第17話 返すべき剣(第2章 第7話)
先回りされた。
その一言が、闇の中で重く沈んでいく。
僕たちは、柱の根元に身を寄せたまま、動けなくなっていた。琥珀色の光は、風の通っている方角を向いたまま、小刻みに震えている。
「……そこしか、ないの?」
「……わかりません。でも、外の風が通ってるのは、そこだけです」
「……そうか」
そのとき、背中の後ろで、カイが小さく呻いた。
闇の中で、彼の青白い光が、さっきより少しだけ弱くなっているのがわかった。右手で額に触れる。――熱い。折れた足が熱を持ち始めている。
時間が、ない。
「……おい。その風ってのは、どんな風だ」
ふいに、ダリオが口を開いた。
「……え?」
「冷てえんだろ。じゃあ、ずっと同じ強さで吹いてるか。それとも、時々、弱くなったり強くなったりするか」
フィオは少し戸惑ってから、目を閉じるようにして、じっと耳を澄ませた。
「……ずっと、同じです。細くて、上から下りてくるみたいな」
「……上から、か」
土色の光が、ゆっくりとうなずいた。
「そりゃたぶん、通気坑だ。鉱山の奥に、外の空気を入れるために掘る、縦穴だよ。四十年前の鉱夫たちがこの遺構を掘り当てたんなら、そこまで空気を通したはずだ」
「……詳しいんですね」
「……親父が、鉱夫だったんだよ」
ダリオは、ぶっきらぼうに言った。
「南の鉱山町でな。俺がガキのころ、落盤で死んだ。……親父はいつも言ってた。『岩は鳴くんだ、崩れる前には必ず鳴くんだ』って。それでも、自分が潰される岩の音は、聞き逃したんだ。……だから俺は、鉱夫にだけはならねえって決めて、剣を握った」
それが、今はこうして鉱山の底にいる。
ダリオは、それ以上は言わなかった。でもその土色の光は、重たく、どこか寂しそうに揺れていた。
「……通気坑なら、登るための鉄の杭が壁に打ち込んであるはずだ。錆びてなきゃな。……穴の縁よりは、ずっとましな道だ」
だが、そこには、あの巨大な何かが待っている。
誰も、それを口にはしなかった。
少しだけ休むことにした。カイに水を飲ませ、熱を持った足を、冷たい石の床につけて冷やす。それくらいしかできない。
闇の中で、琥珀色の光が、大剣のあたりでじっとしていた。
そして、しばらくして、その光が、小さく揺れた。
「……ルークさん」
「うん」
「……この剣のこと、話しても、いいですか」
僕は少しだけ驚いて、それから、うなずいた。闇の中では見えないとわかっていても。
「……うん。聞きたい」
フィオは、息を吸った。その息が震えているのが、闇の中でもわかった。
「……これは、マルタさんの剣です。わたしの村にいた、元冒険者の人で……子どものころから、剣を教えてくれてました」
「……師匠だったんだね」
「はい。……二年前、マルタさんが村の外れの魔物退治を頼まれて、わたしも初めて、一緒に連れていってもらえて。村の大人も何人かいて……」
そこで、言葉が途切れた。
長い沈黙。光が、きゅうっと縮んでいく。
僕は、何も言わずに待った。
やがて、光は、ゆっくりと元の大きさに戻った。
「……森に入って、しばらくしたとき。背中が、ぶわってなったんです。初めて、あんなに強く。……左の茂みから、たくさん来るって、わかってたんです。わかってたのに……」
声が、小さくなっていく。それでも、止まらなかった。
「……言えなかったんです。わたしなんかの勘、みんな笑うと思って。間違ってたら、恥ずかしいって思って。怖くて……気づいたら、一人で、反対の方へ走ってて」
そのあとのことは、聞かなくても想像できた。でも、フィオは自分で口にした。
「……マルタさんは、村の人たちを守って、右足を、もう元のように動かせなくなりました。……誰も、死ななかったけど。でも、わたしが一言、言ってたら……」
闇の中で、小さく鼻をすする音がした。
「……床から起き上がれるようになった日、マルタさんは、わたしにこの剣をくれたんです。怒るどころか、笑って。……『あんたの足は、逃げるためだけのもんじゃない。いつか、誰かを連れて逃げられるようになったら、そのときこの剣を返しにおいで』って」
――誰かを連れて、逃げられるように。
岩場の丘を思い出した。岩蜥蜴が地面を突き破る直前、この小さな手が、僕とセラの手をつかんだ。あのとき、彼女は一度だけ振り返って、迷っていた。
あれは、二年分の迷いだったのだ。
「……それから、村を出ました。でも、どこのパーティに入っても、変わらなくて。『危ない』って言うのが、どうしても怖くて……やっと小さい声で言えても、誰も聞いてくれなくて……」
そこで、彼女は、少しだけ笑ったような気がした。
「……あの丘で、ルークさんたちの手をつかんだとき。ちょっとだけ、マルタさんの声が聞こえた気がしたんです」
「……そっか」
それ以上、何を言えばいいのかわからなかった。
だから、一つだけ、本当のことを言った。
「……フィオ。今、全部、自分の口で言えたね」
琥珀色の光が、びくりと跳ねた。
それから、その光は、闇の中で、今までで一番、ただ静かにそこにあった。
そのとき。
土色の光が、重たく動いた。
「……フィオ」
ダリオの声は、低く、かすれていた。
「……先週の小鬼の件。帰り道で、ベンから聞いてたんだ。お前が『ここ、嫌です』って言ってたってな」
琥珀色の光が、固まる。
「俺はそれを、聞かなかったことにした。……臆病者が逃げたせいだってことにしといた方が、俺が判断を間違えたって認めずに済むからだ。……親父と同じだ。岩が鳴いてるのに、聞かなかった」
そこで、彼は一度、言葉を切った。
「……ここで謝っても、意味ねえ。俺はお前を、ギルドの連中の前で笑ったんだからな。……だから、帰ったら、ギルドで、ちゃんと言う。全部」
フィオは、答えなかった。
でも、その光は、もう固まっていなかった。
「……じゃあ、帰らなきゃ、ですね」
それは、許すとも許さないとも言わない、とてもフィオらしい返事だった。
休憩を終えて、僕たちは風の方へ進んだ。
柱の列が途切れ、足音の響き方が変わる。広い。さっきまでよりずっと。
そして――頬を、冷たい風が撫でた。
生暖かいあの息じゃない。乾いた、夜の山の風。外の匂いが、かすかに混じっている。
「……右の壁。そこに、何かあるぞ」
ダリオの土色の光が、壁に沿ってゆっくりと動く。そして、止まった。
「……あった。杭だ。錆びてるが、まだしっかりしてる。上に向かって、等間隔に打ち込んである。――通気坑だ」
出口だ。
だが、誰も、歩き出そうとはしなかった。
吐く。――止める。――吸う。
この広い空間の、どこか。いや、もっと近くで。あの息が、ゆったりと繰り返されていた。
フィオの光が、まっすぐに、部屋の真ん中を指していた。
「……あの子、ここの真ん中で、丸くなってます。杭のある壁までは、あの子のすぐ横を通らないと、行けない」
「……寝てるのか?」
ダリオが、声を殺して聞いた。
フィオは、ゆっくりと首を振ったようだった。
「……寝てません。待ってます。わたしたちが、通るのを」
しん、と、空気が凍った。
この闇の中で、あの巨大な何かのすぐ横を通り抜ける。しかも、足を折ったカイを背負って。一つでも誤ったら、それで終わりだ。
僕は、琥珀色の光を見つめた。
その光は、震えていた。今までで一番、激しく。
でも、縮んではいなかった。
「……ルークさん。ダリオさん」
フィオの声がした。すぐ目の前から。
「……今から、わたし、ずっとしゃべります。あの子がどこを向いてて、どこから来るのか。全部、最後まで」
その声は、震えていた。それでも、一度も途切れなかった。
「……だから、信じて、ついてきてください」




