第25話 一日目(第3章 第4話)
審査の朝の東の森は、白い霧に沈んでいた。
旧街道の入り口に、いくつものパーティが集まっている。Dの審査を受けるのが五組。Bの審査を受けるのが二組。それぞれの前に、領都から来た審査官が一人ずつ立っていた。
「灯火」の前に立ったのは、五十がらみの女の人だった。
ひっつめた灰色の髪。使い込まれた革の胸当て。腰には短剣と、分厚い帳面。その体からは、何度も打ち直された鋼のような、落ち着いた銅色の光が立ち上っていた。
「『灯火』ですね。審査官のグレタです」
声には、余分なものが何もなかった。笑いも、しかめ面も。
「これから三日間、わたしはあなた方の後ろを歩きます。口は出しません。手も貸しません。ただし、あなた方の誰かの命に関わると判断したときは、その場で審査を打ち切ります。よろしいですね」
「……はい」
グレタさんは、一人ずつ、僕たちの顔を見た。セラの手の包帯に、フィオの大剣に、そして――武器らしい武器を何も持たず、大きな荷物袋を背負っただけの僕に。
その目は、一度も細まらなかった。笑うでも、呆れるでもなく。ただ、そこにあるものを、そのまま記録するように。
――この人は、公正だ。
それが、少しだけ嬉しかった。
「セドリックさんたち、もう行っちゃったね」
セラが、霧の奥を見ながら言った。「白翼」の白い外套は、一番最初に霧の中へと消えていた。いつもの穏やかな笑みで、一度だけこちらに会釈をして。
そして、もう一つの一団も。
「暁の翼」は、Bの審査の方だ。アルベルトさんは、以前よりもしっかりした足取りで先頭を歩いていた。すれ違うとき、「やあ、ルーク。お互い頑張ろう」と、いつもの爽やかな声。
その後ろに、鉄灰色の鎧。
ヴァルターは、何も言わなかった。ただ、すれ違うその一瞬だけ、僕を見た。こめかみのあたりを。――そういう風に、見えた。
「……ルーク」
セラが、僕の左の手首をつかんだ。
そして、そこに、小さな紐をくるりと巻きつけた。銀色の、細い紐。彼女の髪の先に結ばれているのと、そしてフィオの髪留めと、同じ色。
「……お守り。三人でおそろい。この前、あたしとフィオちゃんで買ったとき、もう一つ買っといたの」
「……ありがとう」
「えへへ」
その反対側で、フィオが、なぜかそわそわと足踏みしていた。
そして、意を決したように、すっと手を伸ばした。
僕の襟元へ。
「……襟、曲がってました」
それだけ言って、小さな指が、襟を丁寧に整えていく。その間、彼女は一度も僕の顔を見なかった。でも、その耳は、霧の中でもわかるくらい赤かった。
グレタさんは、それを、何も言わずに見ていた。
ただ、その帳面に、何も書き込まれなかったことだけは、わかった。
一つ目の課題は、東の森の中ほどにある湿地の、「棘背の大蜥蜴」の討伐だった。
背中一面に、人の腕ほどもある棘を生やした蜥蜴。その棘を飛ばして攻撃してくるため、近づけば盾が必要になる。前衛のいるパーティなら、盾で受けながら詰めればいい。
「灯火」には、その盾がない。
「……います。湿地の向こう岸。大きな倒木の影です」
フィオが、草むらに身を伏せながら、小さく告げた。
「……寝てます。でも、背中の棘は、寝てても、ちょっとだけ動いてる。……たぶん、音で起きます」
僕は、セラの白金の光を確かめた。朝から一発も撃っていない。手のひらの光も、穏やかに揃っている。七発はいける。
「……セラ。槍じゃなくて、針でいこう」
「針?」
「岩蜥蜴のときの、あの細いの。棘を一本ずつ、根元から射抜くんだ。棘がなくなれば、あいつはただの大きな蜥蜴だ」
セラが、目を丸くした。それから、にっと笑った。
「……やる!」
フィオが先頭で、湿地の縁を回り込む。その光が引き絞られるたびに、「そこ、足元が沈みます」「左の草、音がします」と、息だけの声が飛んでくる。
大蜥蜴の横顔が見える場所まで、一度も音を立てずにたどり着いた。
「……今だよ」
セラの指先から、縫い針ほどの光が、音もなく走った。
一本。二本。三本。
大蜥蜴の背中から、棘が、根元から弾かれて飛んでいく。その音で、大蜥蜴が飛び起きた。怒りの唸り。残った棘が、こちらへ向けて逆立つ。
「――棘、来ます! 正面から、六本!」
フィオの声。
「セラ、右の岩の陰へ! フィオは左の倒木!」
その声とほとんど同時に、二人が左右へ跳んだ。僕も、後ろの木の陰へ身を投げる。
さっきまで三人がいた場所に、六本の棘が、地面を穿つように突き刺さった。
「――セラ、岩の陰から、あと四本! それで棘はなくなる!」
「まかせて!」
岩の陰から、白金の針が、四つの光の線になって飛んだ。
棘を全部失った大蜥蜴が、わたわたと足を空振りさせる。そのただの大きな蜥蜴に、最後の一発――細く束ねた光の槍が、まっすぐに走った。
湿地に、静けさが戻った。
「……やった……!」
セラが、岩の陰から飛び出してきた。すぐに自分の手のひらを見る。赤くはなっていない。
「……針が七本と、槍が一つ。るーく、今の、あと何発?」
「……針なら、まだ十本はいける。槍なら、三つ」
「えへへ、余裕!」
その後ろで、グレタさんが、帳面に何かを書き込んでいた。そして、そのペンが、一瞬だけ止まった。
「……前衛なしで、か」
独り言のような声だった。でも、それはたぶん、この人から出た、初めての感想だった。
二つ目の課題は、素材の採取だった。
「月光茸」を十個。それと、「青眉草」を一束。
「……月光茸って、夜しか光らないんじゃなかったっけ? 昼間に、どうやって探すの?」
セラが首をかしげた。
「月光茸は、横倒しになった樮の木の、北側の根元にしか生えないんだ。それと、生えてるところの土は、わずかに生えないところより黒い」
「……なんで知ってるの?」
「五年間、荷物持ちだったから」
ここだけは、「見える」力は少しも関係なかった。ただ、五年分の、そういう細かいことの積み重ねだ。誰も気にも留めなかったけれど、たぶん、僕が一番自信を持って言えることだった。
月光茸は、午後の早いうちに十二個集まった。青眉草は、フィオが「こっちの方が、安全です」と導いた小さな沢で、すぐに一束になった。
グレタさんは、やはり何も言わなかった。ただ、僕が茸の根元の土を指でなぞっているとき、その帳面のペンが、少しだけ長く動いていた。
日が傾き始める前に、野営の場所を決めた。
小川のそばの、少しだけ高くなった平地。風下に大きな岩があって、煙がたまらない。川から少し離れているので、夜中に水が増えても大丈夫だ。
天幕を張る。焼けた石で竈を作る。乾いた小枝を山にして、後から足す太い薪を別に積む。水袋を一つずつ満たして、天幕の入り口と床の間に置く。
どれも、体が勝手に覚えていることだった。
グレタさんは、少し離れた岩に腰を下ろして、自分の小さな天幕を張りながら、それをじっと見ていた。
そして、夕飯のスープができたころ、初めて、自分から口を開いた。
「……一つ、聞いてもいいかしら」
「はい」
「あなたは、戦うときには何もしない。剣も抜かない。それなのに、あの二人は、あなたの声を待ってから動いていた。……あなたは、何を見ているの?」
答える前に、少しだけ迷った。
この人は、笑わない。それは、わかっていた。でも、審査官だ。「人の才能が光って見える」と答えたところで、それは測れない。記録できない。
「……仲間のことを、見ています」
それだけ、答えた。
グレタさんは、しばらく僕の顔を見ていた。それから、小さくうなずいて、それ以上は何も聞かなかった。
ただ、その帳面に、一行だけ、何かを書き足していた。
夜の見張りは、二人ずつの交代だった。
最初がセラとフィオ。次が僕とフィオ。フィオの勘があれば、夜の森でも、何かが近づく前にわかる。だから彼女だけは、二回、見張りに立つことになる。
「……それじゃ、フィオが大変だよ」
「……大丈夫です。その代わり、朝は、ごはんの用意を任せますので」
そう言って、フィオは小さく笑った。
夜半。
セラと交代して、焚火の前に座る。セラは「ふぁぁ」と大きなあくびをして、すぐに天幕の中で寝息を立て始めた。
焚火の向こうに、フィオ。膩を抱えて、ずっと闇の方を見ている。
しばらく、二人とも黙っていた。
こめかみが、少しだけ重かった。一日じゅう、二人の光を見続けたせいだ。でも、審査の前の夜ほどじゃない。まだ、大丈夫だ。
そう思っていたときだった。
「……ルークさん」
フィオが、焚火を回り込んで、僕の隣に座り直していた。
拳一つ分の距離。城壁の上と同じ。
「……目、閉じててください」
「……え?」
「こめかみ、また押さえてました。……今は、わたしが見ます。わたしは、目を閉じてても、見えるので」
その声は、小さかった。でも、少しも迷っていなかった。
「……ルークさんは、ずっとわたしたちを見てくれてます。だから、今だけは――わたしが、ルークさんを見ています」
……反則だ。
そんなことを言われたら、断れるはずがない。
「……少しだけ、なら」
目を閉じると、すぐに、体の重さが、どっと膨らんだ気がした。こめかみの奥に溜まっていた砂が、少しずつ、少しずつ、ほどけていく。
でも、光は、まだ見えていた。まぶたの裏で。
すぐ横に、琥珀色の光があった。穏やかで、温かくて、それでいて少しも緩んでいない。周りの闇を、ずっと聞いている。
その光のそばにいると、不思議と、こちらの光を見る力まで、少しずつ静かになっていくような気がした。
――フィオの隣にいると、背中のぶわっが静かになる。
城壁の上で彼女が言ったことを、ふと思い出した。
――それはたぶん、僕の方も、同じだ。
そこで、意識が途切れた。
――気づくと、頬の下に、何かやわらかいものがあった。
焚火は、小さくなっていた。それでも、まだたぶん十分はたっていない。
そして――頬の下のやわらかいものは、フィオの肩だった。
僕は、座ったまま、彼女の肩にもたれて眠っていたのだ。
「――っ、ご、ごめん――」
慌てて身を起こそうとすると、小さな声が、それを止めた。
「……動かないでください」
空洞の主の横で聞いたのと、同じ言葉だった。
でも、声は、まるで違った。震えていて、上ずっていて、それでいて、どこか必死だった。
「……まだ、交代まで、時間ありますから。……今、動かれたら、わたしの方が、後でどうしたらいいか、わからなくなるので……」
その説明は、たぶん、よくわからなかった。
でも、彼女の肩が、小さく、ずっと強張ったままだったことだけは、わかった。たぶん、僕がもたれてからずっと、一度も動いていないのだ。
それでも、琥珀色の光は、闇の方を向いたまま、少しも緩んでいなかった。ずっと、見張りを続けていたのだ。
「……ありがとう、フィオ」
そう言って、もう一度、そっとその肩に頭を預けた。
フィオの肩が、びくんと跳ねて、それから、少しだけ、力が抜けた。
「……はい」
その声が、焚火のはぜる音に紛れて、小さく、嬉しそうに聞こえた。
――そのときだった。
頬の下で、フィオの肩が、きゅっと固まった。
さっきまでとは違う、硬さだった。
目を開ける。琥珀色の光が、闇の奥へ――東の森の、もっともっと奥の方へと、きりきりと引き絞られていく。
「……フィオ?」
「……遠いです。ここから、すごく遠い。こちらには、来ません。でも……」
彼女は、闇の奥を見つめたまま、息を止めていた。
東の森の奥。Bの審査の区域。
――「暁の翼」がいる方角だ。
「……何かが、起きてます。たくさんの太鼓が、いっせいに鳴ったみたいな……それと、その中に、一つだけ、すごく大きいのが……」
そこで、彼女の声が、わずかに震えた。
「……旧坑道の下で聞いたのと、似てます」




