第9話 測定不能の本当の意味
「――やめろ!」
ユリウスが叫んだ。
「欠陥品が、こんな場所で暴発させてみろ! 後ろの者たちごと――」
「うん」
セラは、穏やかにうなずいた。
「あたし、欠陥品かもね」
その声には、もう、あの乾いた明るさはなかった。
「でも、今ここで撃てるのは、あたしだけだから」
彼女が、ちらりとこちらを見た。
僕は、うなずいた。言うことは、一つしかない。
「大丈夫。君ならできるよ」
セラは、少しだけ笑った。それから、まっすぐに大熊を見据えた。
白金の光が、彼女の両手へと集まっていく。
森で初めて撃ったときとは、違う。あのときは、込められるだけの力を全部、ただ前へ叩きつけた。森に一本の道ができるほどに。
今は、そうじゃない。
光が、細く、細く、絞られていく。
「……魔力を、一点に」
セラが、小さく唱えていた。
「流れは細く。形は槍。先端に重さを。……先生、いつも言ってたよね」
それは、さっき学生たちが唱えていた詠唱の、骨組みだった。
一年間、一度も使えなかった教え。それを、彼女は自分の手で、今初めて形にしようとしている。
大熊が、前足を振り下ろした。
狙いは、僕とユリウスだ。その後ろに、動けない五人がいる。
ここからは、逃げられない。
とっさにユリウスの前に身を投げ出そうとした、その瞬間だった。
「――引け、荷物持ち!」
ユリウスが、僕の肩を後ろへ引き倒した。
そして、ひびの入った銀の杖を、前へ突き出すのではなく――地面に、突き立てた。
詠唱はなかった。ただ、彼は牙を食いしばって叫んだ。
「――守れ!」
水色の光が、彼の体からあふれ出した。
さっきまで、ずっと苦しそうにきしんでいた光。それが今、解き放たれたように広がり、杖を中心に、穏やかな湖面のような半球を描いた。
僕とユリウスと、後ろの五人を、すっぽりと包む水鏡。
大熊の爪が、それに叩きつけられる。
水面に石を投げ込んだように、波紋が広がる。轟音。足元の地面がひび割れる。
――それでも、水鏡は割れなかった。
「……これが、僕の……?」
ユリウスが、呻くように呟いた。杖に入ったひびは、不思議とそれ以上広がらなかった。
大熊が苛立ちもあらわに、もう一度前足を振り上げる。
そのとき、大熊の巨大な頭が、ぶるりと横を向いた。
そこに、もっと気になるものがあったのだ。
魔物には、素質の光は見えない。それでも、本能でわかるのだろう。今この草地で、何が一番危険なのか。
セラの両手に、細く長い光があった。
槍だった。白金の、一本の槍。さっきユリウスが放った大槍よりずっと細く、ずっと静かな槍。
でも、その光の密度は、見ているだけで目が焼けそうだった。
大熊が咆哮し、セラへ向かって駆け出す。地響き。三十歩が、二十歩に。
セラは、動かなかった。
その光は、もう揺れていなかった。
十歩。
「――いっけえぇぇっ!!」
光が、走った。
音はなかった。ただ、一本の白い線が、大熊の胸の中央を貫き、背中から抜け、そのままはるか彼方の空へと消えていった。
大熊の足が、止まる。
その巨体が、ゆっくりと前のめりに傾いていく。
セラの、ほんの五歩手前で。
地面が、大きく一度だけ揺れた。
それきり、大熊は二度と動かなかった。
静寂が、草地を包んだ。
倒木の陰から、ひとり、またひとりと、学生たちが顔を出す。そして、それを見た。
倒れた森の主と。その前に立つ、赤い髪の少女を。
「……うそだろ」
「あれが……測定不能の、暴発の――」
「暴発じゃない。完全に制御してた……杖もなしで……」
ざわめきが、波のように広がっていく。
その中で、誰かが、いやよく通る声で言った。
「ユリウス様の大槍でも、傷ひとつつかなかったのに……」
一瞬で、空気が凍りついた。
言った本人が、慌てて口を押さえる。だが、言葉はもう戻らない。
ここにいる全員が、見ていた。「これが本物の魔法だ」と言い放った首席の炎が、大熊の毛を焦がしただけだったことを。そして、「欠陥品」と笑われていた少女が、それを一撃で貫いたことを。
ユリウスは、杖にすがったまま、何も言わなかった。
水鏡の結界が、音もなくほどけて消えていく。
セラが、ゆっくりと振り返った。
その視線が、ユリウスを捉える。彼は身を強張らせた。何を言われても受け止めるという顔だった。
だが、セラの口から出たのは、予想とはまるで違う言葉だった。
「……ユリウスさま。杖なしの魔法は、下品で危険だって、先生たちは教えてくれたよね」
「……」
「でもね、魔力を細く束ねるやり方も、先生たちが教えてくれたんだ。あたし、全部覚えてた。一度も使えなかったけど、全部」
セラは、自分の両手を広げて見せた。
「学院で教わったこと、無駄じゃなかったよ。……使う手が、違っただけ」
その笑顔は、乾いても、強がってもいなかった。
ユリウスの顔が、引きつった。
罵倒されるより、ずっと応えたのだろう。彼が「欠陥品」と切り捨てた少女は、彼らと同じ教えを、彼らの誰も届かない場所で形にしてみせたのだから。
「ルーク!」
セラが駆け寄ってきた。そこでようやく、自分が地面に座り込んでいたことに気づいた。こめかみの痛みが、まだ頭の中で金槌を打っている。
「みてた!? あたし、ちゃんと制御できた!」
「うん。見てた。……すごいよ、セラ」
セラは「えへへ」と笑って、それから急に顔をゆがめ、僕の肩に額を押しつけた。
細い肩が、小さく震えていた。でもそれは、もう怖いからじゃなかった。
しばらくして、影が差した。
見上げると、ユリウスが立っていた。ひびの入った杖を握り、その顔には、もういつもの冷たさが戻っていた。
「……荷物持ち。さっきのは、何だ」
「……見えるんです。その人の本当の才能が」
ユリウスは、笑わなかった。
ただ、長い間、僕の顔を見つめていた。その体から立ち上る水色の光は、さっきまでよりずっと澄んでいて、だからこそ、その揺らぎがよくわかった。
やがて彼は、セラへと視線を移した。
「……平民の分際で」
絞り出すような声だった。
「このことは、家に報告させてもらう。――グランツ家にも、王都にも。血を持たない者が、あんな魔法を扱えるはずがないのだからな」
それは、負け惜しみにも聞こえた。
でも僕には、その言葉の奥に、もっと冷たいものが潜んでいるような気がしてならなかった。
「あんな魔法を扱えるはずがない」――それはまるで、「あってはならない」と言っているように聞こえたからだ。




