第8話 杖の限界
咆哮が、腹の底を震わせた。
学生の何人かが、その場に尻もちをつく。杖を取り落とす音。誰かの悲鳴。
「――狼狽えるな!」
ユリウスの声が、それを切り裂いた。
「第一列、第二列、全員で詠唱! 炎槍を一点に集中させろ!」
さすがは首席だった。その一声で、学生たちが我に返る。震える手で杖を掲げ、詠唱を始める。
「セラ、まだ撃たないで」
僕は彼女の肩をつかんだ。大熊と僕たちの間に、学生たちがいる。今撃てば、彼らごと吹き飛ばしてしまう。
「……うん。わかってる」
セラは素手の両手を握りしめたまま、前を見据えていた。
「放て!」
二十本の炎の槍が、一つの流れとなって大熊の胸へ注がれた。
轟音。煙。焼けた毛の匂い。
――そして煙の向こうから、大熊は、何事もなかったかのように一歩踏み出した。
胸の毛が少し焦げている。それだけだった。
「嘘だろ……」
誰かの呟きが、絶望に変わるより早く、大熊の前足が薙ぎ払われた。
爪は届いていない。それでも、巻き起こされた風だけで、最前列の学生たちが木の葉のように吹き飛ばされた。
「第二撃だ! 詠唱を――」
ユリウスの号令に、学生たちがもう一度杖を掲げる。
だが、今度は揃わなかった。
ぴし、ぴし、と、乾いた音があちこちで鳴る。杖の先にひびが走り、せっかく形を作りかけた炎が、しぼむように消えていく。
「杖が……熱いっ!」「だめ、魔力が通らない!」
練習用の標準の杖は、続けざまに全力で撃つことを想定して作られていない。セラの杖が砕けたのと、同じだ。器の限界を超えれば、壊れる。
「うわああっ!」
一人が杖を投げ捨てて逃げ出した。それが合図だった。隊列が、一瞬で崩れた。
「結界を!」
教官が叫び、学生たちの前に薄い光の壁を張った。大熊の前足が、それを、まるで蒸気の膜でも破るように突き破った。教官の体が宙を舞い、大木に叩きつけられて動かなくなる。
「――グレン! 前へ!」
左の守りにいたアルベルトさんが叫んだ。
「正面で受け止めろ! その間に僕が――」
だめだ、と叫ぶ間もなかった。
グレンさんが大盾を構えて飛び出す。大熊の爪が、その盾に振り下ろされる。
金属の悲鳴。
盾は、真っ二つに割れていた。もともと入っていた古いひびに沿って。僕が毎週確かめて、「そろそろ替え時です」と言い続けていた、あのひびだ。
グレンさんの巨体が地面を転がる。
アルベルトさんは、剣を構えたまま、動かなかった。
その顔から、すっと血の気が引いていくのが見えた。
「……撤退だ」
かすれた声だった。
「『暁の翼』、撤退! これは勝てる相手じゃない! 学院の子たちは――彼らは自分で逃げられる!」
そう叫ぶと、アルベルトさんは蹵を返して森へ駆け出した。仲間たちがその後を追う。地面に倒れたグレンさんを、振り返りもせずに。
他の二つのパーティも、それに続いた。
一瞬、頭が真っ白になった。
でも、体は勝手に動いていた。五年間、こういうときにどう動くかだけは、嫌というほど学んできた。
荷物袋から煙玉を三つつかみ、大熊の鼻先、右側、そしてもう一つを頭上に投げる。白煙が草地を覆い、大熊が苛立ちの唸りを上げる。
「みんな、右の倒木の陰へ! 地面を這って、煙の下を通って!」
自分でも驚くほど、声が通った。
学生たちが、よろめきながらそちらへ動き始める。僕は足を挫いて立てない女子学生に肩を貸し、倒木の陰へ引きずっていった。それから取って返し、地面に倒れたままの大きな背中へと駆け寄る。
「グレンさん! 立てますか!」
「……ルーク……?」
グレンさんが、うつろな目でこちらを見た。額から血が流れているが、足は動く。
「倒木の陰に、動けない学生が三人います。一人担いで、森の外へ逃げてください。グレンさんならできます」
「お前……」
グレンさんは何か言いかけて、それを飲み込み、立ち上がった。
「……おう。任せろ」
煙が、薄れ始めていた。
その向こうで、僕は信じられないものを見た。
草地の真ん中に、ユリウスが、一人で立っていた。
その後ろには、足がすくんで動けない学生が五人。逃げ遅れたのだ。彼はその前に立ちはだかり、銀の杖を掲げていた。
「――炎よ、我が血に応え、槍となりて――」
さっきの、あの大槍の詠唱だ。
だが、杖の先に灯った炎は、さっきの半分にも満たなかった。それは形を成す前に揺らぎ、ちりじりと音を立てて、銀の杖に、細いひびが走った。
炎が、消えた。
ユリウスが膝をつく。その前に、煙を抜けた大熊の巨体が、影を落とした。
考えるより早く、僕は走っていた。
「――ユリウス!」
彼の前に滑り込み、その肩をつかんでこちらを向かせる。
「僕を見て!」
「な――」
冷たいはずの灰色の瞳が、恐怖で揺れていた。その目と、真正面から向き合う。
水色の光が、流れ込んできた。
――素質:水鏡の守り。
――開花の条件:攻めを捨て、誰かを守るためだけに杖を構えること。
こめかみに、釘を打ち込まれたような痛みが走る。一昨日の夜の痛みが、まだ残っている。それでも、僕は叫んだ。
「君の才能は、攻撃じゃない! 守りだ!」
「……何を、言って……」
「炎は君の光に合ってない! だから杖が悲鳴を上げるんだ!」
「黙れ……! グランツ家は、三百年、炎の魔術師を――」
「後ろの五人を守れるのは、今、君だけだ!」
ユリウスが、息を呑んだ。
その頭上で、大熊がゆっくりと前足を振り上げた。四本の爪が、天を切り裂くように光る。
そのとき。
背後で、草を踏む音がした。
逃げ惑う学生たちの流れに、ただ一人逆らって。
赤い髪の少女が、前へと歩いてくる。
学生たちはもう、射線の上にはいなかった。
セラが、素手の両手を、まっすぐに前へ突き出した。




