第21話 数値は嘘をつかない(第2章 アルベルト視点)
拍手が、やまなかった。
アルベルトは、いつもの席で、いつものようにジョッキを握っていた。口元には、穏やかな笑み。町の誰もが知っている、「暁の翼」のリーダーの顔だ。
ホールの中央では、あの臆病な小娘が、赤い髪の魔法使いの背中に隠れている。その隣に、元荷物持ちが立っている。少し困ったような顔で、でも、どこか誇らしげに。
――運がいい。
アルベルトは、そう思った。本当に、そう思ったのだ。
灰角の大熊のときも、そうだった。あの赤い髪の少女の魔法が、たまたま当たった。それを学院の学生たちが大げさに言いふらした。そういうことは、冒険者をしていればよくある。
数値は、嘘をつかない。
それが、アルベルトがこの十年、信じてきたものだった。
辺境の小さな商家の三男だった。剣を教えてくれる人も、良い装備を買う金もなかった。それでも、測定器の数字は、積み上げたぶんだけ正直に上がっていった。FからEへ。Dへ。そして二年前、ついにCへ。
平民の生まれで、ここまで来た者は、この町にはそういない。
だからこそ、アルベルトは、数字に出ないものを信じなかった。「才能の光が見える」などと言う荷物持ちの少年を、優しくたしなめてきたのも、そのためだ。現実を見ない者は、いつか自分で自分を傷つける。それは、優しさのつもりだった。
拍手が、ようやくやんだ。
アルベルトは、ジョッキを置いた。
そのとき、初めて気づいた。自分が、一度もそのジョッキに口をつけていなかったことに。
その日の午後、「暁の翼」は、町の東の草原で小さな依頼をこなした。
野狼の群れの討伐。Cランクのパーティにとっては、片手間の仕事だ。来月のBランク昇格試験に向けて、勘を鈍らせないためのものだった。
そのはずだった。
「――リサ! 右を!」
号令を飛ばしてから、右には狼がいないことに気づいた。群れは左の茂みから回り込んでいた。いつもなら、風下から来る。そう思っていた。いや――そう「教わっていた」のは、いつだったか。
狼の牙が、弓使いのリサの脚をかすめた。アルベルトは剣を振るってそれを追い払い、群れは、結局すべて片付いた。
「……怪我は?」
「……大したことない。ただ……」
リサは、負った矢筒を見下ろして、眉をひそめた。
「……矢が、まっすぐ飛ばないのよね。ここしばらく。前は、羽根の重さを、ルークが毎回揃えてくれてたから……」
そこで、リサは口をつぐんだ。アルベルトの顔を見て。
「……そうか。帰ったら、弓屋に見てもらえばいい」
アルベルトは、穏やかにそう答えた。
それは、正しい答えだ。専門のことは、専門の者に任せればいい。荷物持ちがいなくなったからといって、何も困ることはない。
この二週間、そう自分に言い聞かせることが、少しずつ増えていた。
ポーションが、いつの間にか切れていたこと。野営の薪が湿っていて、火がつかなかったこと。仲間の靴の底が抜けて、依頼の途中で引き返したこと。一つ一つは、取るに足らないことだ。不運が重なっただけだ。
そして――学院の合同討伐。
あのとき、「暁の翼」は撤退した。Cランクのパーティが、Bランク相当の化け物に正面から挑むのは、勇敢ではなく無謀だ。全滅を避けた。リーダーとして、それ以上に正しい判断があるだろうか。
それなのに、町の者たちは、時々、アルベルトを見て、何かを囁き合うようになった。
「学生を置いて逃げた」と。
――何もわかっていない。
アルベルトは、そのたびに、穏やかに微笑んだ。説明する必要はない。来月、Bランクの数字が、すべてを証明してくれる。
町に戻ると、ギルドの前で、グレンが待っていた。
あの大きな体を、少しだけ丸めて。背中には、もう盾を背負っていなかった。
「……グレン。今日の依頼は、もう終わったよ。体の具合はもういいのかい?」
「……ああ」
グレンは、しばらく黙っていた。それから、懐から一枚の紙を取り出した。ギルドの印が押された、パーティの脱退届だった。
「……俺は、『暁の翼』を抜ける」
アルベルトは、笑顔のまま、瞬きをした。
「……何を言ってるんだい。来月は昇格試験だよ。盾役がいなくて、どうやって――」
「盾は、もう持たない」
グレンは、低い声で、ゆっくりと言った。
「……あの盾は、五年前から、ひびが入ってたんだとよ。ルークが、毎週、確かめてた。『そろそろ替え時です』って、何度も言ってた。俺は聞き流してた。……お前も、聞いてたはずだ」
「……それは」
「俺の靴の底がすり減ってるのも、リサの矢羽根の重さも、あいつは全部知ってた。……それに、五年前、あいつは俺に言ったんだ。『グレンさんの才能は、盾じゃなくて大剣です』って」
グレンは、そこで、少しだけ笑った。自分を笑うように。
「俺は笑ったよ。お前も笑った。……だが、もう笑えねえ。あの小さい娘のことも、赤い髪の娘のことも。あいつが『見える』って言ったもんは、全部、本当だった」
「……グレン。君らしくないよ。そんな、数字にも出ないものを――」
「アルベルト」
グレンが、はじめて、まっすぐにアルベルトを見た。
「ルークは、五年間、俺たちのことをずっと見てた。――お前は、あいつの何を見てたんだ」
答えは、出てこなかった。
グレンは脱退届をアルベルトの手に押しつけると、背を向けて歩き出した。
その大きな背中が、夕暮れの通りの向こうへ、小さくなっていく。
アルベルトは、それを、ただ立ち尽くして見送っていた。
その夜。
仲間たちが宿へ引き上げたあとも、アルベルトは一人、ギルドの酒場の隅に残っていた。
テーブルの上には、一度も口をつけていないジョッキと、グレンの脱退届。
「……盾役を、探さないとな」
口に出して、そう呟いた。
そうだ。ただそれだけのことだ。Cランクのパーティなら、入りたい者はいくらでもいる。測定値の高い者を選んで、昇格試験までに連携を磨けばいい。
それだけのことなのに。
どうしてか、あの元荷物持ちの顔が、頭から離れなかった。
「――失礼。『暁の翼』のアルベルト殿、でよろしいかな」
ふいに、頭の上から声がした。
顔を上げると、上等な深緑の外套を羽織った男が立っていた。四十がらみ。細い口髭。その立ち姿だけで、この辺境の酒場には不釣り合いな人間だとわかる。
その胸元で、小さな銀の記章が光っていた。群青の地に、二本の炎の槍が交差する紋章。
アルベルトは、その紋章を知っていた。十日ほど前、この町にやってきた学院の訓練隊。その先頭の白馬に乗っていた銀髪の少年の、外套の留め具にも、同じ紋章が刻まれていた。
「……グランツ伯爵家の……?」
「話が早くて助かる。当家に仕える者だ」
男は、勧められもしないのに、向かいの席に腰を下ろした。その動きには、断られることを想定していない者特有の、滑らかな余裕があった。
「貴殿のことは、少し調べさせてもらった。平民の生まれで、十年でCランク。測定値は一度も下がったことがない。……辺境には惜しい、と当家は考えている」
アルベルトは、何も言えなかった。
その言葉が、どんな拍手よりも深く、胸の奥に染み込んでいくのがわかったからだ。
「来月、Bランクの昇格試験を受けるそうだな。……だが、盾役を失ったと聞いた」
もう知っているのか。たった今日の夕方のことを。
「当家には、腕の立つ剣士が何人か仕えている。そのうちの一人を、貴殿のパーティに預けよう。測定値はB。盾も剣も使える。……昇格試験のことは、何の心配もいらないだろう」
測定値B。
グレンは、Dだった。
「……なぜ、僕にそこまで」
ようやく、声が出た。
男は、細い口髭の下で、穏やかに微笑んだ。それは、アルベルトがいつも他人に向けている笑みに、不思議なほどよく似ていた。
「当家は、正しく測れるものを、正しく評価する。それだけのことだ。――ただし」
男は、一拍だけ、言葉を切った。
「その代わりに、一つだけ、教えていただきたいことがある」
その目が、はじめて、笑っていないことに、アルベルトは気づいた。
「貴殿の元にいた、『ルーク』という荷物持ちのことだ。――『人の才能が見える』と、口にしていたそうだな?」
アルベルトは、テーブルの上の、一度も口をつけていないジョッキを見下ろした。
その水面に、自分の顔が映っていた。
穏やかに微笑んでいる。いつもと同じ顔で。
――数値は、嘘をつかない。
そうだ。この男は、正しく測れるものを、正しく評価しているだけだ。自分はただ、それに応えればいい。あの荷物持ちのことを話すのは、裏切りでも何でもない。あいつは、もう仲間ではないのだから。
「……何を、お知りになりたいんですか」
アルベルトは、笑顔のまま、そう答えていた。
その声が、自分でも驚くほど、穏やかだった。
これにて2章は終わりです!
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