第3話 はじめての一撃
「セラ!」
考えるより先に、体が動いていた。
鎧猪が地面を蹴る。僕は荷物袋から煙玉をつかみ、鼻先めがけて投げつけた。白煙が弾け、巨体がわずかに向きをそらす。その隙にセラの袖を引いて、大木の陰に転がり込んだ。
五年間の荷物持ちで覚えたのは、戦うことじゃない。逃げる時間を稼ぐことだ。
「セラ、怪我は」
「へ、平気……ちょっと手がひりひりするだけ」
彼女は笑おうとした。でも唇が震えていて、うまく形にならなかった。
煙の向こうで、鎧猪が鼻を鳴らす。煙玉はあと一つ。走っても逃げきれない。あの巨体は、森の木を薙ぎ倒しながら追ってくる。
鎧猪の癖は、知っていた。荷物持ちとして、アルベルトさんたちの討伐に何度もついていったから。あの魔物は、突進すると真っ直ぐにしか走れない。曲がれない。
だから――
煙を突き破って、灰色の巨体が飛び込んできた。
「伏せて!」
セラの頭を抱えて、横へ跳ぶ。鉄の外殻が、僕たちのいた場所の大木に激突した。幹が裂け、木っ端が雨のように降り注ぐ。
避けきれなかった。外殻の端が、僕の脇腹をかすめた。
「――っ!」
息が詰まる。熱い痛みが、肋骨のあたりに広がった。
「ルーク!?」
「大丈夫……かすっただけ」
本当は、かすっただけでは済んでいない。息を吸うたびに、脇腹がきしむ。でも、セラの前で顔に出すわけにはいかなかった。
鎧猪は、大木に刺さった牙を引き抜こうと首を振っている。今の一撃で、少し頭がふらついているようだ。でも、それも時間の問題だ。
次は、避けられない。
「ルーク、逃げて」
セラが言った。
「あたしが引きつける。あたしがしくじったんだし。ルークまで巻き込んだら、あたし――」
「逃げない」
自分でも驚くほど、はっきりした声が出た。
「僕はもう、見えてるのに逃げるのはやめたんだ」
セラが目を見開く。
僕は地面に落ちた杖の破片を拾い上げ、遠くへ放り投げた。
「杖は、もうない」
「……っ」
「セラの手から撃つんだ。君の魔力は、君の手なら受け止められる」
「で、でも……もし腕が吹き飛んだら」
「吹き飛ばない」
「なんで言い切れるの!」
「見えてるから」
僕はまっすぐ彼女の目を見た。怖がって縮こまっているのに、彼女の体からは、それでも白金の光があふれている。
「大丈夫。君ならできるよ」
「……」
「もし失敗しても、僕が隣にいる。一人じゃない」
煙が晴れた。
鎧猪がこちらを見つけ、前脚で地面をかく。来る。
セラが、ゆっくりと立ち上がった。両手を前に突き出す。指先が震えている。
「……学院の先生はね、あたしに言ったの。『測れないものは、存在しないのと同じだ』って」
鎧猪が突進を始める。地響き。木々が揺れる。
「みんな、そう言った。だからあたし、笑ってたの。笑ってれば、気にしてないふりができるから」
二十歩。十五歩。
「でも、ルークは」
セラの手のひらに、光が灯った。
小さな火じゃない。白金の光そのものが、彼女の両手に集まっていく。
「ルークは、まぶしいって言った!」
十歩。
「いっ――けええええっ!!」
世界が、白く染まった。
音が消えた。風も、木々のざわめきも、すべてが光に飲み込まれた。
目を開けると――森に、一本の道ができていた。
セラの手の先から、まっすぐに。木々がなぎ倒され、地面がえぐれ、その先には森の外の空が見えている。
鎧猪の姿は、どこにもなかった。焦げた地面に、巨大な牙が一本だけ突き刺さっていた。
静寂。
セラは、両手を突き出したまま固まっていた。自分の手を見る。焦げ跡ひとつない、小さな手。
「……あたしの腕、ついてる」
「ついてるよ」
「魔法……撃てた」
「撃てたね」
セラの顔が、くしゃりと歪んだ。笑おうとしている。いつものように「えへへ」とごまかそうとしている。でも、うまくいかなかった。
「すごいよ、セラ」
僕がそう言った瞬間、彼女の目から、ぼろぼろと涙がこぼれた。
「……はじめて、言われた」
「え?」
「すごいって。生まれてはじめて、言われた……っ」
セラは両手で顔を覆って、子どものように泣いた。僕はどうしていいかわからず、ただ隣に座っていた。森を抜ける風が、焦げた匂いを運んでいく。
しばらくして、セラが顔を上げた。目は真っ赤で、鼻も赤くて、それでも――今までで一番いい顔で笑っていた。
「ルーク」
「うん」
「お試しは、おしまい」
彼女は、煤で汚れた手を差し出した。
「あたしと、本当のパーティ、組んでくれる?」
僕は、その手を握った。
触れた瞬間、彼女の心の奥がふっと見えそうになって、慰てて意識をそらす。それを見ていいのは、彼女が許してくれたときだけだ。
「よろしく、セラ」
「よろしくね、ルーク!」
帰り道。
「見て見て、ルーク!」
セラが人差し指を立てる。指先に、蠟燭ほどの小さな白い炎がぽっと灯った。揺れもしない、静かな炎。
「暴発しない……! 小さいのも出せる!」
「すごいな」
「えへへ、でしょ!」
セラは炎を消したりつけたりしながら、跳ねるように歩いた。さっきまで泣いていたのが嘘みたいだ。
つられて笑うと、脇腹がずきりと痛んだ。思わず足が止まる。
「……ルーク?」
セラの顔から、笑みが消えた。
「さっきの、かすっただけじゃないでしょ」
「いや、本当に――」
「うそ。顔、真っ青だよ」
有無を言わさず、セラは僕の荷物袋を奪い取った。中からポーションを見つけ出し、栓を抜いて押しつけてくる。
「飲んで。あと、荷物はあたしが持つ」
「それは僕の仕事で――」
「今日からは、パーティの仕事!」
セラは自分の体の半分ほどもある荷物袋を背負い、ふらつきながら歩き出した。
ポーションの苦い味が、喉を落ちていく。痛みが少しずつ引いていく。
五年間、荷物を誰かに持ってもらったことは、一度もなかった。
「……ねえ、ルーク」
前を歩くセラが、振り返らずに言った。
「ルークの才能、ひとつ見つけたかも」
「え?」
「ないしょ!」
夕日の中で、赤い髪が揺れた。その耳が少し赤かったのは、たぶん夕日のせいだけじゃなかった。
夕方。ベルナのギルドに戻ると、ノーラさんが籠を受け取って微笑んだ。
「薬草、ちゃんと集めてきたのね。えらいわ。……それで、その大きな包みは?」
僕は布をほどき、森で拾った牙をカウンターに置いた。
ノーラさんの笑顔が、凍りついた。
周りの冒険者たちが、ざわめき始める。
「おい……あれ、鎧猪の牙じゃねえか?」
「嘘だろ、Cランクの討伐対象だぞ」
「暴発女と荷物持ちが? 冗談だろ!」
ざわめきは、あっという間にギルド中に広がっていく。セラが「えへへ、また有名人!」と小声で笑う。今度の笑顔は、もう震えていなかった。
その人垣の向こう。酒場の奥のテーブルから、聞き覚えのある声がした。
「……ルーク?」
振り向くと、アルベルトさんがジョッキを持ったまま、立ち上がっていた。
いつもの爽やかな笑顔は、そこになかった。




