第33話 採寸(第4章 第1話)
「……手、測らせろ」
煤だらけの手が、セラの目の前に、ぶっきらぼうに差し出されていた。
麦穂亭の食堂が、しんと静まり返っている。宿の主人が、皿を拭く手を止めていた。
セラは、匙を口にくわえたまま、その手と、その上にある煤だらけの顔を、交互に見つめていた。
それから、匙を口から外して、ぱあっと顔を輝かせた。
「――作ってくれるの!?」
「……まだ作るとは言ってねえ。測るだけだ」
そう言いながら、彼女は、粉炭でびっしりと図の描かれた粗い紙を、テーブルの上にばんと広げた。朝ごはんの皿を、乱暴に端へ押しやって。
手の形だった。
指と、手のひらと、手首。それを外側から覆うように、何枚もの薄い板が重なっている。手のひらの側だけ、板の素材を示すらしい印が、別に描き込まれていた。その図の周りを、数字と、矢印と、消した跡と、また書き直した跡が、びっしりと埋め尽くしている。
一晩で、これを。
「……これ、手甲?」
「そうだ。――外側は普通の鉄。手のひらの内側にだけ、喰い鉄を薄く張る。全部喰わせるんじゃねえ。ここと、ここと、ここだけ」
煤だらけの指が、図の上のいくつかの点を、とん、とん、と叩いた。
「こいつの魔力が手のひらから出てくるとき、河の水みたいに、一番流れの強いところと、あふれて横へ広がるところがあるはずだ。――あふれるところだけ、喰い鉄が喰う。真ん中の流れは、そのまま前へ飛ばす」
――あふれる分だけを。
昨日、あの小屋で、僕が言ったことだった。
それを、この人は、一晩で、ここまでの形にしたのだ。
「……だから、手を測る。指の長さ。太さ。関節の位置。手のひらの、一番熱くなるところ。全部だ」
彼女は、前掛けのポケットから、結び目を等間隔につけた細い紐を引っ張り出した。
「――左手からだ。出せ」
こうして、麦穂亭の食堂は、その朝、小さな工房になった。
「――動くなって言ってんだろ」
「だって、くすぐったいんだもん!」
「指の付け根を測るのに、くすぐったいも何もあるか」
「あるの!」
セラの指が、紐が触れるたびにぴくんと跳ねる。トトさんはそのたびに測り直し、三回目で、ついに紐をテーブルに叩きつけた。
「――おい、そこの元荷物持ち。こいつの手首、押さえとけ」
「えっ」
「動かねえようにだよ。――早くしろ」
言われるままに、右手で、セラの左の手首を、そっと下から支えた。
包帯を外したばかりの、まだ少し薄い皮膚。ひんやりとしていて、でも、その奥で、脈がとくとくと速く打っているのが、指先に伝わってきた。
セラが、ぴたりと、動かなくなった。
その代わりに、頬から耳までが、じわじわと、髪と同じ色になっていく。
「……――っ」
「……よし。そのままだ」
トトさんは、何事もなかったように紐を当て、数字を読み上げていく。それを、隣でフィオが、小さな帳面に書き留めていた。「書く役」を、彼女は自分から申し出たのだ。
だが――そのペンが、ふいに、止まった。
フィオは、僕の手と、セラの手首を、じっと見ていた。その琥珀色の光が、わずかに、ぶすっと膨らんでいる。
「……トトさん。右手のときは、わたしが押さえます」
「……は? お前は書く役だろ」
「……右手のときは、ルークさんが書きます」
「……それ、意味あんのか?」
「……あります」
即答だった。
トトさんは、紐を持ったまま、しばらく、僕と、セラと、フィオを、順番に見た。
真っ赤な顔で固まっているセラ。ぶすっと光を膨らませて、僕の手をじっと見ているフィオ。そして、その真ん中で、どうしていいかわからずに固まっている僕。
それから――彼女は、心の底からうんざりしたように、低く呟いた。
「……ハーレムかよ」
食堂のどこかで、宿の主人が、皿を取り落とした。
「――ち、違うっ! そういうのじゃなくて!」
「……――っ、ち、ちがいます……!」
二人の声が、左右から同時に上がった。
トトさんは、それを全部聞き流して、「どうでもいい。右手出せ」と、紐を引き直した。
……結局、右手は、フィオが押さえて、僕が書いた。
採寸が終わったとき、トトさんは、ようやくテーブルの端の椅子に腰を下ろした。
宿の主人が、黙って、その前に湯気の立つスープとパンを置いた。
「……頼んでねえぞ」
「その顔で、一晩中なんか書いてたんだろう。宿の食堂で人が倒れたら、うちの評判に関わるんだよ」
宿の主人は、それだけ言うと、さっさと厨房へ戻っていった。
トトさんは、しばらくそのスープを穴の開くほど見つめていた。
それから、片手で匙をつかんで――ものすごい勢いで、食べ始めた。
「……――」
一杯目は、あっという間になくなった。厨房から、黙って二杯目が運ばれてきた。それも、すぐになくなった。
「……トトさん、もしかして、昨日から何も食べてない?」
「……三日だ」
「三日!?」
「……金がないんだよ。魔鉱石を買うと、飯の分がなくなる」
それは、当たり前のことを言う声だった。
セラが、自分の皿のパンを、黙ってトトさんの前へずらした。フィオも、自分のを。僕も。
トトさんは、三つのパンを、しばらく無言で見下ろしていた。
それから、それを全部、前掛けのポケットに、ぶっきらぼうに押し込んだ。
「……条件が、ある」
ふいに、彼女は言った。
「金はいらねえ。――その代わり、試すのは、必ずあたしの小屋で。あたしの目の前でだ。それと」
赤い瞳が、まっすぐにセラを見た。
「――あたしが『止めろ』って言ったら、何があっても、その場で止めろ。いいな」
その声は、今までで一番、硬かった。
セラは、少しだけ驚いたように瞬きして――それから、まっすぐにうなずいた。
「うん。約束する」
「……よし」
トトさんは立ち上がって、図の紙を丸めながら、扉の方へ歩き出した。
そして――扉の前で、ふいに立ち止まった。
振り返らないまま、言った。
「……おい、元荷物持ち」
「はい」
「さっきから――いや、昨日からだ。じろじろ見んな」
……ばれていた。
見ていたつもりはなかった。でも、十日ぶりにちゃんと見えるようになった目には、あの燃えるような光は、あまりにも強くて、どうしてもそちらに引かれてしまうのだ。
「……すみません。僕には、人の才能が、光って見えるんです。トトさんの光は、すごく強いので、つい……」
トトさんの背中が、びくりと強張った。
「……噂は聞いてる。『見える』っていう荷物持ちの話は。――全部、見えんのか。人の中身まで」
その声が、わずかに、低くなっていた。
――そうだ。普通は、怖いのだ。
自分の内側を、勝手に覗かれることは。
「……光は、いつも勝手に見えてます。でも、その奥――その人がどんな才能を持っていて、どうすれば花開くのかは、目を合わせないと見えません。心の奥のことは、触れないと。――だから、相手が『いい』って言わないかぎり、そこまでは見ません」
それは、癒し手の寝台の上で決めたことだった。いや――たぶん、十歳のあの日から、ずっと決めていたことだ。
「……トトさんのことも、勝手には覗きません。約束します」
長い沈黙があった。
それから、トトさんの背中から、ゆっくりと力が抜けていった。
「……ふん。それなら、いい」
それだけ言うと、彼女は扉を開けて、朝の光の中へ出ていった。
扉が閉まる直前、その背中から、小さな声が聞こえた気がした。
「……飯、うまかったって言っとけ」
その日の午後。
三人で、トトさんの小屋を訪ねた。籠いっぱいのパンと、干し肉と、宿の主人が持たせてくれた、鍋ごとのスープを持って。
「……何だ、それ」
扉を開けたトトさんは、その荷物を見て、煤だらけの顔をしかめた。
「差し入れ! 三日も食べないで作った手甲、あたし、怖くてつけられないもん!」
「……――」
トトさんは、何か言い返そうとして――やめた。そして、黙って、扉を全部開けた。
小屋の中は、昨日よりも、さらに物が増えていた。金床の周りに、粉炭の図が何枚も散らばっている。炉の火は、もう入っていた。
そのとき。
フィオが、少し迷ってから、背中の大剣を、そっと下ろした。
「……あの、トトさん。この剣……『手入れの仕方でわかる』って、言ってましたよね」
「……ああ」
「……村を出てから、自分でしか手入れしてなくて。刃が、ちょっとだけ、欠けてるところがあるんです。……観て、もらえませんか」
その声は小さかった。でも、途切れなかった。
マルタさんの剣だ。いつか返しに行くと決めた、一番大事な剣だ。それを、他人の手に預ける。
それはたぶん、「どこから来るか」を告げるよりも、勇気の要ることだった。
トトさんは、しばらくフィオの顔を見ていた。
それから――煤だらけの前掛けで、自分の両手を、丁寧に、何度も拭った。そして、両手で、大剣を受け取った。まるで、生まれたばかりの赤ん坊でも抱き取るように。
「……預かる。三日で返す」
その一言だけで、フィオの琥珀色の光が、ふわりとゆるんだ。
それを見ていて、ふと、気づいた。
大剣を抱えたトトさんの、その両手。
煤を拭ったせいで、昨日よりも、ずっとはっきりと見えていた。手の甲から手首までを覆う、引きつった、古い火傷の痕が。
セラも、それを見ていた。
そして――少しだけ迷ってから、自分の、まだ薄い皮膚の手のひらを、そっと開いてみせた。
「……トトさんの手も、焼けたんだね」
その声は、問い詰める声じゃなかった。ただ、「おそろいだね」とでも言うような、やわらかい声だった。
トトさんの光が、ゆらりと揺らいだ。
ほんの一瞬。燃えるような光の、その一番奥のところで。焼け焦げた炎の芯のような、暗い何かが。
――見ない。
僕は、すっと目をそらした。約束したのだ。
だから、その後の言葉は、光ではなく、ただ声として、耳に届いた。
「……ああ。焼けたよ」
トトさんは、大剣をそっと金床の脇に立てかけた。
それから、小屋の奥の、あの灰色の塊を、振り返らずに、目だけで指した。
「――前に言ったよな。喰い鉄は、魔力も熱も、全部喰うって」
「……うん」
「喰うだけなら、まだいいんだよ。――こいつはな、腹がいっぱいになると、喰ったもんを、全部一度に吐き出すんだ」
炉の火が、ぱちりとはぜた。
その音だけが、小屋の中に、やけに大きく響いた。
トトさんは、自分の両手を、その火の光にかざすように、ゆっくりと持ち上げた。
「……あたしの喰い鉄は、一度、人の手を焼いた。――あたしの手をな」




