第18話 先触れ(第2章 第8話)
フィオが先頭に立った。
僕はそのすぐ後ろで、琥珀色の光だけを見つめる。その後ろで、ダリオが僕の帯を握る。背中のカイは、声を漏らさないように、自分の袖をくわえている。
「……行きます」
フィオの声は、息より少しだけ大きいくらいだった。
「……今、あの子の頭は、右の奥。こっちには背中を向けてます。尻尾が、左の方で丸まってる。……左には寄らないで。まっすぐ、十歩」
一歩。二歩。
石の床は、足音をよく響かせた。だから、つま先からそっと下ろす。
吐く。――止める。――吸う。
生暖かい息が、左の頰を横から撫でていく。近い。今までのどの瞬間よりも。
「……止まって」
全員が、おそらく同時に息を止めた。
「……今、息を止めてる。……聞いてるんです。足音を」
長い、長い間。
経っているのかどうかもわからない。心臓の音だけが、うるさいくらいに耳の奥で鳴っていた。
そして――吸う。
「……今です。吸ってるあいだは、音が聞こえてない。三歩、速く」
三歩。そしてまた、止まる。
その繰り返しだった。
フィオの声は、一度も途切れなかった。あの子がどこを向いているか。今、どの足に力を入れているか。いつ息を吸い、いつ止めるのか。彼女はそれを、まるで目の前に見えているみたいに、小さな声で伝え続けた。
気づけば、琥珀色の光は、もう震えていなかった。
その代わりに――少しずつ、少しずつ、広がっていた。
「……半分まで来ました。あと、八歩――」
そのときだった。
フィオの光が、びりっと、弓のように左へ引き絞られた。
「――尻尾! 左から、低く! 伏せてっ!」
声が、わん、と空間に響いた。
考えるより早く、体が床に飛びついていた。背中で、ダリオがカイごと崩れ落ちるように伏せる気配。
その頭上を、何かが通り過ぎた。
巨大な何か。風を切る音。髪が、根元から引きちぎられそうなほどの風圧。それが、向こうの柱に当たって、轟音とともに砕け散った。
轟音の余韻の中で、空間が、ほんのわずかに明るくなった。
赤い光。
顔を上げる。
闇の向こうで、二つの巨大な炭火が、大きく見開かれていた。その淀んだ赤い光が、はじめて、僕たち四人の姿を、ぼんやりと床に浮かび上がらせていた。
見られている。
「……う、あ……」
カイが、袖をくわえたまま呻いた。ダリオの土色の光が、びくりと後ろへ下がりかける。
逃げる。――全員が、そう思ったはずだ。
そのとき。
「――動かないで!」
フィオの声だった。
これまで、一度も聞いたことのない声。小さくも、震えてもいない。まっすぐで、よく通る声。
彼女は、伏せたまま、あの二つの赤い光を、まっすぐに見返していた。
「……今、後ろに下がったら、右の前足の内側に入ります。そこはだめです。……あの子は今、頭を下げようとしてる。下げきったら、右の前足が浮きます」
そこで、一拍。
「――二つ数えたら、浮きます。浮いたら、足の下を、前へ。右の壁まで、一直線です」
僕は、息を呑んだ。
それは、「どこから来る」ではなかった。
「いつ、どう動き、どこが空くか」だった。
「――一つ」
琥珀色の光が、広がる。
引き絞られた弓でも、身を縮める小動物でもなかった。それは、彼女の体から、ゆったりと、温かく溢れ出していく。僕を、ダリオを、その背中のカイを、一人ずつ包み込むように。
闇の中で、一つの大きな灯りを囲むように。
――開花だ。
「――二つ! 今です!」
巨大な前足が、床から浮いた。その下に、大人がいくつもくぐれそうな闇の隙間が開く。
走った。
フィオが先を、僕がその光を、ダリオが僕の帯を。頭上で、岩の板を重ねたような足の裏が、少しずつ降りてくる。
「――背を低く! あと三歩!」
頭を下げる。一、二、三。
背後で、床が弾ける音がした。足が降りたのだ。さっきまで僕たちがいた、その場所に。
そして――右の壁に、手が届いた。
「……杭、ここです!」
フィオの声。その光の先で、錆びた鉄の杭が、上へと続いているのが、赤い光にぼんやりと浮かんでいた。
「……上る順番は――」
「わたしが、一番に。危ない杭、わかりますから」
フィオはもう、杭に手をかけていた。
「次がダリオさんとカイさん。それから……」
「僕が最後だ」
片腕を包帯で吊ったままじゃ、登れない。僕は結び目をほどき、左腕を自由にした。焦げるような痛みが肩から背中まで走る。それでも、動く。
ダリオが、カイを背負い直し、自分の帯でカイの体を己に縛りつけた。それから、杭をつかむ。
と、その手が、一つの杭の上で止まった。
「……こいつは、だめだ」
「……え?」
「鳴ってる。杭の周りの岩が。……たぶん、押したら抜ける」
そのすぐ上から、フィオの声が降ってきた。
「……はい。その杭は、抜けます。一つ飛ばして」
ダリオは一瞬だけ動きを止め、それから黙ってその杭を飛ばして登った。
その土色の光が、岩に触れるたびに、ほんのわずかに、ちらりと強くなるのを、僕は見ていた。
最後に、僕が杭をつかんだ。
右手、右足。左手は、杭にかけるだけで全身が震えるほど痛む。それでも、一つ、また一つと、上へ。
下で、重たいものが動く気配がした。
赤い光が、ゆっくりとこちらへ向きを変えていく。
「――ルークさん! 左へ! 杭を、左の列に!」
頭上から、フィオの叫び声。
考えずに、体を左へ振った。痛む左手で、隣の列の杭をつかむ。肩が悲鳴を上げ、視界が白くなる。
その瞬間、さっきまで僕がいた場所に、巨大な爪が突き刺さった。
岩が砕ける。破片が、雨のように頬を打つ。
それでも、僕は杭を離さなかった。
「――穴は、もうすぐです! そこから先は、狭くなります!」
頭上で、琥珀色の光が、岩の中へと吸い込まれていく。その後を土色の光が追う。
僕は、最後の力を振り絞って、もう二つ、杭を登った。
岩の縁を越える。周りが、きゅうっと狭くなる。人一人がやっと通れるくらいの、丸い縦穴。通気坑だ。
その縁に、小さな手が伸びてきて、僕の右手をつかんだ。
「……つかまって!」
とんでもない力だった。あの岩場の丘で、僕とセラを引っ張った、あの力。
僕は、縦穴の中へと引き上げられた。
その下で――大きな、長い息が、縦穴の底を吹き抜けていった。
吐く。――そして、それきりだった。
しばらくして、もう一度、息の音がした。でもそれは、さっきまでよりずっと遅く、ずっと遠かった。
「……追ってきません」
すぐ横で、フィオが、小さく言った。
「……あの子、怒ってなかったんです。たぶん。ただ……起こされて、ずっと、うるさかっただけで。……今は、すごく眠そうです」
その声は、不思議なほど穏やかだった。
赤い光は、もう縦穴の底には届かない。周りはまた、本当の闇だ。
でも、その闇の中で、琥珀色の光は、広がったままだった。縦穴の中にしがみつく四人を、そっと包むように。
「……フィオ」
「……はい」
「君は今、全員を連れて、逃げたんだよ」
琥珀色の光が、小さく揺れた。
それから、ずっと、ずっと長い間、その光は黙っていた。闇の中で、小さく鼻をすする音だけが、何度か聞こえた。
「……マルタさんに、返しに行けるかな」
「うん。ぜったい」
縦穴の杭は、上へと続いていた。
フィオが先を行き、「その杭、抜けます」「ここ、岩がもろいです」と途切れなく声を落とす。ダリオがカイを背負ってそれに続き、時々、自分から「こいつも鳴ってる」と低くつぶやく。そのたびに、フィオが「はい」と答える。
どれくらい登っただろう。
頭上で、フィオの声が、ふいに止まった。
「……行き止まりです」
「……え?」
「上に、木の蓋があります。その上に、すごくたくさんの土と石が……風は、その隙間から少しずつ入ってきてるだけです」
四十年放っておかれた通気坑。その上に山の土が積もり、蓋はその重さに押しつぶされているのだ。
ダリオが、片手で蓋を押し上げようとする気配がした。ちっとも動かない。
「……ここまで来て、かよ……」
カイのかすれた声。その青白い光は、さっきよりさらに弱々しくなっていた。
僕は、杭にしがみついたまま、蓋のあるはずの闇を見上げた。
――そして、気づいた。
この力は、壁も床も関係ない。近くにいる人の光は、たとえ土や石の向こうでも、ぼんやりと感じ取れる。
蓋の、その上。土と石の、その向こう。
そこに、光があった。
見間違えるはずがない。この世界で、一番まぶしい光。
白金の光が、まっすぐに、こちらへ向かって降りてくるところだった。




