 アンデッドドラゴンが、再び咆哮した。


「ならば、魔術に頼らず仕留めるまでです!」


 ティアナが地を蹴り、竜へと駆け出した。


「ルナさん、援護を!」


「はい、ティアナさん!」


 ルナもまた、獣人の身体能力を生かして走り出す。


 ティアナは竜の前脚を狙い、剣を振り下ろした。


 甲高い金属音が広間に響く。


「硬い……!」


 腐敗しているはずの皮膚は刃は骨の表面をわずかに削っただけだった。


 その横から、ルナが飛び込む。


 鋭い踏み込みとともに、蹴り脚が竜の脚へ叩き込まれた。


 しかし、巨体はわずかに揺れただけ。


 人間相手なら一撃で沈められる拳も、この相手には決定打にならない。


 竜がゆっくりと二人へ向き直った。


「来ます!」


 ティアナが叫んだ瞬間、竜の尾が横薙ぎに振るわれる。


 ルナは跳び退こうとした。


 しかし、尾の軌道は予想以上に広かった。


「ルナさんっ!」


 ティアナは考えるより先に、ルナの身体を突き飛ばした。


 直後、竜の尾がティアナの脇腹を強烈に打ち据える。


「ぐっ……!」


 身体が宙を舞い、石床へ叩きつけられた。


「ティアナさん!」


「私は……大丈夫です!」


 ティアナはすぐに起き上がろうとした。


 だが、全身を走る痛みに膝が震える。


 脇腹が熱い。右腕がまともに上がらない。いくつか骨が折れていそうだ。

 額から流れた血が目尻を伝い、視界の端を赤く染めていた。


 それでも、彼女は剣を握り直す。


「あの…助けていただきました。ありがとうございます…」


 ルナはティアナの前に立ち、深く頭を下げた。


「礼は後です。今は……この場を切り抜けます」


「はい」


 ルナのエメラルドの瞳には、目の前の脅威に対する緊張が浮かんでいる。


 二人の前には、巨大な竜。


 その背後には、魔術を相殺するリッチ。


 剣も拳も、決定打にはならない。


 魔王の攻撃魔術も封じられている。


 勝ち筋が見えなかった。


「まったく……面倒な相手じゃのう」


 魔王は舌打ちし、二人の前に立った。


「二人とも、無理に攻めるでない。わしが守る」


 魔王の周囲に、淡い光の膜が広がった。


 攻撃魔術が相殺されるのなら、今は防御に徹するしかない。


 竜が大きく息を吸い込んだ。


 骨の奥に、どす黒い光が集まっていく。


「来るぞ!」


 魔王が叫ぶ。


 次の瞬間、竜の口から瘴気を帯びたブレスが放たれた。


 魔王は防御障壁を重ねる。


 一枚、二枚、三枚。


 障壁が次々と砕け散り、最後の一枚が、かろうじてブレスを受け止めた。


 広間が激しく揺れる。


 魔王の靴が石床を滑り、砂埃が黒いドレスに降り積もった。


「くっ……!」


 防ぎ切ったものの、魔王の額には汗が浮かんでいた。


 その隙に、ティアナとルナが左右から走る。


 ティアナは竜の脚へ剣を叩きつけ、ルナは骨の継ぎ目へ拳を打ち込んだ。


 しかし、どちらも竜の動きを止めるには至らない。


 竜が前脚を振り上げた。


「下がれっ!」


 魔王の声に、二人は咄嗟に身を引く。


 前脚が床を砕き、石片が弾丸のように飛び散った。


 ルナは腕で顔を庇い、ティアナは剣を盾にして破片を受け止める。


 その衝撃で、ティアナの剣に亀裂が走った。


 柄を握る手が痺れる。


 それでも、彼女は剣を手放さなかった。


 騎士として、ここで退くわけにはいかない。


 自分の後ろには、魔王とルナがいる。


 そして――マリア様がいる。


 そのマリアは、少し離れた場所でリッチと向き合っていた。


《ククク……非力な人間、貴様は何者だ?》


 リッチの眼窩に宿る光が、マリアを値踏みをするように眺める。


《人間にしては妙だ。先ほどから、わしの呪詛を受けても顔色ひとつ変えぬ》


「んー? なにかされてたのわたし?」


 マリアは頬に手を当て、小首を傾げた。


 リッチの声が広間に響いた。


《ならば、これならどうだ!》


 黒い魔力が、マリアの足元から噴き上がる。


 床に浮かび上がった呪印が、鎖のように彼女の身体へ絡みついた。


 生者の魂を縛り、肉体を蝕み、精神を侵す死霊の呪い。


 普通の人間なら、触れただけで正気を失いかねないほどの魔術だった。


 だが。


「……あら、ヤダ!?こういうプレイはNGなのよ!?」


 マリアは身を悶え、乙女の様に身体をくねらせた。


 身体に巻き付いた呪印の鎖はくねらせた動きと共に、千切れ四散し、煙のように消えてしまった。


《な、なんだと……?》


「いくら性にも寛大なわたしにもNGなプレイもあるのよ?」


 リッチが一歩後ずさる。


 続けざまに、黒い炎がマリアを包み込んだ。


 爆ぜる音。


 立ち上る煙。


 それでも、煙の向こうから現れたマリアの身体には傷ひとつなかった。


 彼女はドレスについた煤を、ぱんぱんと手で払う。


「ちょっと! 人の服を汚さないでちょうだい!」


《馬鹿な……!なんなのだ貴様は!?》


 リッチは立て続けに呪詛を放った。


 魂を腐らせる魔力。


 肉体を石に変える呪い。


 生命力を吸い取る死霊の手。


 そのすべてが、マリアに触れた途端に消えていく。


 効かない。


 何ひとつ、効かない。


《お、お前……本当に人間なのか……?》


「もちろん、素敵なレディでしょ?」


《そこではないわ!》


 リッチが絶叫した。


 マリアは頬に手を当て、少し考えるような仕草をする。


 マリアは、ぱん、と両手を合わせた。


「……あ、そうだ。いいこと思いついちゃった!」


《何?》


 マリアはくるりと三人を振り返る。


「ちょっと、みんな! 少しだけ頑張ってて!」


「マリア様?」


「すぐ戻るからねー!」


 言うが早いか、マリアは広間の扉へと駆け出した。


 そして、そのまま姿を消した。


 残された三人の間に、嫌な沈黙が落ちる。


《……逃げた、のか?》


 リッチがゆっくりと嗤った。


《ハハハハハ! そうか、そういうことか! 己の無力を悟り、仲間を見捨てて逃げたのだな!》


「……っ!」


 ティアナの胸に、冷たいものが落ちた。


 そんなはずはない。


 マリア様は、人を見捨てるような人ではない。


 けれど、彼女がいなくなった広間では、現実が容赦なく三人に襲いかかっていた。


 アンデッドドラゴンの咆哮が響く。


 魔王は二人を守るために障壁を展開し続け、攻撃に転じる余裕すらない。


 ティアナとルナが攻めても、竜は止まらない。


 そして、リッチの魔術相殺がある限り、魔王の攻撃魔術も封じられたままだ。


《どうした、人間の騎士よ!》


 リッチがティアナを嘲笑う。


《死に体で、剣を振るうだけが取り柄か? その剣すら、わしの眷属には通じぬようだがな!》


「黙りなさい……!」


 ティアナは剣をまだ動く左手で構え直した。

 しかし、剣を握る手は震えていた。


《お前は仲間を守るために傷を負った。立派なことだ。だが、その結果はどうだ?》


 リッチの声が、頭の中に響くように突き刺さる。


《守ったところで、何も変わらぬ。お前が傷つこうが、仲間が倒れようが、わしには何の痛痒もない》


「……っ!」


《力の差を認めよ。お前の剣では届かぬ。お前の意志では覆せぬ。お前がどれほど努力しようと、強大な力の前では無意味なのだ!》


 ティアナの視界が揺れた。

 額から流れる血が頬を伝い、顎から落ちる。


 全身が痛い。


 脇腹も、腕も、肩も、背中も。どこを動かしても痛みが走る。


 ズボンは太もものあたりが大きく裂け、その下の肌にも傷ができていた。


 何度も立ち上がり、何度も攻撃した。


 それでも、敵には届かない。


 騎士として積み重ねてきたものが、目の前の怪物には通用しない。


 自分は、何もできないのではないか。


 守ると決めた相手を、守り切れないのではないか。


「ティアナさん!」


 ルナの声が飛んだ。


 竜の尾が、再び二人へ迫っていた。


 ルナは身を低くして躱したが、尾の風圧だけで身体が吹き飛ばされる。


「くっ……!」


 床を転がりながらも、ルナはすぐに立ち上がった。


 腕や頬に細かな擦り傷ができている。


 それでも、彼女はティアナの前に立ち、再び拳を構えた。


「まだ、終わっていません」


「ルナさん……」


「マリア様は、私たちに頑張っていてほしいとおっしゃいました」


 ルナは竜を見据える。


「ですから、私は頑張ります」


 その言葉に、ティアナは唇を噛んだ。


 自分よりも小さな少女が、まだ諦めていない。


 魔王も、歯を食いしばって防御障壁と打ち消されるのを承知でリッチの攻撃をさせないため、並行して魔術の行使を維持している。


 なのに、自分は――。


「……私は……」


 剣を持つ腕が、わずかに下がった。


 その瞬間。


「ごめんなさいねー! 厨房を探すのに迷っちゃった!」


 場違いなほど陽気な声が、広間に響いた。


 三人が振り返る。


 そこには、大きな壺を両腕で抱えたマリアが立っていた。


 まるで買い物帰りのような顔で、にこにこと笑っている。


「……マリア様!」


 ティアナの声が震えた。


「お待たせ。あらやだ、ごめんなさい!みんなボロボロじゃないの!」


 マリアは壺を抱えたまま、ティアナのもとへ駆け寄った。


 そして、今にも倒れそうな彼女の身体を、そっと抱きしめる。


「……っ」


 ティアナの身体が硬直した。


 大きく温かな腕に包まれた途端、張り詰めていたものが切れた。


「マリア様……」


「ありがとうね、ティアナちゃん」


 マリアは優しく、彼女の背中を撫でた。


「あなた、みんなを守ってくれたんでしょう?」


「私は……何も……」


「何も、じゃないわよ」


 マリアの声は、いつもの明るさを残しながらも真剣だった。


「あたしはね、いつもあなたに助けられているの。あなたが真面目にお仕事をしてくれるから、安心して受付に立っていられる。困っている人を見つけたら、真っ先に駆けつけてくれる。自分が傷ついても、誰かを守ろうとしてくれる」


「……っ、でも……!」


「だから、わたしも甘えちゃって、こんな時でもあなたに頼っちゃったの」


 マリアは少しだけ身体を離し、ティアナの顔を覗き込んだ。


 額から流れる血。泥と埃に汚れた頬。震える唇。


 それでも彼女は、必死に剣を握っていた。


「私には、なにも、何もできません……」


「いいえ、いまも、私が戻ってくることを信じて待ってくれたじゃない」


ティアナは瞳に涙を浮かべ、マリアの腕の中から顔を見上げた。


「あなたにできないことは、あたしがやってあげる。あたしにできないことは、あなたがやってくれる。それでいいじゃない」


 マリアは、ティアナの手に重ねるように自分の手を添えた。


「何でも一人で背負わなくていいの。できないことがあったら、頼りなさい。あたしだって、あなたを頼りにしてるんだから」


「マリア様……」


「あなたは十分、頑張ったわ。だから、もう一度だけ顔を上げてちょうだい」


 マリアは笑った。


「あなたが守ってくれた約束を、今度はあたしが何とかしてあげる」


 ティアナの目から、涙がこぼれた。


 悔しかった。


 情けなかった。


 それでも、目の前の人は自分を責めなかった。


 弱さを笑わなかった。


 ただ、頼っていいのだと言ってくれた。


「……はい」


 ティアナは涙を拭い、ゆっくりと顔を上げた。


「……お願いします。マリア様」


「はい、任されたわ!」


 マリアは満面の笑みで答えた。


「よーし、それじゃあ……」


「何を悠長にしておる!」


 魔王の怒声が飛んできた。


 防御障壁の向こうでは、アンデッドドラゴンが再び大きく口を開いている。


 魔王は両手を前に突き出し、二人を守る障壁を必死に維持していた。


「わしと獣の娘だけでは、これ以上は無理じゃぞ! 早く何とかせい!」


「あら、ごめんなさいね!」


 マリアはティアナをそっと離し、小脇に抱えていた壺を床に置いた。


 そして、壺の蓋を開ける。


 中に詰まっていたのは――大量の塩だった。


《……何をしている?》


 リッチが訝しげに尋ねる。


「何って、決まってるじゃない」


 マリアは腰を落とし、両脚を大きく開いた。


 どっしりと床を踏みしめ、右脚を上げる。


 そして、力強く床を踏み鳴らした。


 ドンッ!


 まるで相撲取りが仕切りをするかのような、堂々たる構え。

 屋敷が揺れ、半壊していた屋敷がパラパラ崩れる、見事な四股だった。

 マリアが塩をつかみ、大きく息を吸った。


「悪霊退散っ!」


思いきり投げつけた。力士が土俵入りするような見事な塩撒き。


 ババババババババッ!


 その塩の粒は、散弾銃の弾丸のようにリッチへ殺到した。


《ぎゃああああああああっ!?》


 塩の直撃を受けたリッチの身体から、黒い煙が噴き出した。


 骨が砕けるのではない。


 存在そのものが、削り取られていく。


《な、何だこれは!? ただの塩ごときで、このわしが――!》


「ただの塩じゃないわよ! 厨房から見つけた、たっぷりの粗塩よ!」


《意味がわからぬわぁぁぁぁっ!》


 リッチは黒い魔力を放とうとした。


 だが、マリアの塩が次々と命中し、魔力を形にする前に霧散させていく。


 その攻撃は、魔術でも剣術でもなかった。


 清めの塩ではない、ただの塩撒き。


 けれど、死霊の呪いも魔術相殺も、マリアの前では意味をなさない。


 リッチにとって、これほど理解不能な攻撃はなかった。


《不死竜よ! こやつを始末しろ! 早く!》


 リッチが叫ぶ。


 アンデッドドラゴンが、マリアへ向き直った。


 巨大な顎が開き、黒い瘴気が集まっていく。


「させません!」


 ルナが走った。


 竜の注意を引くように横から飛び込み、顎を蹴り上げる。


 もちろん、竜の巨体には大した傷を与えられない。


 それでも、ほんの一瞬だけ竜の動きが鈍った。


 その隙に、ティアナが立ち上がる。


 全身が悲鳴を上げていた。


 足は震え、息を吸うだけで脇腹が痛む。


 それでも、彼女は折れかけた剣を握り締めた。


「わたしに、出来る事は……まだ、あるッ!!」


 ティアナは竜へ駆け出した。


 剣を振るう。


 ティアナは眼窩に灯る不気味な光を見据え、折れた剣を突き出した。


 ザシュッ!


 竜の眼に刃が突き刺さり、甲高い音とともに剣が折れた。

 短くなった刃が、竜の片眼へ深々と突き刺さる。


 残った刃は、手のひらほどの長さしかない。


 だが、ティアナは止まらなかった。


 竜の頭が彼女へ向き、アンデッドドラゴンが大きく咆哮した。


「ぐっ……!」


 反動でティアナの身体が弾き飛ばされそうになる。


 それでも、彼女は柄を離さなかった。


 ルナがその横に並び、拳を構える。


「ティアナさん。お手伝いします」


「……ありがとうございます、ルナさん!」


 二人は、マリアを守るように竜の前に立ちはだかった。


 一方、リッチは塩の弾幕を浴び、もはや形を保つことすらできなくなっていた。

 何度も、何度も行使できる魔術、呪い全てをマリアに向けて放ち続ける。


《なぜだ……! なぜ、わしの術が……!》


「悪いわね。あたし、そういうのに強いのよ」


 マリアは再び塩をつかんだ。


「はい、追加よ!」


 バババババッ!


《ぎゃああああああっ!》


 リッチの身体が大きく崩れた。


 黒い煙が広間を満たし、骨の欠片が床に散らばる。


 リッチは最後の力を振り絞り、アンデッドドラゴンへ手を伸ばした。


《竜よ……! わしを守れ……! こやつらを殺せ……!》


 しかし、その声は届かなかった。


 ルナが竜の前脚に拳を叩き込み、ティアナが折れた剣でその動きを受け流し逸らす。


 そして、魔王は二人の姿を見て、ふっと目を細めた。


「……よくやった」


 小さな声だった。


 ルナとティアナに向けた、心からの感謝。


 魔王はゆっくりと顔を上げる。


 その瞳から、先ほどまでの焦りは消えていた。


「さて……」


 魔王の周囲に、膨大な魔力が渦巻き始める。


「あの骸に邪魔をされて、些か腹が立っておってな?」


 広間の空気が変わった。


 魔王の足元に、巨大な魔法陣が展開する。


 一つではない。


 二つ、三つ、四つ。


 幾重にも重なった魔法陣が、崩れた天井を越え、屋敷の上空へと広がっていく。


 空にまで描かれた魔法陣が、幾何学模様の光を放った。


 その規模は、先ほど魔王が放とうとした魔術とは比べものにならない。


《な……何だ、貴様いつの間に!?あれは……!》


 リッチが震えた声を漏らした。


 だが、もう遅い。


 リッチはマリアの塩によって存在を削られ、魔術を相殺する力を維持できなくなっていた。


 魔王は、その一瞬を待っていたのだ。


 防御に徹しながら、攻撃へ転じる隙をうかがっていたのである。


「骸よ。人の身を弄び、命を踏みにじった罪……その身で償うがよい」


 魔王が両腕を広げる。


 空に広がる魔法陣が、一斉に輝いた。


 次の瞬間。


「神域の雷迎《ラグナロク》」


 轟音とともに、空から雷撃が振り下ろされた。


 それは、先ほどの魔術とは比べものにならない威力だった。


 閃光が広間を白く染め、アンデッドドラゴンの巨体を上空から貫く。


 竜の骨格が震えた。


 黒紫色の瘴気が爆ぜ、骨の一つひとつが光に呑まれていく。


 咆哮が、悲鳴へと変わった。


 そして――。


 アンデッドドラゴンは、光の中で崩れ落ちた。


 巨大な骨が床に散らばり、残った瘴気も、やがて薄い煙となって消えていく。


 魔王はしばらく、その残骸を見つめていた。


 表情は静かだった。


 けれど、その拳は固く握り締められている。


 死者を弄ぶこと。


 命を道具として扱うこと。


 誰かの大切なものを奪い、脅し、従わせること。


 それは、魔王が何よりも許せない行為だった。


「……許せぬ」


 その言葉は、誰に聞かせるためのものでもなかった。


 魔王は静かに目を伏せる。


 今は、怒りをぶつける相手を見失ってはならない。


 すべての元凶は、まだこの屋敷にいる。


《ぎゃあああっ! やめろ、やめてぇぇぇ!》


 リッチの絶叫が響いた。存在が削れ、いまにも消え入りそうな声だった。


 マリアが最後のひとつかみを投げつける。


「私を呪いたいなら、ビデオの一つでも持ってきなさい!」


《なんのことだぁぁぁぁ!!》


 意味不明なことを叫びと共に、塩を浴びたリッチは、黒い霧となって崩れ去った。


 その霧も、床に落ちる前に消えていく。


「悪霊退散っ!」


 マリアは最後に、ぱん、と手を叩いた。


 広間に静寂が戻った。


 残っているのは、砕けた石床とアンデッドドラゴンの残骸、そして大量の塩だけだった。


「……終わった、のですか?」


 ティアナが呆然と呟く。


「ええ。たぶんね!」


 マリアは明るく答えた。


「まさか、あんな大きな壺いっぱいのお塩を使うことになるとは思わなかったわ。厨房の人には後で謝らなきゃね」


「……そこを気にするのか?」


 魔王が疲れた顔で呟く。


「だって、お料理に使うものだもの」


「そういう問題ではないじゃろうに……」


 その時だった。


 広間の隅で、何かが這うような音がした。


 商人だった。


 つい先ほどまで、自分の財力と権力を笠に着ていた男は、床に這いつくばりながら出口へ向かっていた。


 上等な衣服は汚れ、顔は青ざめ、額からは汗が流れている。


 彼は一度も、まともに戦おうとはしなかった。


 リッチを呼び出したのも、自分が助かるため。


 魔王も、竜も、死霊術師も、すべて他人に戦わせるための道具だったのだ。


「……くそ、くそっ! 何なんだ、あいつらは……!」


 商人は歯を食いしばり、少しずつ身体を引きずる。


 誰も見ていない。


 今なら逃げられる。


 金さえあれば、またやり直せる。


 そう考えた瞬間、背後から冷たい声が落ちた。


「どこへ、行くつもりですか?」


「ひっ!?」


 商人が振り返る。


 そこには、折れた剣を握ったティアナが立っていた。


 満身創痍の身体引きずりながらも、その瞳は鋭く商人を見据えている。


 短くなった刃が、商人の首元へぴたりと向けられた。


「ひ、ひぃっ! ま、待て! 私はこの国にとって重要な商人だぞ! 私を捕らえれば、どれほどの損失が出るか――」


「黙りなさい」


 ティアナの声が、広間に響いた。


「あなたの商売によって、何人の人間が苦しんだと思っているのですか」


「わ、私は知らん! 部下が勝手にやったことだ! 私は命令などしていない!」


「その言い訳は、法廷で聞きましょう」


「ま、待て! 金ならいくらでも出す! 私には後ろ盾が――」


「黙りなさいと言いました!」


 ティアナは剣を突きつけた。


 商人は口を閉ざし、床に額を擦りつけるようにして震えた。


 その姿を見て、マリアは小さくため息をつく。


「まったく。最後まで往生際が悪いんだから」


 ティアナが商人を拘束しようとした、その時。


 彼女の膝が、がくりと折れた。


「……っ」


「ティアナちゃん!」


 マリアが駆け寄り、倒れかけた身体を抱き留める。


「もう……無理しすぎよ!」


「申し訳……ありません。ですが、主犯を逃がすわけには……」


「分かってるわ。ちゃんと捕まえたじゃない」


 マリアはティアナの身体を支えながら、優しく笑った。


「だから今は、少しだけわたしに甘えなさい」


 ティアナは何かを言いかけたが、声にならなかった。


 自分の身体が、もう限界を迎えていることは分かっていた。


 それでも、マリアに抱き留められていると、不思議と安心できた。


 彼女の胸元に顔が近づき、ティアナの頬がじわりと赤くなる。


 痛みのせいだけではない。


 それに気づいたティアナは、慌てて顔を上げた。


「……あ、あの、マリア様」


「ん?」


「あ...その……いえ……何でもありません」


 今は、言葉にできそうになかった。


 マリアはそんな彼女の様子を不思議そうに見つめたが、深く追及はしなかった。


「とにかく、まずは傷の手当てね。あなた、血が出てるじゃないの!」


「この程度なら……」


「この程度じゃありません!」


 マリアの声が、珍しく強くなった。


「自分の身体も大切にしなさい。あなたが倒れたら、わたし、悲しいわ」


「へへ………はい…」


 ティアナは小さく頷いた。


 その返事を聞いて、マリアはようやく笑顔を戻した。


 広間の奥では、魔王がアンデッドドラゴンの残骸を見下ろしていた。


 怒りは消えていない。


 だが、今はそれを胸の奥へ押し込める。


 捕らえた商人から、すべてを聞き出さなければならない。


 この屋敷で何が行われていたのか。


 誰が人を集め、誰が運び、誰が金を受け取っていたのか。


 そして、この砕けた魔道具の杖は、魔族の影がちらついている。


「……マリア」


 魔王が呼びかけた。


「ん? どうしたの、魔王ちゃん?」


「……今は、その呼び方に突っ込む気力もないわ」


「あら、珍しい」


「あとで覚えておれ」


 魔王はため息をつき、商人へ視線を向けた。


「その男を連れていくぞ。まだ終わっておらぬ」


「ええ、そうね」


 マリアはティアナを支えながら頷いた。


 その時、屋敷の外から複数の足音が響いた。


 鎧が擦れる音。


 統制の取れた足取り。


 そして、広間へ向けて飛んでくる鋭い声。


「騎士団だ! 屋敷内を制圧する! 抵抗する者は武器を捨てろ!」


 重い扉が開かれ、騎士たちが一斉に広間へなだれ込んできた。


 先頭に立つのは、騎士団長だった。


 彼は広間の惨状を目にして、一瞬だけ言葉を失う。


 砕けた床。


 崩れた壁。


 巨大な竜の骨の残骸。


 そして、塩まみれになった床の中央で、ティアナを支えている大男――いや、マリア。


「……これは、一体何があった?」


「あら団長さん!」


「団、長...」

 ティアナは姿勢を正そうとしたが、マリアに止められた。

「駄目よ、今は動かないの!」


「団長、こちらの商人が主犯です。屋敷の地下には被害者が拘束されていました。ほかにも関係者がいるはずです」


 ティアナは痛みに耐えながら、必要な報告を口にする。


「帳簿や取引記録も押収してください。人身売買に関する証拠が残っているはずです」


「分かった。お前はもう喋るな。すぐに治療を受けろ。」


「ですが、地下の確認が……」


「ティアナ!」


 騎士団長の声が強くなる。


 ティアナは口を閉じた。


 しかし、納得した顔ではなかった。


 自分の目で被害者を確認し、主犯が逃げないよう最後まで見届けたい。


 その気持ちは、彼女の性格を知る者なら誰にでも分かった。


 騎士団長は深く息を吐く。


「……最低限の治療を受けろ。そのうえで、地下の確認に同行することを許可する。ただし、少しでも具合が悪くなれば即座に戻れ」


「はい…ありがとうございます」


 ティアナはマリアの腕の中で小さく頭を下げた。


「おい、治療班! この者を頼む!」


 騎士団の治療担当が駆け寄り、ティアナの傷を手当てし始めた。


 額の傷を洗い、止血する。脇腹や腕、脚の打撲と切り傷を確認し、最低限の処置を施す。


 完治には程遠い。


 それでも、歩いて移動できる程度には回復した。


「マリア様、ひとつ、あなたにしか出来ないお願いが...」


「なにかしら?」


  ◇


 その間、騎士団長は商人を拘束させ、屋敷の警備にあたっていた者たちを次々と取り押さえていく。


 戦闘に参加していた傭兵たちも、武器を捨てて床に座らされていた。


 中には、自分には関係ないと言い張る者もいたが、騎士団が屋敷の記録を押収し始めると、顔色を変えて黙り込んだ。


 金を受け取り、見張りをしていた者。


 荷物の運搬を手伝っていた者。


 被害者を脅し、逃げ出さないよう監視していた者。


 騎士たちは、それぞれの関与を確認しながら拘束を進めていく。


 やがて、地下へ続く階段の前に一行が集まった。


「……ここです」


 マリアに抱えられたティアナが、痛む身体を押して前に出る。


「この下に、被害者がいます」


 騎士団長は頷き、数名の騎士に指示を出した。


「慎重に進め。拘束されている者がいる。武器を向けるな。まずは安全を確保し、負傷者がいれば治療を優先しろ」


「はっ!」


 扉が開かれ、地下の空気が流れ出す。


 そこには、狭い部屋に押し込められた人々がいた。


 老人。


 怪我をした男。


 乱れた女性。


 そして、幼い子供たち。


 彼らは騎士たちの姿を見ると、怯えたように身を寄せ合った。


「もう大丈夫です」


 ティアナが、できる限り優しい声で告げる。


「私たちはあなた方を助けに来ました。ここから出られます。もう、誰もあなた方を連れていくことはありません」


 その言葉を聞いても、すぐには信じられない様子だった。


 長い間、恐怖に縛られていたのだろう。


 ある女性が、震える声で尋ねた。


「……本当に、帰れるのですか?」


「はい。騎士団が責任を持って保護します」


 ティアナは頷いた。


「どうか、安心してください」


 やがて、一人の子供が泣き出した。


 それをきっかけに、張り詰めていた空気が少しずつほどけていく。


 泣き崩れる者。


 互いに抱き合う者。


 ただ呆然と座り込む者。


 マリアは、その光景を静かに見つめていた。


 誰もが、ただ家に帰りたいだけだった。


 大切な人と一緒にいたいだけだった。


 それを奪う権利など、誰にもない。


「……もう大丈夫よ」


 マリアは、近くにいた女性の肩にそっと手を置いた。


「怖かったわね。でも、もう一人じゃないから」


 女性は何度も頷き、声を上げて泣いた。


 マリアは何も言わず、彼女が泣き止むまでそばにいた。


 その間にも、騎士たちは地下の確認を進めていく。


 被害者の人数を数え、負傷の有無を確かめ、保護のための手配を整える。


 ティアナは簡単な治療を受けたばかりの身体なのに、マリアに手を借りながら、一人ひとりに声をかけていた。


 そんな様子をマリアが心配そうに見つめると、彼女は少しだけ笑ってみせる。


「大丈夫です。これくらいなら、まだ動けますから」


「……本当に、頑張り屋さんなんだから」


 マリアは困ったように笑った。


 それから、ティアナの額に巻かれた包帯をそっと確認する。うっすら血が滲んでいる。


「でも、無茶はほどほどにね」


「……はい」


 ティアナは頷いた。


 その顔には、脂汗を滲ませ顔色は悪い。しかし瞳には力が宿っており倒れる様子はなかった。


 むしろ、今は一人でも多くの被害者を安心させようと、懸命に前を向いていた。


 その姿を見て、マリアは小さく微笑んだ。


 ――やっぱり、この子は強い。


 傷つかないことだけが強さではない。


 怖くても、痛くても、それでも誰かのために立ち上がること。


 それこそが、ティアナの強さなのだ。


 そして、その強さを支えることなら、自分にもできる。


 マリアはそう思いながら、再び被害者たちへと向き直った。


 屋敷の外では、騎士たちが続々と集まり、拘束された者たちを連行する準備を進めていた。


 主犯の商人は、もはや抵抗する気力もなく、騎士に両腕を押さえられている。


 それでも最後まで、彼は小声で何かを言い続けていた。


「私は……私は、ただ商売を……」


 誰も、その言葉に耳を貸さなかった。


 夜は、終わりに近づいていた。


     ◇


 一方、その頃。


 屋敷から離れた場所にある倉庫では、別動隊の冒険者たちが、最後の部屋の扉を開けていた。


 彼らは屋敷から逃げ出した使いの者を追跡し、その足取りから、別の拠点の存在を突き止めたのだ。


 倉庫の周囲には、普段なら複数の見張りが立っていたはずだった。


 しかし、屋敷で騒ぎが起きたため、警備の多くはそちらへ呼び戻されていた。


 残された者たちは、突然現れた冒険者たちに対応しきれず、あっという間に制圧された。


「中を確認しろ! 捕らえられている人がいるかもしれない!」


 先頭の冒険者が叫ぶ。


 扉の奥には、複数の人々が拘束されていた。


 屋敷の地下にいた者たちと同じように、彼らもまた、逃げることを許されずにいたのだ。


「助けに来ました! もう大丈夫です!」


 冒険者たちは縄を解き、負傷者を支えながら外へと誘導していく。


 彼らの中には、屋敷へ運ばれる予定だった者もいた。


 家族と引き離された者。


 帰る場所を奪われた者。


 脅され、抵抗すれば大切な人を傷つけると言われていた者。


 その事情を聞いた冒険者たちは、怒りを露わにした。


「……胸糞悪い話だな」


「ああ。こんなこと、二度とさせるかよ」


 彼らは被害者たちを保護し、騎士団へ連絡を入れた。


 屋敷での制圧が進んでいることを知ると、互いに安堵の息を漏らす。


 こうして、人身売買組織は一夜にして壊滅した。


     ◇


 屋敷を出る頃には、空の端が白み始めていた。


 長い夜が明けようとしている。


 門の前には、救出された人々を乗せる馬車が並んでいた。


 冒険者たちも、倉庫から救出した人々を連れて合流している。


「おーい! こっちも全員無事だ!」


 冒険者の一人が手を振った。


「よかった……」


 ティアナは胸を撫で下ろした。


 屋敷の地下にいた者たちだけではない。


 別の場所に捕らえられていた人々も、無事に救出できたのだ。


 騎士団は負傷者を優先して治療施設へ送り、ほかの被害者についても身元確認と保護の手続きを進めていく。


 門の脇には、商人と同じように拘束された傭兵や冒険者、ならず者たちが並んでいた。


 全員が人身売買に直接関わっていたわけではない。


 しかし、被害者を見張り、脅し、運搬に加担した者たちは、その責任を問われることになる。


 中には、騒ぎに乗じて逃げようとした者もいたが、騎士団の包囲を抜けることはできなかった。


 動けないティアナはマリアに抱えられていた。

 いわゆるお姫様だっこである。

 初めは嫌がっていたが、動けないことから今は大人しく従うことにした。


「……これで、一段落ですね」


 ティアナが呟く。


「ええ。よく頑張ったわね」


 マリアは彼女の頭を撫でようとして、頭の包帯を思い出し、そっと手を止めた。


「……怪我は、痛まない?」


「少しだけ…でも、大丈夫です」


「大丈夫って言う人ほど、心配なのよねえ……」


 マリアはため息をついた。


 ティアナは困ったように笑う。


「ご心配をおかけしました」


「本当よ。あたし、あなたが倒れた時は心臓が止まるかと思ったんだから」


「……マリア様」


 ティアナは目を伏せた。


 そして、小さな声で続ける。


「先ほどは……ありがとうございました」


「ん?」


「休んでいろと言わずに私の好きにさせて頂いて」


 顔を赤らめ、ティアナは胸元で両手を握った。


「それに私は、自分が何もできないことが悔しくて……。それでも、マリア様は私を責めずに、頼っていいと言ってくださいました。その言葉がなければ、私は立ち上がれなかったと思います」


 マリアは少しだけ目を丸くした。


 それから、いつものように明るく笑う。


「何言ってるの。あたしだって、みんながいなかったら何もできないわよ」


「……ですが、マリア様は……」


「はいはい、そこまで!」


 マリアは腕の中のティアナを赤子をあやす様に、大きくゆったりと揺らした。


「今は反省会より休むこと。これはママとの約束よ」


「……ママ?」


「そう、わたしはみんなのママ!」


 マリアは胸を張った。


「疲れた子を放っておけないのが、ママってものなのよ!」


「……ふふっ」


 ティアナの口から、思わず笑いが漏れた。


 その笑顔を見て、マリアも嬉しそうに頷いた。


 ティアナは、もう一度だけマリアを見上げた。


 その胸の奥に、これまで感じたことのない温かなものが芽生えている。


 尊敬。


 信頼。


 そして、それだけでは説明できない何か。


 彼女はまだ、その感情に名前をつけることができなかった。


 ただ、マリアの笑顔を見ていると、胸が少しだけ苦しくなる。


     ◇


 騎士団長は、屋敷から押収された帳簿や取引記録を確認していた。


 そこには、被害者の移送先、金銭の流れ、協力者の名前が記されていた。


 商人は最後まで、自分は知らなかった、部下が勝手にやったことだと主張していたが、帳簿に残された記録は、その言い逃れを許さなかった。


 人身売買に関わった者たちは拘束され、屋敷と倉庫は騎士団の管理下に置かれた。


 救出された人々は、順次、安全な場所へと移送されていく。


 王都を揺るがしていた人身売買組織は、こうして壊滅した。


 ただし、その背後に何があったのか。


 なぜ商人が、あれほどの魔物を呼び出す手段を持っていたのか。


 その疑問は、まだ残っていた。


 魔王は、押収された品々を見つめていた。


 人間の商人が、死霊術師と繋がっていた。


 そして、その商人の背後には、さらに別の存在がいる可能性がある。


 魔王は目を細めた。


「……やはり、偶然ではないか」


「どうしたの、魔王ちゃん?」


 マリアが隣から覗き込む。


「いや、何でもない」


 魔王はすぐに表情を戻した。


 今は救出された人々の安全が最優先だ。


「とにかく、これで一段落ね」


 マリアは朝焼けを見上げた。


「長い夜だったわぁ……。帰ったら、お風呂に入って、髪も整えて、メイクも直して……」


「お主、最後までそれか」


「大事でしょ! レディの身だしなみなんだから!」


「……はいはい」


 魔王は呆れたように肩をすくめた。


 ティアナはそのやり取りを見て、そっと笑う。


 ルナもまた、いつものように丁寧に頭を下げた。


「皆様、お疲れさまでした」


 こうして、王都を蝕んでいた人身売買事件は、夜明けとともに決着を迎えた。


 しかし、その陰で動き始めていた者たちは、まだ誰にも捕らえられてはいなかった。


     ◇


 王都から遠く離れた、薄暗い一室。


 重厚な円卓を囲む魔族たちの間に、重苦しい沈黙が流れていた。


「……報告は以上です」


 跪いた使者が、震える声で告げる。


「人間の商人を利用した計画は失敗。拠点は壊滅し、関係者は騎士団に拘束されました」


「馬鹿な……!」


 一人の魔族が、円卓を拳で叩いた。


「たかが奴隷商人の拠点が潰れただと? あれだけの人員を用意しておきながら、何をしていた!」


「それが……屋敷に侵入した一団の中に、例のアレがいたようで……」


「例のアレ?」


「先日魔獣を使役した、大男です」


 室内の空気が凍りついた。


「……また、あの変態男か」


 低い声が漏れる。


「何なんだ、あの大男は……!」


「魔術を無効化するという話もある。しかも、本人はほとんど傷を負わないらしい」


「ふざけるな! そんな人間がいてたまるか!」


 魔族たちの間に、苛立ちと焦燥が広がっていく。


 彼らはまだ、マリアの正体を知らない。


 どのような力を持ち、何を考えているのかも分からない。


 ただ、自分たちの計画を次々と潰していく、理解不能な存在として認識していた。


「……しかし亜人風情に力を貸しただけの価値はあった」


 円卓の奥に座る魔族が、静かに口を開いた。


「魔王の所在が分かったのは収穫だった。人間の王都に滞在しているという情報は、確かなのだな?」


「はい。商人の拠点で確認された魔力の反応からも、魔王様が関与した可能性は高いと考えられます」


「ならば、これ以上好きにさせるわけにはいかぬ」


 魔族は指を組み、冷たい声で告げた。


「計画が崩れた以上、こちらから動くしかあるまい」


「しかし、あの大男がいる限り、正面からの襲撃は危険です」


「だからこそ、暗殺者を使う」


 その言葉に、円卓を囲む者たちが顔を上げた。


「魔王様の居場所を突き止め、確実に仕留めろ。人間どもに気づかれる前にだ」


「……承知しました」


 使者が頭を垂れる。


 部屋の奥から、ひとつの影が音もなく立ち上がった。


 顔は見えない。


 ただ、その手に握られた刃だけが、薄暗い光を反射していた。


「今度こそ、終わらせてやる……」


 低い声が、静かな室内に溶けていく。


 夜明けは訪れた。


 だが、新たな闇は、すでに動き始めていた。

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