第24話 目として(第3章 第3話)
「……っ、つめたっ」
セラの肩が、びくんと跳ねた。
その夜の麦穂亭。僕の部屋の小さな机を挟んで、セラが両手を差し出していた。その手のひらに、癒し手から分けてもらった火傷の薄緑の軟膏を、右の指で少しずつ塗っていく。
「ごめん、痛かった?」
「ううん、痛くはない。つめたいだけ。……あと、ちょっと、くすぐったい」
セラは、笑いをこらえるように唇を結んでいた。でも、指が水ぶくれのそばを滑るたびに、こらえきれず「ふふっ」と声が漏れる。
自分で塗れる、と彼女は最初に言った。でも、両手のひらが両方とも焼けていては、片方を塗るためにもう片方を使うしかない。それで、片手の使える僕が塗ることになったのだ。片手しか使えない者同士、というのが、少しだけおかしかった。
フィオは、「……今日は、譲ります」と小さく言って、先に部屋へ戻っていった。その言い方が、少しだけ悪しそうで、少しだけ得意げだったのは、たぶん、昨日の朝の城壁のことがあるからだろう。
「……ねぇ、ルーク」
左の手のひらを塗り終えたところで、セラが言った。
「うん」
「ルークってさ。なんで、あたしたちのこと、そんなによく見てるの?」
右の手のひらへ、指を移しながら、少し考えた。
「……見えちゃうから、だけじゃないの?」
「それもあるけど。……でもたぶん、見ていたいんだと思う」
自分の口から出た言葉に、少し驚いた。
五年間、光は勝手に見えていた。見たくなくても、見えていた。でも、この子の光は――初めて会った夜に震えていた、あの白金の光は。それが今どんな風に揺れているのか、自分から、確かめたくなる。
「……セラが笑ってるとき、本当に笑ってるのかどうか。フィオが黙ってるとき、怖がってるのか、考えてるだけなのか。……そういうのを、ちゃんと知っていたいんだ。もう、見えてるのに何もしないのは嫌だから」
セラは、しばらく黙っていた。
それから、少しだけ、指を曲げて、僕の指先をそっと捕まえた。軟膏で、二人とも、ちょっとだけべたべただった。
「……ずるいなあ、ルークは。そういうの、さらっと言うんだもん」
「……ずるいのかな」
「ずるい!」
そう言って笑ったセラの光は、手のひらのあたりをのぞけば、どこまでも穏やかだった。
その夜。やっぱり、眠れなかった。
「一日に何発撃てる?」――セドリックの問いが、ずっと頭の中で鳴っていた。
宿を抜け出して、ギルドの裏の練習場へ向かう。夜は誰もいないはずの、土を踏み固めた小さな広場だ。
だが、そこには先客がいた。
ぶん、と、重たい風切りの音。
月明かりの下で、大きな体が、身の丈ほどもある大剣を振り下ろしていた。赤い光。見間違えるはずがない。
「……グレンさん」
大剣が、ぴたりと止まった。
グレンさんは、ゆっくりと振り返り、それから、気まずそうに頭をかいた。
「……見られちまったか。……こいつは、武器屋から借りたもんだ。自分のもんを買う前に、ちゃんと振れるのか確かめときたくてな」
「……振れてましたよ」
「うそつけ。振り下ろした後の足が、全然ついてこねえ。五年も盾ばっかり構えてたからな」
そう言いながらも、グレンさんの赤い光は、以前にはないほど、はっきりと強くなっていた。やっと自分の形に戻りかけているように。
二人で、練習場の端の丸太に腰を下ろした。
「……秋の審査、出るんだってな」
「はい」
「前衛がいねえんだろ」
当てられて、何も言えなかった。
グレンさんは、大剣を膝の上に横たえながら、夜空を見上げた。
「……先に言っとく。俺は、お前らの盾にはなれねえ。盾を捨てたばかりの奴が、人を守るとか言っても、笑い話だ。まずは、こいつをちゃんと振れるようにならなきゃならねえ」
「……頼むつもりは、なかったですよ」
それは本当だった。この人は今、ようやく自分の光の形を取り戻しつつある。その邪魔をしたくはなかった。
グレンさんは、少しだけ笑った。
「……だろうな。お前はそういう奴だ。……だから、代わりに、一つだけ言っとく」
その大きな手が、僕の肩を、痛めていない方の右肩を、軽く叩いた。
「前衛がいねえなら、前衛がいねえ戦い方をしろ。――お前、五年間、何してた?」
「……荷物持ちです」
「そうだ。俺たちの靴のすり減りを見て、リサの矢羽根を見て、俺の盾のひびを見てた。どこで誰が疲れてて、何がもうすぐ駄目になるのか。……誰も気づかねえうちに、全部見てたんだ」
グレンさんは、そこで、僕の目をまっすぐに見た。
「それが、お前の戦い方だろうが」
――あ。
頭の中で、何かが、かちりと音を立ててはまった。
「一日に何発撃てる?」
セラ自身にも、それはわからない。測定器にも測れない。
でも――僕には、見えていた。
十発目を撃ったとき、手のひらのあたりでだけ、白金の光がちりっと揺らいだ。あの揺らぎは、たぶん、もっと前から、もっと小さく始まっていたのだ。それを、ずっと見ていれば。
「……グレンさん。ありがとうございます」
「礼を言うのはこっちだ。……五年分な」
そう言って、グレンさんは立ち上がりかけ、――それから、もう一度、丸太に腰を下ろした。
その声が、少しだけ低くなった。
「……もう一つだけ。『暁の翼』に入った、鉄灰色の鎧の男だ」
「……伯爵家から来たっていう人ですか」
「ヴァルターって名乗ってた。……俺が抜ける前の日、あいつが俺のところに来たんだ。まだ『暁の翼』に入る前にな」
背中が、少し冷たくなった。
「……何を、聞かれたんですか」
「お前のことだ。……何が見えるのか。どこまで見えるのか。見たもんで、何をしたのか。……俺が「大剣だと言われた」って言ったら、あいつ、笑いもしないで、何かを書き留めてた」
笑わなかった。
それは、五年間、一度もなかったことだった。「見える」と言えば、誰もが笑った。笑わずに書き留めたのは――それが本当だと、最初から知っている者だけだ。
「……気をつけろよ。あいつは、お前を笑わねえ。それが一番、気味が悪い」
それだけ言うと、グレンさんは大剣を担いで、夜の練習場を出ていった。
翌日から、練習の仕方を変えた。
「――セラ、今の三発目で、右の手のひらの光が、少しだけ揺れた」
東の森の草地で、僕はセラの後ろに立ち、ずっと彼女の光だけを見ていた。
「えっ、うそ、全然痛くないよ?」
「痛くなる前に、揺れてるんだ。……たぶん、あと四発が、痛くならずに撃てる限界だと思う」
セラは半信半疑の顔で、それでも、言われたとおりに四発撃って、そこで手を下ろした。
そして、自分の手のひらを見つめた。
「……赤くなってない」
昨日は十発で水ぶくれができた手のひらが、今日は七発で、ほんのり温かいだけになっている。
それから半刻休んで、また始める。今度は五発で、光が揺れた。そこで止める。休む。また始める。
一日が終わるころには、だいたいの数が見えてきていた。しっかり休んだ後なら七発。疲れていれば五発。一日を通してなら、休みを挟んで二十と少し。大きい槍じゃなく、縫い針ほどの細い光なら、もっとたくさん。
「……すごい。あたし、自分のことなのに、全然知らなかった」
夕方の草地で、セラが、自分の手のひらを何度も開いたり閉じたりしながら言った。
それから、ふいにこちらを振り向いた。
「……ルークが見ててくれるなら、あたし、撃てる。三日間でも、もっとでも」
その笑顔は、夕焼けの光の中で、まぶしかった。
フィオとの練習も、変えた。
フィオが先頭で危険を告げる。僕がその後ろで、二人の光を見る。フィオの光がどちらへ引き絞られたか。セラの光がどれだけ残っているか。それを見て、「右をセラ、左は一度下がって」と声をかける。
前衛はいない。魔物の前に立ちはだかる者はいない。
でも、立ちはだからなくていいように動くことなら、できる。フィオが「来る」と言う前に、移る。セラが「痛い」と感じる前に、止める。
二十日のうちの十日が、そうして過ぎた。
左肩の包帯が取れた。
だが――その代わりに、別のものが、少しずつ積み重なっていた。
「……ルークさん」
練習の帰り道、フィオが、僕の顔を下から覗き込んだ。髪留めで寄せた前髪の下の、茶色の瞳が、少しだけ細められている。
「……こめかみ、さっきから、指で押さえてますよね」
――しまった。
自分でも気づかないうちに、右手が、こめかみに当てられていた。
一日じゅう、二人の光を見続ける。それは、一瞬だけ目を合わせて素質を読むよりも、ずっと軽いことのはずだった。でも、「そこにある」と感じるだけではなく、光の小さな揺らぎまで、じっと追い続ける。それを朝から夕方まで。十日間。
その重さは、砂を一粒ずつ積むように、こめかみの奥に溜まっていた。
「……大丈夫だよ。ちょっと目が疲れただけ」
そう答えてから、気づいた。
その言い方は、二十日前に、セラが手を背中に隠して言った「なんでもないよ」と、まったく同じ形をしていた。
フィオは、しばらく黙って僕を見ていた。その琥珀色の光が、少しだけ、僕の方へと引き絞られている。危険を告げるときの、あの形で。
「……わたしの背中、今、ちょっとだけ、ぶわってしてます」
「……――」
「……ルークさんの方を向くと。……それだけです」
それだけ言うと、フィオは、僕の袖を、いつもより少しだけ強くつまんだ。そして、麦穂亭に着くまで、一度も離さなかった。
審査の三日前。
ギルドで、ノーラさんが、審査に出るパーティの名簿を見せてくれた。
「『灯火』。『白翼』――これがセドリックさんのパーティね。それから「暁の翼」――あそこは、DじゃなくてBの審査の方。同じ三日間、同じ東の森で、もう少し奥の区域を使うわ」
同じ森。同じ三日間。
アルベルトさんと、あの鉄灰色の男――ヴァルターも、そこにいる。
「……ルークくん。無理しちゃだめよ」
ノーラさんが、いつもより少しだけ真剣な顔で言った。
その緑の光の奥で、封じ込められた小さな光が、少しだけ、ちらついた気がした。
その夜。
麦穂亭の部屋で、一人、窓の外を眺めていた。
隣の部屋に、白金と琥珀の光が、並んで穏やかに揺れている。壁越しでも、それはもう、追いかけようとしなくても、勝手に目に入ってくる。
――そのとき。
こめかみの奥で、何かが、ぶつんと弾けたような感触がした。
鼻の奥が、熱い。
手の甲で拭うと、月明かりの下で、それは黒く光っていた。
町外れの空き地で、初めてセラの心の奥まで深く見た、あの夜と同じ。でも今日は――誰にも触れていない。ただ、見ていただけなのに。
しばらく、窓の外を見たまま、動けなかった。
それから、手の甲を、水差しの水で静かに洗った。
隣の部屋の二つの光は、何も気づかずに、穏やかに揺れたままだった。
――大丈夫。三日間だけなら。
そう自分に言い聞かせた声が、セラの「なんでもないよ」よりも、ずっと、頼りなく聞こえた。




