第36話聴く男(第4章 第4話)
「――導銀まで、なの?」
ギルドのカウンターの向こうで、ノーラさんが、帳簿をめくる手を止めた。
魔鉱石だけじゃなかった。トトさんの紙に書かれていた、もう一つの金属――魔力をよく通す「導銀」も、この町のどこにもなかった。問屋を一軒ずつ回って、答えは全部同じだった。三日前に、深緑の外套の男が、値の倍で。
「……帳簿を見る限り、たしかに、この三日で町中の魔鉱石と導銀が、一つの名義で動いてるわ。――グランツ伯爵家の、領都の商館」
ノーラさんは、声を落とした。
「……ただ。代金はちゃんと払われてるし、何の法にも触れてない。商人が、値の倍で買うと言われて断る理由はないもの。ギルドからは、何も言えないわ」
その緑の光の奥で、封じ込められた小さな光が、一瞬だけ、惔しそうに揺れた。
――法には触れない。ただ、買い占める。
トトさんが、この町で何も作れなくなるように。――ヴァルターの、あの冷たい鉄灰色の光が、頭に浮かんだ。
「……だったら、自分たちで掘ります」
口にしてから、自分でも少し驚いた。
でも――それしかなかった。買えないなら、採りに行く。荷物持ちを五年やっていれば、それが一番当たり前の答えだ。
ノーラさんは、少しだけ目を丸くして――それから、小さく笑った。
「……そう言うと思った。でも、魔鉱石と導銀が一緒に出る場所なんて、このあたりには――」
そこで、ノーラさんは、ふいに言葉を切った。
その視線が、ギルドの入り口の方へと向いていた。
「――一人、いるわね。この十日、坑道の中を、ずっと歩き回ってる人が」
北の旧坑道の入り口は、半月前とは、まるで様子が違っていた。
入り口の前に、丸太を組んだ小屋が二つ建っている。坑道の中からは、釘を打つ音と、男たちの太い声。鉱夫組合が、坑道を封鎖し直しているのだ。
その入り口で、土だらけの大きな体が、岩壁に片手を当てて立っていた。
乾いた土色の光。
でも、その光は、半月前に穴の底で見たときより、ずっと、ずっと濃くなっていた。岩に触れている手のひらのあたりで、その光が、地下水が岩に染みるように、じわりと壁の中へ広がっている。
「……ダリオさん」
声をかけると、大きな肩が、びくりと跳ねた。
「……なんだ、お前らか。――岩と話してるとこを見られるのは、ちょっと居心地が悪いな」
ダリオさんは、ぶっきらぼうに言って、岩壁から手を離した。
それから、僕たちの後ろに立つ、背の高い煤だらけの人影に気づいて、眉を上げた。
「……ゴドウィンのとこの、破門された娘だろ。噂は聞いてる」
「……文句あんのかよ」
「ない。――俺も、臆病者のせいにして人前で頭を下げた男だ。人の噂をとやかく言える立場じゃねえよ」
トトさんは、一瞬きょとんとして――それから、「……ふん」とだけ言って、そっぽを向いた。
その燃えるような光は、少しだけ、気まずそうに縮んでいた。
訳を話すと、ダリオさんは、しばらく黙っていた。
それから、坑道の入り口の、少し北側の岩壁を、顔で示した。
「……あそこに、支坑がある。四十年前の鉱夫が、本坑より先に掘りかけて、途中でやめた穴だ。本坑とは繋がってねえから、封鎖の範囲の外だ」
その土色の光が、少しだけ、眉をひそめるように揺れた。
「この十日、封鎖の下見で、あちこちの壁を触って回ってた。――そしたら、あの支坑の一番奥の壁が、妙によく鳴くんだ。重いもんと、軽いもんが、一緒に詰まってる音だ。――魔鉱石の層と、その下に、たぶん、導銀の脈がある」
「……たぶん?」
トトさんが、じろりとダリオさんを見上げた。
「……岩がそう言ってる。それだけだ」
ダリオさんは、何でもないことのように言った。
でも、それを言うとき、その土色の光は、少しも揺らがなかった。穴の底で「足が震えて止まらない」と弱音を吐いた男の光とは、まるで違う。
――恐れて遠ざけてきた場所に、自分から戻ること。
この人は、戻ったのだ。自分の足で。だから今、岩の声が、こんなにはっきり聞こえている。
「……案内してやるよ。組合には、俺から話を通しておく」
そう言ってから、ダリオさんは、少しだけ声を低くした。
「――ただし。坑道の下のあいつが、十日前から少しずつ、寝返りを打つようになってる。そのせいか、坑道の周りの山にも、魔物が増えてんだ。――ギルドが、Bの駆除依頼を出したくらいにな」
「Bの依頼を、どこが?」
ダリオさんは、一瞬だけ、何とも言えない顔をした。
「……『暁の翼』だよ」
出発は、二日後の朝と決まった。
その前の日の夕方。
トトさんの小屋の前で、支坑で使う道具を揃えているときだった。
「――よっと」
トトさんが、小屋の奥から、何かを担ぎ出してきた。
大槌だった。
柄の長さが、フィオの背丈ほどもある。その先についた鉄の塊は、大人の頭よりも大きかった。本来は、二人がかりで振り下ろして、大きな地金を叩き割るためのものだ。
それを、トトさんは、片方の肩にひょいと担いでいた。
「……――えっ」
セラとフィオの声が、きれいにそろった。
「……何だよ。岩を割るんだろ。これが一番早い」
そう言うと、トトさんは、小屋の前に転がっていた、一抱えもある岩の塊に向かって、大槌を、ぶん、と振り下ろした。
ごっ、と、重い音。
岩が、きれいに、真っ二つに割れていた。
トトさんは、息ひとつ乱していなかった。
「……炉の前で、毎日、金槌を何千回も振ってるんだ。このくらいは当たり前だ」
その燃えるような光は、大槌を振り下ろしたその瞬間、少しも軸がずれていなかった。フィオが大剣を振ったときとは、まるで違う。重いものを、重いまま、まっすぐに下ろすためにできた体だ。
――前に立てる人だ。
審査のとき、「灯火」にいなかったもの。魔物の前に立ち、動かずに、後ろの誰かが撃つまでの時間を稼げる人。
そう思ったけれど、口にはしなかった。それを決めるのは、僕じゃない。
その夜。
寝る前に、宿の裏口で、小さな声に呼び止められた。
「……ルークさん。ちょっとだけ、いいですか」
フィオだった。その手には、何度も折りたたんだらしい、しわだらけの紙が一枚。
「……マルタさんへの、手紙です。明日の朝、北へ行く行商の人に、村まで届けてもらえることになって。……それで、えっと……字が、変じゃないか、見てほしくて」
「……僕でいいの?」
「……はい。セラさんに見せたら、ぜったい全部声に出して読みますので」
……それは、たぶん、そのとおりだ。
裏口の灯りの下で、紙を広げる。
丁寧な、小さな字だった。一文字ずつ、確かめるように書かれている。
ベルナという町にいること。「灯火」というパーティに入ったこと。毎朝、城壁を一周走っていること。「危ない」と、ちゃんと言えるようになったこと。大剣を、腕のいい鍛冶屋さんに手入れしてもらったこと。
字は、どこも変じゃなかった。
そして――最後の段落。
『仲間が、できました。たくさん。それから――』
そこで、一度、字が途切れていた。ペンを置いて、しばらく迷ったような、小さなインクの滲み。
『――一人、すごく大事な人がいます。』
――。
その一行を読んだ瞬間。
すぐ横で、琥珀色の光が、びくん、と跳ね上がった。
「――っ!? あ、あっ、ち、ちがっ――そこは、そこは読まなくていいところですっ!!」
ひったくるように、紙を取り返された。
そして――琥珀色の光が、あの逃げ足で、一瞬にして通りの向こうへ、吹き飛んでいった。
……逃げた。
裏口の灯りの下で、一人、立ち尽くす。
顔が、熱かった。たぶん、さっきのフィオと、同じくらい。
十数えるくらいの間があって。
通りの、さっきとは反対側の角から、琥珀色の光が、そろりと顔を出した。いつもより、ずっと息を切らしている。たぶん、宿の周りを、一周じゃなく二周してきた。
「……――逃げてません。走っただけです」
そう言って、フィオは、紙を胸に押しつけたまま、ゆっくりと、裏口の灯りの下まで戻ってきた。
そして、うつむいたまま、小さな声で言った。
「……消しませんから」
「……え?」
「……あの一行。消さないで、そのまま、マルタさんに送りますから。……本当のことなので」
それだけ言うと、フィオは、今度こそ本当に、宿の中へ駆け込んでいった。
廊下の奥で、扉がばたんと閉まる音。続いて、「……フィオちゃん? どうしたの、顔まっか――」というセラの声。そして、「な、なんでもないですっ!」という、裏返った声。
……その夜は、なかなか眠れなかった。
それはたぶん、明日の坑道のせいだけじゃなかった。
二日後の昼前。
旧坑道の入り口に着くと、そこには、もう一つの一団がいた。
銀の記章。「暁の翼」だ。
アルベルトさんが、山の地図を広げて、仲間たちに何かを説明している。その胸元の金色の光は、工房街ですれ違ったときよりも、また少し、くすんでいた。
そして――その一団の中に、あの鉄灰色の光は、なかった。
「――やあ、ルーク。奇遇だね」
アルベルトさんが、いつもの穏やかな笑顔で、手を上げた。
「……ヴァルターさんは?」
「ああ。彼は、伯爵家の用事で、領都へ戻っているんだ。――大丈夫だよ。この程度の駆除なら、僕たちだけで十分だ」
その声は、穏やかだった。
でも、地図を持つその指が、少しだけ、強すぎるほどに紙を握っていた。
「――よし。みんな、聞いてくれ」
アルベルトさんが、仲間たちに向き直る。
「魔物が集まっているのは、坑道の北の斜面だ。――北の支坑のあたりから、一気に登って叩く。日が高いうちに片づけてしまおう」
――北の支坑。
僕たちが、これから入ろうとしている穴だった。
そのとき。
すぐ隣で、琥珀色の光が、びりっと、弓のように引き絞られた。
北の斜面へ。
いや――その、もう少し下。支坑の入り口の、その奥へ。
「……ルークさん」
フィオの声が、震えていた。
「……支坑の中です。斜面じゃない。――たくさんいます。穴の中で、じっとしてる。……誰かが入ってくるのを、待ってるみたいに」
振り返る。
アルベルトさんは、もう、仲間たちを引き連れて、歩き出していた。
北の支坑の、その入り口の方へと。まっすぐに。




