第29話 見せるということ(第3章 第8話)
差し出された二つの手を、しばらく、ただ見つめていた。
包帯の手と、小さな手。
この二人には、僕の光は見えない。触れたところで、何も流れ込んではこない。それでも、二人は、「見せて」と言った。
――それはたぶん、僕がこの五年間、一度もしてこなかったことだ。
「……長くなるよ」
「うん。いいよ」
「……はい」
右手を、セラの包帯の手に重ねた。左手を、フィオの小さな手に。
それから、息を吸った。
「……この力は、使うと、頭が痛くなるんだ」
最初の一言は、思ったよりずっと、小さな声になった。
「目を合わせて素質を読むと、こめかみが少し。触れて心の奥まで見ると、もっと。……初めて会った夜、セラの手を握ったとき、鼻血が出たでしょう。あれは、そのせい」
セラの手が、びくんと跳ねた。
「……あのとき、『大丈夫』って――」
「うん。そう言った」
それから、一つずつ話した。
通気坑の下で、ユリウスの素質を読んだときも、こめかみに釘を打ち込まれたようだったこと。練習で二人の光を見続けるようになってから、痛みが砂のように少しずつ溜まっていったこと。そして――審査の三日前の夜、誰にも触れていないのに、ただ見ていただけで鼻血が出たこと。
それを、水差しの水で洗って、誰にも言わなかったこと。
そこまで話したところで、右の手が、ぎゅっと握り返された。包帯の上からでも、痛いはずなのに。
「……セラ、手――」
「いいの。続けて」
その声は、震えていた。でも、少しも笑ってごまかしてはいなかった。
「……それから、審査の二日目。ヴァルターっていう、『暁の翼』の新しい人が、すれ違うときに、僕に言ったんだ。『見続けるのは、疲れるだろう』って」
フィオの光が、うっすらと、でも確かに、ぴんと張り詰めた。
「……あの人。冷たい人です」
「うん。……そのことは、二人にも、誰にも話してなかった。なのに、あの人は知ってた。グレンさんにも、僕のことを聞きに来てたんだって。笑いもしないで、書き留めてたって」
セラが、ゆっくりと顔を上げた。
「……伯爵家の人、なんだよね。ユリウスさまの家の」
「……たぶん」
部屋の空気が、少しだけ冷たくなった。
だから、次のことを話すのには、少し勇気が要った。
「……もう一つ。これは、本当に誰にも話してない。話したら、もう後戻りできない気がしてたから」
二人の手が、同時に、少しだけ強くなった。
「……旧坑道の下の、あの遺構。照明が切れる直前に、小さな部屋の壁に、絵が見えたんだ」
フィオが、息を呑むのがわかった。あの部屋に、彼女もいたのだ。でも、光が届いた一瞬、壁の方を向いていたのは、たぶん僕だけだった。
「山の下で、灰色の岩の板に覆われた生き物が眠ってた。その山の上に、大勢の人がいて。……その真ん中に、一人だけ、両目から光を放ってる人がいたんだ。その光が触れた人たちは、みんな、体の周りに、輪みたいな光をまとってた」
そこで、一度、言葉を切った。
「……僕が、生まれたときからずっと見てる景色と、同じ形だった」
長い、長い沈黙があった。
窓の外で、夜鳥が一度だけ鳴いた。
やがて、その沈黙を破ったのは、セラだった。
「……じゃあ、ルークは、一人じゃなかったんだ」
――え。
「だって、そうでしょ? 昔、ルークと同じものが見える人がいて、その人は、絵に描かれるくらい、大事にされてたんでしょ? ……だったら、ルークの力は、変なものじゃないんだよ」
そんな風に、考えたことはなかった。
あの壁画を見てから、ずっと胸の奥にあったのは、怖さだけだった。なぜそんなものが地の底に埋もれていたのか。なぜ伯爵家の人間が、僕のことをこんなに知りたがるのか。
でも、セラは、その絵の中に、一番最初に「仲間」を見つけた。
「……わたしも、そう思います」
フィオが、小さく言った。
「それに……あの部屋で、ルークさんが壁の方を見てたとき。背中が、全然、ぶわってしなかったんです。……たぶん、あの絵は、怖いものじゃないです」
……そうか。
この二人に話しただけで、あの絵は、もう、僕一人で抱える秘密じゃなくなった。
「……それと、もう一つだけ」
それは、一番古くて、一番小さな話だった。
「……僕は、この町の孤児院で育ったんだ。親のことは、何も知らない」
そう言うと、二人の手が、また少しだけ強くなった。
「十歳くらいのとき。一番仲のよかった、三つ年上の兄ちゃんがいて。……ある日、たまたまその手をつかんだとき、見えちゃったんだ。その兄ちゃんが、小さい子たちに食べさせるために、市場でパンを盗んでたこと」
「……――」
「そのことを、僕は口にしちゃった。悪気なんかなかった。ただ、『兄ちゃんは、ちびたちのために、強いんだね』って、それだけ。……でも、それを聴いてた大人がいて。兄ちゃんは、叱られて、罰を受けて、……それから一度も、僕の目を見なくなった」
十三歳になって、その兄ちゃんは孤児院を出て行った。最後まで、一度も振り返らなかった。
「……それから、触れて見るのは、相手がいいって言ったときだけにした。それに、見えたものを、口にするのが怖くなった。……十三歳で冒険者になって、グレンさんに『大剣です』って言って笑われたとき、やっぱり、って思った。……それで、五年間、黙ってたんだ」
そこまで話して、ようやく気づいた。
自分が、ずっと、息を止めていたことに。
「……だから、たぶん。自分の痛いところも、口にするのが、下手なんだと思う」
二人は、しばらく、何も言わなかった。
それから――右側で、小さく、鼻をすする音がした。
「……ルークの、ばか」
セラだった。
「……そんなの、一人で全部、抱えてたの? あたしのこと、あんなに『必要だ』って言ってくれたくせに。自分のことは、何にも言わないで?」
「……ごめん」
「謝らないでよぉ……」
セラは、包帯の手で、僕の手を、痛いはずなのに、もう一度ぎゅっと握った。
「……話してくれて、ありがとう。……そっちでしょ、言うことは」
――そうだ。
「……うん。聞いてくれて、ありがとう」
左側で、フィオの手が、すっと動いた。
そして、僕の左の手首に巻かれた、銀色の紐に、そっと触れた。
「……ルークさん。約束、してください」
「……約束?」
「……こめかみが痛くなったら、この紐を、触ってください。言うのが下手なら、言わなくていいです。紐を触るだけで。……そうしたら、わたしたちが気づきますから」
それは、二十日前に、僕が彼女に言ったことと、同じ形をしていた。
「逃げたくなったら、逃げていい。ただ、どこから来るかだけ教えて」。
「……あ、それいい! それ、すっごくいい!」
セラが、泣きながら、ぱっと顔を輝かせた。
「じゃあ、あたしも! あたしも、手が熱くなったら、髪の紐を触る! フィオちゃんも、背中が怖くなったら、髪留めを触るの! 三人とも、おそろいだもん!」
「……はい」
フィオが、小さく、でもはっきりとうなずいた。そして、ちょっとだけ笑った。
三人おそろいの、銀色のお守り。
それが、その夜から、三人の合図になった。
――いつの間にか、眠っていたらしい。
「……あらあら」
その声で、目が覚めた。
窓から、朝の光が差し込んでいる。その光の中に、ノーラさんが、湯気の立つ杯を持って、立ち尽くしていた。
そして、その視線の先。
右側では、セラが、寝台の縁に突っ伏したまま、包帯の手で僕の右手をしっかりと抱えていた。左側では、フィオが、椅子から半分身を乗り出して、僕の左手を、両手で包むように握って眠っている。
二人とも、幸せそうな寝息を立てていた。
動けなかった。
「……ノーラさん、これは、その……」
「いいのよ、何も言わなくて」
ノーラさんは、杯をそっと寝台の足元に置いた。
その口元は、笑っていた。でも、その目は、少しだけ潤んでいるように見えた。
「……昨日より、ずっといい顔してるわ。三人とも」
それから、少しだけ、いたずらっぽく付け足した。
「……でも、癒し手には、寝てるようにしか言ってあげない。この光景は、わたしだけの秘密にしておくわね」
その後の十日間は、不思議なほど穏やかだった。
癒し手に言われたとおり、僕はただ寝ていた。力は使わない。誰の目も、自分からは見ようとしない。ただ、勝手に入ってくるうっすらとした光を、そのままにしておく。
セラとフィオは、交代で来てくれた。フィオは、朝の城壁一周を終えると、そのまま麦穂亭の朝ごはんを届けに来た。セラは、包帯の手で匙を上手く持てないのに、「あーん」をやりたがって、何度もスープをこぼした。こぼすたびに、フィオが黙って拭いていた。
五日目に、光の輪郭が、少しずつ戻ってきた。
七日目に、窓の外を通る人の光が、色ごとに見分けられるようになった。
九日目の夕方、セラの白金の光が、部屋の入り口から駆け寄ってくるのを、曇りのない、いつものまぶしさで見た。
その瞬間、少しだけ、泣きそうになった。
「……ルーク? どうしたの?」
「……ううん。セラの光が、ちゃんと見えたから」
セラは、一瞬きょとんとして――それから、顔を真っ赤にして、「そういうところがずるいの、わかってる?」と、ぽかぽかと包帯の手で僕の肩を叩いた。その後ろで、フィオが、少しだけぶすっとした顔で、自分の髪留めを触っていた。
――それはたぶん、合図じゃない。
そして、十日目の夜。
癒し手が「もう大丈夫でしょう。明日は宿に帰っていいわ」と言ってくれた、その夜。
最後の一晩を、癒し手の寝台で過ごしていたときだった。
窓の外。癒し手の家の裏手にある、工房街へ続く細い路地。
夜も更けて、もう誰も通らないはずのその路地を、一つの光が、ゆっくりと移動していた。
重そうなものを引きずっているような、重たい足取り。
――そして、その光が。
赤かった。いや、ただの赤じゃない。炎の底で、白くなるほどに熱せられた鉄のような。炉の中で一番熱いところのような、茜色とも橙ともつかない、ぶぁっと燃えているような光。
その強さは――フィオの琥珀に、少しも劣らなかった。
「……――」
十日ぶりに、ちゃんと見えるようになった目に、一番最初に飛び込んできた、新しい光だった。
光は、路地の奥の、小さな小屋の前で止まった。
そして、しばらくして、その小屋の窓から、本物の火の光が漏れ始めた。
――かん。 かん。
夜の工房街に、小さな、それでいて不思議とよく通る音が、響き始めた。
金槌の音だった。




