第14話 道は、わたしが(第2章 第4話)
日は、もう山の端にかかりかけていた。
町までは半日。今から助けを呼びに戻っても、ギルドが人を集めてここへ来るのは、早くても明日の昼だ。
その間、空洞の底にいる三人は、あの「息をする何か」と一緒に、一晩を過ごすことになる。
「……セラ」
「うん。わかってる」
セラは、もう立ち上がっていた。
「あたしも行く。あの人たち、感じ悪かったけど――感じ悪いのと、死んじゃっていいのは、全然ちがうもん」
その言い方が、あまりにも彼女らしくて、こんなときなのに少しだけ肩の力が抜けた。
僕は、入り口の脇に置かれた「鋼の轍」の荷車へ向かった。
つるはし。太い縄が三巻き。予備の照明の魔道具が二つ。錆び止め、楔。包帯と消毒液。それに、水袋。
手が、勝手に動いた。
縄は一本ずつ引っ張って、すり切れがないか確かめる。一本、芯が弱っているものがあった。それは外して、残りの二本を結び合わせる。照明の魔道具は、魔力の残り具合を確かめて、多い方を先頭に。荷物袋は三つに分けて、一人ひとつずつ。誰かがはぐれても、水と包帯だけは手元に残るように。
五年間、ずっとやってきたことだ。誰にも見られないところで。
「……お前、手、速えな」
岩にもたれたベンが、かすれた声で言った。
「荷物持ちでしたから」
「……そうか。アルベルトのとこの、か」
ベンは、少しだけ何かを考える顔をした。それから、真新しい包帯を巻き直した左腕で、岩を押して立ち上がった。
「……穴の縁までは、俺が案内する。一本道だが、途中で三回曲がる。それに、縁で縄を押さえる奴が要るだろ」
「でも、その腕じゃ――」
「片腕なら、まだ生きてる」
笑おうとして、ベンは顔をしかめた。それでも、引く気はないようだった。
そして――
僕は、振り返った。
フィオは、入り口から十歩離れた、あの岩の前に立っていた。大剣の柄を、白くなるほど握りしめて。
琥珀色の光は、入り口の暗闇に向かって、これ以上ないほど張り詰めている。少しでも引いたら、弦が切れてしまいそうなほどに。
僕は彼女の前へ歩いていき、荷物袋を一つ差し出した。
「フィオ。これ、持ってて。――言ったとおり、逃げたくなったら逃げていい。ここで待っててもいい。それでも、君を置いていったことには、しないから」
フィオは、しばらく差し出された荷物袋を見つめていた。
それから、震える両手で、それを受け取った。
「……中は、暗くて、狭くて、それで……どこが危ないか、灯りじゃわからないですよね」
「……うん」
「だったら……」
フィオが、顔を上げた。
前髪の隙間から、茶色の瞳がまっすぐにこちらを見ていた。その目の縁は赤くて、今にも泣き出しそうだったけれど。
「……道は、わたしが言います」
その瞬間、張り詰めていた琥珀色の光が、ほんの少しだけ――震えるのをやめたように見えた。
坑道の中は、思ったよりもずっと狭かった。
大人二人がようやく並べるくらいの幅。天井は低く、古びた木の支柱が、等間隔にそれを支えている。四十年分の湿気を吸った木は黒ずみ、ところどころで縦に裂けていた。
先頭はベン。その後ろにフィオ。僕とセラが続く。
いや――正確には、一番前を歩いているのは、フィオの光だった。
「……その先。左の壁に、寄らないでください」
最初の曲がり角の手前で、フィオが小さく言った。
ベンが、いぶかしそうに振り返る。それでも彼は、右の壁に沿って角を曲がった。僕たちもそれに続く。
最後尾のセラが角を曲がりきった、そのときだった。
みし、という音がして、左の壁から離れて立っていた支柱が一本、内側へと倒れた。それを追いかけるように、天井から土山がどさりと崩れ落ちる。
さっきまで左の壁に沿っていたら、今ごろその下だった。
ベンが、息を呑んでフィオを見た。
フィオは、何も言わなかった。ただ、その光は、もう次の曲がり角を向いていた。
そこから先は、彼女の言葉だけが道だった。
「……ここ、足元の板。踏まないで」
「……右側を。少しだけ、急いで」
声は小さい。でも、一度も詰まらない。言い終わると、彼女は必ず一瞬だけ、僕たちの方を振り返った。笑われていないか、確かめるように。
そのたびに、僕はうなずいた。
二つ目の曲がり角を過ぎたあたりで、フィオの足が、ぴたりと止まった。
光が、天井を向いている。
「……上から、来ます。たくさん……小さいのが」
照明を天井へ向ける。
そこは、黒い布を張ったように、一面がわさわさと蠢いていた。
坑道蝙蝠だ。一匹ずつは手のひらほどの大きさだが、何百匹といる。一斉に襲いかかられたら、狭い坑道では逃げ場がない。
「……セラ、火はだめだ。支柱に燃え移る」
「うん。じゃあ――こっち!」
セラが、両手をさっと広げた。
その指先から、蛍のような光の粒が、いくつもいくつも生まれていく。熱もなく、暴れもしない、ただの白い光。それが、坑道の天井へとゆっくり昇っていった。
一拍置いて、天井の黒い布が、ぶわっと泡立つように崩れた。
光を嫌う蝙蝠たちが、一斉に坑道の奥と入り口の方へ、羽音の嵐を巻き起こして散っていく。その一匹も、僕たちには向かってこなかった。
やがて羽音が遠ざかると、セラは得意げに胸を張った。
「……ふふん。この前、夜の空き地で練習したやつ!」
「……お前ら、何者なんだ」
ベンが、呂律も回らないような声で呟いた。
「『灯火』です」
そう答えると、セラが「えへへ」と笑い、フィオが――フィオも、ほんの少しだけ、肩を揺らした。
三つ目の曲がり角を過ぎると、空気が変わった。
生暖かい。そして、あの匂い。湿った土と、錆びた金属と、生き物の息。
坑道の先の地面が、ぶつりと途切れていた。
床が抜けた穴。縁はぎざぎざに砕け、その向こうには、何もない。ただ、どこまでも続くような暗闇が、口を開けている。
ベンが、縁の手前で膝をついた。
「……ここだ」
僕は腹ばいになって縁に近づき、照明を穴の中へ差し入れた。
光が、落ちていく。
――底は、思っていたより近かった。家の三階分ほどだろうか。崩れ落ちた土砂が、小さな丘になっている。
だが、僕が息を呑んだのは、その底のためではなかった。
壁だ。
穴の内側。崩れた土の断面の、その奥に。つるりとした、灰色の石の壁が見えていた。縦にまっすぐ切りそろえられ、継ぎ目のない、自然にはあり得ないほど滑らかな壁が。
そして、穴の底から、さらに奥へ。照明の光が、かろうじて届くところ。大人が十人でも抱えきれないほどの石の柱が、闇の奥へと列をなして続いていた。
「……何、これ……」
隣にしゃがみ込んだセラが、小さく呟いた。
鉱山の穴じゃない。誰かが、いつか、作ったものだ。それも、四十年前どころじゃない。もっとずっと古い何かが。
四十年前の「落盤」。場所も被害も書かれていない、あの記録。
――本当に崩れたのは、天井だったのか。それとも、当時の鉱夫たちが、これを掘り当ててしまったのか。
「――ダリオさん!」
穴の底へ向かって、僕は叫んだ。声が、石の壁にぶつかって何重にも反響する。
しばらく、何も返ってこなかった。
それから、土砂の丘の陰で、ゆらりと小さな灯りが揺れた。消えかけの、蒼白い灯り。
「……誰だ」
かすれた、だが間違いなくダリオの声だった。
「ルークです。『灯火』の。ベンさんも一緒です」
長い沈黙があった。
「……荷物持ちが、何しに来た」
「引っ張り上げに来ました。縄があります。――皆さんは無事ですか」
また、沈黙。それから、絞り出すような声が返ってきた。
「……カイは足をやった。たぶん、折れてる。ロイドは……落ちたときに頭を打って、目を覚まさねえ。俺は……動ける。たぶんな」
「すぐに縄を下ろします。そこを動かないで」
僕は縄の先を解き、ベンに端を渡そうと振り返った。
そのとき。
「……ルークさん」
フィオの声がした。
震えてはいなかった。ただ、あまりにも静かで、何かに見つからないよう息をひそめるような、そんな声だった。
彼女は、穴の奥――石の柱が並ぶ闇の彼方を見つめていた。
その琥珀色の光が、今までとはまるで違う形をしていた。引き絞られた弓ではない。身を縮める小動物のように、彼女自身の周りへと、きゅうっと小さく小さく縮んでいく。
フィオは、ほとんど息だけの声で、言った。
「……気づかれました」




