第37話 いない男の名前(第4章 第5話)
「――アルベルトさん!」
声が、山の斜面に響いた。
支坑の入り口まで、あと二十歩。「暁の翼」の五人が、足を止めて振り返った。
「……魔物は、斜面じゃないです。その支坑の中にいます。たくさん。――入ってくるのを、待ってる」
アルベルトさんは、一瞬だけ、何かを考えるような顔をした。
それから、いつもの、あの穏やかな笑顔になった。
「……心配してくれるのは、嬉しいよ。でもね、ルーク。鉱夫組合の報告でも、ギルドの地図でも、魔物の痕跡が一番多いのは、北の斜面だ。この十日の記録が、全部そう言ってる」
その手の地図が、かさりと鳴った。
「記録は、嘘をつかない。――それに、支坑の中は狭い。もし中にいたとしても、入り口で迎え撃てば、一匹ずつ相手にできるよ」
それは、理屈としては、間違っていなかった。
でも――フィオの琥珀色の光は、支坑の奥へと、痛いほどに引き絞られたままだった。
「……ちがいます。あの子たちは、一匹ずつなんかじゃありません。――入り口のすぐ奥で、一緒に、息を止めてる」
アルベルトさんの笑顔が、わずかに、硬くなった。
その視線が、フィオに向けられた。いや――フィオの、もう少し後ろ。僕たちの周りで作業の手を止めて、こちらを見ている鉱夫組合の男たちへ。
それから、自分の胸元の、銀の記章へ。
「……『先触れ』の話は、聞いてる。旧坑道でのことも。――でも、これはBの依頼なんだ。僕たちが受けた、僕たちの仕事だよ」
穏やかな声だった。でも、その一言には、何かが、少しだけ混じっていた。
ここで、Eランクの荷物持ちと、Eランクの臆病な娘の言うことを聞いて、Bランクのパーティが引き返す。それを、人前で。
たぶん――それだけは、できないのだ。
「――行こう。リサ、入り口の右を。他は、僕に続いて」
アルベルトさんは、背を向けた。
リサさんが、一瞬だけ、こちらを振り返った。その目が、迷っていた。でも、弓を握り直して、その後に続いた。
「……ルークさん」
フィオの光が、小刻みに震えていた。
「……うん。後を追おう。――トトさん」
振り返ると、トトさんは、もう大槌を肩から下ろしていた。
「……言われなくてもわかってる。――前だろ」
支坑の入り口は、大人が二人、並んでやっと通れるくらいの幅だった。
アルベルトさんが、その前で剣を抜いた。「暁の翼」の盾役――グレンさんの代わりに新しく入った、我の強そうな若い男――が、その隣に立つ。リサさんが、入り口の右の岩の上で、弓を引いた。
「――照明を。奥を照らせ」
魔術師が、小さな光の玉を、支坑の闇の中へと放り込んだ。
その光が、奥を照らした瞬間だった。
闇の中で、何十もの目が、一斉に光った。
「――来ます! 全部、一緒に!」
フィオの叫び声と、ほとんど同時だった。
支坑の奥から、灰色の波が、どっとあふれ出してきた。
狼だった。普通の狼よりも一回り小さく、体の毛が岩と同じ色をしている。坑道や洞窟に棲むという「岩狼」――それが、二十、三十。狭い入り口を、一匹ずつじゃなく、互いの背中を踏み越えて、一度に。
「――盾を! 入り口で止めろ!」
アルベルトさんの号令。
盾役が、入り口の前で盾を構える。先頭の何匹かが、その盾にぶつかって、弾き飛ばされた。
だが――その後ろの狼たちは、盾の左右を、岩壁を蛇のように駆け上がって、そのまま斜面へとあふれ出した。
入り口で一匹ずつ。――その前提が、一瞬で崩れた。
「――散れ! いや、下がれ! いや――」
アルベルトさんの号令が、二つ、三つと、重なっていく。
仲間たちの動きが、バラバラになった。散らばろうとする者と、下がろうとする者が、狭い斜面でぶつかる。
そして――入り口の右の岩の上。
リサさんが、一人だけ、取り残されていた。
岩の下を、狼の群れが、ぐるりと囲むように回り込んでいく。
「――アルベルト! どうすればいいの!?」
リサさんの声。
アルベルトさんは――答えなかった。
剣を構えたまま、動かなかった。
その金色の光が、周りを、ぜわしなく見回していた。右を。左を。そして――自分の、一歩後ろを。
そこには、誰もいなかった。
「……ヴァルター?」
小さな声だった。
でも、その声は、狼の唸りと、人の叫び声の、ほんの隙間に落ちて、不思議なほど、はっきりと響いた。
――その瞬間。
「――トトさん! リサさんの岩の下へ!」
叫んでいた。
考えるより早く。いや――考えないようにした。全部の光を一度に見るのは、もうやめたのだ。見るのは、二つだけ。フィオの光の向きと、トトさんの光の強さだけ。
「――おう!」
燃えるような光が、斜面を駆け下りた。
リサさんの岩の下に、狼の群れが飛びかかっていく。その真正面に、トトさんは、大槌を構えて、まっすぐに立ちはだかった。
先頭の一匹が、その喉元へと飛びかかる。
トトさんは――引かなかった。
大槌の柄を、横にして、その牙を、そのまま受け止めた。がちん、と、硬い音。狼の牙が、鉄で補強された柄に食い込んで、止まる。
そのまま――トトさんは、柄ごと狼を押し返して、一歩も下がらずに、大槌を振り切った。
ごっ、と、岩を割ったときと同じ、重い音。
一匹が、斜面を転がっていった。
残りの狼たちが、一瞬だけ、足を止めた。
その一瞬で、十分だった。
「――右から三匹! 左は、岩の影に四匹! まだ来ません!」
フィオの声。岩の上から、斜面全体に通る、まっすぐな声。
「――トトさん、右!」
「わかってる!」
大槌が、右へと弧を描く。三匹のうちの二匹が、その一撃で弾き飛ばされる。残りの一匹が、トトさんの足元へ――
「――えいっ!」
フィオが、岩から飛び降りていた。
その手の大剣が、狼の肩口を、叩きつけるように打ち据えた。振るというより、落とすような一撃。それでも、狼は、よろけて斜面を転がっていった。
トトさんが前。フィオがその斜め後ろ。そして、岩の上で弓を引くリサさん。
いつの間にか、岩の下に、一つの「形」ができていた。
「……リサさん! トトさんの左を、上から!」
リサさんが、一瞬だけ、こちらを見た。
驚いた顔だった。それから――何かを思い出したような、そういう顔だった。
五年間。この声を、彼女は何度も聞いていたはずだ。野営地で。街道で。「矢羽根、少し重いです」と。
「――了解!」
矢が、空を切った。トトさんの左から飛びかかろうとしていた一匹の足元に、岩に縫いつけるように突き刺さる。弓屋で揃えたという矢は、まっすぐに飛んでいた。
その後ろで。
「――こっち! こっちだよ! この岩の後ろなら大丈夫!」
セラが、斜面で倒れていた「暁の翼」の魔術師の腕を、自分の肩に掛けていた。まだ魔法は撃てない。それでも、自分より背の高い男を、引きずるようにして、大岩の陰へと運んでいく。
「足、挟まってない? ――よし、大丈夫! じっとしててよ!」
その白金の光は、一発も撃っていないのに、斜面の上で、一番まぶしかった。
――小さな風が、吹いた。
こめかみの奥で、砂が一粒、小さく音を立てた。だが、それだけだった。見ているのは、二つだけなのだから。
狼の群れは、半分ほどが斜面に転がったところで、一斉に、山の上へと散っていった。
「……逃げました。もう、戻ってきません。……たぶん、もともと、何かから逃げて、あの穴に隠れてたんだと思います」
フィオの光が、ゆっくりと、元の大きさに戻っていく。
斜面に、静けさが戻った。
トトさんが、大槌を、どん、と地面に突いた。
その柄には、狼の牙の跡が、いくつも刻まれていた。でも、その燃えるような光は、一度も後ろへ下がらなかった。
「……トトさん、怪我は?」
「ねえよ。――前に立つのは、慣れてる。炉の前と同じだ」
そう言って、トトさんは、煤と土で汚れた顔を、袖で乱暴に拭った。
「……炭を入れて、火を燃やして、鉄を乗せる。炉の火は、一瞬でも目を離したら、鉄をだめにする。――一歩も下がらずに、熱いもんの前に立ち続けるのは、あたしの仕事だよ」
――そうか。
この人は、ずっと、前に立ち続けてきたのだ。魔物ではなく、炉の前で。
ふと、斜面の上の方を見上げた。
「暁の翼」の仲間たちが、岩の陰から、一人ずつ出てきているところだった。盾役は、腕を押さえている。魔術師は、セラに支えられて、ようやく立ち上がろうとしている。大きな怪我をした者は、いないようだった。
そして――その少し下。
アルベルトさんが、まだ、剣を構えたまま立っていた。
狼は、もう一匹もいないのに。
その金色の光は――そう、もう、金色というより、古びた真鍮のような色に近かった。それが、小さく、細かく、震えている。
「……アルベルトさん」
声をかけると、その肩が、びくりと跳ねた。
それから、ゆっくりと、剣を下ろした。
振り返ったその顔は――笑っていた。
いつもの、あの穏やかな笑顔で。
「……ああ。助かったよ、ルーク。君たちが後ろにいてくれて、本当によかった」
その声は、穏やかだった。
でも、その笑顔は、どこかで、絵の中の顔のように、動かなかった。
「……予想より、数が多かったんだ。記録には、あんな数は――」
そこで、言葉が途切れた。
その視線が、僕の肩越しに、旧坑道の入り口の方へと向けられていた。
振り返る。
鉱夫組合の男たちが、作業の手を止めて、ずっと、こちらを見ていた。
その中の一人が、隣の男に、何かを囁いていた。
言葉は、聞き取れなかった。でも――その後で、囁かれた男の口が、確かに、こう動いたのが見えた。
――ヴァルター。
そして――ゆっくりと、首を振る。
「Bランクってのは、――」
その先は、風にさらわれて、聞こえなかった。
アルベルトさんにも、聞こえたのかどうかは、わからない。
ただ――その古びた真鍮のような光が、ほんの少しだけ、またくすんだのが見えた。
「……リサ、みんな。怪我人を町へ運ぼう。今日は、引き上げだ」
アルベルトさんは、仲間たちに、穏やかにそう告げた。
それから、僕の方を、もう一度だけ見た。
何かを言おうとしたように、唇が少しだけ動いた。
でも、結局、何も言わなかった。ただ、いつもの笑顔のまま、小さく会釈をして、背を向けた。
「暁の翼」は、怪我人を支えながら、山道を下っていった。
その一番後ろで、リサさんが、一度だけ、こちらを振り返った。そして、何も言わずに、弓を胸の前で少しだけ掲げてみせた。
ありがとう、とも。ごめんね、とも、とれる仕草だった。
「……ルーク」
セラが、僕の隣に並んだ。
その光は、少しだけ、複雑そうに揺れていた。
「……ちょっとだけ、『せーせーした』って思っちゃった。……でも、なんか、あんまり嬉しくないんだよね」
「……うん」
それは、僕も同じだった。
あの人の、金色だった光を、五年間見てきた。それが、少しずつくすんでいくのを見るのは、たぶん、どんな仕返しよりも、重かった。
「……おい。いつまで突っ立ってんだ」
背中から、低い声がした。
ダリオさんだった。いつの間にか、支坑の入り口に立って、その岩壁に、片手を当てている。
「――穴の中は、もう空っぽだ。狼は、一匹も残ってねえ。――行くぞ。日が暮れる前に、奥の壁まで」
支坑の中は、狭く、乾いていた。
四十年前の鉱夫が打ち込んだ、腐りかけた坑木。岩狼の獣の臭い。その奥へ、照明を掛げて、一列になって進む。
先頭はダリオさん。その後ろにフィオ。大槌を担いだトトさん。セラ。そして、一番後ろに、僕。
一刻ほど歩いただろうか。
坑道が、小さな部屋ほどの広さに広がったところで、行き止まっていた。その奥の壁は、他の壁とは色が違った。黒い岩の中に、うっすらと青みがかった筋が、何本も走っている。
「……これか」
トトさんが、息を呑んだ。
その燃えるような光が、小さな子どもが宝物を見つけたときのように、ぶわっと輝いた。
だが――その壁に、片手を当てたダリオさんは、動かなかった。
その土色の光が、壁の中へと、じわりと広がっていく。魔鉱石の層を越えて。導銀の脈を越えて。さらに、その奥へ。
そして――ぴたりと、止まった。
「……おい」
ダリオさんの声が、低く、かすれていた。
「……この壁の向こう。――空っぽだ」
「……空っぽ?」
「ああ。岩の層の、ずっと奥に、でっかい空洞がある。――それで」
そこで、ダリオさんは、一度、息を止めた。
そのすぐ後ろで、フィオの琥珀色の光が、壁の向こうへと、ゆっくりと引き絞られていく。
「……その空洞の中で――何かが、息をしてる」




