第30話 撃てない手(第3章 第9話)
「――おかえり!」
麦穂亭の扉を開けた瞬間、食堂中から声が飛んできた。
宿の主人。顔馴染みの行商人たち。それに――いつかそこに座っていたのか、片腕を吊ったベンさんと、額の包帯が取れたダリオさんまでいた。
「……なんで、皆さんが?」
「受付の姉ちゃんが、今日帰ってくるって言ってたからな」
ダリオさんが、ぶっきらぼうに言った。その土色の光は、旧坑道の後より、ほんの少しだけ強くなっている。
「……鉱夫組合の坑道の封鎖、手伝うことにした。――それだけ、言いに来た」
それだけ言うと、ダリオさんはジョッキを一気に飲み干して、そっぽを向いた。ベンさんが、その横で小さく笑っていた。
――恐れて遠ざけてきた場所に、自分から戻ること。
あの人の開花の条件だった。
「さあさあ、座った座った! 今日は宿のおごりだ!」
宿の主人が、大きな皿を運んできた。羊肉と根菜を生地で包んで焼いた、この宿の一番のごちそうだ。
そして――三人で座る、いつもの小さなテーブルの前で。
「……フィオちゃん。そこ、あたしの座ってたところだよね?」
「……今日は、空いてましたので」
フィオが、僕の右の席に、すでにちょこんと座っていた。いつもならセラの場所だ。
「……じゃあ、あたしこっち!」
セラが、左の席にどさりと座る。そして――椅子ごと、ずりずりと、こちらへ寄ってくる。
右側でも、小さな椅子が、こっそりと、こちらへ寄ってくる。
……狭い。
「……二人とも、肉の皿が取れないんだけど」
「あたしが取る!」
「……わたしが取ります」
左右から、同時に手が伸びた。
セラの手は、まだ手首まで包帯だった。だから、皿をつかむことはできなかった。その包帯の手が、皿の縁で、むなしく滑る。
その瞬間、セラの笑顔が、ほんの一瞬だけ、固まった。
フィオが、黙って皿を受け取って、三人の真ん中に置いた。そして、一番きれいに焼けた一切れを、セラの皿に、そっと取り分けた。
「……今日は、譲ります」
その言葉は、いつもより、ずっとやわらかかった。
セラは、「えへへ、ありがとー!」と笑った。その笑顔は、いつもと同じだった。
――いつもと、同じすぎた。
その白金の光の奥で、何かが、小さく、震えているのが見えた。初めて会った夜に見た、あの震え方に、よく似ていた。
翌日。
癒し手のところへ、セラの手を診てもらいに行った。
包帯をほどかれた手のひらは、まだ、うっすらと赤かった。水ぶくれはもうない。でも、つるりとした新しい皮膚が、光を反して、ひどく薄そうに見えた。
「……このまま大人しくしていれば、あと二十日で元の手に戻るでしょう。それまでは、魔法は一発も駄目よ」
癒し手は、そう言ってから、少しだけ言葉を選んだ。
「……それから。治ったあとも、素手であの強さの魔法を撃つかぎり、また同じことになるわ。あなたの魔力は、あなたの手には重すぎる。何か、手を守るものが要るでしょうね」
「……杖じゃ、だめなんですよね」
セラが、笑って言った。
「杖だと、杖が爆発しちゃうし。素手だと、手が焼けちゃうし。……あはは、どうしようね、これ」
その「あはは」が、部屋の天井で、ひどく乾いた音を立てた。
その夜。
寝付けなかった。
いや――寝付けなかったのは、たぶん、壁の向こうの光のせいだった。
勝手に入ってくる光を、自分から追いかけない。それが、癒し手との約束だった。でも、隣の部屋の白金の光が、さっきからずっと、ちりちりと小刻みに揺れているのは、追いかけなくてもわかった。
そして――その光が、部屋を出て、廊下を通り、裏口の方へと移っていく。
……初めて会った夜と、同じだ。
裏口の石段に、小さな背中があった。
膝を抱えて、その膝に額を押しつけている。包帯の手が、膝の上で、不自然に開いたままだ。握ることができないから。
「……セラ」
肩が、びくりと跳ねた。
それから、ゆっくりと、顔が上がった。
泣いていた。それを、慌てて包帯の手の甲でこすろうとして――その包帯の粗い布が頬をこすって、「っ」と小さく顔をゆがめた。
「……えへへ。ばれちゃった」
笑おうとした。でも、笑わなかった。
セラは、何かを思い出したように、ゆっくりと、包帯の手を自分の髪へと持ち上げた。
片側の毛先に結ばれた、銀色の紐。
それを、包帯の指先で、そっと、触った。
――合図。
「もう限界」の、合図だった。
僕は、何も言わずに、彼女の隣に座った。
「……手が熱くなったんじゃないんだけどさ。使っても、いいのかな」
「……うん。いいんだよ」
セラは、しばらく黙っていた。それから、膝を抱えたまま、小さな声で言った。
「……あたしね。学院を追い出されてから、ずっと怖かったの。魔法が撃てないあたしは、誰にもいらない子なんじゃないかって」
その声が、少しずつ、震えていく。
「でも、ルークが、必要だって言ってくれて。すごいって言ってくれて。ちゃんと撃てるようになって。……だから、もう大丈夫だと思ってたのに。……二十日も撃てなくて、治っても、また焼けちゃうんだって」
そこで、声が、詰まった。
「……撃てないあたしは、また、いらない子になっちゃうのかなって」
――まただ。
あの空き地で、触れて見た、一番奥の暗闇。膝を抱えた幼い少女が、ずっと同じ言葉を繰り返していた。「すごくないと、いらない子になる」。
あの光は、まだ、そこにいたのだ。
言葉を探した。いや――探さなくても、たぶん、もう知っていた。
「……セラ。僕は、セラが撃てるから、一緒にいるんじゃないよ」
セラが、息を止めた。
「セラが通気坑の上で石を割ってたとき。指先が、ずっと震えてたんだよね。もし僕たちが下にいなかったらどうしようって。――それでも、夜の山を一人で登って、火で風を確かめて、通気坑を見つけてくれた。……あれは、魔法じゃないよ」
「……――」
「崖のときも。手から煙が出てるのに、『向こうで息が止まりそうな人がいるんでしょ』って。……僕は、そういうセラと、一緒にいたいんだ」
セラは、何も言わなかった。
ただ、その白金の光が、ゆっくりと、震えるのをやめていくのが、追いかけなくてもわかった。
「……――っ、だからさぁ……」
やがて、その声が、くしゃくしゃになった。
「……そういうの、ずるいって、何回言えばいいのよぉ……」
こつん、と、肩に、小さな重さが乗った。
包帯の手が、ゆっくりと、僕の袖を、指先だけでつまんだ。握れないから、つまむだけ。それは、少しだけ、フィオのやり方に似ていた。
「……ちょっとだけ、こうしてていい?」
「……うん」
そのとき。
背中の後ろの扉が、きい、と小さく鳴った。
振り向くと、琥珀色の光が、扉の隙間から、そっと覗いていた。
「……――っ、あ、あの……セラさんの光、壁越しに……じゃなくて、背中が、ぶわって……」
フィオの光も、セラを感じていたのだ。
セラが、僕の肩に頭を乗せたまま、小さく笑った。今度は、本当に笑っていた。
「……フィオちゃんも、おいでよ。こっち、空いてるから」
セラが、包帯の手で、自分の反対側の石段を、とんとんと叩いた。
フィオは少し迷ってから、そっとセラの隣に座った。そして、セラの包帯の手を、自分の小さな両手で、そっと包んだ。
「……セラさんは、いらない子じゃないです。……わたしに髪留めを選んでくれたのは、セラさんですから」
その一言で、セラは、また泣いた。今度は、声を上げて。
三人で並んで、しばらく、夜空を見ていた。
翌日から、三人で工房街を回った。
「手を守るもの」。癒し手の言葉を頭に、武具屋、防具屋、魔道具屋を、片っ端から。
「……魔法使い用の手袋? あるにはあるがな。杖の代わりにどれだけの魔力を通すつもりだい」
「……杖が、一発で砕けるくらいです」
そう答えると、どの店の主人も、少し黙ってから、呆れたように笑った。ときには、「そりゃ新しい冗談か?」とも言われた。
そして――最後にたどり着いたのは、工房街の一番奥にある、一番大きな工房だった。
「ゴドウィンの工房」。この町の冒険者なら、誰でもその名を知っている。アルベルトさんの剣も、ここの作だ。
炉の熱気が、入り口からそのまま流れ出してくる。何人もの弟子たちが金槌を振るう、その一番奥で。白い髭を胸まで生やした、岩のような老人が、腕を組んでこちらを見ていた。
その光は、何度も燃やされた炉の灰のような、深い赤褐色をしていた。
「……『灯火』だと? 大熊をやったっていう、あの娘っ子のところか」
親方は、セラの包帯の手をじっと見て、それから、ゆっくりと首を振った。
「……無理だな。あの大熊を一撃で穿つほどの魔力を通して、焼けも溶けもしねえ金属なんぞ、この世にはねえ。王都の宮廷工房にだって、ないだろうよ」
それは、意地悪で言っている声じゃなかった。何十年も金属を触ってきた者の、ただの事実だった。
そのとき。
後ろで、若い弟子の一人が、吹き出した。
「……そんなもん作ろうとするのは、うちを追い出されたトトくらいのもんだよな」
「違いない。あいつ、いつも『魔力を食う金属』とか言って、誰にも使えねえ失敗作ばっか作ってたもんな」
笑い声が、工房の中に広がる。
親方が、「黙って手を動かせ」と一喝した。笑いは、すぐに止んだ。
でも、その親方の赤褐色の光が、「トト」という名前が出た瞬間、ほんのわずかに、揺らいだのを、僕は見ていた。
――魔力を食う金属。
「……その人は、今どこに?」
親方は、しばらく、答えなかった。
それから、背を向けて、炉の方へ戻りながら、ぶっきらぼうに言った。
「……知らん。破門した弟子のことなんぞな」
その光は、まだ、わずかに揺れたままだった。
工房を出ると、もう日が傾きかけていた。
「……ルーク。今の人たち、『トト』って言ってたよね」
セラが、包帯の手を胸の前で合わせながら、言った。
「うん」
「……魔力を食う金属って、もしかしてさ……」
そこまで言って、セラは口をつぐんだ。期待して、また駄目だったら。そう思ったのかもしれない。
そのとき。
フィオの琥珀色の光が、ぴくりと、工房街の、少し外れの方へと向いた。
危険を告げるときの形じゃない。もっとやわらかく、でも確かに、何かに引かれているような形。
「……あの、ルークさん。あっちの方、ぶわっとはしないんですけど……何か、すごく熱いものがある気がします」
フィオの光の先。
それは――癒し手の家の裏手。工房街へ続く、あの細い路地の方角だった。
十日目の夜、炉の火のような光が、重いものを引きずっていた、あの路地。
「……行ってみよう」
路地の奥の小屋は、近くで見ると、小屋というより、古い物置を無理やり作業場にしたような建物だった。壁の板は焦げ、屋根からは小さな煙突が新しく突き出している。
その窓から、本物の火の光が漏れていた。
――かん。 かん。
あの夜と同じ、小さな、でも不思議とよく通る金槌の音。
そして――その内側に、あの光があった。炉の一番熱いところのような、茜とも橙ともつかない、燃える光。
扉を叩こうと、手を上げた。
その前に――金槌の音が、ぴたりと止まった。
ばん、と、内側から扉が開いた。
「――さっきから、外でごちゃごちゃ、うるさいんだけど」
頭一つぶん、いや、もう少し上から、声が降ってきた。
背が高かった。僕よりも。肩幅が広く、袖をまくった腕は、細いのに硬そうな筋が浮いている。玉のような汗の伝う首元に、焦げ跡だらけの革の前掛け。赤茶色の短い髪は、焦げた刷毛のように、あちこちにはねていた。
そして――顔中、煤だらけだった。
その煤の向こうで、炉の火を置き忘れたような、赤い瞳が、僕たち三人を、じろりと見下ろしていた。
「……何。……文句ある?」




