第15話 下へ(第2章 第5話)
「……気づかれました」
その一言で、穴の縁の空気が、しんと冷えた気がした。
僕は、縄を握ったまま、フィオの横顔を見た。彼女の光は、まだ小さく縮んだままだ。それでも、その目は、石の柱の闇からそらされていなかった。
「……フィオ。どこから来る?」
僕は、あえてそう聞いた。
フィオの肩が、びくりと跳ねる。それから、ゆっくりと、彼女の唇が動いた。
「……奥です。柱の、ずっと向こう。まだ、ちゃんとは起きてない……半分、寝てるみたいです。でも、こっちを向いた。それで、ゆっくり……こっちへ」
ゆっくり。なら、まだ時間はある。
「……ありがとう。よくわかった」
僕は穴の底へ向き直った。
「ダリオさん! ロイドさんとカイさんは、自分で縄を登れますか!」
「……無理だ。ロイドは目を覚まさねえし、カイは立つこともできねえ」
だとしたら、下で誰かが体に縄を巻いて、上から引き上げるしかない。それも、むやみに巻けばいいわけじゃない。引き上げる途中で緩んだら、それで終わりだ。
「……僕が下りる」
「ルーク!?」
セラが、詰め寄るように顔を上げた。
「人を吊り上げる縄の巻き方は、五年間で何度もやった。この中で一番うまいのは、たぶん僕だ」
それは、自慢じゃなかった。ただの事実だ。
「セラとベンさんは、上で縄を引いて。フィオは――奥のことを、ずっと見ててほしい。何か変わったら、すぐに言って」
フィオが、小さく、でもはっきりとうなずいた。
縄を古い支柱の根元に巻きつけ、楔を打ち込んで固める。その端をベンとセラが抱え、僕は予備の縄を肩に掛けて、穴の縁から体を下ろした。
穴の内側の土はもろく、足をかけるたびにぼろぼろと崩れていく。家の三階分。たったそれだけの距離が、ひどく長かった。
土砂の丘に足が着くと、生暖かい空気が、わっと体を包んだ。
そこは、穴の上から見るより、ずっと広かった。
照明を掲げても、天井まで光が届かない。足元は崩れた土砂の下に、平らな石の床が続いている。そして、あの石の柱。近くで見ると、柱の表面には、細かな溝が渦を巻くように刻まれていた。文字なのか、模様なのかもわからない。
「……本当に、来やがったのか」
土砂の陰から、ダリオが姿を現した。
額から血を流し、あの傷だらけの胸当ては、片側の留め金が弾け飛んでいた。その手の照明は、今にも消えそうなほど蒼白くなっている。
その後ろで、小柄な男が膝を抱えてうずくまり、もう一人の男が仰向けに倒れていた。カイと、ロイドだ。
「上で話しましょう。いつまでもここにはいられません」
僕はロイドのそばに膝をついた。息はある。脈もある。後頭部に大きなこぶができているが、血は止まっている。
縄を胸と脇の下を回して八の字に掛け、肩から頭を支えるようにもう一重。引き上げる途中で体が回らないように、結び目は背中の真ん中に。
ダリオが、黙ってそれを見ていた。
「……黙って見てるだけじゃなくて、そっちを支えてください。頭を壁にぶつけないように」
「……お、おう」
ダリオが、意外なほど素直にロイドの肩を抱えた。
「――セラ、ベンさん! 引いて! ゆっくり!」
縄が張る。ロイドの体が、少しずつ土砂の丘から持ち上がっていく。ダリオが壁からその体を放し、僕は下から足を押し上げる。
やがて、縁の上で、セラとベンの手がロイドの体をつかんだ。
「……上がった! ルーク、上がったよ!」
セラの声が、石の壁に響いた。
ダリオの肩から、ふっと力が抜けるのが見えた。
「……次、カイさんです」
カイの右足は、膝から下がおかしな角度に曲がっていた。破れたズボンの上から、幅の広い板切れを当てて包帯で縛る。足を動かさないように。それから、ロイドと同じように縄を掛けていく。
カイは歯を食いしばりながら、じっと僕を見ていた。
「……アルベルトのとこの、荷物持ちだろ。底辺の……」
「はい。元、ですけど」
「……俺ら、お前らのこと、笑ってたよな」
「笑われるのは、慣れてますから」
そう答えると、カイは何かを飲み込むように黙った。
そのときだった。
生暖かい風が、背中から吹きつけてきた。
さっきまでより、ずっと強く。ずっと近くから。
吐く。――止める。――吸う。
そのリズムが、いやでもわかった。これは風じゃない。息だ。
振り返る。照明の光の届かない、柱と柱の間の闇。
そこに、壁があった。
いや、壁だと思ったものが、ゆっくりと、動いていた。灰色の岩の板を何枚も重ねたような、巨大な何かの表面が。それがどこまで続いているのか、照明の光では全くわからない。
「――揺れます!」
頭の上から、フィオの叫び声が降ってきた。
「縁から離れて! セラさん、ベンさん、後ろへっ!」
その声とほとんど同時に、床が跳ねた。
巨大な何かが、足を一歩、踏み出したのだ。ただそれだけで、床が、柱が、天井が、一斉に悲鳴を上げた。
頭上で、穴の縁が崩れた。
土と岩が大きな塊になって落ちてくる。縄が、ぶつりと切れる感触がした。半分ほど吊り上げられていたカイの体が、宙で傾く。
「――っ!」
考えるより早く、僕はその体の下に飛び込んでいた。
重い。肩から地面に叩きつけられ、息が一瞬止まる。その上に、土砂が雨のように降り注いだ。
やがて、それが止んだ。
「……っ、かはっ……」
土を払いながら顔を上げる。カイは僕の上で、目を見開いて息をしていた。折れた足は、板切れのおかげでどうにか持ちこたえている。
左肩が、熱い。動かすと、焼けた針を刺されたように痛む。でも、折れてはいない。たぶん。
僕は穴を見上げた。
さっきまでの井戸の口ほどだった穴が、一回り以上大きくなっていた。縁はまだ、ぽろぽろと土をこぼし続けている。縄を結んだ支柱のあたりまで、丸ごと崩れ落ちたのだ。崖のような土の壁は、もうどこも手をかけられそうにない。
「――ルークっ!」
縁のもっと奥、崩れなかった坑道の端から、セラが顔を出した。その後ろに、ベンと、横たわったロイドの影が見える。フィオの声が届いたから、二人は下がれたのだ。
「大丈夫! こっちは大丈夫だ!」
そう叫びながら、頭は必死に回っていた。
縄はもうない。上から引き上げる方法は、今はない。あの巨大な何かは、ゆっくりと、だが確実にこちらへ近づいている。そして上には、意識のないロイドと、片腕のベンがいる。
選べる道は、一つだけだった。
「セラ! ベンさんとロイドさんを連れて、外へ出て! 町に知らせて、助けを呼んで!」
「やだ!」
即答だった。
「ルークを置いていくなんて、ぜったいやだ! あたしも下りる!」
「セラが下りたら、上の二人はどうなる!」
セラが、息を詰まらせるのが、ここからでもわかった。
「坑道には、まだ蝙蝠がいる。片腕のベンさんだけじゃ、ロイドさんを外まで運べない。――これは、セラにしか頼めないんだ」
長い、長い沈黙があった。
それから、震える声が降ってきた。
「……ぜったい、迎えに行くから。どんな道でも、作ってでも、迎えに行くから! だから――だから、ぜったい待ってて!」
「うん。待ってる」
セラの白金の光が、縁から遠ざかっていく。
それを見送りながら、僕はもう一つの光を探していた。
琥珀色の光。それは、縁の上で、まだ動かずにいた。
「……フィオも、セラと一緒に――」
そう言いかけた、そのときだった。
琥珀色の光が、縁を越えた。
「――フィオ!?」
小さな体が、崩れた土の壁にぴたりと張り付いていた。そして、下りてくる。
どこも手をかけられそうにない、あの壁を。
右手。左足。少し迷って、そこではなく、もう一つ下の岩。彼女が手を引いた土が、その直後に、しゃらと音を立てて崩れ落ちる。崩れないところだけを、まるで最初から知っているみたいに。
その背中で、不釣り合いな大剣が揺れている。
最後の一歩分を飛び降りて、フィオは土砂の丘に転がるように着地した。
「……なんで……」
僕がそう言うと、フィオは土だらけの顔を上げた。
その光は、もう縮んでいなかった。震えてはいる。それでも、彼女の外側へと、ちゃんと広がっていた。
「……上に戻る道は、もうありません。でも」
彼女は、息を吸った。
「下から出る道なら……わたしが、探せます」
その後ろで、ダリオが信じられないものを見るように立ち尽くしていた。
「……なんで、お前が来るんだ。俺はお前を……追い出して……」
フィオは、一瞬だけ、びくりと肩をすくめた。それでも、前髪の隙間から、まっすぐにダリオを見た。
「……だって、ダリオさんたち、帰り道、わからないでしょう」
それだけだった。
ダリオは、口を開け、何も言えずに、また閉じた。
吐く。――止める。――吸う。
生暖かい息が、また一歩、近づいてくる。
フィオが、振り返った。その光が指したのは、穴の上でも、あの巨大な何かの方でもなかった。柱の列の、斜め左。まだ照明の光も届いていない、別の闇。
「……こっちです。まだちゃんと起きてない今のうちに」
ダリオが、黙ってカイを背負った。僕は消えかけた照明を拾い上げ、痛む左肩をかばいながら、フィオの後を追った。
柱の陰に入る直前、一度だけ、振り返った。
さっきまでいた土砂の丘の、その向こうの闇。
そこで、二つの光が、ゆっくりと開いていくところだった。
燃え残りの炭のような、淀んだ赤。一つ一つが、僕の背丈より大きい。
それは、目だった。




