19……こんにちは。ジキルとハイド。
何を言いたいのか、と彼女は眉を寄せた。言葉の意味が根本から理解できないという風に。
「私は彼を救いはしましたが、不幸にしたつもりは微塵もありませんよ」
「……私は馬鹿だからさ、定義とかはよく分からないんだけど、助けるってそういうことじゃないでしょ? あなたがやってるのって死にたいって悩んでる人に首をくくるロープを与えてることに凄く近いと思うのね。助けるっていうのは多分、希望がなければいけないんだよ、その結果に希望が。助けた結果、絶望で終わるのなら、それは助けたことにはならないんだよ」
「では私がやっていることは何だというんですか?」
「あなたがやってることって支配でしょ。彼の周りから人を奪って、接点のある人間を自分だけにして、否が応なしに自分に頼るようにして、自分の存在価値を高めてる。薬で彼の思考力を奪って、心を滅茶苦茶にして、自分以外の人間の死を願うような人にした。もうその時点で、希望はないし、戸賀健太はあなたの知っている戸賀健太として成立していないでしょ。幽霊みたいなものだっていってもいい。こういう言い方って最低だと思うけどさ、そんなものを愛でて、何が楽しいの? ストーキングして、どうしたいわけ?」
「最高の状態から、滅びる最後まで自分のみが独占したいという気持ち、感じたことありませんか? ふふふ、そんな顔しないでください。冗談ですよ。でも、ええそうですね、彼に対するアプローチが積極的すぎたことは認めます。それと私が彼を完全に救えていなかったということも。ですが、実際問題、あの粗暴な父親はどうにかすべきだったと思いますよ。いえ、分かります。彼や彼の妹にやらせるのではなくて、私がやればいいじゃないかといいたいんでしょう? でもですね、私がやったのでは彼らの呪縛は溶けないと思うんですよ。彼らが彼ら自身の力によって乗り越えなければならないと私は思いました。でなければ、彼らが受けた心理的なフラストレーションは別の誰かに向かってしまうじゃないですか。通過儀礼なんですよ、あれは」
父親から受けた暴力によって、憎しみが生まれる。その憎しみは父親へと向けられた“いつか仕返ししてやる”という気持ち。それを果たせなくなった時、憎しみが別の誰かに向かってしまうという心理は確かに存在した。虐待された子供が親になった時、自分の子供を虐待してしまう連鎖があるように。
由紀はどうせ言い繕うものだろうとばかり思っていたため、意外にも冷静な彼女の考えに驚いた。しかし、やはりどこかズレている感覚が否めない。何が問題なのか直感のみでしか捉えられない自分に歯がゆい気持ちになった。
時間稼ぎとばかりに由紀は思いついた言葉を述べながら思考する。何かがズレているが、それは一体なんなのか。
「でも結末がおかしいでしょ? 父親を排除した結果、家族は幸せになりました……なら分かるけど、父親を殺して、バラバラにして、妹達は人を殺しまくって刑務所で、弟は行方不明で、長男は心を病みましたって失敗以外の何ものでもないよ。しかもこの話しのおまけには悪い魔女は長男を囲い込み、幸せに暮らしましたとさって付くんじゃ、これはそう……あれっ」
皮膚のしたに長虫が這うような怖気を感じた。由紀は先ほどの彼女の言葉から気づいたのだ。その根本的な問題に。
由紀が気づいたのと同時に対面する理子の雰囲気ががらりと変わる。先ほどの怪しい目の輝きに近い。
「さ、さっきの健くんと妹が父親を殺すことが決まっていたみたいな言い方ってさ、おかしいよね? だって健くんたちは殺さなかったかもしれないのに、あなたの言い方ってさ、殺すことは決定事項だったみたいじゃない!? ああ、そうだ! そうなんだ! 長女の最後も、弟の行方不明も、父親の死も、次女と三女の結末も、どれも全部、最初から決まってたんだ! ス、ストーリーができてたんだ。あなたが最後に彼を勝ち取るっていう形に!」
「……偶然ですよ。そんな言葉尻だけを捉えて変な勘ぐりをしないでください」
その声は、その顔はとてもとても優しくて、ほっとするようなもので、由紀はただただぞっとした。どんな生き方をすれば、そんなことを考え、実行できるというのか。
「それに……彼らが死んだ所で、いなくなったところで、誰も何も困りませんよ。だってそうじゃありません? 息子に妻の陰を見出して欲情する父親も、どうなるか分かっていたはずなのに自分だけ逃げ出した姉も、実の兄を近親相姦によって繋ぎとめようとする妹達も、暴力が振るわれる度に兄に肩代わりさせる弟も、この社会に何も貢献しないでしょう? 彼に何も与えないでしょう? なら、なくても問題はない。それは誰かが正さなくていけませんよね? 誰かが」
一遍の曇りなく、自分の罪を罪と感じていない。あまりにも純粋なのだ。純粋過ぎる邪悪さ。
最初からそういう状況であったとして、父親が暴力を振るい、劣悪な状況を知りながら逃げ出した姉がいて、妹達はどこかおかしく、弟はお荷物で、健太は恥辱に耐えていたという状況があったとして、この中からいらないものとそうでないものを区別しろという問題は非常に容易い。容易いが、現実的にそれを行えるかどうかは全く別次元のものなのだ。それが正しい答えでも、実現した瞬間、何かが大きく変わっている。
由紀は意識が霞むような思いだった。とにかく子供じみていると感じた。子供じみた言い訳だ。
「あなたはさ、ある種、公的なのかもしれない。人類とか社会全体規模で損得を考えられるのかもしれない。それが一貫してたのなら、私もあなたを認められたわ。でもさ、あなたはやっぱり究極、どこまでいってもその最後にあるのは健くんへの異常で、異様な執着。そもそも彼がいなければ、きっとあなたという人間は誰も気にしないでしょ? 死のうが、生きようが、害悪を撒き散らそうが気にしない。彼がいるから、彼のために……ううん、違うね、彼と自分のために何が最適で、何を残すべきなのか考えたと私は思うのね。子供が生まれたから、今まで気にしなかった事柄に目を向ける親みたいにさ。でも、だからね、その答えは虚構だと私は思うわけ。真にそう思っているわけじゃないって。真にそう願っているわけじゃないって。やっぱり、その考えは言い訳に過ぎないと思うの。理屈を並べているけど、あなたの中で本当に一貫してるのは“邪魔だから排除した”というものと“健くんが欲しい”というとても利己的な意思なのよ。もっともらしく見えるけど、あなたはやっぱり異常だと思う」
由紀はゆっくりと瞬きをしながら、妙に大人びた口ぶりでそういった。
「だから、何だというんですか?」
「あなたは、これからも戸賀健太という人間を幸福にはできないし、し続けることはないといっているの。あなたは幸福であるかもしれないけど、彼は絶対的に幸福にはなれないし、絶望的に幸福にはなれない」
原因は明らかだった。理子は自分と健太の幸福しか祈らないのだ。自分たちだけで完結している。
諭すような由紀の言葉に理子は初めて嫌悪感を顕にした。怒ったような口ぶりで饒舌に彼女は語る。
「私はどんな時でも彼の幸福を第一に考えてきましたよ。今よりも良い日を迎えられるように。確かに私は彼のことが好きです。彼を愛しているし、愛されたいと思っている。それが選択を若干狂わせているかもしれません。ええ、認めましょう。でも、状況を悪化させたことは一度もありません。一度たりとも。いつも、常に、私は彼のことを第一に考えていますから」
「彼から愛されていないことは自覚的なんだね」
「…………あなた」
「それもそうよね、あなたは愛することをしているのではなくて、愛でることしかしていないからね。かごの中にいる鳥にいくら目を掛けたって、自分の犬を家族と読んだって、その本質は支配するものとされるもので、肩を並べるものじゃないから」
安い挑発だったが、理子は顔を真っ赤に染めて肩を震わせて怒った。
「あなた、あなた、あなた! あなたはっ」
怒り方が分からないのか、水の中でもがくように理子は手を踊らせる。
由紀はそれを見て、気分を良くしたように笑った。ただ、なぜ自分が勝ち誇ったような顔をしているのか彼女自身、よく分かっていなかった。
「悔しかったでしょ、私が健くんと仲良しで。彼の心を自分よりも癒す存在がいて」
「ぐっ、うぐっ、ぐはっ」
「よく彼は私の家に遊びに来てたけど、あなたの家には寄り付かなかったんじゃないの?」
「…………ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ」
「隣同士だったのに」
怒りと理性のせめぎあいに理子は顔を覆った。シュウシュウと指の間から、息を吐き出して、頭を垂れる。
とてもまともとは呼べない様子で震える理子に、少しだけ周囲の視線がまとわりつく。指の隙間から丸く見開いた目で、なんとか冷静さを取り戻そうとするも上手くいかない。その焦りが理子を苛立たせるのか、彼女の息遣いはどんどん荒くなる。
「ちょっと大丈夫?」
「私だって、ぐぐぐっ、好きだから、こんなに、ふーっ、ふーっ、頑張ってるのに! ああああ、あ! なんで、そんなに、酷いこと、あっ、あっ、あっ!」
指の隙間から、手の隙間から、涙のような、汗のような、ヨダレのようなものが溢れて、白いテーブルを汚した。
流石の由紀も動揺を隠せず、周りに助けを呼ぼうと席を立った。瞬間、理子の手が由紀の義手の手首を掴んだ。
「あぐ、あ、あ? ああ? あなたのこの腕と足。どうしたんですか? どうしてそんな車椅子に? 片方ということは後天性ですよね。事故でなくなったんですか? 何の事故ですか? ご両親は? いや、あなたにはご両親がいない。生存していないという意味でいない。何故ならば高級レストランに一人で、それも十代の少女がいくことをよしとする親は通常ありえないから。資産家ならば、それは余計にありえない。資産がありながらも、あなたは一人。つまりご両親は亡くなっている。きっとそれは、あなたが腕と足を失った場所。何か、事件か、事故でなくなった。そんな大規模な事件や事故とは何なんでしょう? どういった状況で起こりえるんでしょうか。いや、大規模なものなら、それなりに私も知っているはず。知らないということはありきたりであり、規模が小さかったということになる。つまり交通事故の範疇」
急に態度を変えた彼女の声は、言葉は、酷く酷く平坦だった。薄く微笑んだ顔もなく、目の奥の輝きもなく、機械のように、唇は淡々と由紀の心をえぐった。
ただただ、流れるような指の隙間から、くぐもった声を吐き出すのみ。
「あ、煽った私も悪かったけど、あなた、ちょっと冷静じゃないよ。一端、話しをやめて、落ち着こう?」
由紀の言葉を無視して、彼女は続けた。
「車があなたに向かってきたのか、あなたが車の中にいたのか。……あなたのその髪の毛とファンデーションで隠してる頬。焼けた後がありますね、それはつまり外ではなく、内側にいたということですよね。燃え盛る車の中にいて、逃げることができなくて、肉が焼けたということに。でも車が炎上するほどの大破というのは珍しいんじゃないでしょうか? それなりの速度がなければ、そこまでの大破はありえない。つまりあなたのその体の欠損は、ご両親の速度超過が大元の原因ですね? 法定速度を守らず走り、別の車か、あるいは壁と激突した。両親は即死。あなたは体の自由を失った。愛する両親の無責任さをあなたは認められない。でもその体は否が応なしに両親の不注意と、軽薄さを突きつける。証拠のように突きつける。だからあなたは失った体を見られることを恐れている。体を恥じている。まるでそれは両親の愚かさを喧伝しているようで、まるでそれは両親の顔に泥を塗り続けているようで」
強い目眩が由紀を襲った。体の芯がキンと凍ったように動かない。
「ちがっ……う」
「違わないですよね。違うというのなら、事故が起こった時間と時期と場所を教えてください。私がそれを証明してあげますから。私が調べますから。あなたのご両親の正否を。ね、教えてください」




