第34話 止めろと言えなかった(第4章 第2話)
「……三年前だ」
炉の火を見つめたまま、トトさんは言った。
「まだ、ゴドウィンのじじいのところにいたころだ。喰い鉄が、はじめてちゃんとできた。――嬉しくてさ。どこまで喰えるのか、試したくなったんだ」
その声は、何かを読み上げるように、平らだった。
「工房の火の魔石を、誰もいない夜中に、一つずつ喰わせた。五つ、六つ。――十を超えたあたりで、こいつが、うっすら光り始めた。それでも、止めなかった」
炉の火が、ぱちりとはぜる。
「……十三個目を喰わせようとしたときだ。こいつが、喰ったもんを、全部吐いた。――そのとき、あたしは、こいつを両手で抱えてた」
それだけだった。
工房がどうなったのか。親方が何を言ったのか。その先は、何も言わなかった。
セラも、フィオも、何も聞かなかった。
ただ、セラは、もう一度だけ自分の手のひらを見つめて――それから、ゆっくりと、その手を握った。
「……だから、『止めろって言ったら止めろ』なんだね」
「……ああ」
トトさんは、炉から目を離さなかった。
「――三日後に来い。それまでに、一つ作っとく」
三日後の朝。
小屋の扉を開けた瞬間、フィオが、小さく息を呑んだ。
金床の上に、大剣が横たえられていた。
いや――それは、もう、少し前までの大剣とは違っていた。欠けていた刃は、線を引いたようにまっすぐに研ぎ直され、曇っていた刃の表面が、窓からの光を反して、水面のように光っている。練り穴のあった柄には、新しい革が、元の巻き方と同じ形で、丁寧に巻き直されていた。
「……刃は、削ってない。欠けたところに合わせて全部研いだら、この剣の形が変わっちまうからな。――叩いて、元の形に戻した」
トトさんは、そっけなく言った。
「柄の革は、中の芯まですり減ってた。たぶん、打った奴が自分で巻いた巻き方だ。――そのままの形にしといた」
フィオは、両手で、そっと大剣を持ち上げた。
そして――柄を握ったまま、動かなくなった。
琥珀色の光が、小刻みに揺れていた。怖いときの揺れ方じゃない。もっと温かくて、もっと遠くを見ているような。
「……マルタさんの手と、同じ形です」
それだけ言うと、フィオは、大剣を抱えたまま、深く、深く頭を下げた。
トトさんは、「……そうかよ」とだけ言って、そっぽを向いた。
その燃えるような光は、少しだけ、穏やかになっていた。
「――で。こっちが、本題だ」
トトさんが、小屋の奥の作業台を、顔で示した。
そこに、片方だけの手甲があった。
木で彫られた、人の手の形の型に、すっぽりとはめられている。その木の手は、指の長さも、関節の位置も、あの朝に測ったセラの左手と、たぶん寸分も違わなかった。
手甲は、思っていたよりもずっと薄かった。鉄の板が何枚も重なり、そのどれもが、指を曲げると合わせて滑るように作られている。そして手のひらの内側にだけ、あのくすんだ灰色が、薄く、細く、葉脈のような形に張られていた。
「……きれい……」
セラが、思わずというように呟いた。
そのとおりだった。武具に対して使う言葉じゃないのかもしれない。でも、それは、美しかった。
「……まだ、きれいかどうかはわからねえ」
トトさんは、作業台の脇に置かれた、小さな箱の蓋を開けた。
中には、拳より一回り小さい、紫色の石が、ひとつ。その表面を、細い稲妻のような光が、ちりちりと走っている。
「……雷の魔石。この大きさなら、中程度の魔法使いが一日じゅう撃ち続けるくらいの魔力がある」
「……それ、すごく高いんじゃ――」
「高い。――だから、三日、飯を抜いたんだよ」
……そういうことだったのか。
「赤いのの手は、まだ二週間は使えねえんだろ。――だから、まずはこの木の手で試す。こいつの魔力を、手のひら側から少しずつ流し込んで、喰い鉄がどれだけ喰うのか、どこで腹がいっぱいになるのかを、見る」
それは、理屈としては、よくわかった。
でも――あの話を聞いた後では、「腹がいっぱいになるのを見る」という言葉が、少しだけ重かった。
「……お前らは、そこの壁の後ろだ。出てくんなよ」
トトさんが、小屋の入り口の内側に立てられた、分厚い鉄板の衝立を指した。たぶん、このために用意したのだ。
「トトさんは?」
「あたしは、ここだ。――見てなきゃ、わかんねえだろ」
その声は、確かだった。
でも、その燃えるような光の、一番奥の、あの焦げた芯のようなところが、小さく、縮んでいるのが見えた。
――見ない。そう約束した。
でも、光は、勝手に見えてしまう。そこまでは、どうしようもなかった。
衝立の後ろに、三人で並んだ。
鉄板の脇の隙間から、作業台が見える。トトさんは、紫の魔石を、金属の火箸でそっと挟み、木の手の、手のひら側に、ゆっくりと近づけていった。
魔石の稲妻が、手甲の灰色の葉脈に触れた。
――すっ。
稲妻が、吸い込まれた。灰色の葉脈が、ほんの一瞬、青白くゆらめいて、またただの灰色に戻る。
「……一つ。――二つ」
トトさんが、小さく数えながら、魔石を近づけては離し、また近づける。
そのたびに、葉脈が青白くゆらめく。そして――そのゆらめきが、少しずつ、消えるまでに時間がかかるようになっていく。
「……五つ。――六つ」
葉脈は、もう、消えなかった。
うっすらと、青白く光ったまま。木の手の、手のひらの形に沿って、細い光の線が、ずっと、そこにあった。
「……早いな」
トトさんが、低く呟いた。
「張り方を薄くした分、腹が小さくなってる。――あと一つだけ。それで、どこが限界かを――」
魔石が、もう一度、手のひらへ近づけられていく。
そのときだった。
すぐ隣で、琥珀色の光が、びりっと、弓のように引き絞られた。
「――だめですっ!」
フィオの叫び声が、小屋じゅうに響いた。
「その鉄、もう、ぶわってしてます! もう一つで、破れます!」
――その瞬間。
トトさんの手が、止まった。
いや――止まったのではなかった。固まったのだ。
火箸を持ったまま、魔石を手のひらの、ほんの指一本分手前にかざしたまま。動かない。引かない。その肩が、小刻みに震えている。
その燃えるような光の、一番奥の焦げた芯が――光の全部を内側から飲み込もうとするように、ぶわっと広がっていた。
――三年前の、あの夜だ。
見ようとしなくても、それだけはわかった。
魔石の稲妻が、ちりっ、と、手のひらの葉脈の先に触れかける。
「――トトさん!」
考えるより早く、衝立の影から飛び出していた。
トトさんの、火箸を持った手首をつかむ。そのまま、力任せに後ろへ引いた。
魔石が、火箸から外れて、床を転がった。フィオが、それを大剣の鞘で、衝立の外側の土間へと、弾き飛ばした。
そして――作業台の上で。
木の手にはめられた手甲の、灰色の葉脈が、一瞬、まぶしいほどに、青白く光った。
ぱんっ。
乾いた、小さな音だった。
木の手の、手のひらのあたりから、白い煙が、しゅうっと一筋だけ立ち昇った。
それだけだった。
しばらく、誰も動かなかった。
やがて――セラが、衝立の影からそっと出てきて、作業台を覗き込んだ。
「……――っ」
木の手の、手のひら側が、黒く焦げていた。葉脈の形そのままに。その内側の木が、ちろちろと、まだ赤く燻っている。
薄く張った喰い鉄が、喰った分を全部、内側へ吐き出したのだ。――もしこれが、木じゃなく、人の手だったら。
セラは、何も言わずに、自分の左手を、そっと胸に抱えた。
「……――」
僕のすぐ横で、トトさんが、床に尻もちをついていた。
引っ張った勢いで、二人とも倒れ込んでいたのだ。僕はまだ、その手首をつかんだままだった。
その手首が、震えていた。
小刻みに。いつまでも。
「……――止めろって。……あたしが、言うはずだったんだ」
トトさんの声は、かすれていた。
「……あたしが、言うはずだった。あたしが、一番わかってた。あと一つで破れるって。――なのに、口が、動かなかった」
その赤い瞳が、自分の、火傷の痕だらけの手を、見下ろしていた。
「……三年前と、同じだ。――やっぱり、あたしの作るもんは……」
その先は、言わなかった。
言わなくても、わかった。「失敗作だ」――そう続くはずの言葉だ。
「……トトさん」
そのとき、フィオが、大剣を抱えたまま、トトさんの前にしゃがみ込んだ。
「……言えないときは、あります。わたしも、ずっとそうでした」
トトさんが、ゆっくりと顔を上げた。
「……だから、今日は、わたしが言いました。……それで、いいんだと思います」
それは、二年前に「危ない」と言えなかった少女の、声だった。
トトさんは、しばらく、フィオの顔を見つめていた。
それから、ゆっくりと、引きつったように口元を歪めた。笑おうとして、うまくいかなかったような形だった。
「……ちっこいのに、助けられてんのかよ、あたしは」
その後。
トトさんは、何事もなかったように立ち上がって、焦げた木の手から、手甲を外した。
手甲の方は、無事だった。灰色の葉脈も、元のくすんだ色に戻っている。吐き出した分だけ、また空っぽになったのだ。
「……わかったことが、一つある」
トトさんは、手甲を作業台に置いて、低く言った。
「喰い鉄は、張れば張るだけ喰う。薄く張れば、すぐ腹がいっぱいになる。――でも、どれだけ厚く張っても、あの赤いのの魔力を三日も喰い続けたら、いつか必ず、腹はいっぱいになる」
三日。
その言葉に、少しだけ胸が痛んだ。あの審査の三日間を、思い出したからだ。
「……だから、このままじゃ使えねえ。喰ったもんを、どこかへ吐かせる道が要る。それも、一度にじゃなくて、少しずつだ。――でも、どうやって。……三年考えても、わかんねえんだよ」
小屋の中が、しんと静まった。
その静けさの中で、フィオが、ふと、独り言のように呟いた。
「……旧坑道の、あの子みたいに、息をすればいいのに」
「……は?」
「……あ、いえ。ごめんなさい。ただ、あの子は、ずっと吐いて、止めて、吸ってたので。……吸うだけの生き物は、いないなって、思っただけです」
トトさんは、「……何の話だよ」と眉をひそめた。
でも――僕は、その言葉が、どうしてか、頭の中に引っかかって、離れなかった。
吐く。――止める。――吸う。
穴の底で、ずっと聞いていた、あの巨大な息の音。
その日、トトさんは、「……今日は帰れ」とだけ言って、扉を閉めた。
その内側で、燃えるような光は、金床の前にも、炉の前にもいなかった。小屋の一番奥の、壁際で、膝を抱えるように小さくなって、ただそこにあった。
その夜。
麦穂亭の部屋で、窓の外を眺めていた。
追いかけようとしなくても、勝手に入ってくる光がある。それは、もう、どうしようもない。
隣の部屋の白金の光が、さっきから、ゆっくりと往ったり来たりしていた。寝付けないときの、あの動き方だ。
そして――その光が、ふいに、部屋を出た。
廊下を通り、裏口を抜けて。
石段では、止まらなかった。
そのまま、夜の通りを、まっすぐに。
――工房街の方へ。
白金の光が、ただ一人で、あの小屋のある路地へと、向かっていった。




