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3章18話

 ゼファー・フェンリル・アスガルス。半神として授かった、そのもったいぶった長い名前にはいまだに慣れない。

 だが、フェンリルという狼の獣神――有神の時代に破壊の限りを尽くして世界に爪痕を残し、善神ノーデンスに討伐された、存在しないはずの忌神――と潜在意識のなかで対話したときのことは今でもよく思い出せる。

『かような餓鬼が、拙狼せつろうの器となるのか? あの龍もどきの墓荒らしは一体どこまで冒涜しおるつもりだ……』

 二十代前半ほどに聞こえるその声、そして白紫の巨躯をした幻狼の獣神はゼファーの深層意識内に、その鋭い爪を突き立てる。

 何事にも臆さずに生きてきたはずのゼファーは、人生で初めての不安を感じながら、震える声で聞いた。

「君が、神様なの? これからボクと共に生きる……」

 すると、激しい咆哮が潜在意識の中にこだました。

 これは、怒りだ――。

『共に!? ふざけるな。拙狼せつろうは誰とも群れぬ! しかも下賤な人間が相手だと? 笑わせるでない!! 貴様の魂など、我が誇り高き『嘆きの残滓(ラメント)』が選ぶと思うか?』

 だが、ゼファーは恐れを振り切り、巨躯を見上げながら言い放つ。

「大丈夫! ボクたちなら友だちになれるよ」

『貴様如きが神と並びたてると? 拙狼せつろうを恐れぬというのか?』

 指の震えが止まらない中、ゼファーは途切れ途切れに、しかし力強く訴えかける。

「ううん、すごく怖い……。でも、やってみなきゃわからないだろ? ボクと一緒にいるうちに、ちょっとは悪くないって思うかもしれないし、もっと嫌いになるかも。でも、試さずにあきらめるのは損だ!」

 生きたい。

生きたい……生きたい!!!!

 可愛い妹……リジィのために、命まで捨てようと思ったのに、ゼファーは自分を食いつぶさんとする忌神を前にして、その衝動に駆られた。

 ああ、そうだ。ボクは……生きたかった!

 

『たわけたことを!! 下賤な人の子が!!』

 鳩羽色の狼は牙をむき出し、その巨躯を前へと駆り、ゼファーの心臓に噛みついた。

「ぐっ……!」

 意識下とはいえ、その痛みはあまりにも鮮明にゼファーを襲った。

 ああ……自分は死ぬのか。

 何も為せないまま。妹にも、もう一度会えないまま……。

 だが、やがて痛みは消えていく。

 ゼファーはふと、潜在意識の中で自分の鼓動のリズムが変わるのを感じた。

 まるで早鐘のように心臓が自分の知らぬ音を刻みだす。まるで獣のように激しくてうるさくて、獰猛で、血に飢えた鼓動……。

 フェンリルは血まみれの顎をゼファーから離し、言い放つ。

『せいぜい慣れるのだな。拙狼フェンリルの『嘆きの残滓(ラメント)』は狼神の心臓。それは岩をも砕く絶大な力を与え、そして貴様のその身を拙狼に擬態させる』

「ボクのことを……受け入れてくれるの?」

『まさか。だが興味深い。拙狼せつろうを恐れなかった人の子は永き時のなかで貴様ぐらいよ。ならば、その身を食いつぶすまで、我が眷族としてやる。覚えておけ。決して、共に生きるのではない。貴様はその魂の鼓動が消える時まで、拙狼に捧げられし贄だとな』

 フェンリルの半神となれたのは、この忌神の気まぐれに過ぎない。

 その気まぐれが終わる時が自分の最後なのだと、ゼファーは自分の心臓が不安定に脈打つたびに感じる。


 ドクン、ドクン……。

「ゼファー! ダメです! もう魔物は倒したでしょう?」

 遠くで、誰かの声がする。見知った声だ。

 でも、誰だったかな? わからない……。

 眼鏡をかけていて、優しそうな顔をしていて……。

 ボクの、ともだち?

 そうだった気もするし、そうじゃないような気もする。

 フェンリルの心臓が体の中で波打つと、感覚があいまいになる。今この世界に生きているのは自分なのか、それとも世界に忘れ去られた忌神なのか。

『答えが知りたいか? ならば全て壊すがいい。忌神の名にふさわしき破壊を。大地に消えぬ爪痕を残せ!!』

「ガルルルルルル!!」

 魔物を衝動のままに倒し尽くしても、まだ足りない。

 ああ、お腹が空いた……。

 この飢えが、決して癒えることはない。

 ゼファーは目の前にいる半神の青年、レオの肩に激しく噛みつき、その肉を引きちぎった。

「ぐっ……あああああああ!!」

 青年の悲鳴が辺り一帯に響いた――。


 獣の咆哮のあとに響いた人の悲鳴を聞きつけ、アダムは急いで駆けつけた。

 そこで見たのは、肩に噛みつかれて必死で抵抗する半神と、二足歩行の巨躯を持つ人狼の姿だった。

「……!」

 魔物……? だが、アダムは人狼が軍服のボトムを着用していると気づく。

「アダム! 突っ走っていくなよ。一体何があるかわからないのに」

 そうやって後ろからついてきたイリヤも遅れて、目の前に広がる光景に立ちすくんだ。

「あ、あれは……フェンリルの半神のゼファーと、レオ……!」

 ゼファー? 人狼をよく見ると、見覚えのある髪色だと気づく。アダムは急ぎ、槍を構えた。

「イリヤ、下がってて! ここはどうにかするから、救援要請をして!」

「どうにかって……無茶だろ! 救援要請をして一緒に逃げよう!」

「放っておいて逃げたら、レオって人が危ない!」

「ガルルルルル!!!」

 魔物以上の脅威だ……。アダムは本能的にそう感じながらも、人狼の餌食となり、衰弱しているレオから注意をそらすべく、フェンリルに向かって行った。

 まさか、神食の影響でこんなことになるのか?人を襲うだなんて。

 相手は獣化しているとはいえ、半神だ。槍で突き刺すわけにはいかない。

 一時的に気を失わせるしかないか……。

 アダムは頭を狙い、槍を地面に刺し、それをバネ代わりにして高く跳躍した後、地面から抜き去り、落下しながらゼファーの頭部に振り下ろす。

「お、おい……マジかよ……! 身軽すぎるだろ……」

 遠くから救援要請をしながらも、イリヤがアダムの身のこなしに思わず呟いた。

 アダムは自分の身軽さについて特に強く意識したことはなかったが、自然とそれを武器としていた。

 これは幼いころ、父から教えてもらったのだろうか?

 アダムは今の自分にはあらゆる記憶があるはずなのに、父についてはほとんど覚えていないと気づく。 

 とうさま……アーサーはどんなふうに自分に接していた?

 戦闘を教えてもらったような気はする。だが、そのときに父が自分にかけたであろう言葉や態度は大して多く思い出せない。

 思い出せることといえば……。

 ザザッ!!

 そのとき、違和感とともに、金色の髪をした魔女……ヘレナの姿が頭をよぎる。

 だが、肖像画にも描かれた艶然とした黒いドレスではなく、白い夜着に身を包んだ、壊れそうに華奢な姿でベッドで眠る無防備な姿だった。

『ねえ……君はどんな夢を見ているの?』

 優しくてどこか甘い、テノールの声が響く。

 これは、この声の持ち主の視点なのか?

 ヘレナにゆっくり近づいていく。

 そして白い手袋に包まれた、大きな手が彼女の頬を撫で、首筋に指を下ろしていく。

『君の大好きな英雄の夢? それとも、あの龍の夢かい?』

 ふと、アダムはこの声に聞き覚えがあると思い出す。

 とう、さま……? アーサー・ルルイエ。

 ふと、視点がブレ、自分は白手袋の男ではなく、傍観者の立場になっていた。

 そして、男と目が合った。

 パッと見た印象は柔らかいのに、よく見ると目の奥にどこか、蛇のような印象のある瞳に射すくめられ、ぞくりとした。

 男は小首をかしげる。

『あれ? おかしいな。調律ドレナージュは完璧なはずなのに、私の認識イメージに疑問を抱いたのかい? 念のために監視に来て正解だった」

「監視……? なんのことだ?」

「いけないな、私の可愛い魔女ときたら、またわずかな隙間にお痛をしたようだ。そんなにこの子が可愛いのか? 赤の他人だと言うのに……妬けるな』

 その言葉は間違いなく、茶色に金のメッシュが混じった髪をした、若く美しく立派な体躯をした男……英雄然としたアーサー・ルルイエから放たれた。

『まあいい。やさしく、何度でも戒めればいいさ』

 冷酷な瞳を細め、やや歪めた唇からその言葉は放たれた。

「あなたは、とうさま……?」

 怖い……。

 記憶の中のとうさまは、こんなにも冷たく笑う人だったか?

 そんなわけない! かあさまと、俺にいつも優しくて……。

 抵抗もできないまま、アーサーの手はどんどん近づいてくる。

『そう、それでいい。再調律リ・ドレナージュするとしよう。いや、それだけでは勿体無いな。私の愛しい息子……お前はきっと、私の役に立ってくれるからね」

 彼の手から放たれた闇が広がり、目の前を覆った。


「おらっ! よそ見してんじゃねえ!」

 目の前のゼファーの殺気を感じ、はっと我に帰る。

 一瞬、意識が飛んでいた。

 なのに、アダムは自分が何を考えていたか、全く思い出せない。だが、背筋がゾワゾワと冷えて冷たく、違和感があった。

 ――ダメだ! 余計なことを、考えている暇はない!!

 ゼファーの頭部を激しく殴打しようとしたそのとき、その人狼の腕が上に伸び、強く槍の柄を掴んだ。

「そうはいかねえよ!!」

 獣化状態で発せられるゼファーの強い声にはあの人懐っこい少年の面影が一切ない。

 アダムは槍を奪い返そうとするも、強い力で体ごと揺さぶられ、そして槍と共に吹き飛ばされてしまった。

「あがぁっ!!」

 アダムはうめきながら地面に打ち付けられた。

「うぜえ……お前から喰い殺そうかな? あの人の匂いがするし」

 「あの人」? アダムは疑問を抱きながらも、迫りくる人狼に身をこわばらせる。

 だがそのとき、すらりとした影がアダムの前に落ちた。

 さっきまで肩を負傷して倒れていた眼鏡をかけた半神だ。

「アダムくんでしたね。ありがとうございます……君のおかげで、時間を稼げました」

「レオ……さん?」

 レオという青年は軽く振り返り、アダムに向かって微笑んでから、拳を強く握りしめながら語る。

「私の『嘆きの残滓(ラメント)』はご機嫌があるようで……ようやく言うことを聞いてくれそうです。ヨトゥン! 氷の鉄槌を!」

 そのとき、レオの拳がきらきらと輝く。よく見たら、それは氷結晶を纏っていると気づいた。

「一発、殴らせてもらいますよ……ゼファー!」

「何を……霜の巨人ごときが生意気なぁ!」

 振りかぶるゼファーだが、レオは勢いよく低い体勢を取って隙をつき、その氷の拳でゼファーの胸を殴打した。

 瞬間、ゼファーは氷結晶の中に閉じ込められた。

 レオは肩に人狼の噛み跡を残しながらも、平然とした態度でアダムに近づき、向かって頭を下げた。

 アダムは思わず戸惑い、「えっ……」と声を上げる。

 だがレオはにこにことして言った。

「これで、氷が解けるときには彼の暴走は収まりますよ。御迷惑おかけしました~。あっ、私はレオ・ヨトゥン・アスガルスと言います~。ゼファーとは幼いころからの知り合いでして。異能は見ての通り、あの氷結晶です。凍らせる時間は私の力の込め次第ですねー。あの子は友だちだし、凍え死んでしまったら困るので5分ぐらいにしときました」

「そうなんだ。肩、すごく怪我してるけど平気?」

「救援を呼んでくださったみたいですし、平気ですよ~。なんたって、巨人の『嘆きの残滓(ラメント)』を入れてからというもの、通常の人より痛覚が鈍くなりまして……巨人ってすごいですよね~……って結構いたーい!! はい、こんな風に後から痛みが来るんです~……!」

「や、やっぱり……どうしよう、早く治療しなきゃ!」 

「大丈夫かい、アダム!?」

 そこへ走りながら、クリフがやってきた。そして、凍りづけになったゼファーと負傷したレオを一瞬見た後、迷いなくアダムに駆け寄って肩を掴んだ。

「怪我はない!? 一体何があったの!?」

 この状況で、心配するのは一番軽傷の俺!? 紫の目が心配のあまりか震えている。

 そう思って戸惑いながらも、アダムは順を追ってクリフに説明した。

「俺は大丈夫だよ。神食の影響でゼファーが暴走しちゃったみたいなんだ。それより、レオとかゼファーを心配してあげて」

「あー、いえいえ。私たちは大丈夫なので。王様って、身内贔屓があからさまな人なんだな~って思いましたけど、全然平気です!」

 クリフはどきっとしたように、アダムの肩を掴んでいた手を離し、咳ばらいをする。

 そして自分の荷物から治療薬を取り出し、レオに手渡した。

「悪かったね。確かに身内贔屓が過ぎたが、とっさの反応だから許してほしい」

 少し反省するようにクリフはそう言った。

「いいんです、いいんです~! 王様は器が小さくなんかないですよ。こんなところまで、一兵卒のために来てくれたんですから!」

 だがクリフはもう話を聞いていない様子で、アダムの肩をもう一度揺さぶった。

「アダム、本当に大丈夫……? 初陣だから、極力レベル帯が低い魔物の発生地を指定したのに、なんで僕に連絡せずにこんなことに首をつっこんだの?」

「ええええっ……私のことは完全無視~!? まあもういいですけど!? 治療薬もらいましたし。なんかのコントかな、これ……」

 レオと全く同じ感想を抱いたが、アダムはクリフの質問に答えた。

「心配だったから、つい。レオさんのおかげでみんな助かったわけだし、いいじゃないか」

「結果論で語らないでくれ。こんなこと、もう二度としないで。いいね?」

 クリフの目がわずかに潤む。本気で自分を心配したようだ。

 だがふとアダムは違和感を覚える。クリフは今回かなり遠方の場所を持ち場として、レベルの高い魔物と対峙していたはずだ。救援要請を出したとはいえ、到着が随分早い。

 そのとき、パリィィン! と音がして氷が割れる。

 人狼の巨躯がするすると縮み、背の高い、ふわふわとした前髪の少年の姿に変わっていく。

「んん……魔物は……?」

「ゼファー、君が全部ぶっ倒しましたよ~。ついでに私のことも噛んできました。ほらー、この肩! 見て下さい!」

 ゼファーはきょろきょろと周りを見渡し、少し遅れてからレオの言葉に答えた。

「うわ~……ごめん! ボク、またやっちゃった!? っていうか、王様もいるし!」

「君が毎回内々にしろって言うけど、バレましたね。今回のことで。まあこれで私も気が楽になりました」

 クリフはその言葉にはさすがに反応し、ゼファーに向き直った。

「毎回!? 何度もこうして暴走することがあるのか?」

「うん、討伐3回に1回ぐらいかな……」

「もしかして、前に口調が変わったときは……」

「あーうん、機嫌で収まってくれるときがあるんだけど、機嫌が悪い時はダメなんだ」

 クリフは思わず、責めるように言った。

「なぜ黙っていたんだ!? 何かトラブルが起きてからでは遅いんだぞ! そんなことなら、君を討伐に送らなかった!」

 するとゼファーはしょげたように狼耳をしおらせながらぽつりぽつりとつぶやく。

「心配かけたくなかったし、本物の狼男みだいだってわかったら、ボクと友達になるの、いやがられちゃうかと思って……ごめん」

 クリフはそう言われて、戸惑ったように目を伏せる。

 そして、深いため息をつきながら言った。

「別に嫌がらない。ただ……帰って君の『嘆きの残滓(ラメント)』を調査しよう。魔脳科学士たちも、力になってくれるかもしれない。『忌神』の『嘆きの残滓(ラメント)』についてはあまりにもブラックボックスが多すぎるとはいえね」

 アダムはその言葉に思わず口を挟んだ。

「ゼファーも『忌神』の『嘆きの残滓(ラメント)』を? やっぱり神食が早いから、こうして暴走したんじゃないか?」

「……おそらくは」

「クリフ、やっぱり危険だよ。『忌神』の『嘆きの残滓(ラメント)』を持った人を討伐に送るのはよくないんじゃないか? 暴走して、死んでしまうかもしれないし……」

 クリフは思わず目を見開く。そしてさっき、アダムを心配していた時とは全く違う声で告げる。

「つまり……僕のしたことが、僕の判断が『失敗』だ。そう言いたいの?」

 アダムは思わず、口ごもったが、ひるまずに言い返す。

「失敗とか、そういうことじゃないよ。ただ、こんなにもリスクがあるんだろう?」

「だったらどうやって、シールドの崩壊に対応すると言うんだ? 現状の希望は荒人神の誕生に頼るしかないんだぞ!」

 そのとき、大きな壁のようにゼファーがアダムとクリフの間に入った。

「もー! 二人とも! ケンカしないで!」

「ケンカなんかじゃない。僕は兄さんと話しているだけだ」

「ケンカだったよ。王様、すごく悲しそうだし、怒ってるし」

 アダムは調子を狂わされた気分で、ため息をつく。

 クリフは炎龍のもたらす『忌神』をどこか怪しいとは思いつつも、受け入れている……。こんな出来事が起こっても、その意思を変えることは難しいようだ。

 どうして? 赤の他人じゃないか。

 きょうだいの俺が目覚めたのに、どうしてクリフは俺のほうを信じてくれないんだろう?

 そう思うと、アダムは少しだけ傷ついたような気分になる。

「冷静さを欠いたのは事実だ。『忌神』の『嘆きの残滓(ラメント)』の暴走についても、きちんと対処をする。君の神食度を見せてくれ」

 そう言ってクリフはゼファーの首輪を操作した。

 そして大きく、目を見開いた。

「59%……!?」


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