第23話 測れないものの重さ(第3章 第2話)
夜明け前の城壁は、ひどく静かだった。
眠れなかった。セドリックという青年の声が、頭の中で何度も繰り返されていた。『見えると言う、荷物持ち』。なぜ、初めて会った人が、それを知っていたのか。
だから、まだ空が藍色のうちに宿を抜け出して、町を囲む城壁の上の通路を、あてもなく歩いていた。
そのときだった。
むこうから、琥珀色の光が、ものすごい速さで近づいてきた。
「……はっ、はっ……あっ」
フィオだった。背中には、あの大剣。額には汗。前髪は、昨日の銀の髪留めで、ちゃんと片側に寄せられている。
僕を見つけた瞬間、彼女の足がぴたりと止まった。そして、体が、踵を返しかけた。
「……フィオ、逃げなくていいよ」
「……に、逃げてません。今のは、走る向きを変えようとしただけです」
それを、たぶん逃げると言うのだと思う。
「……毎朝、走ってるの?」
「……はい。マルタさんに、毎朝、城壁一周分は走れって言われてたので。村には城壁なんてなかったので、ここに来てから、ようやく本当に一周できるようになりました」
大剣を背負ったままで。この町の城壁は、一周するのに大人の足でも半刻はかかる。
そのあと、しばらく、二人とも黙っていた。
フィオは、何かを言いたそうに、何度か口を開けては、また閉じていた。琥珀色の光が、少しずつ、少しずつ、縮んだり広がったりしている。
やがて、彼女は、城壁の石を見つめたまま、小さな声で言った。
「……昨日の夜。……見えちゃいました」
……やっぱり。
「……ごめんなさい。ちがうんです。見ようとしたんじゃなくて、たまたま窓を開けたら、ちょうど……それで、えっと……」
そこで、言葉が途切れた。
彼女は、一度、大きく息を吸った。空洞の主の横を通る前にしていたのと、同じ息の吸い方だった。
「……わたしも、隣、いいですか」
その言葉は、「どこから来るか」を告げるよりも、たぶんずっと勇気を使った声だった。
「……うん」
城壁の胸壁に、二人で並んで腰を下ろした。
フィオは、セラのように頭を乗せてくることはなかった。ただ、拳一つ分だけ空いた距離で、じっと座っている。そして、そっと、右手の指先だけを伸ばして、僕の袖の端をつまんだ。
それが、彼女の精一杯なのだと、わかった。
東の空が、少しずつ白んでいく。琥珀色の光は、もう縮んでもいなかったし、広がってもいなかった。ただ、穏やかに、そこにあった。
「……ルークさんの隣、好きです」
突然、フィオが言った。
「……えっ」
「――っ、ち、ちがいます! そういう意味じゃなくて! えっと、勘が! ルークさんの隣にいると、背中のぶわっていうのが、すごく静かになるんです! だから、勘が! 勘が好きって言ってるんです!」
その説明は、たぶん、彼女自身にもよくわかっていなかった。
そして、その耳は、朝焼けよりも赤かった。
「……そっか。じゃあ、よかった」
笑いそうになるのをこらえて、そう答えた。
「僕も、フィオが隣にいると、落ち着くよ。闇の中でも、君の光があれば迷わなかったから」
袖をつまむ指先に、むうっ、と力が入った。
それから、フィオは、「……一周、残ってるので!」と叫んで、ものすごい勢いで走り去っていった。
その背中で、不釣り合いな大剣が、がちゃがちゃと揺れていた。
その日の午前。
ギルドの一番奥の小さなテーブルで、ノーラさんが、秋の昇格審査の中身を詳しく教えてくれた。
「審査は三日間。東の森の、旧街道から奥。領都から来る審査官が、各パーティに一人ずつついて、ずっと見てるわ」
彼女は、一枚の紙をテーブルに広げた。
「課題は大きく四つ。一つ、指定された魔物の討伐。二つ、指定された素材の採取。三つ、二晩の野営。それから四つ目は――当日、審査官が出す、予告なしの課題」
「予告なし?」
「たとえば、道に迷った旅人の救助とか。怪我人の搬送とか。そのときの判断と、パーティの連携を見るのよ」
ノーラさんは、そこで一度、言葉を切った。
「……大事なのは、三日間、ずっと、ちゃんと動けるかどうか。一日目にどんなに派手に活躍しても、三日目に動けなくなったら、それで終わり。審査官は、むしろそこを一番厳しく見るの」
「……三日間」
セラが、小さく繰り返した。
「……だいじょうぶだよ! あたしが全部撃ち落とせばいいんでしょ?」
「……三日間、ずっと?」
僕がそう言うと、セラは「うっ」と言葉に詰まった。
「灯火」には、前衛がいない。
それは、二人ともうすうすわかっていたことだった。セラは後ろから撃つ魔法使い。フィオは先頭で危険を告げる斥候。そして僕は――荷物持ちだ。魔物の前に立ち、仲間が撃つまでの時間を稼ぐ者が、一人もいない。
これまでは、それでもなんとかなってきた。でもそれは、一日で終わる戦いだったからだ。
「……練習しよう」
僕は言った。
「肩が治るまでは、僕は見てるだけになるけど。三人で何ができて、何ができないのか。審査までに、ちゃんと確かめておきたい」
その午後。東の森の入り口に近い、開けた草地。
「――いっけえぇ!」
セラの両手から、白金の槍が飛んだ。
草地の向こうに積んだ、人の背丈ほどの岩。その真ん中を、光の槍が音もなく貫いた。岩には、拳ほどの円い穴が、きれいに開いている。
「……五発目! まだまだ!」
セラは、早くも次の岩に向き直っていた。その横顔は、楽しそうだった。でも、少しだけ、急いでいるようにも見えた。
その少し先では、フィオが大剣を振っていた。
いや、振っている、というよりも、振られていた。大剣が弧を描くたびに、小さな体がその重さに引っ張られ、足が半歩ずつ流れていく。速い。力もある。でも、振り終わったあと、次の動きに移るまでに、一拍の隙ができる。
「……はぁっ、はぁ……」
「フィオ、少し休もう」
「……だ、大丈夫です……」
僕は、彼女の琥珀色の光をじっと見ていた。
勘の光は、もう開花している。でも、その光の、もう少し深いところ。彼女の体そのものに寄り添うような光は、大剣を振るたびに、少しずつ軸からずれていくように見えた。
この子の体は、本当は、もっと軽い剣を、もっと速く振るためにできている。
でも、それは言えなかった。あの大剣は、マルタさんから預かったものだ。「いつか返しに行く」と決めたものだ。それを「合ってない」と言うのは、たぶん、彼女の二年間を否定することになる。
「――十発目!」
セラの声。白金の槍が、また一つ岩を穿つ。
その瞬間だった。
セラの白金の光が、手のひらのあたりでだけ、ちりっ、と不自然に揺らいだ。
そして、セラは、何事もなかったような顔で、両手をさっと背中に回した。
「……ふぅ。ちょっと休憩!」
その、あまりにも自然な仕草が、かえって引っかかった。
「……セラ」
「ん? なに?」
「手、見せて」
セラの笑顔が、ほんの一瞬だけ、固まった。
「……なんでもないよ?」
「うん。それでも、見せてほしい」
しばらく、セラは黙っていた。それから、観念したように、ゆっくりと両手を前に出した。
僕は右手で、その手をそっと、下から支えるように取った。触れるだけなら、心の奥までは見ない。そう意識して、ただ、その手のひらを見つめた。
――赤かった。
両方の手のひらが、強い日差しに一日じゅう当てられたように、腫れたように赤くなっている。中指の付け根あたりには、小さな水ぶくれが二つ。
「……これ、いつから――」
「……穴の上で、石をいっぱい割ったときから、かな」
セラは、笑ってごまかすように、少しだけ肩をすくめた。
「素手で強いのをいっぱい撃つと、手が熱くなるの。前はそんなに撃たなかったから、気づかなかったんだけど……たぶん、魔力が、通り道の手をちょっとずつ焼いちゃうんだと思う」
杖が砕けたのも、測定器にひびが入ったのも、同じ理由だった。この子の魔力は、どんな器にも収まらない。
だから杖を捨てた。そうしたら今度は――彼女自身の手が、その器になっていたのだ。
「……痛い?」
「ちょっとだけ。でも、ひと晩寝れば、だいたい治るよ。だから大丈夫――」
そこで、セラの声が、ふいに小さくなった。
「……ルーク。手、ずっと握ってるよ」
そこでようやく、自分が、彼女の両手を包むように持ったままだったことに気づいた。
「あっ――ご、ごめん」
慌てて離そうとすると、今度はセラの指が、きゅっと僕の指を握り返していた。
「……あと、ちょっとだけ。ルークの手、ひんやりしてて、気持ちいいから」
セラは、少しだけうつむいていた。その頬が、手のひらと同じくらい赤いのは、たぶん、午後の日差しのせいだけじゃなかった。
と――
「……あの」
すぐ後ろから、声がした。
振り向くと、フィオが、大剣を地面に突き立てたまま、じっとこちらを見ていた。その琥珀色の光が、めずらしく、ぶすっと膨らんでいるように見える。
「……わたしも、手、痛いです。大剣、振ったので」
「えっ」
「……痛いです」
無言で、右手が差し出される。
セラと、フィオと。二人の間で、片手しか使えない僕は、また動けなくなった。
――そのとき。
フィオの光が、ぴくりと、森の奥へ向きを変えた。
「……来ます。右の奥から、野狼が、七匹。……それと、その後ろに、人が四人」
空気が、変わった。
セラが、とっさに手を引いて構えようとする。その手の赤さを見て、僕は「待って」と止めた。
「……人がいるなら、たぶん、追い立ててる側だ」
その言葉のとおりだった。
右の茂みから、野狼の群れが飛び出してきた。だが、その足は、こちらではなく、草地を横切る方向へ向いている。何かに追われているのだ。
そして――その先に、白い外套が、四つ現れた。
「――盾、前へ。右翼、二歩開け」
穏やかな声だった。
その一声で、白い外套の一人が大盾を構えて前に出る。右の一人が、きっちり二歩、横に開く。野狼の群れが、その開いた隙間へと、吸い込まれるように流れ込んでいく。
「――今」
一番後ろの魔術師が、杖を振る。地面から土の壁がせり上がり、野狼の退路を塞ぐ。そして――
金髪の青年が、剣を抜いた。
その剣が、七つの弧を描いた。
それだけだった。
穏やかな午後の草地に、七匹の野狼が、音もなく横たわっていた。
見ていて、気持ちのいい光景ではなかった。
むしろ、背筋が冷たくなるほど、美しかった。誰も何も後筋をしていない。誰も無理をしていない。一人一人が、自分のやることだけを、その通りにやっている。
金髪の青年――セドリックが、剣を鞘に収めながら、こちらを振り向いた。
「――やあ。練習の邪魔をしたなら、すまない」
その声には、息一つ乱れていなかった。
「……いえ。美しい連携でした」
それは、本心だった。
セドリックは、少しだけ驚いたように眉を上げ、それから、純粋に嬉しそうに笑った。
「そう言ってもらえると嬉しい。――我々は全員、自分の数値を知っている。何ができて、何ができないか。どれだけ動けば、どれだけ疲れるか。それを知っていれば、判断を間違えることはない」
そう言って、彼は自分の胸を、軽く指で叩いた。
「数値とは、そういうものだ。自分を信じるための、確かな地面だ」
その橙色の光は、少しも揺らいでいなかった。
アルベルトさんの「数値は嘘をつかない」とは、同じ言葉なのに、まるで違う。この人は、本当に、数値と一緒に立っている。
そして――
セドリックの視線が、ふと、下へ落ちた。
セラの、背中で組まれた両手へ。
「……少し、聞いてもいいかな。『測定不能』の君」
セラの肩が、びくりと跳ねた。
「……なに?」
「さっきの光の槍。岩を穿つのを、森の奥から見ていたよ。比べるのも無意味なほどの威力だ。――だからこそ、聞きたい」
その声は、どこまでも穏やかだった。悪意も、嘲りもない。
ただ、その問いだけが、刃物のように鋭かった。
「君の魔法は――一日に、何発撃てる?」
セラは、答えなかった。
答えられなかったのだと、僕にはわかった。彼女自身も、それを知らない。測れない力は、測れないからこそ、自分でもその終わりがわからない。
セドリックは、その沈黙を、ただ静かに受け止めた。
「……そうか。自分でもわからないのか」
それは、勝ち誇った声ではなかった。むしろ、少しだけ、気の毒そうにさえ聞こえた。
「審査は三日間だ。――測れない力は、測れない分だけ、いつ尽きるかもわからない。それを、仲間に賭けさせるつもりかい?」
それだけ言うと、セドリックは一礼して、白い外套を翻した。三人の仲間が、当然のようにその後ろに続き、森の奥へと消えていく。
草地には、風だけが残った。
「……何、あれ。嫌な感じ。……嫌な感じなのに、嫌な人じゃないのが、一番嫌」
セラが、ぶすっと頰を膨らませた。
でも、その背中で組まれた手が、小さく震えているのを、僕は知っていた。
白金の光が、手のひらのあたりでだけ、まだ少し、ちりちりと揺らいでいた。
――一日に、何発撃てる?
その答えを、僕も、まだ知らなかった。




