第22話 片腕の休日(第3章 第1話)
「はい、ルーク。あーん」
朝の麦穂亭。目の前に、湯気の立つ匙が差し出されていた。
匙の向こうで、セラがにこにこと笑っている。
「……セラ。僕、右手は使えるよ」
「知ってる!」
知っていて、やっているらしい。
左肩は、癒し手に「十日は大人しく」と念を押されて、今は包帯で首から吊っている。通気坑で無理やり登ったせいで、状態は穴の底で痛めたときより悪くなっていた。でも、食事くらいは片手でもできる。
「だって、あたしに何も言わないで、一人で穴に下りて、一人で肩をこわしたんだもん。これは、罰です!」
「罰なの?」
「罰です! はい、あーん!」
周りの席の宿泊客たちが、にやにやしながらこちらを見ている。宿の主人は、カウンターの奥で、もう完全に手を止めていた。
これは、早く終わらせた方がいい。
観念して口を開けかけた、そのときだった。
すっ、と、右から、もう一つ匙が差し出された。
……フィオだった。
何も言わない。少しもこちらを見ない。前髪で目を隠したまま、ただ黙って、スープを一杯すくった匙を、僕の口元へ伸ばしている。
その耳が、真っ赤だった。
「……フィオちゃん?」
セラの笑顔が、わずかに固まる。
「……ルークさんは、わたしを引き上げようとして、じゃなくて……わたしが引き上げたんですけど……でも、左の杭をつかんだのは、わたしが『左へ』って言ったからで……だから……、えっと……」
言いたいことは、何となくわかった。たぶん、この肩には自分にも責任がある、と言いたいのだ。
でも、結論は一つだけだった。
「……だから、あーん、です」
右に、フィオの匙。左に、セラの匙。
その真ん中で、僕は動けなくなっていた。
「……フィオちゃん。あたしが先だったよね?」
「……はい。でも、先に口に入った方が、先です」
「そういうルール!?」
セラが、匙を持ったまま身を乗り出す。フィオは一歩も引かない。開花してから、この子は、こういうところで少しだけ強くなった気がする。
「……二人とも、ありがとう。じゃあ――」
僕は、右手で自分の匙を取った。
「――自分で食べるね」
「「えーっ!?」」
二人の声が、きれいにそろった。
そのあと、結局、二人から交互に一口ずつもらうことで、ようやく事態は収まった。宿の主人が、なぜかパンを一つおまけしてくれた。
その日の午後、セラとフィオは二人で市場へ出かけていった。
「ルークは寝てて! 十日は大人しく、でしょ!」
そう言い残して。女の子同士の買い物だから、とセラは得意げだった。フィオは、半ば引きずられていた。
宿の部屋で、一人で天井を眺める。
静かだった。こんなに静かなのは、何日ぶりだろう。十日前まで、これが当たり前だったのに。
夕方。廊下から、にぎやかな足音が戻ってきた。
「ルーク! ただいま! 見て見て!」
扉が勢いよく開いて、セラが飛び込んできた。そして、自分の背中に隠れようとする小さな影を、ぐいっと前に押し出した。
「じゃーん!」
フィオだった。
いつものように、体を縮めている。でも、一つだけ、違うところがあった。
前髪が、なかった。
いや、ある。ただ、小さな銀色の髪留めで、片側に寄せられていた。いつもは半分隠れていた両目が、はじめて、ぜんぶ見えている。
「……あ、あの……セラさんが……せっかく前を向いて歩くんだから、って……」
フィオは、両手で服の裾を握りしめていた。その視線が、床と僕の顔の間を、せわしなく行ったり来たりする。
「……変、ですか」
変じゃない。
そう言おうとして、言葉が出てこなかった。
何度もその目を見てきたはずだった。岩場の丘でも、闇の中でも。でも、こんな風に、夕方の窓の光の中で、まっすぐに見たのは、初めてだった。
「……よく見えるよ」
ようやく、それだけ言えた。
「君の目。……そんなにきれいな茶色だったんだね」
――消えた。
いや、消えたように見えた。琥珀色の光が、あの逃げ足で、一瞬にして廊下の向こうへ吹き飛んでいったのだ。
「……あ。逃げた」
セラが、呆けたように言った。
三つ数えるくらいの間があって。
さっきとは反対側の廊下の角から、琥珀色の光が、そっと顔を出した。少しだけ息を切らしている。宿を一周してきたらしい。
「……逃げてません。ちょっと、走っただけです」
そう言って、フィオはセラの背中にぴったりとくっついた。髪留めは、外さなかった。
セラは、「えへへ、あたしが選んだんだよ!」と胸を張っていた。それから、ふと、自分の赤い髪の先を指でつまんだ。
「……ねえ、ルーク」
「うん?」
「……あたしの髪は? 今日、フィオちゃんとおそろいの紐、付けてみたんだけど」
言われて、はじめて気づいた。片側の毛先に、小さな銀色の紐が結ばれている。
「……セラは、いつもきれいだよ」
口にしてから、しまった、と思った。
セラの顔が、髪と同じ色になっていく。
「――っ、そ、そういうこと、普通に言わないでよぉ!」
セラは、背中のフィオごと、くるりと後ろを向いた。いつも抱きついてくるのは彼女の方なのに。
……どうやら、自分から行くのは平気でも、言われるのには弱いらしい。
その夜。
寝付けなくて、宿の裏口の石段に出た。空には、あの通気坑から見上げたのと同じ星が並んでいる。
「……やっぱり、いた」
振り向くと、裏口の扉のところに、セラが立っていた。寝間着の上に、毛布を一枚羽織っている。
「ルークの光は見えないけど、ルークがどこにいるかは、なんとなくわかるようになった」
そう言って、彼女は僕の右側に腰を下ろした。痛めていない方の側を、ちゃんと選んで。
しばらく、二人とも黙って星を見ていた。
「……あのときね」
やがて、セラが、小さな声で言った。
「穴の縁が崩れて、ルークが見えなくなったとき。……あたし、心臓が止まるかと思った。それからずっと、通気坑の上で石を割ってるときも、もう会えなかったらどうしようって、そればっかり……」
そこで、彼女の声が少し揺れた。
「……昔は、一人になるのが怖かったんだ。誰にも必要とされないのが。でも今は、ちがうの。……ルークがいなくなるのが、一番怖い」
こつん、と、右の肩に、小さな重さが乗った。
赤い髪が、頬をくすぐる。外の空気は冷たいのに、そこだけが、温かい。
「……今日だけ、こうしてていい?」
「……うん」
それしか、言えなかった。
自分の心臓の音が、うるさいくらいに聞こえていた。空洞の主の横を通ったときよりも、たぶん、ずっと。
すぐ横で、白金の光が、蠟燭のように穏やかに揺れていた。初めて会った夜の、あの震えていた光とは、まるで違う。
「……あたしね、もうルークのこと、手放さないからね」
「……え?」
「――パーティとして! パーティとしてだからね!」
肩の上で、セラの頭がぶんぶんと動いた。それでも、彼女は頭をどけなかった。
――そのとき。
面している二階の窓の内側で、琥珀色の光が、びくりと跳ねたのが見えた。
そして、すっと、窓の下へと沈んでいった。
……明日の朝ごはんは、たぶん、大変なことになる。
翌朝。
予想通りだった朝ごはんをどうにか乗り越えて、三人でギルドに顔を出すと、カウンターでノーラさんが手招きした。
「ちょうどよかった。――これ、見て」
掲示板の一番上に、新しい貼り紙があった。
――秋のパーティ昇格審査。二十日後。領都から審査官を招き、東の森で三日間の実地試験を行う。
「個人のランクとは別に、パーティとしての格を認めてもらうための試験よ。『灯火』は今、パーティとしてはE扱い。ここで合格すれば、Dランクパーティとして認められて、受けられる依頼が一気に広がるわ」
「……二十日後」
左肩が治るのが十日。間には合う。
セラとフィオと、顔を見合わせる。二人とも、もうやる気の顔だった。
そのとき、ホールの一角が、ざわりと波だった。
「暁の翼」のテーブルだ。アルベルトさんの隣に、見たことのない男が座っていた。
背が高い。鉄灰色の鎧。背中には、使い込まれた盾と剣。周りから「測定値Bだとよ」「グレンの代わりか」と囁きが漏れている。アルベルトさんは、以前と変わらない、いや以前より少しだけ明るい笑顔で、仲間たちと話していた。
その男の光は、鉄と同じ色をしていた。冷たくて、鈍くて、ただ強い。
そして――その男は、まっすぐにこちらを見ていた。
セラでも、フィオでもなく。僕を。
値踏みをするような、それでいて何かを確かめるような目。五年間、笑われたり無視されたりしたことは何度もあった。でも、こんな風に見られたことは一度もなかった。
――まるで、僕のことを、もう知っているみたいに。
「……ルークさん」
フィオが、僕の袖を小さく引いた。琥珀色の光が、うっすらと張り詰めている。
「……あの人、ちょっとだけ、嫌な感じがします。危ない、じゃなくて……冷たい」
そのとき。
ギルドの扉が、大きく開いた。
入ってきたのは、白い外套を揃いで羽織った四人組だった。どの外套にも、金糸で同じ紋章が刺繍されている。磨き上げられた武具。汚れ一つない靴。辺境の冒険者には、一生縁のないような、そういう装い。
先頭の一人が、カウンターの前で足を止めた。
陰のない金髪。端正な顔立ち。年のころは、僕と同じくらいだろうか。その体からは、磨かれた剣のような、まぶしい橙色の光が立ち上っていた。
「ローゼン子爵家三男、セドリックだ。秋の昇格審査に、この町から参加させてもらう。――登録を」
ノーラさんが、わずかに眉を寄せながらも、紙を差し出す。
「……領都から、わざわざ辺境の審査に?」
「辺境で実績を積めと、父上のお言いつけでね」
セドリックと名乗った青年は、さらさらと名前を書きながら、もう片方の手で、もう一つの貼り紙をなぞった。
そして、ゆっくりと、振り返った。
その視線が、セラを、フィオを、そして最後に、僕を捉えた。
「――君たちが、噂の『灯火』か」
その声には、敵意も、嗤笑もなかった。ただ、珍しい虫でも見つけたような、純粋な興味だけがあった。
「『測定不能』に、『先触れ』。そして――『見える』と言う、荷物持ち」
――なぜ、それを。
心臓が、ひとつ、大きく鳴った。
「数字のない者たちが、審査でどこまでやれるのか。――楽しみにしているよ」




