第28話 完敗(第3章 第7話)
目を開けると、天井が、ぶよぶよと揺れていた。
いや――揺れているのは、天井じゃなかった。親指でまぶたをこすっても、窓から差し込む光の輪郭が、にじんだまま戻らない。曇った窓ガラス越しに、世界を見ているようだった。
ここは、どこだろう。
白い壁。乾いた草の匂い。どこかで、湯の沸く音。――ベルナの癒し手の、寝台の並ぶ部屋だ。穴の底から戻ったカイさんを運び込んだときに、一度だけ入ったことがある。
体を起こそうとして――止めた。
寝台の右側に、何かがもたれていた。
赤い髪。
セラが、寝台の縁に突っ伏すようにして、眠っていた。両手には、手首まですっぽりと、分厚い白い包帯。その包帯の手の先が、布団の上から、僕の右手にそっと重ねられている。握ることはできないから、ただ、重ねている。
そして――左側。
椅子に腰かけたまま、小さな体が、壁に頭を預けて眠っていた。その右手が、僕の左の袖の端を、眠ったままでも、しっかりとつまんでいる。
銀色の髪留めが、少しだけずれていた。
……動けない。
それは、体が重いからだけじゃなかった。
そして――気づいた。
二人の光が、いつもより、ずっと淡い。
いや。二人の光が淡いんじゃない。僕の目に、うっすらとしか届いてこないのだ。白金も、琥珀も、分厚い磨りガラスの向こうで、ぼんやりと、ただそこにあるとわかるだけ。
生まれてから一度も、こんなことはなかった。
見たくなくても、見えていた。目を閉じても、まぶたの裏がほのかに明るかった。その光が、今、遠い。
胸の奥が、しんと冷えた。
「――目が覚めたのね」
扉のところから、小さな声がした。
ノーラさんだった。湯気の立つ木の杯を両手で持っている。その緑の光も、やはり、うっすらとしか見えなかった。
「……二日よ。二日間、ずっと眠ってたの」
そう言いながら、ノーラさんは寝台の足元に杯を置き、後ろのもう一人を招き入れた。白い前掛けをした、白髪まじりの癒し手の女の人。
癒し手は、僕のまぶたを指でそっと開いて覗き込み、それから、小さくため息をついた。
「……目の奥と、頭の奥を、使いすぎたのよ。筋肉を使いすぎると、動かなくなるでしょう。それと同じことが、もっと大事なところで起きたの」
「……治りますか」
「たぶんね。十日も寝ていれば、元のように見えるようになるでしょう」
癒し手はそこで、眉をひそめた。
「――でも、よく聞いて。次に同じことをしたら、戻らないかもしれない。何を見ていたのかは知らないけれど、人の体には、使える量というものがあるのよ」
戻らないかもしれない。
その言葉が、天井のあたりで、いつまでも漂っていた。
癒し手が部屋を出ていくと、ノーラさんは、寝台の端にそっと腰を下ろした。
「……その子たち、二日間、一度もここを離れなかったのよ。癒し手に『あなたたちも寝なさい』って何度言われても。……それで、今朝になって、やっと力尽きたみたい」
ノーラさんの声は、優しかった。でも、その奥に、いつものような「無理しちゃだめよ」とは違う、何かを必死に堆えている響きがあった。
「……無理しちゃだめって、言ったのにね」
その一言だけが、少しだけ震えていた。
「……ん……」
右側で、赤い髪が、もぞりと動いた。
セラが、ゆっくりと顔を上げる。寝ぼけた目が、僕の顔をとらえて――そして、大きく見開かれた。
「……ルーク?」
「……おはよう、セラ」
その瞬間、彼女の顔が、くしゃくしゃになった。
「――ルークっ……!」
包帯の手で、抱きつこうとして――その手の痛みに、「っ」と息を詰める。それでも、彼女はそのまま、僕の胸の上に、額を押しつけた。
「……ごめんなさい……ごめんなさい……あたしが、あたしが、やだって言って、無理やり撃ったから……」
「……違うよ」
今度は、口が動いた。
「『たぶんいける』って言ったのは、僕だ。あのとき、もう、セラの手の光は見えてなかった。見えてないのに、見えてるふりをしたんだ。……だから、セラのせいじゃない」
セラの肩が、びくりと止まった。
それから、ゆっくりと顔を上げた。
泣いていた。それでも、その目は、まっすぐに僕を見ていた。
「……そういうの、ずるいって、前にも言ったよね」
「……うん」
「……ずるいよ。今度のは、一番ずるい」
そう言って、セラはまた、僕の胸に額を戻した。
そのとき。
左の袖をつまむ力が、きゅっと強くなった。
椅子の上で、フィオが、目を開けていた。
何も言わなかった。ただ、ずれた髪留めの下の、赤くなった目で、じっと僕を見ていた。その琥珀色の光が、うっすらと、でも確かに、僕の方へと引き絞られている。
「……フィオ」
「……はい」
それだけだった。
それだけで、彼女は、また袖をつまんだまま、壁に頭を預けた。
言いたいことは、たくさんあるはずだった。「ちゃんと言ったのに」と、あの崖で彼女は泣いていた。でも、今は、何も言わなかった。
その沈黙の方が、どんな言葉よりも、重かった。
その日の午後。
ノーラさんが、一枚の紙を持って、もう一度部屋に来た。
「……審査の結果。聞く? 後にしてもいいのよ」
「……聞きます」
セラとフィオも、寝台の両側で、黙ってうなずいた。
ノーラさんは、紙を一度見てから、それを膝の上に置いて、自分の口で言った。
「『灯火』は――審査打ち切りにより、不合格」
わかっていたことだった。それでも、その一言は、重かった。
「『白翼』は合格。……今年の審査で、一番良い評価だったそうよ」
それも、わかっていた。あの崖での、ひとつも乱れない声を聞いていれば。
「それと――『灰狼団』の三人は、全員、助かったわ。息の弱ってたトーマスさんも、今は隣の部屋で、一人でスープが飲めるくらいになってる」
――あ。
胸の奥で、こわばっていた何かが、ほんの少しだけ、ほどけた。
セラが、包帯の手で、口元を押さえていた。フィオの琥珀色の光が、少しだけ、ゆるんだ。
あの岩は、無駄じゃなかった。
「……それから、もう一つ」
ノーラさんの声が、わずかに硬くなった。
「『暁の翼』は――Bの審査に、合格したわ」
部屋が、しんと静まった。
「……昨日の夜は、ギルド中でお祝いだった。平民の生まれで、この町からBランクのパーティが出るのは、五年ぶりだって。……アルベルトさん、嬉しそうだったわ」
それは、皮肉でも何でもなく、ただの事実としての声だった。
アルベルトさんが、Bランクになった。あの鉄灰色の男と一緒に。
「数値は嘘をつかない」――いつかそう言った人が、その数値に、ちゃんと認められた。
悪いことじゃない。そう思うのに、どうしてか、うまく息が吸えなかった。
「……それと、これ」
ノーラさんは、紙の下から、封をした一通の手紙を取り出した。
「グレタさんから。領都へ帰る前に、『必ず本人に』って、置いていったの」
右手で受け取る。封を切るのも、片手では上手くいかなかった。フィオが、黙ってそれを手伝ってくれた。
でも――広げた紙の上の文字が、にじんで、読めなかった。
「……ごめん。読んでくれるかな」
フィオが、少しだけ迷ってから、うなずいた。そして、小さな、でもはっきりとした声で、読み始めた。
「……『灯火』の審査について、審査官としての記録とは別に、これを残します。』」
「『判断力、知識、連携――いずれも、Dランクのパーティとして十分に合格の水準でした。前衛なしで、三日間、一人の怪我人も出さずに動いたパーティを、わたしは他に知りません。』」
フィオの声が、少しだけ、震えた。
「『しかし、不合格とします。理由は一つです。』」
ここで、一度、言葉が途切れた。
それから、フィオは、息を吸って、続けた。
「『リーダーが、自分の限界を仲間に隠し、仲間の警告を聞き入れなかったこと。三日間を生き延びるパーティの条件とは、強いことではなく、互いの限界を、互いに知っていることです。』」
――そのとおりだった。
一つも、言い返せなかった。
こめかみを押さえた回数を、あの人は数えていた。お守りの紐を巻いてもらった朝も、フィオの肩で眠った夜も、崖へ向かう道も。全部、見ていたのだ。
「……『次の審査で、互いを知った『灯火』に会えることを、楽しみにしています。――グレタ』……以上です」
フィオは、手紙をそっとたたんで、僕の手に戻した。
その指先が、少しだけ、僕の指に触れて、そして離れた。
夕方。
扉を叩く音がして、入ってきたのは、白い外套だった。
「――やあ。起きていたか」
セドリックだった。その橙色の光も、今はうっすらとしか見えない。それでも、その穏やかな声だけで、たぶん他の誰とも間違えない。
手には、乾した葉の入った小さな袋。
「領都でよく飲まれる、目の疲れに効く茶だ。仲間の魔術師が、審査の前には必ず飲む。――いらなければ捨ててくれていい」
それを寝台の端に置いて、セドリックは、立ったまま僕を見下ろした。
「……審査は、審査だ。君たちが合格しなかったことに、異議はない」
「……はい」
「ただ」
そこで、彼は一度、言葉を切った。
「あの崖で、あの岩を割ったのは、君たちだ。我々は、上から注意を引いていただけだ。――それを、我々は全員、知っている」
それから、その声が、少しだけ、低くなった。
「……一つだけ、言わせてくれ。あの崖で、僕は君を上から見ていた。君はずっと、仲間だけを見ていた。一度も、自分を見ていなかった」
――自分を。
「我々が自分の数値を知っているのは、自分を信じるためだけじゃない。自分がどこで倒れるかを、仲間に教えておくためだ。――君には、その数値がない。だったら、せめて――」
セドリックは、そこで、口を閉じた。
そして、少しだけ、困ったように笑った。
「……いや。それを言うのは、僕の役目じゃないな」
その視線が、寝台の両側の二人へと、一瞬だけ向けられた。
「次の審査で会おう。――そのときは、競うのが楽しみだ」
そう言って、白い外套は、部屋を出ていった。
その夜。
ノーラさんに言われて、セラとフィオは、二日ぶりに麦穂亭へ帰っていった。
癒し手の部屋には、僕だけが残った。
窓の外に、月が出ている。その光の輪郭も、やはり、にじんでいた。
――互いの限界を、互いに知っていること。
――一度も、自分を見ていなかった。
二つの言葉が、頭の中で、ゆっくりと重なっていく。
僕は、五年間、他人の光ばかりを見てきた。でも、自分の光は、鏡を見ても一度も見えなかった。だから、自分がどこで倒れるのかも、わからなかった。
――いや。
違う。わかっていた。鼻血が出た夜に。こめかみを押さえたときに。わかっていて、誰にも言わなかっただけだ。
セラが、焦げた手を背中に隠したのと、同じように。
フィオが、二年前に「ここ、嫌です」と言えなかったのと、同じように。
――二人には、あんなに「言っていいんだよ」と言ってきたのに。
こん、こん。
小さな音がした。扉を叩く音。
「……はい?」
扉が、そっと開いた。
そこに、二つの光があった。うっすらと、にじんだ、でも、見間違えるはずのない二つの光。
白金と、琥珀。
「……帰ったんじゃなかったの?」
「……帰ったよ。でも、戻ってきたの」
セラが、包帯の手で扉を押さえながら言った。その後ろで、フィオが、大剣も背負わずに、両手を胸の前で握りしめている。
二人は、寝台の両側に、ゆっくりと腰を下ろした。昨日までと、同じ場所に。
そして、セラが、僕の顔をまっすぐに見た。
「……ルーク。あたしたちには、ルークの光は見えない。……でも、ルークのことは、見えるよ」
「……――」
「……ルークさんは、わたしたちに、『見ていいよ』って言ってもらってから、触れるんですよね」
フィオの声。小さい。でも、一度も途切れなかった。
「……だから、今度は、わたしたちが聞きます」
二人が、左右から、そっと手を差し出した。
包帯の手と、小さな手。
「――ルークのこと、見せて」




