第32話 銀の記章(第3章 アルベルト視点)
銀の記章は、思っていたよりも軽かった。
掛け布の上に置かれた、親指ほどの大きさの円い金属。Bランクのパーティだけが身につけることを許される、羽を広げた鷹の印。
アルベルトはそれを、自分の胸元に留めた。
ギルドのホールに、拍手が起きた。
「――『暁の翼』に、乾杯!」
誰かが叫ぶと、ジョッキのぶつかる音が、あちこちで響いた。平民の生まれで、ベルナからBランクのパーティが出るのは、五年ぶりだという。受付の奴が、そう言っていた。
アルベルトは、穏やかに微笑んで、ジョッキを掲げた。
今度は、ちゃんと口をつけた。
――数値は、嘘をつかない。
学生を置いて逃げた、と囁かれた日々も。グレンが去っていった夕暮れも。すべて、この小さな銀の円が、正しかったことにしてくれた。
「――いやあ、さすがだな、アルベルト!」
顔馴染みの冒険者たちが、入れ替わり立ち替わりやってきては、肩を叩いていく。ここしばらく、目を合わせようともしなかった連中だ。
それでいい。人は、そういうものだ。数字が上がれば、みんな戻ってくる。
「……リサ、矢はもう大丈夫かい?」
隣の弓使いに声をかけると、彼女は、新しく張り替えた矢羽根を指で弾いてみせた。
「ええ。弓屋に揃えてもらったら、まっすぐ飛ぶようになった。……高くついたけどね」
「それでいいんだよ。専門のことは、専門の者に任せればいい」
正しかった。やはり、正しかったのだ。荷物持ちがいなくても、何も困ることはない。
その座の端で、鉄灰色の鎧の男が、一人だけ、何も飲まずに座っていた。
ヴァルター。
三日間の審査を、アルベルトは、何度も思い返していた。
夜中に、野営地のそばを巨大な何かが通ったとき。「風下へ」――そう仲間たちに号令を飛ばしたのは、アルベルトだった。だが、その一瞬前。ヴァルターが、音もなく隣に並んで、だれにも聞こえない声で、一言だけ言っていた。「風下だ」と。
二日目、崖の崩れた区域を迂回すると判断したときも。三日目、審査官が出した予告なしの課題で、怪我人の運び方を決めたときも。
いつも、あの男は、一歩後ろにいた。そして、アルベルトが迷いかけた瞬間にだけ、低く乾いた声で、答えだけを置いていった。仲間たちの前で号令を飛ばすのは、いつもアルベルトだった。
審査官の講評には、こうあった。『リーダーの判断は的確で、仲間をよく遠ざけた』。
――それでいい。
アルベルトは、自分にそう言い聞かせた。
優秀な仲間の力を、引き出して使いこなす。それが、リーダーというものだ。自分が全部を知っている必要はない。号令を飛ばしたのは自分で、結果も自分が負う。それで、何の問題がある。
だが――ふと、何かが、小さな棘のように引っかかった。
一歩後ろにいて、答えだけを置いていく者。
そういう者が、前にも、いたような気がしたのだ。
「……アルベルト殿」
ふいに、すぐ横で声がした。
ヴァルターが、いつの間にか、隣に立っていた。その目は、拍手にも、乾杯にも、少しも温まっていなかった。
「――今夜、伯爵家の使いが、貴殿にお会いしたいそうだ」
その夜。
酒場の奥の、小さな部屋。
深緑の外套の男は、以前と同じように、穏やかな笑みを浮かべていた。
「――Bランクへの昇格、心からお祝い申し上げる。当家も、大変喜んでいる」
「……ありがとうございます。ヴァルターのおかげです」
そう言ってから、アルベルトは、自分の口から出た言葉に、少しだけ驚いた。そんなことを、言うつもりはなかったのだ。
男は、細い口髭の下で、笑みを深くした。
「謙遜は美徳だ。――さて。今日は、以前の続きを伺いたい」
「続き、ですか」
「『ルーク』という荷物持ちのことだ」
前回、アルベルトは、知っていることを話した。五年間、荷物持ちとして『暁の翼』にいたこと。「人の才能が光って見える」と、時々口にしていたこと。グレンに大剣だと言ったこと。勘が良く、細かいことによく気がついたこと。
それだけだった。
「――審査の三日目、彼は崖で倒れたと聞いた。鼻から血を流して、二日間目を覚まさなかったと」
「……そうらしいですね」
「以前にも、そういうことはあったかな。例えば――誰かの才能を『見た』あとに、体調を崩したりとか」
アルベルトは、記憶をたどった。
五年間。野営で、街道で、ギルドの隅で。あの少年が、こめかみを押さえていたことはあっただろうか。顔色が悪かった日は。
――思い出せなかった。
あったのかもしれない。なかったのかもしれない。ただ、そういうことを、一度も気に留めたことがなかった。荷物持ちの顔色など。
「……わかりません」
「では、彼の生まれは? 親は? どこで育った?」
「……たしか、この町の孤児院から――」
そこまで言って、言葉が止まった。
その先を、何も知らなかった。親のことも。孤児院で何があったのかも。なぜ十三歳で冒険者になったのかも。好きな食べ物も。誕生日も。
五年間、同じ焚火を囲んでいたのに。
男は、その沈黙を、ただ静かに受け止めた。そして、意外なことに、満足そうにうなずいた。
「……それで結構。貴殿が彼のことを何も知らないということは――彼が、誰にも自分のことを話さずに生きてきたということだ。それもまた、一つの答えだ」
「……一つ、伺ってもいいですか」
口が、勝手に動いていた。
「なぜ、伯爵家は、そこまであの荷物持ちのことを? 彼は、測定値もほとんどない。少し勘がいいだけの、ただの――」
「――百年に一人」
男の声が、アルベルトの言葉を、そっと遮った。
「百年に一人。そういう者が、生まれる。人の内側にあるものが、光って見えてしまう者が。――当家は、古くからそれを知っている」
部屋の空気が、ひやりとした。
「そして――そういう者は、たいてい、長生きしない」
穏やかな声だった。天気の話でもするような。
「……それは、体が、ですか。その――鼻血とか、倒れたりとか」
男は、その問いには答えなかった。
ただ、杯を口元に運び、ゆっくりと傾けてから、独り言のように言った。
「――測定の外にいる者は、測定の世界を壊す。それだけのことだよ」
その目が、初めて、笑っていなかった。
アルベルトは、何も言えなかった。
――測定の世界。
それは、アルベルトが十年かけて、ようやく認められた世界だった。この胸の銀の円が、属している世界だった。
それを壊すものなら――それは、敌だ。
そう考えればいい。そう考えれば、全部筋が通る。
なのに、どうしてか、うまく息が吸えなかった。
それから数日後。
アルベルトは、工房街の入り口で、足を止めた。
ゴドウィンの工房に、剣の研ぎを頼みに行く途中だった。Bランクの依頼が、もう三つ届いている。剣は、いつも磨いておかなければならない。
その視線の先。
工房街の外れの、細い路地の入り口で。
四人の人影が、なにやら騒いでいた。
赤い髪の少女が、包帯を外したばかりらしい手を、せいいっぱい広げている。その前に、背の高い、煤だらけの娘がしゃがみ込んで、紐のようなもので、その指の一本一本の長さを測っている。
「――ちょっと、くすぐったいってば!」
「動くな。測り直しだ」
「もう五回目じゃん!」
その後ろで、小柄な娘が、何かを書き留めながら、小さく吹き出している。前髪を銀の髪留めで留めた、あの臆病な娘だ。
そして――その真ん中で。
元荷物持ちが、笑っていた。
声を上げて。こらえきれないというように、腹を押さえて。
――あんな顔で、笑う奴だっただろうか。
五年間、あの少年があんな風に笑うのを、一度も見たことがなかった。いつも、少しだけ困ったような顔で、名前を呼ばれるのを待っていた。荷物を担いで、一番後ろを歩いていた。
ふいに――古い記憶が、脈絡もなく、浮かび上がってきた。
五年前の、春のことだ。
まだDランクだった『暁の翼』は、安く使える荷物持ちを探していた。ギルドの掲示板に貼り紙をして、三日目にやってきたのが、孤児院から来たという、痩せた十三歳の少年だった。
その少年は、アルベルトを見上げて、しばらく、ぽかんと口を開けていた。
それから、小さな声で、こう言ったのだ。
『……アルベルトさんの光は、金色で、すごく綺麗です』
――そうだ。
それが、あの少年が、アルベルトに言った、最初の言葉だった。
子どもの空想だと思った。それでも、悪い気はしなかった。だから、一番安い賃金で、その場で雇ったのだ。
金色。すごく、綺麗。
あの少年には――今も、自分のことが、そう見えているのだろうか。
「――あ、アルベルトさん!」
路地の入り口で、元荷物持ちが、こちらに気づいて手を振った。
その笑顔は、まだ、さっきの余韻を残していた。悪意も、恨みも、ひとつもない。ただ、知っている顔を見つけたときの、それだけの顔だった。
そして――その目が、アルベルトの胸元で、一瞬だけ、止まった。
銀の記章ではなかった。もう少し、内側を。
ここからは、そう見えた。
その瞬間、元荷物持ちの笑顔が、ほんのわずかに、曇った。悲しそうに、というより、何かを確かめて、それを口にするのをやめたような、そういう曇り方だった。
「……Bランク、おめでとうございます」
それだけ言うと、元荷物持ちは、小さく頭を下げて、路地の奥へと消えていった。赤い髪の娘に腕を引かれ、小柄な娘に袖をつままれ、背の高い娘に「さっさと来い」と怒鳴られながら。
アルベルトは、その背中を、しばらく見送っていた。
――今、何を見た。
聞きたかった。でも、聞けなかった。
それを聞くことは、測定の外にあるものを、信じることだったから。
その夜。
宿の寝台で、アルベルトは、ふと目を覚ました。
どれくらい眠ったのか。窓の外は、まだ深い夜だった。
部屋の奥で、小さな灯りが、ひとつだけ揺れていた。
ヴァルターが、窓際の小さな机に向かって、何かを書いていた。
猫のように音もなく。ペンの先が、紙の上を滑る音だけが、かすかに聞こえてくる。
――手紙だ。
寝たふりをしたまま、アルベルトは、薄く目を開いた。灯りの光が、紙の端を、ほんの少しだけ照らしていた。
読めたのは、いくつかの言葉だけだった。
――伯爵閣下。
――『見る者』。
――三人目の娘。鍛冶。
――時期が来れば。
ヴァルターのペンが、ふいに、止まった。
その背中が、振り向かないまま、動かなくなった。
アルベルトは、息を止めて、目を閉じた。
しばらくして、ペンの音が、また始まった。
――見なかった。
自分は、何も見なかった。あの荷物持ちが、もう仲間ではないように。あの荷物持ちが、誰にも自分のことを話さずに生きてきたように。自分もまた、何も見なかった。
数値は、嘘をつかない。
胸の上で、銀の記章を、そっと握りしめた。
いつもなら、それだけで、眠れたはずだった。
――その夜、アルベルトは、朝まで、一度も眠れなかった。
あの少年に「金色で、すごく綺麗」と言われたものが、今、自分の内側でどんな色をしているのか。
それを知るすべは、もう、どこにもなかった。




