第13話 逆さの風(第2章 第3話)
「……下から、来ます」
霧の中で、フィオの声が、もう一度だけ繰り返された。
荷車を引いていたダリオが、足を止めて振り返る。そして、たっぷり一拍置いてから、吹き出した。
「下だと? 地面の下から何が来るってんだ。モグラか?」
仲間たちがどっと笑う。ダリオは足元の石畳を、わざとらしくどんどんと踏み鳴らしてみせた。
「ほら、何も出てこねえよ」
だが、僕は笑えなかった。
フィオの琥珀色の光は、確かに足元を向いている。でも、ただ真下を向いているのではなかった。斜め下。北の山の方角へ、地面を穿って、ずっとずっと深くへと伸びている。
ここではない。山の、その下だ。
ダリオたちは笑いながら、霧の向こうへ歩き出した。
その背中が小さくなっていくのを見送ってから、フィオの膝からふっと力が抜けた。
「――っと」
倒れる前に、セラがその体を抱きとめた。
「フィオちゃん! だいじょうぶ!?」
「……す、すみません……足が、勝手に……」
フィオの体は、小刻みに震えていた。たぶん、さっきまで全身で「逃げる」を押さえ込んでいたのだ。
僕は彼女の前にしゃがんだ。
「……フィオ。言えたね」
フィオが、前髪の奥で瞳を揺らした。
「でも……また笑われて……」
「うん。でも、僕たちは聞いたよ。下から来る。……山の、ずっと下から、だよね?」
フィオの目が、まん丸になった。
「……どうして、わかるんですか」
「君の光が、そっちを向いてるから」
彼女はしばらく、信じられないというように僕を見つめていた。それから、ゆっくりと、うなずいた。
「……はい。山の、下です。ずっと、ずっと深いところ。そこで何かが、ゆっくり、動いてて……」
自分の口から出た言葉に、彼女自身がびっくりしているようだった。
「えらい! フィオちゃん、すっごくえらい!」
セラが、抱きしめたままフィオの頭をがしがしと撫で回す。フィオは「ひゃう」と変な声を出しながら、されるがままになっていた。
その前髪が乱れて、一瞬だけ見えた口元は、今にも泣きそうで、それでいて少しだけ緩んでいた。
北の山への道は、半日かかった。
僕たちは「鋼の轍」の荷車の轍を、少し離れて追いかけた。ダリオは時々振り返っては「まだいるのか」と言う顔をしたが、追い返しはしなかった。
歩きながら、僕は彼らの光を見ていた。
ダリオの光は、乾いた土のような色をしていた。重たくて、どっしりとしている。剣士の赤とは、少し違う。目を合わせなければその正体はわからないけれど、あの人にもまた、本人が知らない何かが眠っているのだろう。
そして、荷車の後ろを押している、左腕に包帯を巻いた若い男。
あの人だけが、さっきから何度も、こちらを振り返っていた。振り返っては、フィオを見て、気まずそうに目をそらす。
「……ベンさんです」
フィオが、小声で教えてくれた。
「先週、小鬼に腕を……。……あのとき、わたし、ベンさんにだけは『ここ、嫌です』って言ったんです。小さい声だったけど……」
「……そうか」
だから、あの人は、振り返るのだ。
北の山の麓に着いたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
岩肌に、古びた木の枠が、口を開けていた。つい最近まで打ち付けられていたらしい板が、周りに積み上げられている。鉱夫組合が、この依頼のために外したのだろう。
その暗い入り口から、風が吹いていた。
生暖かくて、かすかに生臭い風だった。湿った土と、錆びた金属と、それから――生き物の息のような何かの匂い。
セラが、鼻をつまんだ。
「……なんか、やだな、この風」
フィオは、何も言わなかった。ただ、入り口から十歩ほど離れた岩の前で、ただじっと立ち尽くしていた。その光は、入り口の奥へ――いや、もっと下へと、まっすぐに突き刺さっている。
逃げては、いなかった。
「よし、照明をつけろ。入るぞ」
ダリオが号令をかけ、四人が魔道具の灯りを掲げた。
入り口に足をかけたところで、一番後ろのベンが、ふいに立ち止まった。
彼は少し迷ってから、フィオの方へと小走りで戻ってきた。
「……フィオ」
「……は、はい」
「先週のこと、悪かった。お前、ちゃんと言ってたのにな。俺、ダリオにそれ、言えなかった」
フィオが、息を呑む。
「ベン! 何やってんだ!」
入り口から、ダリオの怒鳴り声。ベンは一瞬だけ笑って、「帰ったら、また話そう」と言い残し、仲間たちの後を追って暗闇の中へ消えていった。
四つの灯りが、少しずつ小さくなり、やがて、見えなくなった。
それから、長い時間が過ぎた。
僕たちは入り口の近くの岩陰に腰を下ろし、待ち続けた。セラは指先に蛍のような光の粒をいくつも浮かべて、練習をしている。光の粒は、もうひとつも暴れない。
「……あの」
ふいに、フィオが口を開いた。彼女の方から話しかけてきたのは、初めてだった。
「『ぶわっ』ってなるとき、音が聞こえる気がするんです。本当の音じゃないけど……遠くで、太鼓を叩いてるみたいな」
「太鼓?」
「はい。岩蜥蜴のときは、すぐ足の下で、速くて、小さかった。でも……」
フィオは、自分の足元を見つめた。
「今のは、すごく遅くて、すごく大きいんです。ずうん、ずうんって。……それが、先週より、昨日より、今朝より……だんだん、近くなってて」
その声は震えていたけれど、もう途切れはしなかった。
「……ありがとう。教えてくれて」
そう言うと、フィオは「い、いえ……」と俯いて、それから小さな声で付け足した。
「……言っても、笑われないのって、不思議ですね」
太陽が、西へ傾いていく。
岩肌の影が長く伸び、入り口の暗闇が、いっそう深く見えてくる。「鋼の轍」は、まだ戻らない。鉱脈を探る依頼なら、日暮れまで潜っていてもおかしくはない。
そう、自分に言い聞かせていたときだった。
風が、止んだ。
朝からずっと、入り口から吹き出していた、あの生暖かい風が。
ぴたりと。まるで、誰かが息を止めたみたいに。
静寂。鳥の声もしない。
そして、次の瞬間。
僕たちの髪が、前へと引かれた。
風が、逆さに吹いていた。入り口に向かって。山が、大きく息を吸い込んでいるみたいに。足元の砂が、小石が、ざらざらと音を立てて暗闇へと吸い込まれていく。
「――来ますっ!」
フィオが叫んだ。今までで一番大きな声で。
「上がってきます! 下から、まっすぐ――!」
地面が、跳ねた。
揺れたのではない。下から、何か巨大なものに突き上げられたように、一度だけ、どん、と。
岩肌から砂埃が降り注ぐ。山の奥深くで、何かが崩れるような、長く低い轟音が響いた。
そして――入り口から、吐き出されるように、分厚い土煙が噴き出した。
「フィオ! セラ!」
二人の腕をつかんで、岩の陰へ身を伏せる。土煙が、頭の上を篠突く雨のように通り過ぎていく。
やがて、それが収まると、何も聞こえなくなった。
風も、もう吹いていない。
「……ルーク、あれ」
セラが、入り口を指差した。
まだ漂う土煙の奥で、ゆらりと、何かが動いていた。
人影だった。よろめき、壁に手をつき、わずかに光るものを引きずりながら――それは、砕けた照明の魔道具だった――そして、入り口の枠をつかんだまま、どさりと崩れ落ちた。
左腕の包帯が、土と血で黒く汚れている。
「ベンさんっ!」
フィオが、誰よりも早く駆け出していた。
あの逃げ足で。今度は、危険の方へと。
僕とセラも、すぐに後を追った。ベンは地面に倒れたまま、荒い息を繰り返している。僕は荷物袋からポーションを取り出し、その口にあてがった。
半分ほど飲み下したところで、ベンはようやく目を開けた。そして、そこにいたのがフィオだとわかると、顔をくしゃくしゃに歪めた。
「……フィオ……お前の言うとおりだった……」
「ベンさん、しゃべらないで……」
「聞け、よ……奥で、床が、抜けたんだ。坑道の下に……でっかい空洞があって……ダリオも、他の二人も……落ちた」
ベンの指が、僕の袖をつかむ。その力は、怪我人とは思えないほど強かった。
「俺だけ、縁にしがみついて……這い上がって……でも、角を曲がるとき、聞こえたんだ……下から、ダリオの声が。……あいつら、まだ生きてる」
そこで、ベンの声が、ふっと震えた。
「それと……それと、空洞の奥で……何かが、動いてた。灯りが届かないくらい、奥の方で……山みたいにでかい何かが……息、してたんだ」
さっきの風だ。
吐いて、止めて、吸った。あの風は――。
ベンは、血と泥にまみれた顔で、僕をまっすぐに見上げた。
「……頼む。あいつらを、助けてくれ。俺たちが……俺たちが笑ったお前らに、こんなこと頼めた義理じゃねえのは、わかってる。でも……」
僕は、入り口の暗闇を見た。
それから、隣にしゃがみ込んだ小さな少女を。
フィオの琥珀色の光は、今までにないほど激しく震えながら――それでも、入り口の奥へ、まっすぐに突き刺さっていた。




