第35話 焼けた手と(第4章 第3話)
夜の工房街は、昼間とはまるで違う街だった。
炉の火が落とされた工房は、どれも黒い塊の影のように黙り込んでいる。昼間はあれほどうるさかった金槌の音も、今はどこからも聞こえない。ただ、冷え切った灰の匂いだけが、通りの底に溜まっていた。
その通りを、白金の光が、少し先を歩いている。
追いかけるつもりは、なかった。
でも、夜の工房街を、一人で。それに――癒し手の寝台の上の、あの夜。「もう隠さない」と約束したのは、僕の方だった。だったら、心配していることも、隠さなくていいはずだ。
だから、追いかけた。足音も、消さずに。
路地の入り口で、白金の光が、ふいに立ち止まった。
そして、くるりと、こちらを振り向いた。
「……やっぱり、ルークだ。足音でわかったよ」
セラは、両手で小さな包みを抱えていた。宿の主人が夕飯に焼いた、羊肉のパイの残りだ。
「……ごめん。一人で夜に出ていくのが見えたから。……それで、心配で」
「うん。いいよ」
セラは、少しだけ笑った。
「……トトさんのとこ。たぶん、今日も何も食べてないと思って。……それと、話したいことがあって」
路地の奥の小屋からは、炉の火の光は漏れていなかった。
でも、その内側に、あの燃えるような光は、確かにあった。昼間と同じ、壁際で、膝を抱えるように小さくなったまま。
セラが、扉を叩いた。
返事はなかった。
もう一度。それでも、返事はない。
「……トトさん。セラだよ。――パイ、持ってきたの。今日は、食べるだけでもいいから」
長い間があった。
それから――扉の向こうで、燃えるような光が、ゆっくりと立ち上がった。
ぎい、と、扉が開く。
煤だらけの顔が、うんざりしたように、小さな包みを見下ろした。それから、その赤い瞳が、セラの肩越しに、路地の入り口に立っている僕をとらえた。
「……そこの。突っ立ってんなら、入れ」
……見つかっていた。
小屋の中は、暗かった。
炉の火は灰に埋もれ、小さな燭台が一つだけ、作業台の端で揺れている。その光の中に、昼間の焦げた木の手が、そのままに置かれていた。
トトさんは、金床の端に腰を下ろして、セラが差し出したパイを、無言でかじった。
一口。二口。――そして、あっという間に、全部なくなった。
「……うまい」
「でしょ? 宿のおじさんのパイ、この町で一番おいしいんだよ」
セラは、作業台の前の小さな木箱に、ちょこんと腰を下ろした。僕は、扉のすぐ内側の壁にもたれる。二人の話の邪魔にならない距離で。
しばらく、誰も何も言わなかった。
燭台の火が、ゆらゆらと揺れている。
やがて――セラが、自分の両手を、そっと、その火の光にかざした。
まだ少し薄い、新しい皮膚の手のひら。
「……トトさん。あたしね、この手、崖で焼いたんだ。ルークが『もうやめて』って言ったのに、やだって言って、無理やり撃ったの」
トトさんの光が、わずかに、こちらへ傾いた。
「……だから、今日、あの木の手が焼けたとき。ちょっとだけ、怖かった。――でも、あたしより、トトさんの方が、ずっと怖かったんじゃないかなって、思ったの」
トトさんは、何も言わなかった。
ただ、その燃えるような光の、一番奥の焦げた芯が、少しだけ、ゆらりと揺れた。
それから――彼女は、金床の上に、自分の両手を、ゆっくりと広げた。
火傷の痕だらけの、手の甲。
「……三年前の続きだ」
その声は、昼間と同じように、平らだった。でも、どこかで、引っかかっていた。
「喰い鉄が吐いたとき。――あたしは、両手でこいつを抱えてた。そのまま、手も、前掛けも、燃えた。工房の奥の魔石置き場にも、火が移った」
燭台の火が、小さくはぜた。
「……じじいが、飛び込んできた。夜中なのに、どうやって気づいたのか知らねえ。――あたしの襟首をつかんで、炎の中から引きずり出して、あたしの両手を、焼き入れの水桶に、一気に突っ込んだ」
そこで、一度、言葉が途切れた。
「……それから、じじいは、一人で火を消した。右の腕を、肘まで焼きながらな」
……親方が。
工房の奥で、腕を組んでこちらを見ていた、あの岩のような老人。その右腕がどうだったかは、思い出せなかった。長い袖の下に隠れていたからだ。
「……次の日の朝だ。包帯を巻いたままのあたしに、じじいは、一言だけ言った」
トトさんは、金床の上の自分の手を、じっと見下ろした。
「『――二度と、うちの炉に立つな』」
小屋の中が、しんと静まった。
「……それで終わりだ。弟子の連中は、『危ない実験で工房を燃やしかけた、失敗作ばっか作る馬鹿』って笑った。じじいも、それを止めなかった。――それで、ここを借りて、一人で炉を組んだ」
その赤い瞳が、燭台の火を映して、空っぽに光っていた。
「……あたしは、あのじじいに、見せつけてやりたかったんだ。あたしの喰い鉄は、失敗作じゃねえって。あたしを追い出したのは、間違いだったって。――三年間、ずっと、それだけ考えて打ってた」
その声が、わずかに、ゆれた。
「……でも、一個も、ちゃんとしたもんにはならなかった。――そして今日、あんたの手を、もう少しで、あたしと同じにするとこだった」
それだけ言うと、トトさんは、金床の上の手を、ぞっと握りしめた。
焼けた皮膚が、引きつって、白くなるほどに。
しばらく、誰も動かなかった。
それから――セラが、小さな木箱から、そっと立ち上がった。
そして、金床の向かい側に立ち、自分の、まだ薄い皮膚の両手を、トトさんの握りしめた手の上に、そっと重ねた。
トトさんの肩が、びくりと跳ねた。
「……あたしね。学院で『暴発の失敗作』って呼ばれてたんだよ」
セラは、笑っていた。でも、その笑顔は、乾いてはいなかった。
「村のみんながお金を出して、王都に送り出してくれたのに。一年間、一度もまともに撃てなくて。――あのころのあたしは、ずっと、誰かに認めてほしくて撃ってたの。先生に。同級生に。村のみんなに。『すごい子なんだよ』って、見せたくて」
そこで、セラは、少しだけ言葉を切った。
「……それで、ずっと暴発してた」
トトさんの光が、ぴたりと、動きを止めた。
「……でもね。ルークに会って、『杖を捨てて、手から撃ってみて』って言われて。――それから、大熊のときは、ルークが倒れそうだったから。旧坑道のときは、下にルークとフィオちゃんがいたから。崖のときは、向こうに息が止まりそうな人がいたから。……そういうときばっかり、ちゃんと当たったの」
セラは、トトさんの手の上に重ねた自分の手に、少しだけ、力をこめた。
「……誰かに認めてほしくて撃ったときは、一個も当たらなかった。誰かを助けたくて撃ったときは、全部当たった。――それだけなんだけどさ」
そして、まっすぐに、トトさんの赤い瞳を見た。
「……トトさんは、誰のために、打ってるの?」
――その瞬間。
トトさんの燃えるような光が、大きく、ゆらりと揺らいだ。
ふいごを踏んだような、あの揺らぎ方じゃない。もっと深いところで。光の形そのものが、一瞬だけ、違う形を取りかけて、また戻ったような。
僕は、壁にもたれたまま、息を呑んだ。
――今のは。
見ようとしたわけじゃない。目も合わせていないし、触れてもいない。ただ、勝手に見える光が、そう揺れただけだ。
でも、その揺らぎ方には、覚えがあった。
セラが、杖を捨てて、はじめて素手で撃ったとき。フィオが、空洞の主の前で、はじめて「動かないで」と叫んだとき。
――花開く前の、光の揺れ方だ。
トトさんは、答えなかった。
答えられなかったのだと、わかった。その赤い瞳が、大きく見開かれたまま、セラの手を、じっと見下ろしていた。
やがて――その口から、ひどく小さな声が、こぼれた。
「……わかんねえよ。そんなこと。――あたしはただ、この手で、もう一回、ちゃんとしたもんが作りたいだけだ」
「……じゃあさ」
セラは、重ねた手を、そっと裏返した。
トトさんの、火傷の痕だらけの手を。ひっくり返して、手のひらを上にして。そこに、自分の、まだ薄い手のひらを、ぽん、と重ねた。
手のひらと、手のひら。
焼けた手と、焼けた手。
「――あたしの手のために、作ってよ。あたし、トトさんの手、信じてるから」
燭台の火が、大きく揺れた。
いや――揺れたのは、燭台の火じゃなかった。
トトさんの燃えるような光が、ふいごを力いっぱい踏み込まれた炉のように、ぶわっと、小屋いっぱいに広がったのだ。その一番奥の、焦げた芯ごと、飲み込んでしまいそうなほどに。
――そして、また、ゆっくりと、元の大きさに戻っていった。
まだだ。
まだ、花開いてはいない。でも――その光は、もう、壁際で膝を抱えてはいなかった。
「……――っ、ばっかじゃねえの」
トトさんは、重ねられた手を、乱暴に振りほどいた。
そして、そっぽを向いて、煤だらけの袖で、乱暴に、何度も、自分の顔をごしごしとこすった。煤が伸びて、顔がさらに黒くなっていく。
「……煤が、目に入っただけだ」
その声が、少しだけ、鼻にかかっていた。
セラは、何も言わずに、うん、とだけうなずいた。
――しばらくして。
トトさんは、燭台を金床の真ん中に引き寄せて、粉炭の図を何枚も広げた。
「……おい、元荷物持ち。いつまで壁に張りついてんだ。こっち来い」
呼ばれて、金床の前に立つ。
「――昼間、ちっこいのが言ってただろ。『息をすればいい』って。あれは、何の話だ」
……覚えていたのか。
「……旧坑道の下に、とても大きな生き物がいたんです。山みたいに大きくて。――そいつは、ずっと、吐いて、止めて、吸っていた。すごくゆっくりと。坑道じゅうの風が、その息で、吹いたり止まったりしていたくらいに」
そこまで話して、自分でも、ようやく形になり始めていた。
「……喰い鉄は、吸うだけですよね。だから、いつか必ず、腹がいっぱいになる。――でも、もし吸ったら、吐くなら。一度に全部じゃなくて、毎回、少しずつ。……たとえば、セラが撃つたびに。前に飛んでいく魔法と一緒に。喰った分を、前へ吐き出せたら」
トトさんは、粉炭を握ったまま、動かなくなった。
その赤い瞳が、図の上を、ものすごい速さで行ったり来たりし始めた。
「……吐きながら、撃つ。――喰った分を、次の一撃に乗せる。……だとしたら、喰い鉄から、手のひらの真ん中へ続く道が要る。吐いたもんが、手を通らずに、まっすぐ前へ出ていく道が。――その道には、喰い鉄じゃない、別の金属が要る。魔力をよく通すやつが。それと、喰い鉄そのものも、もっとたくさん……」
その声は、もう、こちらに話しかけていなかった。
粉炭が、紙の上を走り始めた。新しい紙に。それが埋まると、また次の紙に。
その燃えるような光は――三日前の朝、一晩で設計図を描き上げてきた、あの朝と同じ色をしていた。
セラと、顔を見合わせる。
セラは、声を出さずに、えへへ、と笑った。
その夜、僕たちは、粉炭の音を後ろに、そっと小屋を出た。「帰るね」と言っても、返事はなかった。それがたぶん、いいことなのだと思った。
翌朝。
小屋の扉を叩くと、目の下にまた濃い隈を作ったトトさんが、分厚い紙の束を抱えて出てきた。
「――必要なもんを書き出した。魔鉱石が、これだけ要る」
その一番上の紙を見て、セラが、「うえっ」と変な声を出した。
数字が、少し桁外れだった。
「……金は、どうにかする。穴の底の報奨金が、まだ残ってるから」
そう言うと、トトさんは、煤だらけの顔をしかめた。
「……あんたらの金を、あたしのために使うんじゃねえよ」
「トトさんのためじゃないよ。セラの手のためだよ」
そう言うと、トトさんは、何か言い返そうとして――やめた。
「……ちっ。――なら、使った分は、手甲ができたら、あたしが稼いで全部返すからな」
そうして、四人で、工房街の入り口にある、この町で一番大きな魔鉱石の問屋を訪ねた。
だが――
「……悪いな。うちにはもう、一つも残ってないんだ」
太った問屋の主人は、トトさんの紙を一目見るなり、そう言って、気まずそうに目をそらした。
「……は? 先週は、倉に山ほどあっただろうが」
「あったよ。――だが、三日前に、全部買い上げられちまった。うちだけじゃない。この町の問屋は、どこもそうだ」
主人は、声を落とした。
「……深緑の外套を着た、口髭の男が来てな。代金は、値の倍だ。――『伯爵家の御用だ』ってな」
――深緑の外套。
その言葉に、背中が、ひやりとした。
トトさんの燃えるような光が、びくりと、強張った。その手の中で、一晩かけて書き上げた紙の束が、くしゃりと、音を立てて歪んだ。




