第16話 闇の中の灯(第2章 第6話)
走った。
柱と柱の間を、フィオの背中だけを見て。
僕自身の照明は、穴の縁が崩れたとき、カイを受け止めた拍子に手から飛んで、土砂の下に消えていた。今、僕たちの手元にある光は、ダリオが持っていた、あの消えかけの照明だけだ。
その蒼白い光が、足元を、そして数歩先の柱を、せいぜいぼんやりと照らすだけ。
背後で、あの息が続いている。
吐く。――止める。――吸う。
そのたびに、生暖かい風が首筋をなで、床が小さく震える。距離は、まだある。でも、離れてもいない。
「……次、右です。その柱の根元、崩れてるので、足を大きく」
フィオの声は、息が切れていても、一度も途切れなかった。
ダリオが、カイを背負ったまま、黙ってそれに従う。カイは歯を食いしばって呻きをこらえている。その後ろを、僕が痛む左肩をかばいながら追う。
やがて、柱の列の先に、崩れた石の塊が山のように積み重なった場所が見えてきた。その石と石の間に、人がようやく一人通れるほどの、狭い隙間が口を開けている。
「……ここ。ここなら、あの子は入ってこれません」
あの子。フィオは、あの巨大な何かを、そう呼んだ。
隙間を押し入るように通り抜けると、その先に、小さな部屋があった。
小さな、といっても、麦穂亭の食堂ぐらいはある。四角く切り取られた、窓のない石の部屋。入り口は、今通ってきた隙間だけだ。
ダリオが、壁際にそっとカイを下ろした。それから、自分もその場に崩れるように座り込んだ。
しばらく、誰も口をきかなかった。
吐く。――止める。――吸う。
隙間の向こうで、息の音が、ゆっくりと近づいてきて、――そして、通り過ぎていった。
床の震えが、少しずつ遠ざかっていく。
「……はぁっ……」
誰かが、止めていた息を吐き出した。いや、たぶん全員だった。
「……カイさんの足を、もう一度見せてください」
僕はカイのそばに膝をついた。板切れはずれていない。包帯も、ちゃんと締まっている。ただ、走ったせいで、足はさっきより腫れていた。
荷物袋を探って、そこで気づいた。僕の荷物袋には、もう包帯が残っていない。
「……あの、これ」
フィオが、おずおずと荷物袋を差し出していた。
坑道に入る前、僕が「持ってて」と渡した、あの荷物袋だ。崩れた壁を下りてくるときも、彼女はそれを手放さなかったのだ。中には、水と、包帯が一巻き。
「……ありがとう。助かった」
その包帯でカイの足を巻き直し、水を一口ずつ回す。カイは「……すまねえ」と、かすれた声で言った。
それから、フィオは、残った包帯を握ったまま、僕の前にちょこんと座った。
「……ルークさんの、肩も」
「僕は大丈夫だよ」
「……うそです。さっきからずっと、左腕を動かしてません」
……この子にも、隠せないらしい。
フィオは、僕の左腕を胸の前で曲げさせ、包帯で首から吊るように結んだ。手つきはたどたどしくて、結び目は不格好だったけれど、それでも肩の痛みはずっと楽になった。
「……上手だよ」
「……うそです。結び目、ぐちゃぐちゃです」
そう言いながら、フィオの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
部屋の隣で、ダリオが、それを黙って見ていた。
そのときだった。
ダリオの足元に置かれた照明が、ちり、と小さな音を立てて、一瞬だけ強く光った。
魔力が尽きる直前の、最後の輝き。
その光が、はじめて部屋の奥の壁まで届いた。
そこに、絵があった。
壁一面に、石を彫り込んで描かれた、巨大な絵。
下には、山。その山の内側に、体を丸めて眠る、灰色の板に覆われた生き物。さっきのあの巨大な何かに、よく似ている。
そして、その山の上に、大勢の人がいた。
その真ん中に、一人だけ、他とは違う姿で描かれた人が立っている。
その人の両目からは、太陽のような線が、何本も何本も放たれていた。そしてその線が触れた周りの人々は――一人ひとり、その体の周りに、輪のような形をまとっていた。
光のような、形を。
「―――」
息が、止まった。
それは、僕が生まれたときからずっと見ている景色と、同じ形をしていた。
もっとよく見ようと、一歩前に出た――その瞬間。
照明が、ふっと消えた。
闇。
本当の、闇だった。自分の手のひらも見えない。開けているのか閉じているのかもわからないほどの、底のない黒。
「……おい。おい、嘘だろ」
ダリオの声が、はじめて上ずった。
「予備は、予備の照明はどうした。……おい、誰か――」
「予備は、上に残ったセラたちが持っています」
だから、もう、一つもない。
「……ちくしょう……ちくしょう、こんなとこで……」
カイの息が、荒くなっていく。闇の中で、彼が壁を探ってつまずく音がする。
だが――
僕は、ゆっくりと、部屋の中を見回していた。
闇の中に、三つの光が浮かんでいた。
すぐ目の前に、琥珀色。壁際に、乾いた土の色。その隣に、小さく青白い光。
照明があるうちは、人の姿に重なって、ぼんやりとしか感じられなかったもの。でも今は、他に何も見えないぶん、それだけが、はっきりと。
「……大丈夫です」
自分でも驚くほど、落ち着いた声が出た。
「僕には、見えてます」
「……は?」
「ダリオさんは、今、入り口から見て右の壁に背中をつけています。カイさんはその左。そこから三歩前に、フィオ」
沈黙。
それから、土色の光が、わずかに揺れた。たぶん、ダリオが自分の背中の壁を確かめたのだ。
「……何で、わかる」
「人の才能が、光って見えるんです。照明がなくても、壁があっても。――五年間、誰にも信じてもらえなかったけど」
「……そんな馬鹿な話が――」
「――本当です」
琥珀色の光が、僕のすぐ前で、きゅっと強くなった。
フィオの声だった。小さい。でも、闇の中で、不思議なほどまっすぐに響いた。
「ルークさんの言うことは、本当です。わたしのことも、ルークさんだけは、ちゃんと見てくれたから」
ダリオは、何も言わなかった。
僕は、右手を伸ばして、フィオの光の方へ、そっと差し出した。触れはしない。ただ、そこにあることが伝わるように。
「……フィオ。ここからも、道を言ってくれる?」
「……はい」
「僕は君の光を目印にして歩く。ダリオさんは僕の帯をつかんで。そうすれば、この暗さでも、誰もはぐれない」
琥珀色の光が、闇の中で、小さくうなずくように揺れた。
――灯火。
ふと、その言葉が頭に浮かんだ。
暗いところでも、光っているものを、照らして見つけられるように。そう願ってつけた名前だった。
でも今、この闇の中で、僕たちを照らしているのは――この小さな少女の光の方だった。
部屋を出る準備をしていると、闇の中で、低い声がした。
「……おい、フィオ」
ダリオだった。
琥珀色の光が、びくりと跳ねる。
「……なんで、怖くねえんだ。こんなとこで。俺は……俺は、正直、さっきから足が震えて止まんねえよ」
それはたぶん、あの大男が、人前で口にしたことのない言葉だった。
フィオは、しばらく黙っていた。
それから、小さく答えた。
「……怖いです。ずっと。ここに来てから、一回も、怖くなかったことなんて、ないです」
「……じゃあ、なんで」
「……怖いのは、わたしの背中が、危ないものを教えてくれてるからだって。ルークさんが、そう言ってくれたから。だから、怖いのを、聞くことにしたんです」
それは、僕が教えた言葉じゃなかった。
僕が言ったのは、「逃げたくなったら、どこから来るか教えて」ということだけだ。そこから先を、彼女は自分の力で見つけようとしている。
「……そうか」
ダリオは、それだけ言った。それから、土色の光がゆっくりと立ち上がり、カイを背負い直すのが見えた。
一行は、狭い隙間を抜けて、もう一度柱の列へ戻った。
フィオの光は、さっきまでとは反対の方角を指していた。
「……こっちの奥に、風が通ってるところがあります。あの子の息じゃない、外の、冷たい風。たぶん、そこが――」
そこで、彼女の言葉が、ふいに止まった。
琥珀色の光が、ゆっくりと、向きを変えていく。
さっき、あの巨大な何かが通り過ぎていった方角。そこから、弧を描くように。僕たちが向かおうとしている、その先へと。
「……フィオ?」
「……あの子、さっきの部屋の前を、通り過ぎたんじゃなかったんです」
彼女の声が、かすかに震えた。
「先に、行ったんです。風の通ってるところの方へ。……わたしたちがどこへ行くか、あの子には、わかってる」




