18……こんにちは。悪魔のような隣人。
見舞いに来た客と、暇を持て余した軽度の患者がぼうっと外の日差しを眺めながら談笑していた。由紀は白いテーブルの上のコーヒーに砂糖を落として、啜る。甘いながらも、ほろ苦い液体が喉の奥をゆっくりと落ちていった。酸味のある後味はインスタントコーヒー特有のそれ。
そこはカフェテラスというよりも、カフェラウンジといった印象のほうが強く、それよりもただの食堂と言い換えたほうが由紀にはしっくりきた。
約束の時間になっても現れない理子に由紀は手首の時計と柱の時計を見比べる。時刻は間違っていない。時計から視線を外すと少し離れた場所で自分に向かって歩く女が視える。遠目に見ても肌が白い。
「ああ、遅れてすみません」
「…………」
袖を捲った白衣姿で彼女は急ぐことなく由紀の対面に座る。額の青いアザとガーゼが痛々しい。顔にはほぼ傷がないあたり、そこら辺は計算なのだろうなと由紀は思った。女としての計算。
もっと早く彼女の存在に気づけていたらとあれから何度も思った。すでにレストランで出会っていて、その兆候を捉えていたはずなのにと奥歯を噛み締める。
「こうやって顔を合わせるのは、あの夜以来ですね。それで、えっと、何でした? 何の約束でしたか?」
「健く……戸賀健太のこれからを話すってあなたがいったんでしょ」
「そうでしたね。そうでした。で、あれから健太さん、あなたになんと? ほら、私、救急車に運ばれたあとのことは知らないものですから」
「そのことは今はいいでしょ。彼のこれからについて、話すんだからさ」
右手の付け根がジクリと傷んだが、由紀は顔には出さない。出せば、目の前の女を喜ばせてしまうからと分かっていたからだ。
あれから由紀は理子の論文を読み漁った。ざっくりと読むと被験者と理子のやり取りに対する血圧や発汗、動作や仕草を客観的にまとめたもので、学術的な意味合いしかみられなかった。しかし、そこに冷酷な好奇心を見出せば、まったく違ったものが見えた。端的に言えば、理子は人の矛盾や理想化を許さなかった。
特に象徴的だったのは、母親を刺したという15歳の少女のケースだった。少女は自己防衛のために自分の行為を肯定、理想化しようとしたが、理子はそれを許さず、本質を指摘した。
――あなたは一度、中絶していますが、そのことをお母様は知ってらっしゃったんですか? はあ、知らなかったと。……ええっと、では“我が子”に刺された“母親”はどんな気持ちだったと思いますか? 笑っていたということはそれを求めていたということなんでしょうかね? 救われた気持ちだったのでしょうか? どう思いますか? あれ、どうしてそんな顔をしているんです?
その指摘のあと、少女は絶叫したとだけ短く書かれていた。
後述によれば、少女は母親として中絶した罪の意識から、我が子に殺されることを望んでいたのではないかと推察されていた。偶発的に母親を殺してしまったのではなく、“我が子の手によって罪深い母親が死ぬ”という場面のために、その憎しみを育て、無意識に見つかるよう状況を作っていたのだろうとも。
“……それはつまるところ我が子への深い愛情からくる後悔と罪滅ぼしに他ならない”
経過報告では少女はそれ以降、幼児を連想させるものを見ると憧憬の念を抱くようになり、子供の権利や親の責任という言葉を恐れるようになったという最後でまとめられていた。恐怖と憎悪は憧れと愛情の裏返しなのだと。
淡々とした言葉でまとめられているものの、由紀にはその情景が浮かぶようだった。子供への憧れと自分の罪の意識に悩む少女に、誰が悪いのか、何が問題だったのかと優しい声色で詰め寄ったのだ。ただどういう反応を示すかということを見たいがために。
「そうでした、私達は彼の今後を考えなくてはいけません。彼の今後を。えっと、菅原由紀さんでしたよね、菅原さんは何か思っていることはありますか?」
「まず第一に知りたいんだけど、彼のあの薬の量は何なの? 私もね、一時期さ、病院通いしてたから、少し薬の知識があるんだけど、あの量と種類は尋常じゃないでしょ? 最初からおかしいと思ってたんだよね、急にハイテンションになったり、急に大人しくなったりさ」
「その解答にお答えする前に、彼が重度の精神疾患を患っているということはご存知ですか?」
「本当にそうなの? 私にはそうは思えないね。彼につらい過去があったってことも知ってるけどさ、彼は立派に持ち直していると思うんだけど」
「彼は私があった時から、心がボロボロになっていました。というか菅原さんはどこまでご存知ですか?」
「父親に……暴力を振られたというところまで」
由紀は暴力という言葉に詰まる。その答えは多分に意味を含んでいた。
「そういう示唆するような言い方はやめましょうか、菅原さん。私達は探りあいをするためにここにいるわけではないんですから。はっきりさせましょう。菅原さん、いいですか? 彼はね、彼は、父親に体を売っていたんですよ。糧食を得るために、妹達のために、体を捧げて、その苦痛に耐えて、精神をすり減らして、生きていたんですよ。父親から逃げ出したあとクラスメイトの女子に買われて、クラスの女子以外の人間に買われて、妹達を養ってたんです。菅原さんの口ぶりは妙に軽いですよね。そう、軽い。あなたはこう考えているんじゃないですか? 父親の死は健太くんが強姦されてすぐに行われたもの、という風に。違うんですよ、違うんです。彼は、何年も何年も何年も何年も何年も何年も何年も何年も何年も弄ばれ、貪られ、掃き溜めにされてきたんです。一時期、違法な薬物に逃げてたのはそのせいですよね」
「…………」
由紀はただただ絶句した。
理子の声色は変わらなかったが、眼の奥だけは異様に、異質に、異形に爛々と怪しい光を放っていた。
「依存先を変えて、雇い主を変えて、彼は父親の魔の手から逃れました。でもそこで、妹達に襲われた。性的に襲われかけた。彼女たちからすれば、絆を強めるための行為でしょうけど、あの人からすれば、酷い裏切り行為ですよね。それで、彼は唯一まともな姉のところへ逃げた。迷惑をかけまいと思っていた最後の砦に逃げた。でも妹達はそれを許さなかった。一人だけ幸せになることは許さなかった。妹に告げ口された姉は父親に頭を割られ、今は植物のようなものです。再び父のもとに戻されたあの人が、どうやってそれに決着をつけたか分かりますか? 妹達に体を売って、心を捧げると誓って、父親や自分の暗い過去に関係する人を殺させたんです。ああ、テレビでよく言われてるような、人の死ぬところが見たくなったとかいうのは全部、彼女たちの狂言ですよ」
絶句しながらも、由紀は違和感を覚える。あまりにも彼女は知りすぎている。尋常ではないレベルで彼女は知っている。
それはつまりどういうことなのか。
「あの人は、あの人はね。そういう経験のせいで自分の評価のしかたが体を売ることでしか分からなくなっているんですよ。それ以外の方法はあると理屈として理解はできるけれど、それ以外の方法では実感ができない。もっともつらくて嫌な方法でしか、自分の評価が計れない。精神に刻み込まれてるんですね」
「あなた……いつから、そう、いつから彼に薬を与えてたの?」
その言葉にはいつ知り合ったのかという言葉が含まれていた。いつから彼を支配し、いつから彼を誘導していたのか。
彼が父親の死を願うように誘導したのはいつからなのかと。
「あなたは、こんなことも知らないで、彼と一緒にいたんですか? 彼のために私を殺そうとしたんですか? 何もでしないで、彼の優しさと私の努力の結果に甘えて、笑っていたんですか?」
由紀の質問に彼女は意図的に答えなかった。答えなかったが、それはある種の解答のように思えて、由紀は身震いした。
「茨木理子さん、あなたはさ」
そう切り出して、由紀は少しだけ目をつぶって雑音から遠ざかる。彼女の言葉を繰り返す口ぶりは自分の口癖を真似たものだった。それは彼女の別の論文に書かれていた“相手の言葉の特徴を真似て、発言することで、より効果的に重みを与えることができる”という文言のそれだ。そもそも今回話すべきテーマが見事にすり替えられていて、自分への糾弾に変わっていることに由紀は気づく。それは理子のいうところの“支配される立場と、支配される立場の構築”に他ならない。
「あなたは、結局のところ、彼を不幸にした張本人の一人でしょ?」




