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20……原点怪奇1/2

 由紀の責め苦に理子は肩を震えさせて怯えた。怒りに身を任せてしまいそうな自分と、それを耐えようと押さえつける自分との戦いが息苦しくてたまらない。怒りを抑えようとしても、側で腕のない少女が、電動の車椅子に座った少女が無邪気に、子供のように笑って怒りの炉に薪をくべる。

 怒りは愚かだ。何も生まない。何も生まなかった。母のように、何ももたらさなかった。何かあるとすればちっぽけな自分だけ。そう理子は怒りを諭す。あんな愚かな人間になるわけにはいかないのだと、顔を手で覆い、歯ぎしりして耐える。

 人間は本来なら、自我を崩壊させる事実を前にした時、都合のいい逃避を見て、心の安定を計る。イソップ童話のキツネとブドウの物語りのように、自分のストレスを和らげるという術を本能的に行う。しかし、理子にはそれができなかった。あらゆることを試そうにも、心を癒す方法というものを熟知してしまっている。逃避しようにも、それが逃避であると気づいてしまう。結果、癒されない。何かにぶつけないかぎり、怒りが治まることがない。普段から感情を完璧に制御していた理子にとって、今この場にある怒りは致命的だった。

 母親のような怒りに、感情に身を任せてしまう愚かで意味のない人間になってしまう。それだけが理子の弱点であり、恐怖であり、耐えられないもの。

「ちょっと大丈夫? ねえ、聞いてる? ちょっと、これはもう……」

 歪んだ景色の向こうから声が聞こえた。少女の声だった。若くて、自分よりも魅力的で、本当に健太のことを考えられる人間の声。体が欠けているはずなのに、心が欠けているはずなのに、誰よりも美しく、他人を肯定できる人間の声。

「肯定……? 欠けている?」

 小さく、掠れたような虫の声で理子はつぶやく。

 彼女はなぜ、他人のあらゆることを肯定するのかという疑問。心が欠けていると感じた直感はなんだったのかという疑問。続けて彼女の本質を考える。彼女は肯定する。何であろうと肯定する。では、と理子は思う。彼女が肯定“しなかった”ことは、彼女にとってどういう意味をもつのか。

 車椅子のレバーを握ろうと動く由紀の手を、反射的に理子は捉えた。もう理子の目には涙はなかった。焦りもなかった。怒りすらもなかった。既に終えているのだ。勝利というものが。

「あぐ、あ、あ? ああ? あなたのこの腕と足。どうしたんですか? どうしてそんな――」

 自然と唇が動く。理子の言葉に由紀の顔が氷ついていく。先ほどの自分の恐怖の香りを少女から感じ、理子は確信した。あらゆるものを肯定する彼女が肯定できない事柄こそが、彼女を作り、彼女の本質であり、彼女が恐れるものなのだ。

 彼女は歩こうと思えばできたはずなのだ。レストランでそうしていたように誤魔化して生きることができたはずなのだ。それなのに普段から、彼女は電動の車椅子に腰掛け、これ見よがしな義手をつけて好奇な目線に自ら晒されている。それが理子には呪いなのだと分かった。背けようとすればするほど、己を死に近づける呪い。

 片手で顔を覆いながら、理子は由紀を観察する。より悲壮的に歪む顔を探して、言葉を吐き出す。

「車があなたに向かってきたのか、あなたが車の中――」

 続けながら彼女は思う。呪いから救われるための彼女の希望とは何か。絶望が目の前にあった時、人はどうやって自分の心を慰めるのか。生きる希望すらもなくなるような事実を前にして、人はどうやって生きようとするのか。都合を取るのか。考えるまでもなく、それは逃避。

「事実から逃れるために、あなたは逃避した。両親以外の何かに責任があると言い聞かせて、別の何かを呪った。見せかけの何かを。でなければ、あなたはダイスキな両親に四肢をもがれたという事実に耐えられないから。呪ったのは車の会社? 激突した壁の権利者? 近くの通行人? 来るのが遅かった救急隊員?」

 由紀は理子から逃れると両耳に手を当てて、悲痛な顔で聞きたくないと叫んだ。しかし、理子は止まらない。止まる意味を知らない。止まらなかった彼女になぜ、止める意味があるのかとすら思う。

「菅原由紀さん、私の目を見て、ほら、ゆっくり顔を上げてごらん。そう大丈夫ですから、あなたはただ怖かっただけなんですよね。両親が愚かだと思ってしまうことが、ダイスキが大嫌いに変わってしまうことが。自分が醜いと感じてしまうことが。解けない呪いが、元には戻らない手足が、延々そのままだということが怖くて怖くてたまらないだけ。そうですよね? あなたは死が恐ろしい。父と母のことを思い出してしまう死が。呪われたすべてがあったあの瞬間を思い出してしまう死が」

 いつものような口調だった。診察を行なっている時のように、分解した相手を再構成する時の口調だった。

「大丈夫ですよ、あなたはただ弱かっただけ。人一倍、感じ易かっただけです。自分を誤魔化して、誰かを呪ってしまったとしても、あなたはいくらでもやり直せる。だってあなたはこうして生きているじゃないですか。それはとてもステキなことなんですよ」

 泣きじゃくる由紀に、周りの病人たちが遠目で心配そうに様子を窺う。理子はニッコリと笑って、病人や見舞い客を安心させる。

 微笑んだまま、理子は由紀の側に立った。手を差し出しながら、背をさする。

「さ、ほら前に進みましょう。立って歩きましょう。……あ、ごめんなさい。足、なかったんでしたね。ああ、これじゃ立てないなあ。立てない。前にも進めない。足を引きずって歩くしかないなあ。一生、そうやって地を這って生きるしかない。死ぬまでずっとその苦しみは続くんですね。ああ、かわいそう。かわいそうな健太くん。そんなあなたに付き従って、彼は幸福になれるんでしょうか。……なれない、なれるわけがない。そう、あなたと一緒では“彼は絶対的に幸福にはなれないし、絶望的に幸福にはなれない”」

「あ、あ、あ、あああ!」

「あなたには死の呪いが掛かってる。人を不幸にする死の呪いが。あなたは健太くんを殺すつもりですか? 違う違う違いますよねそんなことするわけないですよね、だってだってあなたは優しいもの賢いものあなたに未来はないもの誰も幸福にはできないもの。だから、あなたは健太くんとは一緒にいられないし、いようとするわけがない。ね?」

 優しく、薄い紙を()むような微笑みで理子は由紀にとどめを刺した。


 それから理子は幸福な日々を送った。健太の容態は相変わらずだったが、薬物の投与で健太は幸せそうだった。ゆっくりと時を過ぎ去るように空をぼうっと見つめて、涎を流す。風呂にも入らず、たまに思い出したように泣き出し、姉に泣きつき、また眠りにつく。そんな彼の唇を拭っている時、服の着せ替えを手伝っている時、料理を口に運んでやる時、理子は得も言われぬ快感に満たされた。美しい人形を磨いているようなそんな幸福感だった。

 今や健太は理子なくしては生活が成り立たないほど、何もなかった。

「ただいまです、健太さん。今日のお薬持って来ましたから、ほら起きて」

「……」

 背を向けたまま起きない健太を揺するも、反応はない。濡れた枕を指でなぞり、また泣いていたのだろうと理子は思った。

 そんな健太の頭を抱きしめ、頬をすり寄せる。

「よしよし」

 あれから健太はずっと菅原由紀のことを引きずっていた。なんて酷いことを言ってしまったのだろうとボロボロと泣き出す。

 人に純粋に好かれるということが、過去を気にせず付き合ってくれる相手というのが久しぶり過ぎたのだろうと理子は分かっていた。分かっていたが、何もしなかった。仲を取り持つことなどする気もなく、会わせようとも思わなかった。それが健太に良い影響を与えることだと知っていながらも、そうしなかった。

 その理由は。

「あら」

 健太の部屋のチャイムが音を鳴らした。今の健太の精神で宅配を頼めるとは思わなかった。ならば、何が来たのか。何が来てしまったのか。

 その答えに気づきながらも、彼女は扉を開く。

「ラウンドツー」

 菅原由紀がそこにいた。

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