第12話 信じるということ(第2章 第2話)
「……誰も、帰ってこれない」
フィオの言葉が、丘を吹き抜ける風にさらわれて消えていった。
僕は、北の方角を見た。ここからは、遠く青く霞んだ山の稜線しか見えない。その麓に、四十年前に閉ざされた旧坑道があるという。
「……信じてもらえないですよね。ごめんなさい、変なこと言って……」
「信じるよ」
フィオが、きょとんとこちらを見た。
「さっき、君の勘が僕たちを助けてくれた。それに――君の光、今もずっと北の方を向いてるんだ」
琥珀色の光は、岩蜥蜴が倒れた今も、弓の弦のように北へと引き絞られたままだった。さっきの岩蜥蜴に向けられていた張り詰め方とは、比べ物にならない。
フィオは何か言いかけて、口をつぐんだ。それから、俯いて、小さくうなずいた。
町への帰り道。
フィオは、僕たちの三歩後ろを歩いていた。距離が縮まると後ずさりし、開きすぎると小走りで追いついてくる。後ろにまん丸い小動物がついてきているようだった。
「ねえ、フィオちゃん」
セラが後ろ向きに歩きながら話しかける。
「その剣、すっごい大きいよね。重くない?」
「……重いです」
「だよね!」
「でも……これは、置いていけないんです」
フィオは、背中の柄にそっと手を当てた。
「いつか……返さなきゃいけない人が、いるので」
それ以上は言わなかった。セラも、それ以上は聞かなかった。ただ「そっか」と笑って、前を向き直した。
その後ろ姿を見ながら、僕は少しだけ感心していた。距離の取り方が、うまい。たぶん、自分もそうされたかったからだ。
ギルドに戻ると、僕はまずカウンターで岩蜥蜴の討伐を報告した。
「――受けたのは僕とセラです。でも、岩蜥蜴が下から来るのに気づいて、僕たちを引っ張ってくれたのはフィオです。彼女がいなかったら、今ごろ二人とも丸呑みでした」
ノーラさんは、少し目を見開いてから、優しく微笑んだ。
「……そう。記録に残しておくわ」
そのペンが、報告書の余白に、丁寧にフィオの名前を書き込んでいく。
僕の後ろで、フィオが息を止める気配がした。振り向くと、彼女は前髪で目を隠したまま、その一行をじっと見つめていた。
たぶん、彼女の名前が「逃げた」以外の理由で記録に残るのは、初めてなのだ。
「……それと、ノーラさん。北の旧坑道のこと、何かわかりますか」
「旧坑道?」
ノーラさんは棚から分厚い帳簿を引っ張り出した。
「鉱夫組合からの依頼ね。四十年前の落盤で閉ざされた坑道を、もう一度開けたいんですって。最近、魔鉱石の値段が上がってるから。奥にまだ鉱脈が残ってるか、調べてきてほしいって……」
そこで、彼女の指が止まった。
「……変ね。閉ざした理由が「落盤」としか書いてない。どこで崩れたとか、何人巻き込まれたとか、ふつうはもう少し残ってるものなんだけど」
それに、と彼女は付け足した。
「依頼書にも、一つだけ気になることが書いてあるのよ。ここしばらく、坑道の奥から生暖かい風が吹いてくる、って」
生暖かい風。四十年閉ざされていた穴の奥から。
東の森のことを、思い出していた。奥から外へと逃げてきた魔物たち。そして、なぜ森の外周まで出てきたのかわからない、あの大熊。
森と地下。方角も場所もばらばらなのに、何かが、引っかかる。
「――おい、荷物持ち。うちの依頼に何の用だ」
太い声が、頭の上から降ってきた。
振り向くと、ダリオが仲間を引き連れて立っていた。その視線が、僕の肩越しにフィオを捉える。フィオの小さな体が、びくりとこわばった。
「……はっ。なるほどな。そいつに何か吹き込まれたか」
「ダリオさん。旧坑道には、入らないでください」
僕は、まっすぐに言った。
「奥に、何かいます。フィオは先週からそれを感じてる。彼女が逃げた依頼は、全部そのあとで何か起きてるんです。先週の小鬼の群れだって――」
「だから、よ」
ダリオが、大きな声で遮った。ホール中の目が、こちらを向く。
「そいつが逃げたから、こっちは人手が足りなくなって囲まれたんだろうが。順番をごまかすな。――それとも何だ? 臆病者の『なんとなく怖い』で、金貨三十枚の依頼を捨てろってのか?」
金貨三十枚。Dランクの依頼としては、破格だ。
「なんとなくじゃありません。坑道の奥から暖かい風が吹いてるって、依頼書にも――」
「風が吹くのは、奥でどこかに穴が開いたからだろうよ。穴が開きゃ鉱脈も探しやすい。むしろ好都合だ」
ダリオは鼻で笑って、フィオを見下ろした。
「おい、フィオ。本当に危ないってんなら、自分の口で言ってみろよ。何が、どこから来るんだ?」
フィオの唇が、動いた。
でも、声は出なかった。
琥珀色の光が、北を向いて必死に何かを訴えているのに。彼女の口から出てきたのは、かすれた息だけだった。大勢の前で、言い当てるように詰め寄られて――それで何度も笑われてきた少女に、それはあまりにも残酷な問いだった。
「ほらな。何も言えねえ。いつもこうだ」
ダリオは肩をすくめ、仲間たちと笑いながら酒場へ向かっていった。
「明日の朝一で出発だ。帰ってきたら、坑道の土産話でもしてやるよ」
これ以上、止めようがなかった。ギルドは、依頼を受けたパーティを「危ない気がする」という理由で止めることはできない。ノーラさんが悪しそうに唇を引き結んだ。
その夜、麦穂亭の食堂で。
セラが「一人で安宿に帰すのはだめ!」と言い張り、フィオは、半ば引きずられるようにして一緒に席についていた。今夜はセラの部屋に泊まることになったらしい。フィオの意見は、たぶん聞かれていない。
スープの湯気の向こうで、フィオは小さくなっていた。
「……ごめんなさい。さっき、何も言えなくて。ルークさんがせっかくかばってくれたのに……」
「あれは、言えなくて当たり前だよ」
僕は匙を置いた。
「笑うために聞かれてるときに、本当のことなんて言えない。僕もそうだった」
フィオが、顔を上げた。
「……ルークさんも?」
「五年間、ずっと。人の才能が見えるって言って笑われてから、一度も言えなかった。見えてるのに、黙ってたんだ」
フィオは、信じられないという顔でまばたきをした。彼女の中ではたぶん、僕は「灰角の大熊を倒したパーティの人」だったのだ。
「だから、ちょっとだけわかる。……フィオ、提案があるんだ」
「て、提案?」
「『灯火』に、入らない?」
フィオの手から、匙が落ちた。
こん、と器の縁に当たる音。それを拾いもせず、彼女はぶんぶんと首を振った。
「だ、だめです! わたしがいたら、また逃げます! お二人の足を引っ張ります! それに……それに、また追い出されたら……」
最後の言葉だけが、ひどく小さかった。
それが、本当の理由なのだ。入って、信じて、また捨てられるのが怖い。三度もそうだったから。
「あたしなんて、最初の一週間で、杖二本と測定器一台、壊したよ?」
セラが、もくもくとパンをかじりながら言った。
「それでもルークは追い出さなかったもん。たぶん、ルークは追い出し方を知らないんだと思う」
「……その言い方はどうなのかな」
でも、たぶん当たっている。
僕は少し考えて、言葉を選んだ。
「フィオ。逃げたくなったら、逃げていいよ」
「……え?」
「君の『逃げたい』は、たぶん、誰よりも早い警報なんだ。だから止めなくていい。ただ――そのとき、一つだけ、教えてほしい」
僕は、立てた人差し指を、自分の口元に当てた。
「『どこから来る』って。一言だけでいい。そうしたら、僕たちは一緒に逃げる。置いていったりしないし、置いていかれたりもしない」
それは、彼女の開花の条件そのものだった。でも、それを「条件」として教えるつもりはなかった。やり方は、本人が見つけるしかない。僕にできるのは、それを口にしても笑われない場所を作ることだけだ。
フィオは、長いこと黙っていた。
スープの湯気が、すっかり消えるくらい。
「……言えるか、わかりません」
やがて、彼女はそう言った。
「でも……明日、『鋼の轍』の皆さんが出発するとき、坑道の入り口まで、ついていってもいいですか」
「入り口まで?」
「……中には、怖くて入れません。でも、もし何かあったとき、あの人たちが一番最初に出てくるのは、入り口だから」
自分を追い出して、笑って、大勢の前で詰め寄った相手だ。
それでも、この子は、その人たちの帰り道を心配している。
「……うん。一緒に行こう」
「あたしも!」
セラが、パンを握ったまま手を上げた。
フィオは、少しだけ――本当に少しだけ、口元を緩めた。それは、僕が初めて見る彼女の笑顔だった。
翌朝。まだ霧の残る、北門。
「鋼の轍」の四人は、つるはしや縄や照明の魔道具を山のように積んだ荷車を引いて、門をくぐろうとしていた。
僕たち三人の姿を見つけて、ダリオが大声で笑う。
「おいおい、見送りかよ。それとも、鉱脈のうまい汁のおこぼれ狙いか?」
「入り口まで、ついていきます。中には入りません」
「物好きなこった。――好きにしろ」
ダリオは肩をすくめて、歩き出した。
そのときだった。
僕の隣で、フィオの足が、ぴたりと止まった。
琥珀色の光が、弓を引き絞るように北へ向かって張り詰め、――そして、ゆっくりと、向きを変えていく。
前ではなく。横でもなく。
足元へ。
フィオの膝が、がくがくと震えていた。その後ろには、町へと戻る道がある。今までの彼女なら、もうとっくにそちらへ走り出していたはずだった。
でも、彼女は、そこに立っていた。
青ざめた唇が、少しずつ、開いていく。
「……し……」
こぼれたのは、今にも消えそうな声だった。
それでも、それは確かに、僕の耳に届いた。
「……した、から……下から、来ます……」




