17……こんにちは。狂人の論理。
虫を潰すように、由紀は力を込めて顔をドアに押し付ける。これでもかというくらいに義手で首を締める。
しかし、彼女は動じなかった。一瞬、驚いたような顔をするだけで、あとは飽きたように目を細めた。
決して腕を緩めているわけではなかった。由紀には本当に殺意があったし、殺すという意思があった。それなのに彼女は落ち着いた動きでパンツスーツからケイタイを取り出し、ボタンを指で押す。まるで雨が降ってきた程度の態度。
「なんだ、お前っ」
息もできないのに、声も出せないのに、警察でも呼ぶつもりか。呼ばれたとしても由紀は手を休めるつもりなどなかった。逮捕されても構わない。そういう覚悟のもとでの行為なのだ。
それをどうするつもりなのかと由紀は理子の動きを追う。彼女はケイタイを持った手を振り上げた。投げつけ油断したところを逃げるつもりか。油断などするものかと由紀は身構える。
「……ふふ」
かすれた声で笑い、彼女はケイタイを新聞受けに入れた。健太の家の新聞受けに。それと同時に健太のケイタイの着信音が扉の向こうで大きな音を鳴らす。
由紀は顔を悲痛に歪めた。彼女は健太のケイタイに電話を掛けて、ポストに入れたのだ。健太が起きて、状況を知るのにそう時間はない。
「お前……お前っ!」
警察に知られることは問題なかった。しかし、健太に見られることは大きく意味が違った。何よりも由紀自身がそんなことには耐えられない。健太の辛そうな顔を見たらきっと、何もできなくなってしまう。
健太のために頑張っているのに、その健太に否定されたらどうすればいいのか分からなくなってしまう。だからこそ健太の見ていない時に決めてしまうつもりだったのだ。
そのことを読んだだけでなく、この状況でそれを利用しようとする豪胆さに由紀は何か恐ろしいものを感じた。今、このチャンスを逃してはならない。そう感じ、義手が壊れることも顧みず、締める力を強める。
「ちょ、き、ん」
微笑みを絶やすことなく理子は由紀の機械と肉の間をチョキにした手で挟んだ。焼けるような熱とともに、由紀の背筋を鳥肌が立つ。全身のちからが抜け、目眩がした。
「あ、れ」
ふと自分の視界が真っ白に染まっていることに彼女は気づく。手であたりを探って、由紀は自分が上を向いたまま、尻餅をついていることに気づいた。顔を下げたところで黒いパンプスが顎を跳ねた。
「人形は人間の美しさを極端に表したものだと思うんですよ。死なず、動かず、いつまでも変わらない。どんな姿であっても美しい。人間の朽ち果てる姿と、人形の朽ち果てる姿を比べてみれば一目瞭然なんですよ、その美しさというものは。人形ほど、人間は美しく壊れることはできないんです。彼はね、彼は、健太くんはその人形に近いんですよ。とても近い。きっと彼は腸をまき散らしても、首をもいでも美しい。そう、美しいんです。美しいものを愛でたいと思う気持ちは人間の本能じゃありませんか? その情動はしかたがないものなんですよ。逆らうことはできないんですよ、人間にはとてもとても」
理子は中腰になって、由紀の顔を覗きこむ。その瞳には何もなかった。怒りも悲しみも喜びもない。
何も感じていない心で自分の行為を正当化しようとしていることが由紀には分からない。健太に対する妄執は本能からくるものだから仕方がないと語る意味、それ自体が由紀には理解できない。確実に狂人の論理でしかなかった。
「私を殺すそうですけど、人間を縊死させるには五分ほどの時間が必要です。その前の段階に入るには恐らく九十秒ほど必要でしょう。彼が目を覚まして、この状況に気づくのにおよそ二分三十秒。もう手詰まりだと思いますけど、それでも続けるんですか?」
微笑んでいる顔に向けて由紀はもう一度手を伸ばす。彼女は抵抗もせず、されるがままだった。
理子は余裕ぶった表情で、また由紀の機械の部分と肉の間をチョキで挟む。
泣きそうな顔で、強張った左手で、由紀は彼女の手を振りほどこうとしたが、もう一つの理子の手が遮った。
「こちらもちょきん」
「あっ、あっ」
もう動けなかった。息すらも止めて、由紀は沈黙を仰ぐ。
由紀は頭では理解していた。チョキに挟まれるという行為が、自分の過去の記憶を呼び覚ましている。手足を失った時の記憶を。
強く力を入れられるだけで、万力で締め付けたかのように、両手の芯が痛む。失った足が痛む。体がすくむ。目眩がする。
「私ね、暴力は嫌いなんですよ。痛いじゃないですか、殴る方の手も。ね、だから話し合いで解決しましょう? あなたには私を殺す覚悟があるかもしれませんけど、私の方にはそんなものはありませんから。殺したって何の得にもならないじゃないですか。ですから、次の週末にでも話しをしましょう? 私たちのことではなくて、彼の今後のことを。場所は……そうですね、私の勤め先のカフェテラスで。時間は追ってお知らせします」
由紀を開放した彼女は自分の拳で自分を殴った。髪の毛を掴み、壁や扉に頭を叩きつける。自分の溝を殴りつけ、嘔吐して見せる。
まるで手が意思を持ったかのように、己に向けて暴力を振るう様を、由紀は唖然と眺めた。何が目的で、彼女は自分を殴打し、血反吐を吐いているのか。
「……狂ってる」
頭から血を流し、理子は音を立てて床に倒れた。何も感じさせない瞳のまま、彼女は笑う。音もなく笑う。
ふいに第三者の気配を感じて由紀は目を扉に向けた。小さく開いた扉の向こう側に健太の眠たげな顔があった。
「ああ、そういうこと」
健太の顔が驚愕に歪んだ。




