第27話 三日目(第3章 第6話)
夜が明けるのを、待たなかった。
ハンスさんの傷に包帯を巻き、「灰狼団」の若い冒険者――エルンと名乗った――に水を飲ませている間に、物見塔の跡にもう一つの一団が駆けつけてきた。
白い外套。「白翼」だった。
「――状況は、こちらの審査官から聞いた」
セドリックの声は、夜明け前の冷たい空気の中でも、いつもと変わらなかった。彼らの審査官のもとにも、別の伝令が届いていたのだという。
崩れた崖までは、半刻。取り残されたのは、「灰狼団」のリーダーを含む三人。崩れた岩の山の向こう側に。そして――崖の下に開いた裂け目から、「何か」が身を乗り出している。
ハンスさんとグレタさん、そして「白翼」の審査官が、短く話し合った。それから、ハンスさんが、僕たちに向き直った。
「……二組に分かれてもらう。『白翼』は、崖の上から回り込んで、裂け目のものの注意を引いてほしい。『灯火』は、崖の下から――崩れた岩の山を越えて、取り残された三人を探し出してほしい」
そして、フィオの方を見た。
「……そちらの娘が、夜の森で、我々が来るのを一番先に言い当てたと聞いた。崩れた岩の向こうにいる人間を探すのに、これ以上の力はない」
フィオの肩が、小さく跳ねた。それから、彼女は、まっすぐにうなずいた。
「……はい」
セドリックが、ちらりと僕を見た。それから、セラの手を。
何かを言いかけて――そして、黙って、仲間たちへ向き直った。
「――行くぞ。崖の上へ」
崖までの半刻は、今までで一番長かった。
魔物が、奥から外へと、波のように押し寄せてくる。森狼。鎧猪。名前もわからない小さな魔物たち。どれもこちらを狙ってはいない。ただ、逃げている。その逃げ道に、たまたま僕たちがいる。
「――右から、十匹以上! こっちは見てない!」
「大木の陰へ! やり過ごそう!」
「――前! 鎧猪が一匹、こっちへ曲がった!」
「セラ、針で脚だけ!」
フィオの光を見る。セラの光を見る。きりきりと引き絞られ、緩み、また引き絞られる琥珀色。針を撃つたびに、少しずつ薄くなっていく、手のひらの白金。
こめかみの奥で、砂が、音を立てて溜まっていく。
いや――もう砂じゃなかった。もっと重くて、もっと細かいものだ。泥のように、もう流れていかない。
「……ルークさん」
魔物の波が途切れたとき、フィオが、小さく、でもはっきりと言った。
「……わたしの背中、ルークさんの方を向くと、ずっと、ぶわってしてます。昨日より、ずっと」
「……今は、取り残された人たちが先だよ」
そう答えた。それは、本当のことだった。
でも、フィオの光は、僕の方を向いたまま、もう緩まなかった。
崖は、まるで巨人が拳で殴りつけたように、えぐれていた。
崖の上半分が崩れ落ち、下に、家一軒分ほどの岩の山ができている。その岩の山の、さらに向こう。崖の根元に、大きな裂け目が、黒々と口を開けていた。
その裂け目から、生暖かい風が吹いている。
吐く。――止める。――吸う。
――あの、息だ。
「……います。岩の山の向こう、三人。……一人、すごく弱ってます」
フィオの光が、岩の山の一点を、まっすぐに指していた。そして、その光の半分が、裂け目の奥へと、痛いほどに引き絞られている。
「……それと、あの奥に――あの子と、同じものがいます。空洞の、あの子と。……でも」
彼女の声が、少しだけ震えた。
「……この子は、怒ってます」
そのとき、崖の上の方から、鋭い音が響いた。
「白翼」だ。崖の上から、裂け目の奥へと、魔法の光と剣戟の音を打ち込んでいる。注意を引いているのだ。
裂け目の奥で、何かが、重たく向きを変える気配がした。
今だ。
「――セラ、岩の山を、通気坑のときみたいに。フィオ、割る順番を!」
「まかせて!」
「……はい! まず、左上の、丸いのから!」
じじっ、と、針の音。岩が割れる。崩れないように、一つずつ。
通気坑の上でやったことだ。でも、あのときとは違う。今は、三日分の疲れがある。そして、すぐ向こうに、怒っている何かがいる。
「……八つ目! あと、どれくらい?」
「……その下の、平たい大きいのを割れば、向こうが見えます! でも、それは針じゃなくて……」
槍じゃないと、割れない。
僕は、セラの手のひらの光を見た。
――見ようと、した。
白金の光が、にじんでいた。
セラの光がにじんでいるのではなかった。僕の目が、にじんでいたのだ。こめかみの奥の泥が、目の裏までじわりと染み出している。光の輪郭が、わからない。揺れているのか、いないのか。
岩の向こうから、かすかな声がした。
「……誰か……いるのか……トーマスが……息が……」
――時間がない。
「……セラ。槍を、三発」
口から出たのは、その言葉だった。
「……あと三発なら、たぶん、いける」
「たぶん」。
この三日間で、一度も使わなかった言葉だった。
セラは、一瞬だけ、僕を振り返った。それから、うなずいた。「ルークが見ててくれるなら、あたし、撃てる」――夕焼けの草地でそう言ったときと、同じ顔で。
「――いっけえぇぇ!」
一発目。平たい岩に、拳ほどの穴が開く。
二発目。穴が、広がる。岩に、縦にひびが走る。
――そして、二発目を撃ち終えた瞬間。
「――っ――!」
セラが、息を飲んだ。
その両手のひらから、白い煙が、しゅうっと立ち昇っていた。
――違う。
「たぶんいける」なんかじゃなかった。もう、とっくに限界だったんだ。僕に、それが見えていなかっただけで。
「セラ、止めて――!」
「――やだっ!」
セラは、煙を上げる両手を、それでも岩に向けたままだった。
「あと一発で、割れるんでしょ! 向こうで、息が止まりそうな人がいるんでしょ!」
その声が、泣いていた。
「――いっけぇぇぇぇっ!!」
三発目。
平たい岩が、真っ二つに割れた。その向こうに、岩と岩の隙間の、小さな空き地が見える。三人の冒険者。一人は倒れたまま、二人が、驚いた顔でこちらを見ている。
そして――セラの膝が、がくりと折れた。
「――セラ!」
駆け寄ろうとした。
その瞬間、地面が、跳ねた。
裂け目の奥から。岩を砕いた音に、あの何かが、こちらを向いたのだ。
生暖かい息が、崩れた岩の山を越えて、僕たちの上に、どっと降りかかってきた。
「――来ます! 裂け目から! まっすぐ、こっちへ!」
フィオの叫び声。
考えなきゃいけない。今、全部を。
岩の向こうの三人。倒れたセラ。引き絞られたフィオの光。裂け目。崖の上の「白翼」。後ろのグレタさん。その全部の光を、一度に。
僕は、一度に、全部を見ようとした。
――その瞬間だった。
こめかみの奥で、何かが、弾けた。
音はしなかった。ただ、世界が、いきなり、真っ白になった。
光が、全部、一度に流れ込んでくる。琥珀も、白金も、銅も、橙も、名前も知らない誰かの光も。輪郭もなく、色の境もなく、ただの、まぶしすぎる白。
足が、地面をつかんでいなかった。
鼻の奥から、口の中へ、温かいものが流れ込んでくる。鉄の味がした。
「――ルークさんっ!!」
倒れる前に、小さな体が、僕を受け止めた。
とんでもない力だった。あの岩場の丘で、僕とセラを引っ張った、あの力。
でも、その腕は、震えていた。
「――後ろへ! 後ろへ下がれ!」
崖の上から、声が降ってきた。
穏やかで、よく通る声。こんなときにも、ひとつも乱れていない。
「盾、崖を下りて裂け目の前へ! 魔術師は土の壁を! そこの二人は、倒れた仲間を担いで、こちら側へ走れ!」
そして、その声が、こちらに向いた。
「――赤い髪の君! もう撃つな! 手が限界だ!」
――それは、本当は、僕が言わなきゃいけない言葉だった。
もう、目を開けていられなかった。まぶたの裏も、真っ白だった。いつもならそこにあるはずの仲間の光が、もう、どれがどれだかわからない。
その白の向こうで、たくさんの音がしていた。
土の壁がせり上がる音。盾が何かを受け止める音。崖を駆け下りる足音。ぐらりと地面が揺れ、それが少しずつ、遠ざかっていく音。
そして――
「……ルーク……ルーク、やだ、やだよ……」
セラの声。すぐそばで。
その手が、僕の頬に触れた。ひどく熱かった。焼けた手のひらだ。それなのに、彼女はその手で、僕の鼻の下の血を拭っていた。
「……ごめん、ごめんね、あたしが、無理して撃ったから……」
――違うよ。
そう言いたかった。
無理をさせたのは、僕だ。「たぶんいける」と言ったのは、僕だ。見えていなかったのに。見えているふりをしたのは、僕だ。
でも、口が、動かなかった。
「……ルークさんの光、わたしには見えません。でも、背中が、ずっと、ぶわって……、わたし、言ったのに……ちゃんと、言ったのに……」
フィオの声。僕を抱えたままの、震える声。
――そうだ。君は言った。「どこから来るか」を、ちゃんと。
それを「今は先だよ」と言って聞かなかったのは――ダリオさんが、岩の鳴くのを聞かなかったのと、同じだ。
どこかで、足音が止まった。
銅色の光――だと、たぶん、思う。もう、色はわからないけれど。
「……『灰狼団』の三人は、全員、崖のこちら側へ運び出しました。倒れていた一人も、息はあります。――あなた方が岩を割ったからです」
グレタさんの声は、いつもと同じように、余分なものが何もなかった。
でも、その次の一言だけは、ほんの少しだけ、低かった。
「……そして。審査官として、ここに宣告します」
その声が、真っ白な世界の向こうで、遠くなっていく。
「――『灯火』の審査を、ここで打ち切ります」
その後のことは、何も覚えていない。
ただ、最後に、左の手首が、誰かにぞっと握られていたことだけを、覚えている。
銀色の紐の巻かれた、その手首を。二つの手が、左右から。




