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数値がすべての世界で、僕にだけ『測定不能』の才能が見える 〜見捨てられた少女たちと成り上がる〜  作者: guil727


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第22話 片腕の休日(第3章 第1話)

「はい、ルーク。あーん」

朝の麦穂亭。目の前に、湯気の立つ匙が差し出されていた。

匙の向こうで、セラがにこにこと笑っている。

「……セラ。僕、右手は使えるよ」

「知ってる!」

知っていて、やっているらしい。

左肩は、癒し手に「十日は大人しく」と念を押されて、今は包帯で首から吊っている。通気坑で無理やり登ったせいで、状態は穴の底で痛めたときより悪くなっていた。でも、食事くらいは片手でもできる。

「だって、あたしに何も言わないで、一人で穴に下りて、一人で肩をこわしたんだもん。これは、罰です!」

「罰なの?」

「罰です! はい、あーん!」

周りの席の宿泊客たちが、にやにやしながらこちらを見ている。宿の主人は、カウンターの奥で、もう完全に手を止めていた。

これは、早く終わらせた方がいい。

観念して口を開けかけた、そのときだった。

すっ、と、右から、もう一つ匙が差し出された。

……フィオだった。

何も言わない。少しもこちらを見ない。前髪で目を隠したまま、ただ黙って、スープを一杯すくった匙を、僕の口元へ伸ばしている。

その耳が、真っ赤だった。

「……フィオちゃん?」

セラの笑顔が、わずかに固まる。

「……ルークさんは、わたしを引き上げようとして、じゃなくて……わたしが引き上げたんですけど……でも、左の杭をつかんだのは、わたしが『左へ』って言ったからで……だから……、えっと……」

言いたいことは、何となくわかった。たぶん、この肩には自分にも責任がある、と言いたいのだ。

でも、結論は一つだけだった。

「……だから、あーん、です」

右に、フィオの匙。左に、セラの匙。

その真ん中で、僕は動けなくなっていた。

「……フィオちゃん。あたしが先だったよね?」

「……はい。でも、先に口に入った方が、先です」

「そういうルール!?」

セラが、匙を持ったまま身を乗り出す。フィオは一歩も引かない。開花してから、この子は、こういうところで少しだけ強くなった気がする。

「……二人とも、ありがとう。じゃあ――」

僕は、右手で自分の匙を取った。

「――自分で食べるね」

「「えーっ!?」」

二人の声が、きれいにそろった。

そのあと、結局、二人から交互に一口ずつもらうことで、ようやく事態は収まった。宿の主人が、なぜかパンを一つおまけしてくれた。

その日の午後、セラとフィオは二人で市場へ出かけていった。

「ルークは寝てて! 十日は大人しく、でしょ!」

そう言い残して。女の子同士の買い物だから、とセラは得意げだった。フィオは、半ば引きずられていた。

宿の部屋で、一人で天井を眺める。

静かだった。こんなに静かなのは、何日ぶりだろう。十日前まで、これが当たり前だったのに。

夕方。廊下から、にぎやかな足音が戻ってきた。

「ルーク! ただいま! 見て見て!」

扉が勢いよく開いて、セラが飛び込んできた。そして、自分の背中に隠れようとする小さな影を、ぐいっと前に押し出した。

「じゃーん!」

フィオだった。

いつものように、体を縮めている。でも、一つだけ、違うところがあった。

前髪が、なかった。

いや、ある。ただ、小さな銀色の髪留めで、片側に寄せられていた。いつもは半分隠れていた両目が、はじめて、ぜんぶ見えている。

「……あ、あの……セラさんが……せっかく前を向いて歩くんだから、って……」

フィオは、両手で服の裾を握りしめていた。その視線が、床と僕の顔の間を、せわしなく行ったり来たりする。

「……変、ですか」

変じゃない。

そう言おうとして、言葉が出てこなかった。

何度もその目を見てきたはずだった。岩場の丘でも、闇の中でも。でも、こんな風に、夕方の窓の光の中で、まっすぐに見たのは、初めてだった。

「……よく見えるよ」

ようやく、それだけ言えた。

「君の目。……そんなにきれいな茶色だったんだね」

――消えた。

いや、消えたように見えた。琥珀色の光が、あの逃げ足で、一瞬にして廊下の向こうへ吹き飛んでいったのだ。

「……あ。逃げた」

セラが、呆けたように言った。

三つ数えるくらいの間があって。

さっきとは反対側の廊下の角から、琥珀色の光が、そっと顔を出した。少しだけ息を切らしている。宿を一周してきたらしい。

「……逃げてません。ちょっと、走っただけです」

そう言って、フィオはセラの背中にぴったりとくっついた。髪留めは、外さなかった。

セラは、「えへへ、あたしが選んだんだよ!」と胸を張っていた。それから、ふと、自分の赤い髪の先を指でつまんだ。

「……ねえ、ルーク」

「うん?」

「……あたしの髪は? 今日、フィオちゃんとおそろいの紐、付けてみたんだけど」

言われて、はじめて気づいた。片側の毛先に、小さな銀色の紐が結ばれている。

「……セラは、いつもきれいだよ」

口にしてから、しまった、と思った。

セラの顔が、髪と同じ色になっていく。

「――っ、そ、そういうこと、普通に言わないでよぉ!」

セラは、背中のフィオごと、くるりと後ろを向いた。いつも抱きついてくるのは彼女の方なのに。

……どうやら、自分から行くのは平気でも、言われるのには弱いらしい。

その夜。

寝付けなくて、宿の裏口の石段に出た。空には、あの通気坑から見上げたのと同じ星が並んでいる。

「……やっぱり、いた」

振り向くと、裏口の扉のところに、セラが立っていた。寝間着の上に、毛布を一枚羽織っている。

「ルークの光は見えないけど、ルークがどこにいるかは、なんとなくわかるようになった」

そう言って、彼女は僕の右側に腰を下ろした。痛めていない方の側を、ちゃんと選んで。

しばらく、二人とも黙って星を見ていた。

「……あのときね」

やがて、セラが、小さな声で言った。

「穴の縁が崩れて、ルークが見えなくなったとき。……あたし、心臓が止まるかと思った。それからずっと、通気坑の上で石を割ってるときも、もう会えなかったらどうしようって、そればっかり……」

そこで、彼女の声が少し揺れた。

「……昔は、一人になるのが怖かったんだ。誰にも必要とされないのが。でも今は、ちがうの。……ルークがいなくなるのが、一番怖い」

こつん、と、右の肩に、小さな重さが乗った。

赤い髪が、頬をくすぐる。外の空気は冷たいのに、そこだけが、温かい。

「……今日だけ、こうしてていい?」

「……うん」

それしか、言えなかった。

自分の心臓の音が、うるさいくらいに聞こえていた。空洞の主の横を通ったときよりも、たぶん、ずっと。

すぐ横で、白金の光が、蠟燭のように穏やかに揺れていた。初めて会った夜の、あの震えていた光とは、まるで違う。

「……あたしね、もうルークのこと、手放さないからね」

「……え?」

「――パーティとして! パーティとしてだからね!」

肩の上で、セラの頭がぶんぶんと動いた。それでも、彼女は頭をどけなかった。

――そのとき。

面している二階の窓の内側で、琥珀色の光が、びくりと跳ねたのが見えた。

そして、すっと、窓の下へと沈んでいった。

……明日の朝ごはんは、たぶん、大変なことになる。

翌朝。

予想通りだった朝ごはんをどうにか乗り越えて、三人でギルドに顔を出すと、カウンターでノーラさんが手招きした。

「ちょうどよかった。――これ、見て」

掲示板の一番上に、新しい貼り紙があった。

――秋のパーティ昇格審査。二十日後。領都から審査官を招き、東の森で三日間の実地試験を行う。

「個人のランクとは別に、パーティとしての格を認めてもらうための試験よ。『灯火』は今、パーティとしてはE扱い。ここで合格すれば、Dランクパーティとして認められて、受けられる依頼が一気に広がるわ」

「……二十日後」

左肩が治るのが十日。間には合う。

セラとフィオと、顔を見合わせる。二人とも、もうやる気の顔だった。

そのとき、ホールの一角が、ざわりと波だった。

「暁の翼」のテーブルだ。アルベルトさんの隣に、見たことのない男が座っていた。

背が高い。鉄灰色の鎧。背中には、使い込まれた盾と剣。周りから「測定値Bだとよ」「グレンの代わりか」と囁きが漏れている。アルベルトさんは、以前と変わらない、いや以前より少しだけ明るい笑顔で、仲間たちと話していた。

その男の光は、鉄と同じ色をしていた。冷たくて、鈍くて、ただ強い。

そして――その男は、まっすぐにこちらを見ていた。

セラでも、フィオでもなく。僕を。

値踏みをするような、それでいて何かを確かめるような目。五年間、笑われたり無視されたりしたことは何度もあった。でも、こんな風に見られたことは一度もなかった。

――まるで、僕のことを、もう知っているみたいに。

「……ルークさん」

フィオが、僕の袖を小さく引いた。琥珀色の光が、うっすらと張り詰めている。

「……あの人、ちょっとだけ、嫌な感じがします。危ない、じゃなくて……冷たい」

そのとき。

ギルドの扉が、大きく開いた。

入ってきたのは、白い外套を揃いで羽織った四人組だった。どの外套にも、金糸で同じ紋章が刺繍されている。磨き上げられた武具。汚れ一つない靴。辺境の冒険者には、一生縁のないような、そういう装い。

先頭の一人が、カウンターの前で足を止めた。

陰のない金髪。端正な顔立ち。年のころは、僕と同じくらいだろうか。その体からは、磨かれた剣のような、まぶしい橙色の光が立ち上っていた。

「ローゼン子爵家三男、セドリックだ。秋の昇格審査に、この町から参加させてもらう。――登録を」

ノーラさんが、わずかに眉を寄せながらも、紙を差し出す。

「……領都から、わざわざ辺境の審査に?」

「辺境で実績を積めと、父上のお言いつけでね」

セドリックと名乗った青年は、さらさらと名前を書きながら、もう片方の手で、もう一つの貼り紙をなぞった。

そして、ゆっくりと、振り返った。

その視線が、セラを、フィオを、そして最後に、僕を捉えた。

「――君たちが、噂の『灯火』か」

その声には、敵意も、嗤笑もなかった。ただ、珍しい虫でも見つけたような、純粋な興味だけがあった。

「『測定不能』に、『先触れ』。そして――『見える』と言う、荷物持ち」

――なぜ、それを。

心臓が、ひとつ、大きく鳴った。

「数字のない者たちが、審査でどこまでやれるのか。――楽しみにしているよ」

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