第20話 先触れのフィオ(第2章 第10話)
その朝のギルドは、異様なほど混んでいた。
ノーラさんが声をかけたのは、依頼を探しに来た冒険者たちだけだ。それでも、「鋼の轍」が旧坑道で大怪我をして帰ってきたという噂は、一刻もたたずに町じゅうに広がったらしい。ホールに入りきらない野次馬が、窓の外にまでひしめいている。
その中に、「暁の翼」のテーブルもあった。アルベルトさんは、いつもの席で、いつものようにジョッキを前に置いている。ただ、そのテーブルに、グレンさんの姿はなかった。グレンさんは、壁際に一人で立っていた。
ホールの中央に、ダリオが立っていた。
額には、癒し手に巻いてもらった白い包帯。あの傷だらけの胸当ては、もうつけていない。隣には、片腕を吊ったベン。カイとロイドは、まだ癒し手のところだ。
僕たち三人は、カウンターの脇にいた。フィオは、僕とセラの間に挟まれるようにして立ち、大剣の柄を必死に握っている。その琥珀色の光は、人の多さに少しだけ縮こまっていた。それでも、前のように、彼女自身の周りへ縮んでしまうことは、もうなかった。
ギルド長が、奥の部屋から出てきた。それが合図になったように、ざわめきが少しずつ静まっていく。
ダリオが、口を開いた。
「……『鋼の轍』のダリオだ。北の旧坑道の件で、全員に聞いてほしいことがある」
いつもの大声ではなかった。それでも、その低い声は、ホールの隅々までよく通った。
「俺たちは昨日、旧坑道に入った。奥で床が抜けて、俺とカイとロイドが、坑道の下にあったでっかい空洞に落ちた。……そこには、俺たちが束になってもかなわねえ、山みてえな化け物がいた」
ざわめきが、波のように広がる。
「俺たちが生きて帰ってこられたのは、『灯火』が助けに来たからだ。……そして」
ダリオは、一度、息を吸った。
「あの化け物のすぐ横を、真っ暗闇の中で通り抜けて、俺たちを地上まで連れ戻したのは――そこのフィオだ」
ホール中の目が、一斉にこちらを向いた。
フィオの肩が、びくりと跳ねる。琥珀色の光が、きゅっと強張った。
「……逃げ足のフィオが?」
誰かの、半信半疑の声。
「そうだ。――だが、そのあだ名をつけたのは、俺だ」
ダリオが、その声の方へ、まっすぐに向き直った。
「先週、俺たちが小鬼の群れに囲まれたとき。俺は、フィオが逃げたせいで人手が足りなかったって、ここで言いふらした。……嘘だ。フィオは、依頼の前に『ここ、嫌です』って言ってた。俺はそれを、ベンから聞いてた。聞いてて、無視した。囲まれたのは、俺の判断が間違ってたからだ」
しん、と、ホールが静まり返った。
「信じられねえなら、ベンに聞け」
「……本当だ」
ベンが、片手を上げた。その声は小さかったが、震えてはいなかった。
「俺は聞いてた。先週も、昨日も。北門で『下から来ます』って言ったのも、坑道の入り口で風が逆さに吹く前に『来ます』って叫んだのも。……全部、当たってた」
それから、ベンは少しだけ、悲しそうに笑った。
「……俺も、先週それを言えなかった。だから、同罪だ」
ざわめきは、もう起きなかった。
この半年、フィオを「逃げ足」と笑ってきた人たちが、仲間と顔を見合わせ、気まずそうに目をそらす。他のパーティでも、彼女が「逃げた」あとに何が起きたのか。それを、いまさら思い出しているのだろう。
ダリオは、フィオの前まで歩いてきた。
そして――その大きな体を、深く、深く折り曲げた。
「……フィオ。すまなかった。お前は臆病者じゃねえ。この町で一番、先を見てる冒険者だ」
フィオは、動けなかった。
大剣の柄を握ったまま、前髪の奥で、ただその下げられた頭を見つめている。
僕は、何も言わなかった。セラも、何も言わなかった。
ここで何を言うのかは、彼女が決めることだ。
長い沈黙。
それから、琥珀色の光が、ゆっくりと、彼女の外側へ広がっていった。あの闇の中で、僕たちを包んだときと同じように。
「……顔を、上げてください」
小さい声だった。でも、ホールのどこにいても聞こえる、まっすぐな声だった。
ダリオが、ゆっくりと顔を上げる。
フィオは、前髪の隙間から、その目をまっすぐに見返していた。
「……わたし、逃げ足が速いです。それは、本当です」
ホールのどこかで、誰かが息を呑んだ。
「でも、もう、一人では逃げません。……怖いときは、ちゃんと言います。どこから来るのか、全部。――だから、次にわたしが『危ない』って言ったら、聞いてください」
それだけだった。許すとも、許さないとも言わなかった。
でもそれは、このホールにいる全員に向けた言葉でもあった。
ダリオは、しばらく黙っていた。それから、太い声で、一言だけ答えた。
「……おう。必ずだ」
どこかで、片手を叩く音がした。
振り向くと、壁際のグレンさんだった。無言で、大きな手をゆっくりと打ち合わせている。
やがて、それに、もう一つ、また一つと、拍手が重なっていった。
フィオは、その音の中で、何が起きているのかわからないという顔で、立ち尽くしていた。そして、ようやくそれが自分に向けられたものだと気づいた瞬間、大剣ごと、セラの背中に隠れた。
「……ちょ、フィオちゃん! そこで隠れるの!?」
セラの声に、ホールのあちこちから、ようやく笑い声が起きた。それは、半年間彼女に向けられてきた笑いとは、まるで違う響きをしていた。
そのあと、ギルド長は、旧坑道を再び封鎖するよう鉱夫組合に申し入れると告げた。
「坑道の下に、古い遺構があった、か。……四十年前にあの坑道を閉ざすよう命じたのは、当時の領主様だと聞いている」
ギルド長は、そこで少しだけ眉をひそめた。それ以上は何も言わず、「領主館にも報告を上げておく」とだけ続けた。
領主。貴族。
あの壁画のことを、僕はまだ誰にも話していなかった。話せば、もう後戻りできないような気がしていた。
そして、「灯火」には、空洞からの生還者を救い出した功績として、特別な報奨金が出た。フィオは、FランクからEランクへ。僕は、Eのままだ。
「……ルークくんも上げようって、一応、言ったんだけどね」
カウンターで、ノーラさんが小声で言った。
「いいんです。僕は、下に落ちて、助けられた側ですから」
それは、本心だった。あの穴の底で、縄を掛けることと、光を見ることしか、僕にはできなかった。
ノーラさんは「もう」と、少しだけ咎めるような目で笑った。
ギルドを出ようとしたとき、後ろから呼び止められた。
「……おい、荷物持ち」
ダリオだった。闇の中でと同じ、低い声。
「……人の才能が光って見える、って言ってたよな。……俺のは、何色だ」
僕は少しだけ考えてから、答えた。
「乾いた土の色です。……目を、見てもいいですか」
ダリオは、一瞬だけ迷ってから、まっすぐにこちらを見た。
土色の光が、流れ込んでくる。
――素質:岩の声を聴く耳。
――開花の条件:恐れて遠ざけてきた場所に、自分から戻ること。
こめかみが、小さく痛んだ。
「……ダリオさんの才能は、岩の声を聞くことです。杭の周りが『鳴ってる』って言ったとき、ダリオさんの光が、少しだけ強くなってた。……たぶん、お父さんと同じものです」
ダリオは、何も言わなかった。
ただ、その大きな手が、ゆっくりと、額の包帯に触れた。
「……親父の息子だったってわけか」
その声は、苦いようで、どこか安堵しているようでもあった。
「……鉱夫組合が、坑道を封鎖し直すのに、中を知ってる奴が要るだろうよな。……考えとく」
それだけ言うと、ダリオは背を向けて、癒し手の床へと歩いていった。カイとロイドの様子を見に行くのだろう。
その土色の光は、今朝より、ほんの少しだけ軽く揺れていた。
その夜。麦穂亭の食堂。
報奨金で少しだけ贅沢をした食卓の前で、フィオは、スープにも手をつけずに、じっと自分の膝を見つめていた。
「……フィオちゃん? 食べないの?」
セラが声をかけると、フィオは、いきなり立ち上がった。
椅子が、がたんと音を立てる。
そして――前髪でも隠しきれないほど真っ赤な顔で、僕たち二人に向かって、深く頭を下げた。
「……わ、わたしを……『灯火』に、入れてください!」
食堂中に響く声だった。宿の主人が、皿を拭く手を止めてこちらを見る。
「……この前、ルークさんに誘ってもらったとき、断ってしまったので……今度は、わたしから、ちゃんと言いたくて……」
何が欲しいのかを、自分の口で言う。
それはたぶん、「どこから来るか」を告げるよりも、彼女にとってずっと勇気の要ることだったはずだ。
セラと、顔を見合わせる。
セラはもう、泣きそうな顔で笑っていた。
「……フィオ。顔を上げて」
フィオが、おそるおそる顔を上げる。
僕は、右手を差し出した。
「よろしく、フィオ。――先頭は、君に任せるよ」
フィオは、しばらくその手を見つめていた。
それから、小さな、でもとんでもない力のある手で、それを握った。
その上から、セラの手が、ぱん、と重ねられる。
「よろしくね、フィオちゃん! これで三人!」
「……はいっ!」
その笑顔は、僕がこれまでに見た彼女のどの笑顔よりも、大きかった。
その後、大剣の話になった。
「……マルタさんには、手紙を書こうと思います。剣を返しに行くのは……もう少しだけ、みんなと一緒にいてからにしたいです。一人前になったって、胸を張って言えるようになってから」
そう言って、フィオは、大剣の柄をそっと撫でた。
その琥珀色の光は、食堂のランプの下で、僕とセラをほんの少しだけ包むように、穏やかに広がっていた。
――その日。
ギルドの拍手の中で、ただ一人、手を叩かなかった男がいた。
いつもの席で、いつもの笑顔で、ジョッキを握ったまま。
その金色の光が、また少し、くすんだことに――僕は、気づいていた。




